其の四「クラゲと白井」
最初に出会ったのは小学生の時だった。
大人しくて物静かだった私――白井佑香は、クラスメイトからのいじめに遭っていた。ドラマや小説で見るような陰惨ないじめではなかったけれど、それは一目でいじめとわかるレベルのいじめだった。
罵倒。嘲笑。無視。肉体的苦痛こそ受けなかったものの、精神的に私はボロボロにされていた。情けなくて親に言うことも出来ず、私はただそのいじめを受け続けていた。どうすればいじめられなくなるのか、どうすれば誰かと友達になれるのか、そんなことばかり考えながら。
ある時、こんな授業があった。「あなたのたからものはなんですか?」、生徒一人一人が、思い思いの宝物を持ち寄る授業だった。
私は、母に買ってもらったぬいぐるみを持って行った。誕生日に買ってもらった、家ではいつも一緒にいる程大切なぬいぐるみ。当時の私にとってはかなり大きめのぬいぐるみだった。
どうしてその時気付かなかったのか。いじめられている自分が、そんな大切なぬいぐるみを持って行けば、ぬいぐるみがターゲットにされることに。
案の定、ぬいぐるみは隠された。私が目を離している隙に、ぬいぐるみは隠されていた。
私は泣きじゃくった。どうして隠したの? どこへ隠したの? と。それでも、いじめっ子達は私にとりあわず、そのまま帰ってしまった。
先生に相談しようかとも思ったが、先生に告げ口したことがバレれば、私に対するいじめは更に苛烈なものになるだろう。それだけは嫌だった。
放課後、誰もいなくなった学校の中で一人、私はぬいぐるみを探し続けた。探しても探しても見つからなくて、それでも泣きながら探し続けていた――そんな時だった。
「お前、何してんだよ?」
同じクラスだし、名前と顔は知っていたけど面識のない少年だった。
天海月人。ちょっと変わった名前の少年だった。
「ぬいぐるみ……探してるの……」
要領を得ない説明。しかしそれでも、少年は、天海君はある程度把握したらしく小さく頷くとこう言った。
「そっか。じゃあついでに探してやるよ」
聞けば、天海君は学校に忘れた宿題用のノートを取りに来ただけだったらしい。
そのまま私は天海君とぬいぐるみを探し続けた。小一時間経って、少し外が暗くなってきた頃、私のぬいぐるみは天海君が見つけ出した。
それ以来、私は天海君のことを気にするようになった。それが恋心だと、当時はただの一度も気付かずに。小学生の間は天海君と話すことはもうなかったけど、見ているだけで満足だった。
そんな状態が変わったのは、中学の時。いじめもなくなり、友達も出来始めた中学時代、クラスは違えど同じ学校だった天海君と、三年生の時初めて同じクラスになった。しかもその挙句、天海君は私と同じ図書委員に立候補したのだ。
委員会の仕事の時、勇気を振り絞って話しかけたけど、どうやら天海君は私のことを忘れてしまっているらしく、自己紹介からになってしまった。
それでも良かった。天海君と、友達になれたのだから。
それから何度も話し、他の友達も交えて一緒に遊ぶようになってやっと気付いた――私が天海君へ抱いている感情が、恋なのだと。
しかし、やがて気付いてしまった。恋敵がいることに。
――――佐野久美子。年齢が一つ上の、天海君の幼馴染。彼女と天海君の関係が、自分と天海君の関係よりも遥かに密度が濃いと知った。知ってしまった。
佐野久美子は、女の私から見ても綺麗だった。スタイルも良い、自分では勝てるわけがないと、そう思い込んでしまう程に。
それ以来、久美子を見る度に感じる、ドス黒い嫉妬心。
何でそこにいるのが私じゃないのか。何故久美子が幼馴染なのか。自分が幼馴染なら、どんなに素敵だったか。羨ましい。妬ましい。私だって、天海君と一緒にいたいのに。
そんな時、あの男に出会った。
黒いスーツを来た、細身の男だった。
眼鏡をかけた、優しそうな顔の人物だった。右手には、スーツと同じくらい黒い鞄を持っている。
男は、静かに問うた。
「何か欲しい物はありますか?」
まるで全てを見透かしたような、そんな瞳。眼鏡の奥のその瞳は、私を真っ直ぐに見据えている。まるで、貴女が何かを欲しがっていることはわかっています、とでも言わんばかりに。
「貴方は……?」
「そうですね……、アゼクラ、とでも名乗っておきましょう。それよりも――」
何か欲しい物はありますか? もう一度、男は私にそう問うた。
