8 缶コーヒー#1
美希を待つ部屋の前で、悠哉は4本目の缶コーヒーを開けていた。
タバコに火をつけ、深く煙を吸い込む。
吸いたいわけでもないのに、気がつくとライターに手が伸びていた。
落ち着かなくては…そう思うと余計に、胸の深いところから緊張が湧き上がってきて、肺をタバコの煙と共に締め付けた。
「頑張りなさいよ…か」
美希は戻らないかもしれない。
戻ってきても一人ではないかもしれない。
由美子の言葉を悠哉は十分に受け止めていた。
おそらくその言葉通りになるだろうとも分かっていた。
それでも悠哉は待つしか無かった。
電話もつながらない。
そうするしか他に方法が無かった。
他の男に抱かれた美希。
今夜もその男に会っている美希。
悠哉の電波の届かない場所にいる美希を思うと、不安と怒りが再び込み上げてくるようだった。
首を振る。冷静にならなくては。
許す、許さない、では無い。
美希と話し合う必要があった。
自分はまだ、美希の事を想っている。
今更ながらそのことに気づかされた。
どうしてこんな事になってしまったのか。
そう考えてみるものの、答えなど既に分かっていた。
美希の態度の変化を、長い時間のなかで仕方の無いものとして放っておいた自分の責任だった。
美希はこのまま他の男のところへ行ってしまうのだろうか。
4本目のコーヒーも空になり、手にしたタバコの灰がポトリと床に落ちた。
時計を見る。
11時を廻っていた。
遠くに走る赤いテールランプの長い列も、次第に途切れ途切れに続くばかりになっていた。
あとどれくらい、こうして美希を待つのだろう。
やるせなさに、ふう…とため息をついた時、視界の隅に動く人の気配を感じた。
その方向へ目をやる。
美希だ。
瞬間的にそう感じた。
床に伸びる影を見て、覚悟はしていたものの、それが二つある事に悠哉は改めて愕然とした。
小さい方の影がとっさに隣りの影に隠れた事に気づくと、例えようの無い痛みが胸に走った。
美希は帰ってきた。
しかし他の男と。
長い時間待った美希の影を目の前にして、悠哉は言葉が見つからなかった。
何と言えばよいのか分からなかった。
沈黙が流れる。
やがて廊下に漂う緊張を破るように男の声がした。
「こんばんは」
恐らく自分よりも年上だろう。低く落ち着いた声は、フジサキと言った。
食事の帰りで送ってきたところだと。
それが本当なのか嘘なのかは分からない。
しかし、そんな事はどうでも良かった。
「誤解されたかな」などと白々しいセリフを吐きながら美希の隣りに立つフジサキは、日曜の夜、美希を抱いた男に違い無かった。
沸々と、押さえ込んでいた怒りが込み上げる。自分の身体が震えているのが分かった。
美希はそこにいる。
向こう側に。
フジサキの後ろに隠れ、自分を避けるように。
腹立たしかった。
美希と二人、ベッドの上でその時間を共有した男。
何故美希はそこにいるのか。
「美希っ!」
怒りの混じる声で美希を呼んだ。
しかし美希が答える事は無かった。
かばうように美希の腰に手を廻し、隣に立たせるフジサキの傍で、ただ子犬のように震えている。
「美希…んで…だよ」
切なかった。
名前を呼んでも、フジサキの傍で立ち尽くす美希が、ただ遠く感じられた。
「何でだよ、美希」
返事が無い。
押し潰されそうな思いが胸に込み上げる。
「そいつと…また寝るのか」
違う。言いたいのはこんな言葉じゃ無い。
二人で話し合えと言うフジサキの言葉に首を振る美希の影。
寝た男の、抱かれた男の上着を掴んで。
怒りに混じって、やるせなさと哀しみが悠哉の身体を覆っていた。
「もういい」
限界だった。
握り締めた拳が熱い。
悠哉の足は、二人のいる方へ無意識に進んだ。
次第にはっきりとする二人の姿。
しかし、美希の顔を見ることが出来なかった。
その顔がどんな表情で自分を見つめているのか、確かめるのが怖かった。
覚悟を決めたような凛とした表情の男が「殴りたいなら殴れ」と言う。
殴りたかった。思いっきり殴ってやりたかった。
いや、殴らずに済むのならそうしたかったと言えばいいのか。
そんな事をすれば、自分がもっと惨めになる事ぐらい分かっていた。
男の上着を掴む美希の腕を引き離し、自分へ引き寄せて美希の感触を確かめるだけでもよかった。
その時、後ずさる美希の足が視界に映った。
目が合う。
怯えた目で自分を見ている。
(何故だ…何故だ…、美希)
糸が切れたようだった。
次の瞬間には目の前の男を殴っていた。
よろめく男を美希の細い腕が支える。
それ以上、目の前の二人を見ている事が出来なかった。
二人に背を向け、その場を立ち去るのが精一杯だった。
部屋へ戻ると、玄関先に正幸が立っていた。
悠哉に気づき、駆け寄りながら声を上げる。
「悠哉、どうしたんだよ、さっき残業片付けて心配だから来てみればいないし。電話しても出ないし。二日酔いがひどすぎて倒れてんのかと――」
悠哉の顔を見た正幸の言葉が途切れた。
自分を心配する正幸の丸い顔を見た悠哉の緊張は、一気に解れた。
肩の力を抜くと、乾いた目から溢れ出す涙が頬を伝うのが分かった。
「悠哉…どうしたんだ、一体」
どうしようも無い虚しさに目頭を覆った。
