プロローグ
「ようこそ、私の故郷へ。」
フィリアが示す光景は、一言で言い表せなかった。
広大な森を抜け、峠へ差し掛かった時だった。
視界の先には、巨大な盆地が広がっていた。
その中央。
距離感がおかしくなるほどの一本の大樹が、空を支えるようにそびえ立っている。
「あれが……。」
「ヴァエルシア。」
フィリアが、懐かしそうに呟く。
「人間は、世界樹と呼ぶわ。」
「私たちにとっては――生命の揺り籠。」
ターケシは言葉を失った。
どうして、こんなものが世界に存在する。
その問いに答える者は、まだ誰もいなかった。
◇
「ロザリア。」
「たまには顔を出してみない?」
王宮公認闘技大会から数日後。
セシリアに誘われ、ロザリアは久しぶりに貴族街の茶会へ参加していた。
白いティーカップ。
花の香り。
静かな談笑。
騎士学校時代の同期たち。
懐かしい顔も多かった。
「お久しぶりです、ロザリアさん。」
「王宮公認闘技大会、拝見しました!」
「ハリントン流、本当に素晴らしかったです!」
本心から喜んでくれる者もいる。
「ありがとう。」
ロザリアは微笑んだ。
だが。
「まあ、本当にロザリアさんですの?」
「ご苦労なさったと伺っております。」
「本当に、お可哀想に。」
「ですが、こうして戻ってこられて何よりですわ。」
「……。」
「どのような経緯でお戻りになられたのかは存じませんけれど。」
「第二王子殿下は大変ご立派なお方ですものね。」
「女性にもお優しいと聞いておりますわ。」
「女性に剣術のご指導をなさるのがお好きだとか。」
「まあ、ロザリアさんならご存じですわよね。」
「くれぐれも、お気をつけになってくださいませ。」
周囲から、くすくすと小さな笑いが漏れる。
ロザリアは何も答えなかった。
こんなひそひそ話も聞こえてくる。
「騎士学校時代のロザリアさんは、とても真面目でしたのに。」
「人は変わるものなのですね。」
また別の席では。
「奴隷だったんでしょう?」
「辛かったでしょうね。」
「私なら耐えられませんわ。」
「……。」
「でも、王国最強を倒すなんて。」
「騎士学校時代には、そんなことできませんでしたものね。」
「誰に教わったんですの?」
「その……ご主人様、とお呼びする方?」
悪意はない。
少なくとも、本人たちはそう思っている。
だからこそ厄介だった。
茶会の終わり。
ロザリアは一人、中庭へ出ていた。
「ごめんなさい。」
セシリアが申し訳なさそうに頭を下げる。
「気にしないで。」
ロザリアは小さく笑った。
「こうなることは、何となく分かっていましたもの。」
「私は、もうあちら側の人間ではないのですね。」
少し寂しそうに呟く。
「違うわ。」
「あなたは、昔からあちら側の人間じゃなかった。」
「だから私は、あなたに憧れていたの。」
セシリアが話す。
風が吹く。
花びらが舞った。
「不思議ですわね。」
「え?」
「地下闘技場の方が、ずっと気楽でした。」
セシリアは目を丸くする。
「だって、殴るか殴られるかでしたもの。」
「嫌われているなら嫌われているで、分かりやすいですし。」
思わずセシリアが吹き出した。
「ふふっ。」
「やっぱり変わらないのね、ロザリア。」
「ええ。」
ロザリアは遠くを見る。
職人街。
王宮訓練場。
小さな宿。
そこには、待っている人たちがいる。
「帰る場所が、新たにできましたから。」
その言葉に、セシリアは少しだけ目を見開いた。
ロザリアは空を見上げる。
王都は優しい。
王都は残酷だ。
英雄は歓迎される。
けれど、全ての人が英雄を愛するわけではない。
そして。
ロザリア・フォン・ハリントンという名前は、思っていた以上に重い名前だった。
その日、ロザリアは初めて理解した。
王都は、居場所にはなっても。
安住の地ではないのだと。
◇
ロザリアが茶会に行っているころ。
「シフォンちゃんだ!」
王都の大通りを歩いていると、声が飛んできた。
灰色の耳。
灰色の尻尾。
王都では珍しい狼系獣人。
まして、王国最強を打ち破った少女ともなれば、嫌でも目立つ。
季節は夏の盛りだった。
フードを被れば多少は目立たなくなる。
だが。
「暑いです……。」
「被らなければいいだろう。」
「でも、目立ちます。」
「こんな日にフードを被るの奴はもっと目立ってる。」
「そんなぁ……。」
ターケシの言葉に、シフォンは尻尾をしゅんと垂らした。
「握手してください!」
「王国最強を倒したんだって!すごい!」
「お姉ちゃん、強いの!?」
気が付けば、子供たちに囲まれていた。
「え、えっと……。」
「はい!」
小さな手が差し出される。
シフォンも慌てて握り返した。
「おめでとう!」
「ありがとう、ございます……。」
「今度、僕とも戦って!」
「十年くらい早いです!」
思わず答えると、周囲から笑い声が漏れた。
「シフォンちゃん、耳触っていい!?」
「だ、だめです!」
「尻尾は!?」
「もっとだめですー!!」
顔を真っ赤にして逃げ回る。
そんな姿に、人々は笑っていた。
だが。
「……獣人のくせに。」
小さな声だった。
けれど。
シフォンには聞こえてしまった。
「……。」
足が止まる。
「王国最強を倒したからって。」
「調子に乗るなよ。」
「所詮は獣だろ。」
通りの向こう。
誰が言ったのかは分からない。
見ようと思えば見つけられる。
耳が良いから。
声のする方向も。
年齢も。
人数も。
全部分かる。
でも。
「シフォン。」
ターケシが静かに声をかけた。
「……はい。」
「行くぞ。」
「……はい。」
シフォンは、小さく頷いた。
歩き出す。
後ろからは、まだ子供たちの声が聞こえてくる。
「またね!シフォンちゃん!」
「次も勝ってねー!」
「耳、可愛かったー!」
思わず、少しだけ笑ってしまった。
「ご主人様。」
「何だ。」
「王都って、変なところですね。」
「そうだな。」
「優しい人も、嫌な人もいます。」
「ああ。」
「……村も、こんな場所だったんでしょうか。」
「あまり覚えてないんですけど…」
ターケシは答えなかった。
しばらく歩き。
シフォンがぽつりと呟く。
「でも。」
「何だ。」
「みんなが笑ってる場所だったのかな。」
夏の風が吹く。
灰色の尻尾が、小さく揺れた。
王都は優しい。
王都は残酷だ。
それでも。
七年前なら、こんな日が来るなんて思わなかった。
だから。
少しくらい嫌なことがあっても。
今だけは、この街を好きでいてもいい。
シフォンはそう思った。