少し考えればわかることだ。怪しい勧誘、セールス。ロクでもないことは一目でわかる。それなのに私は、言ってしまった。
「天海君が……欲しい」
叶うわけない。そんな無茶な願いが叶うわけがない。こんな男に何が出来る? 半ば試すような気持ちで、私はそう言った。
しかし予想に反して、男はニコリと優しく微笑んだ。
「わかりました。では、ちょっと貴女の腕を出して下さい」
驚愕に顔を歪め、私は言われるがままに袖をまくり、右腕を出して男へ見せる。すると男は、手に持っていた黒い鞄から注射器を取り出した。
「え……!」
麻薬だと、私はすぐに判断した。
危険を感じた私はすぐに右腕を引っ込めようとしたが、男にがっしりと掴まれていてどうにもならない。逃げようにも、男の力は強く、私ではとても振り切れそうになかった。
「心配しなくても、これは麻薬ではありません。この注射器の中身に、依存性はありません。何より、薬ではありませんので」
そう言って強引に、男は注射器を右腕に刺した。
チクリと。痛み。それと同時に、私の体内へ何かが注入される。
「一体……何を……?」
そう呟いた時には、既に男はその場を去ろうとしていた。その背中を追いかけ、声をかけるが男は一切返事をしない。追いかけている内にいつの間にか男は姿を消していた。
そして翌日、私は化け物になっていた。
白井が、魔人だった。
俺を殺したあの化け物と同じ存在、彼女は――魔人だった。
信じたくなかった。夢だと否定したかった。しかしそれでも、俺はしっかりとこの目で見てしまっているし、白井が魔人へと変貌していく姿は鮮やかな程脳裏に焼き付いている。
――――許さない許さない許さない……。アンタも、あのリルカとかいう子もっ!
鬼か何かでも取り憑いたんじゃないかと錯覚してしまうような形相で、白井は久美姉にそう言った。過剰なまでの憎しみで装飾されたその表情は、普段の彼女からは想像も出来ない程醜く見えた。
許さない。魔人と化した後も、白井はそう言っていた。
何をどう、許さないんだ。久美姉は白井に、何かしたのか?
考えれば考える程気分が沈んでいく。ただでさえこないだのことで沈んでいた気分が、今回の件で奥底まで沈み切ったような感覚だ。
俺はもう、魔人とは戦えない。戦う自信が、ない。
「クラゲ、どーしたよ。週明けそうそう鬱い顔して……」
月曜の朝教室で、沢田はそんなことを言いながら俺の顔を覗き込んだ。
「いや、悪い。今朝は夢見が悪くてな……」
「ふーん。まあ夢だから気にすんなって。僕は今朝最高に夢見が良かったから気にするけどな」
朝から幸せそうな奴だった。鼻の下を伸ばしているところから、コイツがどんな夢を見たのか容易に察することが出来た。
「それより今日、白井さん来てなくね? いっつもHR開始三十分くらい前には席にいるのに」
白井の席は、空席だった。彼女の登校はいつも早い。沢田の言う通り、HR開始三十分くらい前には既に教室に来ているのが当たり前のような生徒だ。
――――ユルサナイ。
不意に脳裏を過る、魔人化した白井の言葉。
あんなことがあった後に、学校に来られるわけがない。彼女はもっと前から魔人だったのか、それとも最近魔人化したのか……。それを知る術は俺にはなかった。
勢いよく、木剣が弾き飛ばされた。俺の手を離れ、音を立てて地面へ落下する。それを拾おうと手間取る俺へとサバトは瞬時に接近し、首筋へ木剣当てた。
「五回目」
「何が……だよ……?」
「今日の訓練を実戦だと仮定した場合の、貴方の死亡回数よ」
冷たくそう言い放つと、サバトは木剣を俺の首から離し、嘆息する。
「一体どうしたの……? 最近訓練に身が入らないみたいだけど、今日は一段と酷かったわ」
何も答えずに木剣を拾う俺を見つつ、サバトは自分の髪の毛をクリクリと指でつつきながらもう一度嘆息した。
「く、クラゲは調子が悪いだけだぞ! いつもはちゃんと戦える……そうだよな、クラゲ!」
慌ててフォローを入れるリルカの言葉に答えることもせず、俺は木剣を拾うとサバトに対して静かに構えた。
「リルカの言う通り、俺は大丈夫だ。続きを――」
俺が言い終わるより先に、サバトは木剣を放り投げた。その木剣を、リルカは慌ててキャッチすると、サバトの持って来ていたラケットケースらしき入れ物に木剣を片づけた。
「サバト……」
「今日はもう終わりにするわ。今のクラゲ君じゃ、いくら訓練しても意味がない」
