エピローグ「クラゲと……」
魔人と関わったあの一連の事件から、もう既に一ヶ月が経過していた。
ボーっとした頭のままゆっくりとベッドから身体を起こし、ごしごしと完全に開き切らない瞼をこすり、小さく欠伸をした。
ややおぼつかない足取りで、俺は階段を降りる。
「おい、リルカ……朝だぞ」
居間に降り、ソファに向かって声をかける。が、返事はない。
「……慣れなきゃな」
自嘲気味に呟き、誰もいないソファの上にゆっくりと座り込む。
リルカとサバトは、二週間前にこの町を去った。
蔵咲町で魔人を増やしていた魔人――校倉喜久夫を最後に、この蔵咲町から魔人という非現実的存在は消えた。校倉を倒した後も少しの間だけ二人はこの町にいたが、やがてサバトの所属している結社という組織から、正式に帰還命令が出たらしい。俺に魔核を適応させるために浪費していた魔力もかなり回復していたようで、リルカとサバトがこの町に残る必要は少しもなかった。
わかっていたことだった。
出会いがあれば、別れがあるのは当然で、サバトがいつかリルカと共に帰らなければならないのは、最初からわかっていたことだった。
俺がリルカと共に魔人と戦わなければならなかったのは、サバトの魔力が枯渇し、魔人と戦うことが出来なかったからだ。魔人が消え、サバトの魔力が回復すれば、俺と二人が一緒にいる必要は全くない。
だからって
「何も言わずに帰るのは、反則だろ」
別れの言葉もなく、久美姉や沢田達を呼んでお別れ会をする暇もなく、二人はこの町から――俺の前から去った。
せめて一言、「さよなら」くらいは言わせてくれても良かっただろうに。
平穏無事な日常だった。
一時期町を騒がしていた殺人事件の話も、今ではもうほとんど聞かない。リルカとサバトが俺の前に現れる前の、平穏で当たり前の日常が戻って来ていた。
「寂しい?」
登校中、久美姉がそんなことを問うた。
「何が?」
「リルカちゃんのこと」
「……別に」
そっぽを向いて、そっけなく答えた。
「私は寂しいよ。一ヶ月前は、家族同然だったんだし」
「でももう、帰っちまったよ」
「……うん。リルカちゃんも、実の父親のジョニーさんと一緒にいた方が、幸せだもんね」
結局、ジョニーさんの設定は生きている。リルカは、仕事を見つけて安定したジョニーさんの元へ帰ったことになっている。
「月人、寂しいでしょ?」
背けた俺の顔を、久美姉はわざわざ覗き込んでまで真っ直ぐに見つめた。
「……ああ、寂しいよ。これで満足か?」
嘆息しつつそう答えると、久美姉は素直でよろしい、と微笑んだ。
白井の席は、もうずっと空席だった。
白井家の方では突然の家出ということになっており、今も警察によって捜索が行われている。彼女がもう二度と帰って来ないことを知っているのは、リルカとサバトが町を去った今、この俺だけだろう。
校倉の手によって魔人化した白井を殺したのは、俺だ。理由はどうあれ、俺は白井を殺してしまった。正当な行為だとしても、この事実だけは永遠に忘れてはならないと、俺はあの日胸に誓った。
彼女はもう帰って来ないと、周囲が気付くことはないだろう。彼女は、水となって跡形もなく消えたのだから。死体すら、見つからない。
「どうしたクラゲ、白井の席なんかジッと見て」
キョトンとした表情で、沢田が問うてきた。
「……いや、別に。いつ帰って来んのかなーって」
「だよなぁ。もうずっと家にも帰ってないらしいしなぁ」
そう言って心配そうな表情を見せる沢田に、俺は心の内で謝罪することしか出来なかった。
「おーいクラゲ、ホームルーム終わったぞ」
ユサユサと身体を揺らされ、俺はゆっくりと閉じていた目を開いた。六時間目の授業で爆睡してしまってから、どうやらホームルーム終了まで寝てしまっていたらしい。
「帰ろうぜー」
身体を起こし、声の主へ視線を向けると、そこに立っていたのは沢田と大宮だった。どうやら俺のことを起こしてくれたらしい。
「ホームルームの間も寝ちまってたのか……」
「ああ、そして掃除時間も終わったぞ」
「いや、それは起こせよ!」
「お前の上もついでに掃除しといたぞ、雑巾で」
「単なる嫌がらせじゃねーか! さっきからベタベタしてんのはお前の仕業か! っつかこんな状況前にもあった気がするのは俺だけ!?」
「とにかく、帰ろうぜ」
沢田の言葉に頷き、席を立とうとしたが途中であることに気が付いた。
「……悪い。そういや数学の課題まだやってなかったわ……。期限が五時までだから、先帰っててくれ」
沢田達にそう告げて、俺は数学のノートと教科書を取り出し、黙々と課題をやり始めるのだった。
課題の途中でうっかり眠ってしまっていたことに気付いたのは、期限である五時などとっくに過ぎた七時過ぎのことだった。
