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6 ダージリン

目覚ましがなる。


午前6時半、いつもの時間だ。


腕を伸ばし、枕もとのグリーンの時計を叩く。


弾みで床に落ちる目覚まし時計。


その衝撃で再び鳴り出したベルの音がフローリングの床に鳴り響く。


「ちくしょ…」


身体を起こし、床の目覚ましを拾おうと腕を伸ばす。


ズキリ…と頭の奥に鈍い痛みが走る。


「……って…」


こめかみに手を当てる。


ひどい頭痛だ。完全に二日酔いだった。


重い身体をなんとか持ち上げ、キッチンまで足を運ぶ。


冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、そのまま口を付けて喉の奥へ一気に流し込む。


火照った身体に染み込む水の感触が気持ちいい。


洗面台まで行き、顔を洗う。ついでに頭もそのまま水で冷やす。


顔を上げ、鏡に映る自分を見る。


「ひでぇ顔…」


顔はむくみ、目の下に隈が出来ていた。


ふっ…とその顔に笑った時、急な吐き気に襲われた。


慌ててトイレへ駆け込む。


喉を焼く酒の匂いが、腹の底から流れ出た。


そのままベッドへ戻り、腰を掛けて着替え始めたものの、ひどい頭痛と、まだ襲ってくる吐き気とに邪魔をされ動きがままならない。


久しぶりの二日酔いだった。


昔はこんなことがよくあったものだが、酒の回数が増えるにつれ、自分のペースを掴んでからは、次の日のことを考えれば旨くセーブできるようになっていた。


にもかかわらず、この有様だ。


正幸からの美希の浮気の告白に、昨夜は完全にそのペースを忘れていた。


テーブルの上と床に転がる空の缶ビール。


「1、2、3…5本も飲んだのか…馬鹿だな俺も」


苦笑しながらその缶を眺める。


身体が言う事を聞かず、拾い上げる気にもならない。


バーから戻ってからも悠哉の怒りは治まらず、冷蔵庫にあった缶ビールを取り出し、続けざまに飲み干した。


その後の記憶が無い。


きちんとベッドに寝ていたのが不思議なくらいだった。



ゆっくりと肩を持ち上げ、それに沿うように首を回す。


鈍い痛みが相変わらず襲ってくる。


同時に昨夜の記憶も甦ってくる。


美希が他の男と会った。まあ、それはいい。


酒を飲むくらいなら、自分だって何度もやってきた。


時には酔いに負けて、隣に座る女の匂いに我慢できなくなりそうな夜もあった。


女の膝の上に手を置き、そのまま薄いスカートの中に腕を差し込んでしまいたくなる衝動を抑えていた。


セーブしてきたのだ。男としての本能を。


美希という恋人がいる限り、それは裏切り以外の何物でも無いと思っていたからだ。


だけど美希は…その男の本能を受け容れたのか。


自分が我慢してきたものを、美希は他の男のそれをあっさりと許したというのか。


いや、美希からの誘いだったとしたら、どうだ。


そんな女を許していいのか。


頭に血が昇り始め、再び吐き気に襲われる。


喉元まで込み上げてくる酸味をぐっとこらえ、固く目を閉じる。


言い表せない苦痛と疲労が悠哉を襲っていた。



何とか着替えを済ませ立ち上がってみるものの、鉛を詰められたような頭の重さとその痛みに耐えれなかった。


「これじゃ、仕事になんねーな」


枕元に投げ出してあった携帯を取り上げ、「熱が出たので」という理由で会社へ休みの連絡を入れた。


幸い、今日の仕事は比較的空いている。


明日追い込めば何とかなる作業だ。