「おい…悠哉」
「正幸…終わったよ、俺達」
「え?」
「ふ……情けねぇ」
苦笑いが漏れる。笑いたいのか泣きたいのか分からず、涙の付いた手で悠哉はライターに手を伸ばした。
タバコの箱は空だった。
「……くそ…」
「悠哉…とりあえず部屋に入ろう」
正幸に促されドアを開ける。
悠哉をソファに座らせた正幸がコンビニのビニール袋から缶コーヒーを取り出し、悠哉に差し出した。
生温い缶を受け取り右手にのせ、それを見つめる。
これで何本目だろう、今日缶コーヒーを握り締めたのは。
まだ口の中でざらつくコーヒーの残り香が不快だった。
「缶コーヒーか」
「ん…あ、違うのがよかった?」
すまなそうな顔をする正幸の表情に、悠哉はふ…と笑った。
「いや…サンキュ」
プシッと缶を開け、今日何度目になるか分からないその味を口にした。
正幸の差し出した缶コーヒーは、同じ味のはずなのに口のなかのざらつきを拭った。
こうして正幸の人のよさに癒されるのも何度目だろう。
帰ってきた部屋に一人じゃない事が悠哉の救いだった。
「何があったんだ、悠哉」
「美希に…会いに行ったんだ」
「美希ちゃんに?」
「ああ」
「…日曜の…話をする為にか?」
「ああ」
それから正幸は黙っていた。
悠哉が話し始めるのを待っていた。
「聞かないのか?」
「お前が話したくなった時に話せばいいさ」
ベッドに腰かけ悠哉を見る正幸が微笑んでいる。
その笑顔に幾分か気持ちが落ち着いた。
「男に会ったよ」
「男?…相手のか」
「ああ…二人で部屋に帰ってきた」
「部屋って……美希ちゃんのか」
静かに頷く。
「電話しても繋がらなくてな。待ってたんだよ、美希の部屋の前で」
「……」
「二人で帰ってきたんだ、その男とな」
「…それで…どうしたんだ」
「殴った」
「え?」
「…殴っちまったんだ、相手の男の事」
「…そうか」
渋い顔をして頭をかきながら、正幸が続ける。
「美希ちゃんは?」
「ん?」
「美希ちゃんはどうしたんだよ」
「…何も話さなかった」
「……」
「ずっとそいつの上着を掴んでたよ。怯えた顔で俺を見てな」
「……」
「それを見たら…何も言えねーよ」
「悠哉…」
「終わりだ」
「……」
「あっさりとな」
「……」
「4年なんて…こんなもんだったんだよ」
「……」
「美希はあいつを選んだ。それで終わりだ」
廊下で飲んだ缶コーヒーの味が再び甦り、悠哉は手にした缶をテーブルに置いた。
何かを考える風に俯いた正幸がフローリングの床に視線を落とす。
缶を握り締める両手に力が入っているようだった。
眉間に皺を寄せた顔を上げ、言葉を探すように悠哉を見つめる。
「…お前…それでいいのか」
「…いいんだよ」
「本当か」
「…ああ。もういいんだ」
「何が、もう、だよ」
「え?」
「そんなわけねーだろ」
「…なにがだよ」
「よくないからマンションに行ったんだろ」
「…二人を見る前はな」
「見たから、いいのか」
「……」
「二人の姿を見たから、終わりなのか」
「ああそうだよ」
「何だよそれ」
「あ?」
正幸の言葉に、悠哉はイラつき始めていた。もういいと言ってるじゃないか。何が言いたいんだ。
正幸を睨む。正幸もまた悠哉と同じ顔をしてこちらを見ている。
「そんなかよ」
「だから何だよ」
「それで逃げてきたのかよ」
「何だって?」
「そんなもんだったのかよ、お前の気持ちって」
「俺の気持ち?俺の気持ちがお前に分かんのかよ」
「お前の気持ちなんて俺には分かんねーよ」
「だろうな」
「美希ちゃんだって分かんねーよ、それじゃ」
返せない口を開く悠哉を正幸が睨んでいる。
「やり直せるものもやり直せねーぞ、それじゃ」
再び床に視線を落とした後、缶コーヒーを一口飲み、今度は強さを含んだ目で悠哉を見据える。
「こんな事で終わらせるな悠哉」
「…こんな事、じゃねーよ。寝たんだぞ美希は。他の男と」
「ああ。それは分かってるよ」
「何が言いたいんだよ」
「確かに寝たんだろ他の男と。でもな」
「……」
「その男を選んだとは言ってないだろ」
「…選んだも同然だろ。実際美希は追いかけてこなかったよ」
「お前は追いかけた事あんのか」
「…え」
自分に背を向ける、美希の後ろ姿が目に浮かぶ。
怒った後の寂しげな表情も、目にしていたかもしれない。
時には本当に泣いていたのかもしれない。
「悠哉」
「……」
「本気で追いかけてみろよ」
「……」
「格好悪くたっていいさ」
「……」
「追いかけて…それでも駄目なら、終わりにすればいい」
正幸の、いつもとは違うキッとした表情が悠哉を真っ直ぐに見ている。
コイツのほうが、俺よりもずっと大人なのかもしれない。悠哉はそう思った。
込み上げてきそうになるものを堪え、しばし俯いた後、悠哉は少し笑いながら正幸を見た。
「ずっと彼女のいないお前が言うな」
「それは言うなって」
いつもの丸い顔に戻った正幸が笑った。
「少し…考えてみるよ」
「少しにしとけ」
「…ああ」
しばらくすると、正幸はそのままソファで眠ってしまった。
窓の外は薄っすらと明るくなっていた。
カーテンを開くと、目の前に黄色い光を帯び始めた空が広がった。
あの夏の朝日を悠哉は思い出していた。