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第21話 スプーフィング・ホールド

 パジェロのエンジンが闇のなかで低く響いていた。周(ジョウ)がステアリングを握り、助手席には林(リン)、後部座席にはアタッシュケースを抱えたアヤと、別のツールを抱えた白(バイ)が並んで座っている。彼らが目指したのは、昌平セクター第十四ローカル中継局(ノード)の無人分所だった。


「いいですか。無人局とはいえ、外壁には天網(ティエンワン)の広角カメラが敷設されているし、扉を開ければ中央の管制室へ数ミリ秒で警報が飛ぶ仕様になっている」

 パジェロがコンクリートの建物の死角に滑り込むと同時に、白が膝の上でコンパクトな無線端末を起動させた。組織がこの作戦のために極秘裏に開発し、彼女に支給していた「物理層近接型ワイヤレス・インジェクションツール」だった。最新の分散OSであっても、中継局の外壁に露出している環境測定センサー用の無線LAN規格の周波数(バックドア)までは完全に塞ぎきれていない。白は端末を操作し、天網の中枢システムが時間の歪みの暗号検証に忙術されているその隙を突いて、局所的な通信割り込み(スプーフィング)を仕掛けた。


「外のカメラは数時間前の『正常な過去の静止画』をループ再生するようにしてしまえば、侵入した僕たちは映らない。これらは白(バイ)さんが対応する」

 周がバックミラー越しに林に言った。「物理的なアラームの給電線も、白さんのツールで電気的にホールドしてある。扉の電子ロックが今の処理の硬直に同期して解錠されるから、そのタイミングで僕たちは滑り込むんだ」


 白の合図とともに、林とアヤ、そして白の三人はいっせいにパジェロから滑り出た。白がハッキング端末のボタンを長押しすると、手動扉の電子ロックが無音のまま強制解錠され、アラームを吐くことなく彼らを受け入れた。三人はパッチパネル室へ潜り込んだ。当然、光幹線網の重要な導線が都合よく外側に剥き出しになっているはずもない。白はパネルの金属筐体のビスを慣れた手付きで外し、厳重に遮蔽された内部のマザーボードの奥底から、組織が事前に極秘裏にクランプ(物理接続)しておいた光タッピング用の露出ソケットを引き出した。


「林、準備を」アヤがアタッシュケース型のデバイスを台座に固定し、基盤の電圧出力を器械出しのように完璧な手際でホールドした。

 林は生唾を呑み込み、ケースの蓋を開け放った。オシロスコープの緑色の画面に、時間の狂いによって不規則に変調するパルスのジッター(波形のブレ)が明滅し始める。現行の信号線を切り離し、このデバイスの偽造パルスへと切り替える猶予は、中央がフリーズする一ミリ秒の空白時間しかない。


 林の右指が手動アナログダイヤルに触れた。だが、モニターを見るだけでは肉体の遅れが邪魔をしてタイミングが掴めない。焦燥の汗が滲んだその時、アヤが音もなく林の真後ろに立ち、彼女の冷たい小さな手のひらを、林の左手の甲へとそっと重ねた。アヤの耳は、地下室の天井を走る大型排熱ファンのインバーターモーターが、中央からの給電周波数の狂いによってミリ秒単位で発している、物理的な唸りの周期を捉えていた。

 トントン、とアヤの指先が、林の皮膚に一定のリズムを刻み始める。画面を超越した世界の時計(リズム)が、触覚のサインとなって林の脳内へとダイレクトに流れ込んできた。林のクリアになった脳の回路が、アヤのリズムと完全に融着した。


「……次、くる」

 アヤの指先が、林の皮膚を違うストロークで強く押し込んだ。その感触と同時に、林は肉体の条件反射だけで金属ダイヤルを滑らかに回し、一ミリの狂いもなくその位置で固定し、繋ぎ込みの物理スイッチを押し下げた。

ピピッ。

 インジケーターが、鮮やかな「緑色(完全同期)」を灯して静止した。天網の中央システムに対して『こちらはエラーなし、完全正常』という偽造パルスが完璧なループで放流され、昌平第十四セクターのローカルデバイスの制御権だけが、完全に中央の檻から手動へと引き剥がされた。周囲の警備ドローンたちが、論理的なハングアップを起こしてその場に静かに着陸していく。

「――同期維持を確認。手動解放セッションをローカルメモリへ固定。……よし、現状復帰(クリーンアップ)だ」


 林はクリアになった脳で冷徹に段取りを追い、ポートから太い光ファイバーケーブルを素早く、しかし丁寧に引き抜いた。デバイスは自動的に、中継局のマザーボードへ「それまで通りの単調な同期信号」を返すスタンドアローン状態へと綺麗に切り替わり、痕跡すら残さない。白がソケットを元の遮蔽パネルの奥へと仕舞い込み、金属筐体のビスを正確に締め直した。

 ケースを閉め、防塵キャップを嵌め直し、彼らは完全に現状復帰された地下室の闇を駆け上がった。白が無線ハッキングツールの接続を終了させ、扉のアラーム給電を元に戻すと、中継局は何の物理的証拠も残さず、完璧な静寂を取り戻した。


 待機していたパジェロへと滑り込む。周先輩がクラッチを繋ぎ、パジェロは黒い重油の煙を吐き出しながら、延慶の未完成ホテルの拠点を目指して山道を走り始めた。狙い通りにミッションをクリアできたことに安堵するパジェロの車内で、林は自らの指先に残るアヤのリズムの余韻を、静かに噛み締めるのだった。


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