そう言ってサバトは、小さく溜め息を吐いた。
「な……ッ! 俺は大丈夫だって!」
俺の言葉も聞かず、サバトはケースを背負う。
「帰るわよ。クラゲ君、家まで送ってあげるわ」
サバトの言葉に、俺は歯噛みすることしか出来なかった。
「何で……? 何で……っ!?」
ハァハァと息を荒くしながら、一人の少女が廊下を駆けていた。丁寧に編まれた三つ編みを振り乱しながらも、少女は懸命に走っていた。
窓から差す夕日が、ほんのりと廊下を赤く染めている。帰りが遅くなって急いでいる生徒にしては、その少女の必死さは不可解だった。
「ワタシ……ハ……」
少女の背後から聞こえるのは、まるでボイスチェンジャーで低くしたかのような女性の声と、足音。
少女は、恐怖で振り向くことが出来なかった。
「どうし……てっ……あっ!」
疲れのためか足がもつれ、少女はその場へ勢いよく倒れ込む。その勢いで眼鏡が外れ、音を立ててその場を滑った。
視界があやふやになると同時に、頬へ感じるタイルの冷たい感触。そして背後から迫る恐怖。
ぞわりと。悪寒がした。
「……ひぃっ」
少女は、無意識の内に悲鳴を上げた。振り向くことすら出来ないままに。
「ワタシハ……」
ピタリと。背後の足音が止まる。
「やめ……て……」
殺されるのだと、本能的に少女は理解した。これまで生きて来て、一度も浴びせられたことのないような殺意を少女は背後から感じていた。
ただ図書室へ居残って本を読んでいただけなのに。つい時間を忘れて、一冊読み切っただけだというのに。
それが死に繋がるとは、一体誰が想像出来ようか。
「ゴメン……ナ、サイ」
言葉とは裏腹に、浴びせられる殺意に変わりはない。
「――っ!」
しゅるりと。少女の首に何かが巻き付けられた。眼鏡が外れたせいで少女にはよく見えないが、ロープのような物だろうか。それは徐々に強く少女の首を絞め付けていく。
「く……うっ……!」
言葉を紡ぐことすらままならず、ただただ少女は呻く。
「か……はっ……!」
しばらくジタバタと暴れたが、やがて少女はピタリと動きを止める。
「ゴ……メンナ、サイ」
背後にいたのは、人型の化け物だった。
女性的な体型ではあるが、その姿は化け物以外の何者でもない。頭からつま先まで赤銅色一色。頭はまるで包帯でも巻いているかのようにグルグルと何かが巻き付いており、目や鼻などは一切見受けられない。身体には線状の窪みが一定間隔ごとに存在している。少女へ向けて伸ばされている右腕は、まるでロープのように変形しており、少女の首に巻き付いている。
少女が死んだと判断したのか、少女に巻き付いていた化け物の右腕は少女を離れ、ぐにゃぐにゃと変形して化け物の右腕へと戻った。
化け物はしばらく少女へ顔を向けていたが、やがて少女へ背を向け、その場を去った。
少女の遺体が発見されたのは、それから数時間も後のことになる。
「ハァ? 休校?」
朝っぱらから電話がかかってきたかと思えば、学校から休校のお知らせだった。別に台風でも大雨でもないのに、休校する理由がどこにあるのかと思ったが、聞いてみると非常に納得のいく休校理由だった。そう、休校理由としては、だ。
電話を終え、食卓の椅子へゆっくりと座り、俺は嘆息する。
「クラゲぇ……何なんだ……?」
居間のソファで眠っていたリルカが、眠そうに両目をこすりながらこちらへ歩いて来る。
どういうわけかリルカはソファの寝心地が気に入ったらしく、リルカは我が家で暮らすようになってからソファをベッド代わりに使っている。ベッドなんて二つも余っているというのに、リルカはどうしてもソファで寝たがったのだ。まあ、本人が良いなら良いけど。
「リルカ」
「何だ……?」
「この間、俺とリルカが倒した魔人は、ここ最近起きてた殺人事件の犯人で間違いないよな?」
眠そうな顔のまま、リルカはコクリと頷く。
「だったら……だったら何で……また校内で殺人事件が起こるんだよ……ッ!」
わかってる。
これがもし魔人の仕業だとすれば、犯人は――
「……何っ!?」
眠そうな目をこじ開け、リルカはこちらへ駆け寄って来る。
「誰か、殺されたのか!」
「ああ、校内でな」
犯人は……白井、だ。
ギュッと。拳を握りしめる。白井が誰かを殺しただなんて思いたくない。白井は何もやってない。そう信じたい。なのに――消えない。魔人化し、咆哮する彼女の姿が、頭の中から消えない。
