イスターシャ・2
他の世界から、落ちてくる。
それは決して珍しい事例ではないという。
十数年に一人いるかいないか。
その程度の確率で、彼のことを知った者は皆、
『不幸な事故だった』と表現する。
修司は日本のごく普通の家庭に生まれた、優しい両親に利発な兄とかわいらしい妹に囲まれた普通の少年だった。
彼の運命が変わったのは、八つの誕生日を迎えて四日経った日のことだ。
「またあとで、一時に公園で!」
学校の帰り道、そう約束して修司は友達と分かれた。
五月も半ば。梅雨まではまだまだ遠く穏やかな日差しと風が心地よい、そんな季節だった。
時間を守るために家に向かい駆けている時、ぐらりと地面が揺れた。
(地震かな?)
そう思って足を止め周囲を警戒しながらその場にしゃがみ込む。
ゆらーりゆーらり。
揺れは緩やかで、後に思い返せばめまいにも似ていた。
ゆーらりゆらり、ゆらーり。
(…………あれ)
やけに長く続くその揺れに何かが変だと、そう思ったときには既に手遅れだったのだろう。
――ぐにゃり。
周囲の建物が、道路が、景色が歪んで見えた。
立ち上がろうとしてできなかった。
リンという鈴の音が鳴り響く。続いて甲高い硝子が割れるような音が頭に響き渡り、そこで修司の意識は途切れたのだ。
次に気がついたときには、周囲を木々に囲まれた見知らぬ場所にひとり横たわっていた。
時候からして若葉の繁るはずの木々は紅葉し、空は低く、今にも泣き出しそうな雲が広がっていた。
焦げ付いた木からくすぶる煙に、遠くに聞こえる狼のような鳴き声。どこか甘い空気に、幼い修司は怯えて泣いた。
「ここ、どこなの」
どれほど修司はそうしていたのだろうか。
泣き疲れた修司は、鞄を抱えたままその場に座り込んでいた。移動するべきか、それとも留まるべきか。 躊躇ううちにずいぶんと日も傾いた。
変わらず獣らしき遠吠えは耳に届く。
心細さに涙がこぼれそうになった時だ。遠くから数名の話し声が聞こえた。それは次第に大きくなり、こちらに向かって近づいて来るようだった。
「…………」
嗚咽を飲み込んでぐいと手の甲で目元を拭い立ち上がると、転がる鞄を拾い上げのろのろと歩きはじめた。
周囲は修司が倒れていた場所を中心に木々がなぎ倒され、空間ができていた。倒れた幹は焦げ付いていやな臭いが立ちこめている。木っ端や幹に躓かないよう気をつけながら、修司はゆっくりと歩き始めた。
彼らとの距離は三十メートルほどだった。
「すみませーん!」
掠れた声で精一杯の叫びをあげれば、その一団は彼に気がついたかのように手を振った。遠目に見て男女あわせて四人の集団。
「ごめんなさい、ここがどこかわかりますか?」
ぱっと顔を輝かせ修司はそう叫ぶと走りはじめ、そしてすぐにその歩みを止めた。
少し困惑したような一団とその先頭に立った青年。
柔らかそうな、短く切られた栗毛。まだ若い彼は二十代になるかならないかといった頃だ。肌は日焼けしているものの色素の薄い色で、彼は長身を屈め、意志の強そうな双眸は濃青の色で、それを真っ直ぐ修司に向ける。
「ヒュアス、ラティア、セッタ、シェイアニーネ?」
ゆっくりと発音し区切られる言葉に、修司は瞠目する。
「もう一度言って、よ」
消え入りそうな声で言えば、青年は同じ言葉を繰り返し最後にただ一言、
「……フーエイニャ」
と付け加えると、困ったように眉を下げてグローブをはめた手で修司の頭を優しく撫でた。
それから、「ヒュー」と後ろの同行者たちに向けて発し、<イスターシャ>だとか<ユスタス>だとか、修司には聞き取れない言葉を交わしていく。
ほんの数分で何かを相談し終えたのか、青年は立ち上がると修司の手を取り立ち上がらせ、
「ウィディア、ラティア、シェダン、オスイェ?」
ゆっくりとし歩き始めた。
青年の同行者もすでに歩き始めていて、修司も手を引かれぬままに従ったのだった。
連れて行かれたのは外国のような町、だった。
見慣れたアスファルトではなく、雨に打たれ塗れた石畳が敷かれ。
コンクリートではなく、家々は白や灰、明るい茶色の石――あるいは煉瓦で作られているようだった。整然とした町並み、雨の最中だというに修司や青年たちを出迎えるように、かなりの人が立っていた。
青年たちもそうだったが、町の人々は日本では考えられないような髪と瞳の色をしていた。
金髪や茶髪、黒髪だけでなく、ゲームやアニメにあるような青や赤、水色がかった色まであるくらいに。
飛び交う異国の言葉に、どこか外国なのだろうかと思った修司も、なんとなくなにかが違うのだと感じていた。同行者だった赤茶の髪の男が集まった人々に何かを説明していて、栗毛の青年に手を引かれたまま、修司は一軒の宿屋に連れていかれた。
意思疎通ができるようになって初めて知ったのだが、彼らは異世界からの迷い人を保護している教会や魔法使い組合の誰かが来るまで、拠点として使用していた宿屋でに預けようとしていたらしい。そこの主人ならば、決して子供に害為すことはないだろうと、信用してのことだった。
それは決して珍しいわけではないという。
十数年に一度あるかないか、その程度の確率で異なる世界からこの<シルエスト・アーレイア>と呼ばれる地へと迷い込む者がいる。
落ちる――とこの地の人々が表現するが、それは修司が最初の一人だったわけではないのだ。
シルエスト・アーレイアの人々は、髪と瞳の色こそカラフルだったが、修司とよく似た姿をしていた。
身長は記憶する大人たちより高いし、肌も黄色がかった色ではなく全体的に白さを帯びている。
例えるならば、テレビゲームの舞台になるような世界だった。日本語でも英語でもない聞いたことのない言葉が飛び交い、露出が多かったりあるいは色使いが派手だったり、日本ではまずみかけない装飾の衣装。口にしたことのない香辛料や果物で溢れている。
ガラリとかわった生活に混乱し、戸惑うことのほうが圧倒的に多かったけれど、修司は日を追うごとにそれらを受け入れていった。生きるために本能的に行なっていたことなのだろう。
たとえ言葉も習慣も違っても、十二年も住めばなれるというものだ。最初の頃は忘れないように繰り返していた国語の教科書の朗読も、最近は行うこともなくなった。
(慣れってすごいな)
最初は帰りたくて帰りたくて仕方なかったのに、だ。




