第一話 東京の片隅
『夜は一人で出歩くな。吸血鬼に襲われる』
ここではない、どこかの並行世界では、それが常識だった。
2026年、蒸し暑い夏の東京の片隅で、銀色の銃が夕暮れの赤い光を反射した。
「止まれ」
吸血鬼狩りの証である銀の十字架を首から下げた男は、一つの影の背に銃口を定めていた。
ビルの間から差し込む夕暮れの光が、銃口の先にある人影を黒く塗り潰す。
その影は緩慢な動作で振り返った。
だが、その顔は逆光に沈み、うまく窺えない。
「……何か用ですか」
真っ直ぐに銃を向けられてなお、その声には緊張の色がなかった。
「白々しい。心当たりならお前の胸の中にあるだろうが」
ハンターの男は双眸を細める。
「なあ、黄昏刻の吸血鬼」
暑苦しい夏の最中に真っ黒なコートに身を包んだ、吸血鬼と呼ばれたその男は、小さく息を吐く。
「吸血鬼は夜にしか現れない。陽の光に当たると死ぬ。ハンターならご存知でしょう」
「ああ、知ってるさ。常識だ。だが、お前の存在は以前から噂されていた。夕暮れの中に現れる、異質な吸血鬼」
構えた腕は微動だにせず、銃口は真っ直ぐに吸血鬼の左胸を狙っていた。
ハンターは続けて口を開く。
「昨日の話だ。ちょうど今頃の時間に、とある男に声を掛けた女がいた。朝起きたら、首筋に傷があったそうだ」
「…………」
「その女は病院に駆け込んでいる。傷は、吸血鬼の噛み跡で間違いなかった。あれは、お前が付けた傷だろう?」
その問いの後に、僅かな沈黙があった。
夕陽を背負い真っ黒に染められた吸血鬼の影は、やがて気怠そうに腕を組む。
「襲ったと思われるのは、少し心外ですね」
言葉とは裏腹に、傷付いた様子など微塵もない声で吸血鬼は言う。
「俺は、噛んで良いかと聞きましたよ」
「どこで」
「ベッドの上で」
淡々と紡がれる声に、ハンターの男は怪訝そうに眉根を寄せる。
再び、妙な沈黙が落ちた。
「それは、お前。違う意味に聞こえるだろうよ」
「合意である事に、変わりはありません」
「……それ、吸血鬼の中では定番のギャグだったりするのか?」
「まさか」
ほんの瞬き一つの間に。
銃口の先にある黒い影が消えた。
同時に後ろから肩に手を添えられ、耳元で低い声が響く。
「ただ、事実を言ったまでです」
「——ッ」
ハンターは即座に銃口を背後へ向ける。
だが、そこにも既に人の影は無かった。
ビルの奥へと続く暗闇に、黒いコートの裾が翻って溶けた。
「待て!」
引き金に掛かった指に力が籠る。
けれど、暗闇の中にはもう人の気配さえなかった。
日が沈み、見る間に闇が深くなっていく。
ハンターの男は舌打ちを隠しもせず、銃を握ったまま駆け出した。
やがて、その背中も同じ闇の中に溶けて消えた。
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