――――魔人が人を殺すのは、魔人としての破壊衝動に耐え切れないから。人を殺すことで、魔人は自我を保つのよ……。
白井は、魔人としての破壊衝動に耐えきれないから……殺した。ただの殺人犯という可能性もあるのに、どうしても魔人化した白井のことばかり考えてしまう程に、俺の頭の中は白井と魔人でいっぱいだった。
「そ、それは……久美姉や、沢田や大宮じゃないよな……!?」
「……正直、わからない。俺もアイツらのことが心配だ」
俺がそう呟いた時だった。ポケットに入れていた携帯がけたたましく着信音を響かせる。この着信音はメールだな。
すぐにポケットから携帯を取り出し、メールを確認する。
「……やったぜクラゲ、一週間も休校だヒャッホー。休校の間に遊ぼうぜいぇい」
ついつい音読してしまう程アホで不謹慎な内容だった。
沢田からだった。
「リルカ、少なくとも沢田は無事だ」
「そ、そうか! 良かった……」
心底安心した、と言った様子でリルカは胸をなでおろす。
そうこうしていると、玄関からインターホンが鳴り響く。
「月人ー! 大丈夫ー? 月人ー!」
久美姉も無事らしい。
玄関へ出る前に、安堵の溜息を吐いた。
メールで確認したところ、大宮も無事らしい。白井には沢田がメールしたらしいが、未だに返信が返ってこないようだ。
「この間も、学校の近くで殺人が起こったばかりなのにねぇ」
心配そうな声音で、朝食の準備をしながら久美姉が呟く。
「この間、か」
脳裏を過るのは、この間倒した魔人の姿だった。
俺が魔人に関わるきっかけになった魔人。元々人間だった――魔人。
ただの殺人鬼が犯人なら良いが、どうにも厭な予感がしてならない。白井が犯人だと、どうしても考えてしまう。
もう一体魔人がいる――そんな想像が脳裏を過るが、首を左右に振ってそれを否定する。ただの希望的観測だ。白井が犯人だと、思いたくないだけの。
それからしばらく、久美姉はリルカとたわむれれたりと、しばらく我が家でエンジョイしていたが、昼食を用意した後自宅へと戻って行った。正直、毎食用意してもらうのは忍びないのだが、好意でやってくれているものを断る気にはなれなかった。久美姉の料理、美味いし。だが、そんな美味い料理を前にしても食欲が失せる程に、俺の頭の中は魔人と白井に支配されていた。
白井は人を殺してなんかいない。そう自分に言い聞かせながらも、どこかで犯人が白井だと確信している自分がいた。
「くっ……あぁっ……!」
それは、衝動だった。
彼女の、白井佑香の中で暴れている感情は紛れもなく衝動だった。
破壊衝動。
何でも良い。物でも、者でも構わない。ズタズタにして、締め上げて、壊したい。
化け物になってから、ずっと抗い続けてきた衝動だった。
「ああああっ!」
唸り声を上げ、勢いよくベッドへと自分の右腕を叩きつける。その程度で衝動は収まらないが、何もしないよりはマシになる。ベッドへ右腕を叩きつけた瞬間に感じる、確かな快感。何かに力をぶつけるという感覚を、佑香の身体は佑香自身の意思とは関係なく求めていた。
「そろそろ、諦めてはどうですか?」
「――っ!?」
不意に部屋の入り口から聞こえる声に、佑香は眉をピクリと動かし、すぐに声のした方向へ視線を向ける。
そこにいたのは、黒いスーツの男だった。黒いバッグを片手に提げた、佑香を化け物にした張本人。
男は、澄ました顔でそこに立っていた。
「どうやって……」
「入ったのか、ですか? 玄関の鍵はかかっていませんでしたし、貴方のご両親は出かけているようだったので、侵入するのは簡単でした」
それがさも当然のことであるかのように、男は淡々と告げた。
「嘘吐き……!」
キッと男を睨み付け、佑香は吐き捨てるように言い放つ。
「嘘吐き?」
「叶わない……じゃない……っ! 天海君は……」
手に入らない。
そう言いかけて、佑香は口をつぐんだ。天海月人を、まるで物のように扱う言い方だと自分で気付いたからだ。
「彼が手に入らないのは、貴女が何もしないからですよ」
男はゆっくりと、ベッドに腰掛けている佑香の元へ歩み寄り、身を少しかがめて佑香と目線を合わせる。
「排除すれば良い」
そう言って、男は微笑んだ。
「彼が貴方の物にならないのは、それを邪魔している何かがあるのでしょう。それを、貴女の力で排除すれば良い。簡単な話です」
佑香の脳裏に、佐野久美子の笑顔が過る。
月人と共に、まるで付き合っているかのように談笑する久美子の姿。毎朝一緒に登校し、挙句の果てには手さえ繋いでいる。