「情けねーな」


ベッドへ身体を投げ出すと、カーテンの隙間から漏れる黄色の強い陽射しが今日も暑い一日になる事を告げていた。


リリリリ…リリリリ…リリリリ…


携帯が鳴った。正幸からだ。


「もしもし」


「悠哉、大丈夫か?」


心配する正幸の声が耳に届く。相変わらず律儀なヤツだ。


「ああ、大丈夫だよ」


「熱だって?」


「いや、二日酔い」


「ふつっ…二日酔い、そうか」


周りに誰かいるのだろうか。急に小声になる正幸に可笑しさが込み上げた。


「帰ってきてからまた飲んぢまってさ」


「そうか。ま、ゆっくり休めよ。こっちは心配するな」


「ああ、サンキュ」


電話を切り、寝転がったままゆっくりと伸びをする。


連絡を入れた安心感からか、眠気に襲われた悠哉は、そのまま目を閉じた。



「あちぃ…」


部屋の暑さに再び目を覚ました時には、時計は昼を廻っていた。


ブルーのカーテンを開くと、向こうのマンションの屋上から顔を覗かせる太陽が、鋭い光を部屋一面に投げ入れた。


目を細め、ガラッと窓を開ける。


瞬間、すうっという涼しい風が流れ込んだが、それは直ぐに生温い空気となり、悠哉の顔を撫でた。


頬をさする。頭の痛みは消えていた。


テーブルと床に転がったビールの空き缶を拾い上げ、ビニール袋に押し込み、ゴミ箱へ捨てる。


ギュルルルル…と腹が鳴った。


「二日酔いでも腹は減るのか」


苦笑しながら冷蔵庫を開ける。


入っているのはミネラルウォーターと調味料、いつのだか分からない貰い物のジャムだけだった。男の一人暮らしなど、こんなものだ。


「ま、せっかくの休みだし」


そう呟くと、悠哉は携帯をポケットに押し込み、カバンから財布とタバコを取り出すと、窓を閉め、ギラギラと光る外へ出た。



平日の街並みは、うだるような暑さは別として、その景色は比較的穏やかだった。


休日に溢れるような若い男女もいなければ、店先で騒ぐ子供をなだめる家族連れもいない。


すれ違うのは暑さに顔を歪めたサラリーマンと、積荷を運ぶ集配業者くらいだ。


少し歩くと、美希と同じくらいの年齢のOL達とすれ違った。


昼休みを終え、オフィスへ戻る時間なのだろう。


おしゃべりをしながらアスファルトにヒールを打ち付けて悠哉の脇を通り過ぎる。


昼休み、美希もこうして外へ出て食事をするんだろうか。由美子と一緒に。


それとも屋上で、持参した弁当をひろげているのだろうか。


会社にいるときの美希のことを何も知らない自分がいる。


美希は話していたのかもしれない。


しかしそれを聞こうともしていなかった。



携帯を取り出し、美希の番号を表示させる。


1時前だし、まだ電話に出れる時間だろう。


ボタンに指をかける。


しかし、押す勇気が出なかった。


昨日の正幸の言葉と、美希が男と消えていったであろう部屋の中のことを考えると、どうしてもその勇気が沸いてこなかった。


恋人に電話するのに躊躇う男がどこにいるのか。


その男に自分がなっていることに、悠哉は改めて愕然とした。



自分は、美希のことなら何でも知っているはずだった。


しかし気づいてみると、本当は何も分かっちゃいない自分がここにいた。


慣れと自信から、美希のことを分かってやろうとする気持ちを無くしていたのではないだろうか。


休みになれば適当に会い、適当に相手をし、適当に抱いて…自分ではそんなつもりはなかったが、美希と会っている時間、いつのまにかそれが当たり前のことになり、流れ作業のようにこなしてきただけだったのはないか。


