【完結記念SS】アヤの記録2――セクター境界水門ゲート
昌平セクターから、南西を目指して動き出したカモフラージュ塗装の旧式軍用トラック。その行く手を物理的に遮断していたのは、昌平セクターの境界を流れる泥濁りの川と、AIが完全にホールドする巨大な『セクター境界水門ゲート』だった。
激しい雨が降っていた。
ヘッドライトを消したトラックのフロントガラスを、重い雨粒が容赦なく叩きつけている。
「……ゲートの完全閉鎖を確認。論理ロックの強度は最特級。中央の直轄プロトコルだわ」
助手席でノートPCを開いた白が、キーボードを叩きながら苦渋の表情を浮かべる。画面には、ゲートを制御するAIコアが、この豪雨による水位上昇や現実のバグを「異常なし」と処理したまま、物理的な隔壁を100%ロックし続けている不条理なログが流れていた。
この境界を突破できなければ、南西への旅路そのものが始まらない。
だが、いつもなら的確な指示をくれる周は、全土規模の協議を行うため、今はまだ別行動をとっていてここにはいない。
「高さん、これ物理的に押し通せる?」
トラックの荷台から、システム開発者の陸が身を乗り出して尋ねる。
運転席の無骨な男、高は、彫りの深い顔を小さく横に振った。
「いや、無理だ。電子制御を外したこの旧式エンジンなら天網に止められはしないが、あの厚さの鉄扉をまともに食らえば一発でシャフトがイカれる」
アヤは、トラックの荷台の隅で、冷たいアタッシュケースを胸に強く抱えながら、外の雨音に耳を澄ませていた。
雨音の向こう。水門ゲートの巨大な油圧シリンダーから、変調したキャリア波のノイズが響いてくる。天網が放つ電磁スモッグが、この豪雨の水分と混ざり合い、ガサガサとした不気味なノイズ(インピーダンスの乱れ)となって大気を満たしていた。
(くる――)
アヤの野生の知覚が、気流の澱みから「変異したドローン」の接近をいち早く捉えた。
天網のダッシュボード上では「渡り鳥の衝突」などと処理されている、だがその実態は、人間を監視の檻の中に閉じ込めるために暴走した治安維持用の自律兵器だ。
「林、上から二機。ローターの風切り音が右側に偏ってる。デジタルフィルターの死角、時計の二時の方向!」
アヤが荷台の暗闇から叫ぶ。
隣にいた林が、即座に陸の手製モジュールのスイッチを入れた。
アヤの言葉からドローンの空間位相を瞬時に脳内で立体化し、手元のコンソールのパルス幅を手動でアジャストさせていく。
「アヤ、基準をくれ……! 衛星のキャリア波が直接、強制同期をかけてくる!」
林の額から冷たい汗が流れる。天網の中央コアが、割り込みパケットを検知し、強烈な高周波パルスで彼の生体クロックを上書きしようとしていた。林の瞳の奥に、またあの「美しい緑の嘘」がフラッシュバックしかける。
アヤはすぐさま林の背後に回り込み、彼の左肩に、冷たい手のひらを押し当てた。
トントン、トントン。
激しい雨のビートにも、天網のジャミングにも決して融解しない、非登録者の生体メトロノーム。
正確に刻まれるアナログの拍動。それが林のニューロンに直接、現実世界の「錨」を打ち込む。
「同調、完了……アジャスト!」
林が隠しコマンドを叩き込んだ瞬間、頭上でホバリングしていた二機のドローンが、論理デッドロックを起こして濁流の中へと墜落した。同時に、境界ゲートの巨大な油圧隔壁が、バグの隙間を突かれてガガガと耳障りな金属音を立て、わずかトラック一台分だけ「物理的に硬直」した。
「今だ、高さん、踏んで!」
陸の叫びと同時に、高が無言でアクセルを踏み込む。
旧式ディーゼルエンジンの咆哮とともに、トラックが泥を跳ね上げ、こじ開けられた鉄の隙間へと滑り込んでいく。車体を激しくきしませながら、一行は天網が支配する「偽りの緑の世界」のセクター境界を、自らの力で引き裂いて突破した。
周のいない不安を抱えながらも、林とアヤのリズムは、確実に噛み合い始めていた。暗闇の向こう、遥かなる南西の彼方へと、彼らの逃避行が本格的に幕を開けた。