幼馴染だとしてもやり過ぎだと、佑香は常々思っていた。
故に、佐野久美子が許せなかった。否、嫉妬していた。佑香が最も欲しがっている物を、彼女はいとも容易く手に入れている。
「佐野……久美子……っ!」
佑香の目が、殺意でギラリと光ったかのように見えた。
休校している間、暇つぶしにリルカと不毛な会話を続けている内に、陰鬱な気分はほんの少しずつだが晴れていった。流石にはしゃげる程回復はしていないが、まあ冗談をリルカや久美姉と言い合えるくらいには回復している。しかしそれでも、俺は片時も魔人のことを忘れたことはなかった。
休校三日目の夕方。いつもならもう久美姉が来ている時間なのだが、都合が悪いのか久美姉は中々現れない。まあボランティアみたいなモンだし、別に無理して来る必要もない。例え久美姉が夕飯を作りに来なくて、おまけに連絡なしだったとしても、俺は絶対に怒らないだろう。やってもらってる側だしな、文句は言えない。
「ホント、久美姉には感謝してもし足りねえな」
呟き、ポケットから携帯を取り出してその画面を眺める。
久美姉からのメールは、まだきていなかった。
「クラゲー、久美姉遅いなー」
「だなぁ。まあ、もうすぐ来るだろ」
と、呟くとほぼ同時にインターホンが鳴った。
「月人ー。来たよー」
聞こえてくる久美姉の声に、俺とリルカは顔を見合わせて微笑んだ。
「ほらな」
家の中に入ってきた久美姉は、スーパーの買い物袋の中にキャベツやら人参やら肉やらを詰めて持って来ていた。どうやら今日の夕飯は野菜炒めらしい。
「材料はうちにあるの使えよ。わざわざ買って来なくて良いぞ」
ただでさえ時間を割いて夕飯を作りに来てもらっているというのに、その上財布の中まで圧迫してしまうのは申し訳ない。というか毎日来てもらっている時点で申し訳ない。
しかしこういうことを言うと決まって久美姉は
「良いよ、好きでやってるんだし」
と、笑顔で答える。
お人好しで世話焼きでマジ天。本当、良い幼馴染を持ったと思う。
「それじゃ、台所借りるね」
「おう」
「あ、メール」
不意に、久美姉のポケットの中で携帯の着信音が鳴り響く。音楽にはあまり興味がないのか、久美姉の着信音はいつもデフォルト設定のままだった。
久美姉はポケットから携帯を取り出すと、すぐにメールを確認し始める。
そして一瞬、表情を一変させた。
「久美姉?」
俺の言葉に返答せず、久美姉は携帯を凝視している。
「久美姉、どうかしたのか?」
リルカの声でやっと気が付いたのか、久美姉は慌てて携帯を閉じるとこちらへ振り向いた。
「あ、ううん。なんでもない」
「何か変なメールでもきたのか?」
「そんなんじゃないよ。気にしないで」
久美姉の態度には違和感があったが、本人が言うのを嫌がっているなら無理に詮索するのも悪いだろう。デリケートな問題なのかも知れないし、誰にだって触れられたくないことはある。
だがそれでも、厭な予感だけはした。
白井に関しては何度も考えを巡らせたが、結局良い案は思い浮かばなかった。すぐにでも何とかしなくちゃいけないのはわかっている。白井が魔人で、校内で生徒を殺したのが白井なら、俺は止めなくちゃいけない。今魔人を止められるのは、俺とリルカだけだ。
しかしそれでも、彼女に対して剣を向けることを――否、元々人間だった魔人に対して剣を向けることを、俺は心底恐れている。
「違うサバト……それはクラゲじゃない、野菜炒めだ……」
いや、意味わかんないし。
居間のソファで考え事をしている内に、隣でリルカが眠ってしまっている。夢でも見ているのか、その寝顔は随分と心地良さそうだ。
リルカを起こさぬよう、傍に置いてあったリモコンでテレビの電源を切る。
プツンという無機質な音がすると同時に、静寂が訪れた。
聞こえるのは、時計の音と、リルカの寝息だけだった。
そっと。リルカの頭を撫でてみる。すると、リルカは心地良さそうに身体をもぞもぞと動かす。それが妙にかわいらしくて、俺はつい笑みをこぼした。
そんな他愛もないことをしている時だった。
「ん……?」
外で、誰かの歩く音がした。
「こんな時間に……?」
つい気になって玄関へ向かい、外を覗き込む。
「な――ッ」
外を歩いていたのは、久美姉だった。
こちらには気付いていないらしく、どこか緊張した面持ちのままゆっくりと歩いている。向かっている方向は――学校、か?
