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7 バローロ

美希は悩んでいた。


会うべきか、断るべきか。


給湯室でコーヒーを入れ、壁に寄りかかったままそれを飲んでいた。


2日前、トオルに抱かれたベッドの上で目を覚ました朝、部屋を後にする前に互いのアドレスと番号を交換して別れた。



一度きりにしようと思っていた。


女と別れた男、男と上手くいっていない女、同情でひとつになったような関係を続けるのは、あまりにも虚しく思われた。


しかし、番号を交換した時点で“次”も…という約束に似たものは成立していた。


実際美希は、トオルからの連絡を心のどこかで待っていた。


だが、自分から連絡をすることはしたくなかった。


あの夜も、誘ったのは自分だ。


また会いたいなど自分から連絡をしてしまったら、そこから本当に何かが始まってしまいそうな気がした。


同時に何かが終わってしまう…という事も分かっていた。



『今夜会えないかな』


短い文章が美希の心を悩ませていた。


会いたくないわけなど無かった。


むしろもう一度、トオルの穏やかな優しさに触れたい、と思っていた。


そして女を抱きしめる力加減の分かっているあの腕にもう一度包まれたい、と思っていた。


カップをトレイに戻し、再び壁に寄りかかった美希は、迷っていたトオルへの返信ボタンを押していた。



定時になり、更衣室でベージュの口紅を引きなおした美希に由美子が声をかけた。


「美希、どこか行くの?」


「うん」


「…ホテルの人?」


「…そう」


何となく由美子の目を見れなかった。


何か悪いことをしている…そんな子供のような後ろめたい気持ちが美希の心を占めていた。


「美希、悠哉とはちゃんと話したの?」


「…ううん、まだ」


「大丈夫なの?このままその人と続けるの?」


「話し合おうとは…思ってるわ」


「ならちゃんと…」


言いかけた由美子が口をつぐんだ。


その表情がどこか切なげに歪んでいる。


「由美子」


「ん?」


「悠哉は、たぶんあたしが他の男と寝た事、知ってると思うわ」


「え?」


「月曜日、正幸くんと会ったのよ。外に出た時、偶然」


「正幸って……悠哉と同僚の?」


「そう」


「で?」


「あたしが彼とホテルにいた時、正幸くんもそこにいたみたいだわ」


「……」


「自分の友達の彼女が他の男とホテルにいるのを見たら…話すでしょ、普通は」


「…そうね」


「でもね…その日、悠哉からは何の連絡も無かったわ」


「……」


「悠哉が、あたしの事どう思ってるのか分からない」


「美希…」


「どうすればいいのかも…よく分からないの」


「……」


「じゃ、あたし約束の時間があるから行くわ。またね、由美子」


「うん…また明日ね」


背中に由美子の視線を感じながら更衣室を出た美希は、トオルとの待ち合わせの場所へ向った。


逃げるように後にした更衣室のロッカーに、携帯を残してきてしまった事に気付いていなかった。



会社を出た美希は、途中ホテルの化粧室に立ち寄り、もう一度口紅を引きなおした。


チークも入れなおした。


どこかそわそわとした気持ちだった。


約束の時間は7時半だった。


少し直していくつもりでいたのだが、トオルに会うと思うと力が入りすぎてしまった。


化粧直しをしているうちにその時間の10分前になってしまっていた。


慌ててバッグを広げ、携帯を探す。トオルに遅れる連絡を入れる為だ。


「あれ…」


バッグを隅々まで探したが、携帯は見あたらなかった。


「嘘でしょ、最悪」


きっと更衣室に置き忘れてきたのだ。


取りに戻る時間はもちろん無かった。


慌ててホテルを後にし、約束の場所へ向った。



待ち合わせ場所に着く頃には、時計は8時を指していた。


歩道の向こうにトオルが立っているのが見えた。


腕時計を見つめている。


片方の手には、缶コーヒーが握られている。


ダークグレイのスーツの下に青みがかったシャツを合わせ、ブルーグレイのネクタイを締めてそこに立つトオルの背筋は腕時計を気にしながらも、すっと伸びている。


日中の暑さがまだ残ったアスファルトから、もやっとした熱が放たれているにも拘らず、街灯の脇に立つトオルの周りには涼しげな空気が漂っているように見えた。