慌ててガバリと身体を起こし、辺りを見回す。既に周囲は真っ暗で、人の気配は全くなかった。
「やべえ……」
呟き、すぐに荷物をまとめた。課題を提出し忘れているため、数学は減点だろう。一応明日には出そうと思うが、点数はちゃんと出した場合の半分くらいしかもらえない。多分。
「しくじったなぁ……」
誰に言うでもなく呟き、教室の鍵を内側から開け、暗い校舎の中を半ばビビり気味に駆け抜けて俺は下駄箱へ向かった。
急いで靴に履き替え、正門へと向かう。正門は当然閉まっているため、門の上をよじ登らなければならない。
「っしょっと」
門を乗り越え、校外に出る。安堵の溜息を吐き、帰路へ着こうとした時だった。
厭な汗が、額を流れた。
「え……?」
背後に、気配を感じる。
それも、人じゃない。人なんかより強大で、凶悪で、圧迫感のある気配。
「ヴァ……ァァ……」
不愉快な、濁った声。それはまるでノイズのようだった。
「まさか……!」
意を決して振り返ると、そこにいたのは化け物だった。
図体のデカい化け物だった。足は普通の大きさなのだが、両腕が異様に太くて大きい。地面にその両腕を付いてバランスを取っている。体色は全体的に黒く、体毛は生えていない。頭部には人間とよく似た顔がついているが、そこに目はなかった。
「ァヴァァ……」
口がもぞもぞと動き、ノイズ染みた声を発した。
「コイツは……」
魔人だった。
忘れもしない一ヶ月前、俺をこの場所で殺したあの化け物と同じ、魔人だ。
しかし、何故魔人がこの町に?
この町にいた魔人は、校倉達は――俺がリルカやサバトと協力して倒したハズだった。なのに何故、今ここに魔人がいる……?
「ァァァァッ!」
考えている余裕はなかった。
魔人は緩慢な動作で俺へ近寄ると、その巨大な右腕を振り上げた。俺が咄嗟に回避すると同時に、魔人の右腕は振り下ろされる。
「やべえ……」
轟音と共に、地面が穿たれていた。あんな物、一撃でも喰らえばペシャンコにされてしまう。一度目はサバトのおかげで助かったが、次に死ねば、もう助からない。
逃げる以外に、選択肢はなかった。
幸い、魔人と出会うのは一度目ではないため、怯えて動けないということはなかった。すぐに、魔人へ背を向けて駆け出した――その時だった。
「ヴッ」
魔人が奇声を上げると同時に、軽く跳んだ。そして着地すると同時に、轟音。軽く地面が揺れた。
「うわッ!」
それで体勢を崩した俺は、情けなく地面へ顔から倒れ込む。すぐに身体を起こし、魔人へ視線を向けた頃には既に、魔人は眼前まで迫って来ていた。
「な――ッ!?」
既に腕は、振り上げられている。後は振り下ろしさえすれば、俺はペシャンコだ。
駄目だ。リルカなしじゃ何にも出来ない。魔人に対抗することは、俺一人じゃ出来ない。
「クソ……ッ!」
悪態を吐き、俺が腹をくくって目を閉じた時だった。
グサリと。何かが刺さる音がした。
「え……?」
恐る恐る目を開けると、そこには後ろから剣を刺された魔人の姿があった。剣は魔人の背中から胸部まで貫通しており、飛び出した剣の刃先からは、ポタポタと血が滴り落ちていた。
「これって……」
魔人の身体が水へと変化し、パシャリと音を立てて地面を跳ねた。
「大丈夫?」
魔人の陰になっていて見えなかった、魔人へ剣を刺した人物は、柔和に微笑んで見せた。
「は……?」
わけがわからず困惑した表情を浮かべる俺を見つめ、彼女はクスリと笑みをこぼした。
長い黒髪と黒いワンピースの裾が、夜風になびいている。
「サ――」
俺が言い終わるより先に、女性の持っていた剣が眩い光を放った。あまりの眩しさに、俺は目を閉じた。
「クラゲー!」
目を閉じていてよくわからないが、どうやら俺の身体に誰かが抱きついたらしい。小さな身体が、俺の身体にすり寄ってくる。
ゆっくりと。目を開けた。
「クラゲ君。久しぶり」
ニコリと。サバトは微笑んだ。
「クラゲ! クラゲー!」
何度も何度も、俺のあだ名(不本意だが)を連呼する、リルカ。
「え……何で……?」
一ヶ月前に町を去ったリルカとサバトが、そこにはいた。
「この町、また魔人が出始めたらしくてね。結社からもう一度派遣されたのよ。『一度派遣した場所だから、他の者が行くより君が行く方が都合が良いだろう』って言われて」
この町に、また魔人が……。
いや、今はそれよりも――
「クラゲ、会いたかったぞ!」
無邪気に、屈託なく微笑む妹みたいなリルカに、命の恩人であるサバトに、もう一度出会えたことを素直に喜びたい。
嘆息――否、安堵の溜息を吐いて、俺は微笑んだ。
「俺も、会いたかったよ」
そして笑顔で、そう答えた。