ふと、夕方のことを思い出す。
あのメールと、何か関係があるのかも知れない。
「おい、リルカ」
ソファまで戻り、気持ち良さそうに寝息を立てるリルカの身体をユサユサと揺さぶる。「うぅん、後一億光年」
「リルカ、それは距離だ」
「後三年……」
「寝太郎かお前は。いいから起きろ」
軽く頬をつねると、リルカは嫌そうな顔をしてそのまま寝返りを打った。とっさに避けると、リルカは案の定そのまま床へ転がり落ちた。
「…………」
「痛いじゃないかクラゲ……」
うん。なんかごめん。
事情を簡単にリルカへ説明し、身支度を済ませた俺とリルカは久美姉を尾行していた。久美姉が夜中に一人で外を出歩くのはどう考えてもおかしいし、途中で何か変なのに絡まれる可能性だってある。
魔人に襲われる可能性だってゼロじゃない。
夕方のメールの件もある上、何だか厭な予感がする。女の子の後をつけるというのはあまり(というかかなり)良くないが、久美姉にもしものことがあったらと思うと気が気でいられない。マジ天の久美姉のことだ、妙な事件に巻き込まれていたって不思議じゃない。
「やっぱりか……。でも、何で……」
しばらく尾行し続け、辿り着いたのは学校だった。久美姉は校門を乗り越えると、足早にどこかへ歩いて行く。
「よし、俺達も行くぞ」
リルカが頷いたのを確認し、俺とリルカは校門を乗り越えた。上るのに苦戦しているリルカを引っ張り上げ、久美姉の尾行を続ける――――つもりだったのだが
「……あれ?」
いつの間にか、俺達は久美姉を見失っていた。
「えっと、何でこんな時間に……?」
蔵咲高校のグラウンドの中心で、目の前の少女に久美子は不安げにそう問うた。目の前の少女――白井佑香は、そんな久美子に冷めた視線を向けた。
「わかりませんか? 佐野先輩」
佑香の言葉に込められた静かな怒気を感じたのか、久美子の顔には薄らと恐怖の色が映っている。
「私前に聞きましたよね? 天海君と付き合ってるんですか……って」
淡々と、呟くように言いつつ、佑香は静かに久美子を睨み付ける。
「付き合ってない……けど……」
明らかに怯えた様子の久美子を、圧迫するかのように佑香はジリジリと久美子へ歩み寄っていく。それに比例するかのように、久美子は一歩ずつ後ずさっていく。
「だったら……」
ピタリと。佑香が動きを止めた。
「だったら何でッ!」
今までの佑香からは、想像も出来ないような表情だった。醜く、嫉妬に歪んだその表情に、久美子は言葉を失った。
「アンタなんかが天海君と一緒にいるのよッ!?」
佑香の怒声が、夜のグラウンドに響いた。
「許せない許せない許せない許せない許せない! 私のことを差し置いてずっと天海君と一緒にいるなんて許せない……! 幼馴染が何よ! 家が隣なだけじゃない! なのに彼女面して、天海君と手なんか繋いでっ! 私の方が……私の方が何倍も天海君のことが好きなのにっ!」
それは、彼女の慟哭だった。
内に秘め続けていた思いを、激情のままに吐露した彼女に、久美子は唖然としていた。
数年間佑香の心の内に溜め続けられていた憎しみが、嫉妬心が、まるで濁流のように言葉と共に外へと流れ出しているかのようだった。
「ユル……セナイ……!」
無意識の内に、佑香は身体を魔人へと変質させていた。ぐにゃりと、粘土のように佑香の身体は変形し、もぞもぞと不気味に蠢き始める。白かった肌は赤銅色へと変質していく。
「……ひっ……!」
久美子が短く悲鳴を上げ、その場へ尻餅を付いた頃には……佑香は完全に魔人へと変化していた。
「ユルサナイ」
佑香がそう呟くと同時に、佑香の右腕はロープ状に変化する。
「やめ……て……!」
震える声で久美子が言ったが、佑香はその言葉に何の反応も示さない。
佑香は右腕をしならせ、尻餅を付いている久美子のすぐ横の地面にその右腕を叩きつける。
「いやっ!」
乾いた音が鳴り響くと同時に、久美子は悲鳴を上げた。
「サノ……クミコ……!」
佑香が右腕を振り上げ、ロープ状の腕を久美子へ叩きつけようとした時だった。
「白井ッ!」
少年の声が、グラウンドに響いた。
