【完結記念SS】アヤの記録1――ノイズの揺り籠から
アヤには、誕生の記録がない。
彼女の母親は、かつて昌平セクターの基幹ネットワーク設計に携わった技術者だった。しかし、あるプロジェクトの失敗に伴い、自身の「実名スコア」がマイナスへと転落。天網(AI)によって『社会的不適合者』として存在の最適化(抹消手続き)を宣告された夜、母親は廃棄インフラ区画へと逃亡した。
電磁波を遮断する極厚のコンクリートの底、錆びついた通信ラックの影。それがアヤの生まれた場所だった。
出生データパケットは天網に送信されることなく、母親の逃亡はシステムの「異常ノイズ」として自動破棄された。
物理的には存在しながら、論理的には「最初から存在しない」子供。
母親は、幼いアヤにスマート端末を一切与えなかった。
「あの青空から降ってくる光を見ては駄目。あれは目に見えない電磁のスモッグ。人間の脳を飼い慣らし、真実を塗り替える偽りの光よ」
母親が死ぬ間際に遺したその言葉の意味を、アヤは成長するにつれて、自分の「耳」と「肌」で理解することになる。
………………
都市を彷徨うアヤにとって、世界は「音」と「気流」の塊だった。
登録された市民たちが、頭上を泳ぐ警備ドローンを安全の象徴として見上げる中、アヤだけは違った。ドローンが発する高周波の駆動音の中に、ベアリングの微細な摩耗を聴き取った。それはシステム上のログには許容範囲内の誤差として隠蔽されている、現実の軋みだった。
電磁スモッグに脳を調律されていないアヤの知覚は、デジタルフィルターを通さない。ミリ波の澱みから「天網の死角」を直感的な光の境界線として捉え、都市の網の目をすり抜けて生きていた。
しかし、一四歳の冬。アヤは第七居住区の配電ダクトで、旧世代の光ファイバーを手動で融着している一人の男に見つかった。
情報管理局のベテラン保守員でありながら、水面下で「長老派閥」の足場を固めていた周だった。
周は、手元の工具を置き、アヤの姿をじっと見つめた。
彼の持つコンソールには、アヤのバイタルも実名スコアも一切表示されていなかった。画面は真っ白な『エラー』を示している。
「おいおい……天網の計算式にない『生きたバグ』が、こんなところに隠れていたとはな」
周は驚かなかった。むしろ、宝物を見つけたかのように、顔を綻ばせた。
「お前、あのドローンの音がうるさいだろ。あいつ、あと二時間で右のローターが焼き切れるぞ」
「……一時間四十分」
アヤが小さく呟いた言葉に、周は目を見開いた。
その日を境に、アヤは周たちの組織に保護された。延慶の廃墟へと移され、白や陸といった、現体制の虚構に反発する技術者たちに囲まれて暮らすようになった。そこは、電磁スモッグの届かない、この国で数少ない「純粋なアナログの聖域」だった。
………………
それから数年後。周が延慶の廃墟に、一人の男を連れてきた。
元・三等監視員の林。
男の瞳は、スマート都市の過剰な情報と電磁波によって完全に濁り、脳は天網のクロックに半ば支配されていた。だが、周は言った。
「アヤ、この男の脳をデトックスしてやってくれ。こいつの『パズル脳』には、画面の向こう側の位相のズレをアジャストさせる特異な才能がある。だが今のままじゃ、天網のキャリア波に呑まれてすぐに脳が焼き切れる」
アヤは林の前に立った。
林の身体からは、都市のスマート端末が放つ特有の、人工的な微弱パルスの残響が不気味にノイズとなって漂っていた。呼吸のテンポも、瞬きの周期も、すべてが天網のマスタークロックに同期させられている。
「……痛い?」
アヤが尋ねると、林は焦点の合わない目で、かすかに首を振った。
「一週間、ここで『生の空気』だけを吸ってもらうわ」
アヤは林の左手の甲に、そっと自分の指先を触れさせた。
トントン、と。
電磁スモッグに汚染されていない、アヤの心臓が刻む、純粋な生体の基準クロック。
その物理的な振動が林の皮膚を通じて伝わった瞬間、林の濁った瞳が、一瞬だけ驚いたように小さく揺れた。
「天網の嘘に追いつかれないように。私があなたのメトロノームになってあげる」
こうして、過酷なデジタルデトックスの指導が始まった。




