プロローグ 仮面の旅人
風が吹いていた。
草原を渡る風は、まだ少し冷たい。
遠くに連なる山々には薄い雲がかかり、その麓には深い森が広がっている。
街道を歩く人影が一つあった。
黒い外套を羽織り、腰には一本の剣。顔には古びた鉄の仮面をつけている。
肩まで伸びた銀色の髪が、外套の襟元から風に揺れていた。
旅人は足を止め、街道の先を見つめた。
「……こっちで、合ってるよな?」
仮面の奥から、頼りない声が漏れた。
返事をする者はいない。
少年は懐から一枚の紙を取り出した。何度も折りたたまれた地図は、すでに端が擦り切れている。
目的地までの道筋には、ところどころに見覚えのない印が書き足されていた。
しばらく地図と景色を見比べたあと、少年は小さく息を吐いた。
「……たぶん、こっちだ」
自信のない言葉とは裏腹に、彼は再び歩き始めた。
目指すのは、西方の国チャイム。
魔物が多く、人間だけでなく、さまざまな種族が暮らす多民族国家だという。
そこなら、自分の探している人物について何か知っている者がいるかもしれない。
もっとも、手がかりと呼べるものは、ほとんどなかった。
魔法を教えてくれる人物は、少し変わった老人らしいこと。
そして、相当な魔法の腕前だということ。
今のところ、分かっているのはそれだけだった。
「魔法か……」
少年は、腰の剣にそっと触れた。
剣を振るうことなら、それなりに自信がある。けれど、魔法については違った。
火を生み出すことも、雷を落とすこともできない。
傷を負ったときに、ほんの少し痛みを和らげる程度のことならできるが、それも人に自慢できるようなものではなかった。
だからこそ、魔法を学びたかった。
剣だけでは届かない場所がある。
今より強くなれば、助けられる人も増えるかもしれない。
そんな思いを胸に、少年は故郷を離れた。
その選択が、どこへつながっていくのかも知らずに。
*
昼を過ぎたころ、街道の向こうから悲鳴が聞こえた。
「誰か! 助けてくれ!」
少年は顔を上げた。
道の先に、小さな荷馬車が見える。
猪に似た魔物が、鋭く伸びた牙を向け、前脚で地面を掻きながら、荷馬車に向かって唸っている。
馬は怯えて暴れ、御者らしき男が必死に手綱を握っていた。
男の足元には、荷台から落ちた木箱が散乱している。
「くそっ、こんなところで……!」
男が棒を振り回すが、魔物はひるまない。
牙を突き立てようと、男に向かって突進する。
「危ない!」
叫んだのは、少年だった。
気づけば、彼は走り出していた。
腰の剣を抜き、街道を駆け抜ける。
魔物の牙が男に届く、その直前。
少年の剣が横から割り込んだ。
金属音が響く。
突進してきた魔物の頭が弾かれ、巨体が地面を滑った。
「なっ……!」
男が目を見開く。
少年は剣を構え直した。
魔物がゆっくりと立ち上がる。
喉の奥から、低い唸り声が漏れた。
正直なところ、怖くないわけではなかった。
相手は人間ではない。話し合いが通じるとも思えない。
けれど、背後には助けを求める人がいる。
少年は一度だけ深呼吸をした。
そして、仮面の奥で表情を引き締めた。
「……来い!」
魔物が飛びかかる。
少年は一歩、前へ出た。
牙を突き上げるより早く、剣が閃く。
硬い皮膚を切り裂き、魔物の体勢がよろめいた。
少年は止まらない。
そのまま身をひねり、勢い余って通り過ぎた巨体の背後へ回り込み、剣を振り下ろした。
少年は剣先を向けた。
「まだやるか?」
言葉が通じるはずもない。
魔物は一声吠えると、最後の力を振り絞るように突進してきた。
少年は逃げなかった。
迫る牙を見据え、剣を握る手に力を込める。
そして――
一閃。
魔物の巨体が、少年の脇をすり抜けるようにして倒れた。
静寂が戻る。
少年はしばらく剣を構えたまま、周囲を警戒していた。
やがて、ほかに魔物の気配がないことを確かめると、ようやく肩の力を抜いた。
「……ふう」
剣を鞘に収める。
仮面の奥で、少年はそっと息を吐いた。
手が少し震えていた。
強がってはみたものの、やはり怖かったらしい。
「た、助かった……!」
御者の男が駆け寄ってきた。
「本当にありがとう! 君が来てくれなかったら、どうなっていたことか……」
「いえ、そんな。たまたま通りかかっただけですから」
少年は慌てて手を振った。
目の前の男が、自分の仮面をじっと見つめていたからだ。
「……その仮面、ずいぶん変わっているな」
「あ、これですか?」
少年は仮面に手を添えた。
「まあ……ちょっとした事情がありまして」
「そうか。いや、詮索するつもりはないよ」
男は笑い、助けてもらった礼を何度も口にした。
少年は恐縮しながらそれを聞き、最後には、少しだけ胸を張った。
誰かを助けられた。
そのことが、思っていた以上にうれしかった。
*
荷馬車の修理を手伝い、街道の安全を確認してから、少年は再び旅を始めた。
男からは礼として、干し肉とパンを少し分けてもらった。
これで今夜の食事には困らない。
少年は荷物を確かめ、空を見上げた。
日が傾き始めている。
今夜は街道脇で野営することになりそうだった。
「……野宿か」
思わずため息が出る。
旅に出る前は、もっと格好よく冒険できると思っていた。
知らない町を訪れ、魔物を倒し、魔法を覚え、困っている人を助ける。
そういう毎日を想像していたのだ。
けれど、現実はなかなか思いどおりにならない。
道に迷うこともある。食事に困ることもある。魔物に出会えば、命の危険だってある。
それでも。
少年は、腰の剣を見下ろした。
さっきの戦いで、剣を振るうことをためらわなかった自分がいた。
怖くても、逃げずに前へ出ることができた。
それは、ほんの少しだけ、自分を誇ってもいいことなのかもしれない。
「……よし」
少年は顔を上げた。
街道の先には、まだ見ぬ国がある。
探している魔法使いに、会えるかさえ分からない。
それでも、歩いていくしかなかった。
少年は外套を翻し、夕暮れの街道を進み始めた。
黒い外套。
古びた鉄の仮面。
腰に一本の剣。
その姿を見た者が、いつか彼を何と呼ぶようになるのか。
このときは、まだ誰も知らなかった。
*
やがて夜が訪れた。
小さな焚き火の前で、少年は硬いパンをかじっていた。
火の粉が一つ、夜空へ舞い上がる。
仮面を外した顔は、火の明かりに照らされていた。
そこにあったのは、まだあどけなさの残る少年の顔だった。
彼はパンを飲み込み、焚き火を見つめる。
「……魔法、使えるようになるかな」
誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。
答える者はいない。
少年は小さく笑い、残ったパンを布に包んだ。
明日も歩こう。
明日こそ、何か手がかりが見つかるかもしれない。
そう思いながら、彼は仮面を手に取った。
そして、再び顔につける。
火が静かに揺れた。
少年の旅は、まだ始まったばかりだ。