「ごめんさない。待ったでしょ?遅れそうだったから連絡しようと思ったんだけど、会社に携帯を忘れてきちゃったみたいで…ホント、ごめんさない」


ここまでの道を殆んど駆けてきた美希の息は上がっていた。


そんな美希を見るトオルの目には、子猫を見るときのような優しさが含まれていた。


「走ってきたの?急がなくてもよかったのに。俺も今来たとこだから」


「ホントに?」


「ああ。じゃ、行こうか」


「うん」


歩き始めると、トオルは歩道沿いのポストと並んで立つゴミ箱に、手にしていた缶を投げ入れた。


カランと軽い音がする。


それを空にするまでの時間は、美希の事を待っていたことになる。


トオルのさり気ない気遣いが嬉しかった。


その横顔を見つめながら、美希はトオルがポケットに入れる腕に、自分の腕を廻した。


目を細め、そんな美希を見おろすトオルの顔に大人の優しさを感じた。



交差点でタクシーを拾い、入り組んだ道に入ると、住宅地の一角にあるイタリア料理店に到着した。


一階と中二階のフロアに分けられた薄暗い店内の壁には、所々に弱く光る赤い電灯が取り付けられ、席ごとにシフォンのような薄い布で区切られた空間をぼんやりと朱色に照らし出していた。


中二階の奥の席に案内され、木製の椅子に腰かけると、一階の狭い空間が一目で見渡せた。


入口のガラス戸に設けられた小さな噴水が、ブルーの灯りに照らされ幻想的に揺れている。


「素敵なお店ね」


「気にいった?」


「うん」


「料理もなかなか美味いんだ。きっと女の子は気に入るよ」


女の子…ここへ何人の女を連れて来たのだろう。


自分もその中の一人だ。


トオルはどうしてまた自分を誘ったのだろう。


寂しいから?会いたいから?また寝たいと思ったから?


きっとその全部だ。


自分と同じように。


はっきりとした答えは無い。


一度寝ただけという曖昧な関係が、お互いを結びつけるに調度よい材料になっているだけかもしれない。


メニューに目を落とし、ぼんやりとする美希にトオルが話しかける。


「食べたいものある?」


「え…ああ、うん、迷っちゃうな」


「それじゃ俺が選んでもいい?」


「うん、お願い」


「了解」


店員を呼び、順序よく注文をするトオルを眺め、美希は素敵だと思った。


リードしてもらえる心地のよさがあった。



しばらくすると、グラスワインが運ばれてきた。


ガーネットのような色が、店の赤い灯に照らされ、一層その深みを増す。


グラスを手にし、互いに軽く淵を合わせた後、赤く揺れる液体を口に含む。


甘草のような、アプリコットのような香りが鼻に絡みつく。


口の中で転がすと、しっとりとした粘着感が舌を包んだ。


「ワイン、大丈夫?」


「うん。少しなら」


「バランスのとれたバローロだから飲みにくくは無いと思うよ」


「バローロ?」


「イタリアワイン。美希ちゃんにはちょっと辛口だったかもしれないな…平気?」


「うん。このワイン、美味しい」


「良かった」


安心して微笑むトオルの顔を見つめると、直ぐに酔ってしまいそうだった。


運ばれてくる料理を口にする間、美希は何度もトオルの仕草に目を移した。


パスタを絡む手首、両手でサラダを取り分ける腕、フォークを運ぶ直前の口の開き加減。


ネクタイを外し、やや開いた襟元に見える綺麗な鎖骨。


目が合うたびに柔らかく持ち上がる口角。


その一つ一つの仕草が、ワインの酔いも手伝って美希の心をぎゅっと締め付けた。



海老とドライマグロが添えられたサラダに、サマートリュフが散りばめられたヴィシソワーズ、フレッシュトマトとバジルのパスタ、ムール貝とアサリのマリネ、ドルチェに至るまで程よい量とトオルのペースで、空腹が満たされた。


隙間を埋めるように胃に流れていくガーネット色のワインが、その満足を一層濃いものにしていた。



食事を終え、送られるタクシーに乗っている間、美希はトオルの肩に頭を預けていた。


右手を握るトオルの手のひらが温かい。


前を走る車の赤いテールランプに、バローロの香りを思い浮かべていた。






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