蔵咲高校のグラウンドに魔人が出現した。という連絡がサバトからあったのは、俺とリルカが久美姉を見失ってからすぐだった。
それを聞いてすぐに、俺はその魔人が白井だと確信した。どういうわけか白井は久美姉に恨みがあるらしく、久美姉を襲うためにメールで呼び出した。と考えれば久美姉に届いたメールの件にも説明がつく。
俺とリルカが急いでグラウンドへ向かうと、二つの人影が見えた。一人は、尻餅を付いた久美姉。もう一人は――
「白井ッ!」
グラウンドの入り口から、右腕を振り上げている魔人――白井に向かって俺は叫んだ。声に気付いたのか、白井はピタリと動きを止めた。
「クラゲ! 久美姉が!」
「わかってる!」
すぐに久美姉の元へ駆け寄り、その肩を揺さぶった。が、返事はない。よく見れば、久美姉は既に気を失っているらしく、目を閉じたままピクリとも動かなかった。
とにかく、今は無事だったことを喜ぼう。
「白井……!」
白井はゆっくりと、上げていた右腕を下ろした。
「アマミ……クン」
「白井! 何で久美姉を……!」
俺の言葉には答えず、白井は動きを止めたまま何もしようとしない。
「クラゲ……もう一体魔人がいるぞ!」
「ああ、わかってる! さっきから視線は感じてんだ!」
このグラウンドに入った時から感じている別の視線。魔人かどうかは判断出来なかったが、恐らくその視線の正体がリルカの言うもう一体の魔人だろう。先程からこちらへ視線を向けているだけで、一向に姿を現さない。
「それよりもまずは……」
再び、俺は白井へ視線を向けた。
「頼む。もう暴れるのはやめてくれ……! でないと俺は……お前と、戦わなくちゃいけなくなる……ッ」
出来れば、戦うのは避けたい。魔人になっていても、白井は俺の……大切な友達だ。いくら覚悟を決めたって、出来ることなら白井とは戦いたくない。
「ァァァァァアアアアアッ!」
俺のそんな思いを無視するかのように、白井は夜空へ向けて咆哮した。
「クソ……! リルカ!」
「おう!」
リルカが返事をすると同時に、彼女の小さな体躯を抱き寄せる。が、その小さな唇にキスをすることが、俺には出来なかった。
「……クラゲ?」
戦えない。戦えるわけがない。白井と――人間と戦うなんて……俺には、出来ない。
「クラゲ!? どうしたクラゲ! まさか……」
「キアアアアァァァッ!」
奇声を発すると同時に、白井はロープ状に変化させた右腕をこちらへ伸ばしてきた。リルカは素早く俺を押し倒し、俺をかばうようにして右腕を回避する。
すぐに俺とリルカは立ち上がり、少しだけ後退する。
「わ、悪い……」
駄目だ……俺は……。
「戦えない……のか?」
リルカの問いに、答えることすら出来ず、ただ茫然と立ち尽くす。
俺が何とかしなければ。俺が白井を止めなければ。このままじゃ、久美姉が殺されてしまう。頭では理解している。それでも、俺の足は動こうとしなかった。
それ以上何も言おうとしない俺を睨みつけ、リルカはもういい! と怒鳴りつけるとすぐに白井の方へと駆け出して行った。
「お、おいリルカ!」
止めようと声をかけるが、リルカは返事一つせずにそのまま駆けて行った。
「クラゲ君!」
いつの間に辿り着いたのか、グラウンドの入り口からサバトが駆けてきた。車から降りた後は走ってきたのか、サバトは息が荒かった。
「さ、サバト……」
「……クラゲ君?」
何もせずに突っ立っている俺を見、サバトは訝しげな表情を見せた後、白井へしがみつくようにして白井の動きを止めているリルカへ視線を向けた。
「クラゲ君、これはどういうことなの……? どうしてリルカが一人で戦ってるの……?」
「それは……」
俺が、戦えないから。
俺が、白井と戦いたくないから。
「俺は……もう……」
戦えない。そう言いかけて、俺は口をつぐんだ。
「クラゲ君」
ゆっくりと、サバトは俺の元へ歩み寄り――――
勢いよく、俺の右頬に平手打ちをくらわせた。
「……ッ……ッ!?」
痛む右頬を押さえ、わけもわからずにサバトを見つめる。
「戦えない?」
「俺は……ッ」
俺は……何だ? その先に、俺は何を言おうとしている?
