見返りの丘
辺境伯領を出て、一日。
荷馬車は再び北の街道を進んでいた。
見送ってくれた人々の姿は、もうとっくに見えない。
それでも、どこか胸の奥が温かい。
「静かですね。」
荷台でシフォンが呟く。
「昨日までが騒がしすぎたんだ。」
「確かに。」
「ご主人様。」
「何だ。」
「ロザリア、ずっと遠くを見てます。」
ターケシが御者台の隣を見る。
ロザリアは、ずっと前を見つめていた。
「どうした。」
「……いえ。」
「また泣くのか?」
「泣きませんわ。」
「昨日は泣いてました。」
「うるさいです。」
シフォンがくすりと笑う。
◇
昼過ぎ。
街道は緩やかな上り坂へ差しかかっていた。
丘の上へ出る。
その時だった。
「少し、停めてくださいませ。」
「ん?」
ターケシは手綱を引く。
荷馬車が止まった。
「どうした。」
ロザリアはゆっくりと馬車から降りる。
「ここから、見えるはずなんですの。」
「何がだ。」
「ハリントン領が。」
風が吹く。
夏の風だった。
だが、その中に少しだけ北の匂いが混じっている。
ロザリアは丘の先へ歩いていく。
ターケシたちも後に続いた。
遠く。
山々の向こう。
夏霞の彼方に、小さく開けた緑の平野が見える。
「あそこです。」
「よく覚えているな。」
「父に肩車されて、見ましたもの。」
「……。」
「いつか、お前が治める土地だって。」
ターケシは何も言わなかった。
シフォンは、遠くの景色とロザリアの横顔を交互に見ている。
フィリアだけが、静かに目を細めていた。
「帰らないのか?」
ターケシが尋ねる。
「まだ、帰れません。」
ロザリアは即答した。
「そうか。」
「はい。」
少しだけ間が空く。
「でも。」
「うん?」
「いつか、帰ります。」
風が、金色の髪を揺らす。
「ハリントン家を再興して。」
「父上と。」
「姉様と。」
「胸を張って。」
「……。」
「その時は、また父上に肩車していただきますわ。」
「十八にもなってか。」
「うるさいです。」
「ご主人様。」
シフォンが首を傾げる。
「肩車って、いいものなんですか?」
「ああ。」
ターケシは遠くを見る。
「高いところから見る景色は、少しだけ世界が広く見える。」
「そうなんですね。」
「だから、子供は好きなんだ。」
「ふーん。」
シフォンは少し考え込む。
「じゃあ、今やってください!」
「嫌だ。」
「なんでですか!?」
「十六歳は重い。」
「そんなに重くありません!」
「言ってる時点でもう子供じゃない。」
「むぅ……。」
フィリアが吹き出した。
「ふふ。」
「何だ。」
「別に。」
「絶対何かあるだろ。」
「ただ、少し想像しただけ。」
「何を。」
「あなたがシフォンを肩車してるところ。」
「やめろ。」
「似合わないわね。」
「だろうよ。」
「でも、ちょっと見てみたいかも。」
「見せたくない。」
「なんでですかぁ!」
ふとロザリアを見る。
今はまだ、帰れない。
だが、いつか必ず帰る。
その決意を胸に。
ロザリアは遠い故郷を見つめていた。
「行きましょう。」
「ああ。」
荷馬車が再び動き出す。
丘の上には、夏の風だけが残った。
そして誰も知らない。
荷馬車が見えなくなるまで。
一人の少女が、何度も何度も振り返っていたことを。