自分でも、わからなかった。
「貴方の友達が魔人で、ショックなのもわかる。殺した相手が、元々人間だなんて知って、戦う気になれないのもわかる。きちんと説明しなかった私の責任だわ……。でもね、目の前で危険に晒されてる人がいるのよ? それにその人は、貴方の大切な友達じゃないの? 貴方は戦う力を持ってる、それなのに……目の前で守れるハズの人を、これから先もそうやって見殺しにするつもりなの!?」
目の前では、白井に必死で体当たりして久美姉に近づかせまいとしているリルカがいた。久美姉は、俺の後ろでグッタリと倒れたままだった。
「月……人……助けて、月人……」
まるで悪夢にうなされているかのように、久美姉は苦悶の表情を浮かべつつ呟いた。
「俺は……俺は……ッ」
あの魔人を殺すってことは、人を――白井を殺すってことだ。俺はまた、人殺しの罪を背負わなければならないのか?
――――目の前で守れるハズの人を、これから先もそうやって見殺しにするつもりなの!?
俺が守りたいのは、どっちだ。
俺のエゴか、それとも、人々か。
――――タス……ケテ……。
脳裏を過る、あの日の白井の声。
タスケテ。助けて。
白井は、助けを求めていた?
誰に……? 俺に?
今の白井を、俺は何から助ければ良い? 白井は一体、何から助けて欲しかったんだ?
「クラゲっ! クラゲー!」
白井を必死に抑えながら、リルカが叫んでいる。
「キァァァァアアアッ!」
白井は咆哮しつつ、強引にリルカを押し切ろうとしている。やがて、白井はリルカを蹴り飛ばした。
「うっ!」
呻き声を上げ、リルカはその場へドサリと仰向けに倒れた。
「タスケ……テ」
ボソリと。魔人は――白井は呟いた。あの日と、同じ言葉を。
「やっぱり……私がっ!」
切羽詰まった表情で、サバトが白井へと駆け出そうとする。が、俺はそれを制止するように、サバトの行く手を右手で阻んだ。
「クラゲ……君?」
「わかったよ」
誰に言うでもなく呟き、そのまま一気に白井目掛けて駆け出す。そして右肩を突き出し、思い切り白井へタックルを喰らわせた。
「ッ!?」
タックルを喰らい、よろけている白井へ追い打ちをかけるように右足で前蹴りを繰り出す。蹴りが直撃し、白井はその場へ倒れた。
「リルカッ!」
「……クラゲ!」
リルカは立ち上がると、すぐに俺の傍まで駆け寄ってくる。俺は身を屈め、こちらへ来たリルカの唇へ素早くキスをする。
その瞬間、閃光。
あまりの眩しさに目を閉じ、次に目を開いた瞬間、俺の右手には剣が握られていた。
『クラゲ……お前……!』
「俺は……」
ギュッと剣を握り締め、立ち上がる白井を見据える。
「俺は戦う……。人のために……お前ら魔人のために戦うッ!」
俺のエゴなんか、どうだって良い。そんなもの、関係ないんだ。
苦しいのは俺だけじゃない。俺より白井達の方が、何倍も苦しんでる。
「俺はお前らを殺すために戦うんじゃない。お前らを……助けるために戦う」
――――タスケ……テ。
白井は被害者だ。誰も傷つけるつもりなんてなかったのに、魔人にされて、破壊衝動に耐え切れずに殺して、その罪悪感で苦しんで……。苦しいのは俺じゃない、白井だ。助けて欲しいのは、白井の方なんだ。だから、倒されることで――殺されることで、解放されようとしてるんだ。
だったら殺す罪は、俺が背負う。
「助けてやるよ。俺が」
「キアァァァァァッッ!」
「俺が背負うことで誰かを助けられるなら、罪なんていくらでも背負ってやるッ!」
立ち上がった白井は、こちらへ視線を向けると再び咆哮する。
それはきっと、泣き声だった。