美希はそれに苛立っていたのではないか。


待ち合わせの時の美希の顔……覚えていない。


食事中の会話……覚えていない。


抱いた後のその表情を……覚えていない。


俺は美希のことを…自分の彼女としてそこにいる、当たり前の存在としてしか見ていなかったのではないか。


あれほど好きだと思っていた美希のことを、空気のような存在として。



ファーストフード店から出てくる若いカップル。


夏の暑さなど二人の間では感じないかのように腕を組み、軽やかに傍を通り過ぎる。


彼女のこぼれるような笑顔。


その足取りに合わせ、ひらひらと踊るスカートの裾。


愛おし気に彼女を見おろす男の視線。


自分たちも、昔はああだったはずだ。


美希の笑顔が常に自分に向けられていた。


その笑顔を見ている時が幸せだった。


美希の右腕が絡まり、軽やかにスカートが揺れ、その隣りで俺はその美希をとても愛おしく感じていた。



美希を責められない。


そう思った。


ふと、マスターの顔が浮かんだ。


「いつか後悔する」


その通りになった。


ビルの横を通り抜け、石畳の坂を上り、悠哉は『M.B.』へ向った。



古びた木のドアを引くと、薄暗い店内のカウンターにこちらへ視線を投げかけるマスターが立っていた。


「いらっしゃい」


「ども」


マスターは扉を開く度、いつも同じ顔をしてこちらに目を向ける。


客の顔を確かめるように目を細めて。



木の床を数歩進み、マスターの前に腰を降ろす。


悠哉の他に店内に客はいなかった。


マスターのカップを拭くテンポの良い音と、相変わらずゆったりと流れるジャズだけが小さな店に静かに響く。


「珍しいな、平日に」


「二日酔いでさ、休んだんだよ会社」


「なんだそれ」


「ちょっと寝たら治ったんだけど、腹減っちゃって」


「何か食うか?」


「うん」


「ちょっと待ってろ」


拭いていたカップを棚に収め、マスターがバックのキッチンへ消える。


タバコに火をつける。カウンターの隅に置かれた陶器で出来た小さな猫の置き物に目をやる。


美希のお気に入りの猫だ。


黒い身体の首に赤いリボンを巻きつけ、しっぽの先だけが白く色付けられている。


ここに来る度、手のひらサイズのそれを手にしては、よく「にゃー」なんて言って遊んでいた。


しばらくその姿も見ていなかった。


代わりに、ソーサーに添えられたスプーンを手持ち無沙汰にカチャリといじっている姿ばかりを見ていた気がする。


今更ながら、そんな美希の変化に気づく。



タバコの灰が長く伸びていた。慌てて灰皿に落とし、一口だけ吸うとそれを揉み消した。


カウンターに戻ってきたマスターが、ベーコンとレタス、そしてオリーブの挟まれたサンドイッチをのせた皿を悠哉の前に差し出した。


「こんなもんしかないぞ」


「お、うまそ。いただきます」


そういうと、悠哉は二つを一口にほお張った。パンに唾液が吸い取られ、ゴホッとむせる。


「落ち着いて食えって」


苦笑するマスターが差し出した水を、一気に飲み干した。



5分と経たないうちに平らげた皿の上にパセリが転がっている。


「ごちそうさま」


それを見ながらタバコに火をつけ、深く煙を吸い込む。


「よっぽど腹が減ってたんだな」


「飲んだけど、昨日の昼から何も食って無かったよ、そういえば」


満たされた胃をさすり、ため息が漏れる。


「どうした。二日酔いになるまで飲むなんて」


「ん、ちょっとね」


曖昧な返事を返すとマスターが小さく笑った。


「美希と喧嘩でもしたか」


「そんなとこかな」


「だろうな」


皿をさげるマスターの手元を見つめ、深く息を吐く。


その息に灰皿の灰がテーブルの上に薄く飛び散った。


指で灰をなぞりながら、昨日の正幸の言葉を再び思い返していた。


頭の奥がぎゅっと熱くなる。



「いつもの喧嘩って感じではないみたいだな」


その様子を見つめるマスターが口を開く。


悠哉がなぞったテーブルの上を布巾で拭き、それを裏返すと、棚からカップとソーサーを取り出した。


「まあ、詳しく聞くつもりはないがな」


ティーポットにリーフを入れ、沸騰したお湯を注ぐマスターの手元から、鼻腔というよりは鼻先をくすぐる柔らかい茶葉の香りが広がる。


いつもの『M.B.』の香ばしい香りとは違う、穏やかな香りがカウンターを包みこむ。


「これでも飲んでけ」


「紅茶?珍しいな、マスターが紅茶を入れるなんて。っていうか、初めて見たよ」


「たまにはいいだろ」


軽く微笑み、ティーポットの中のリーフが開くのをしばし見守ってから、浅めのカップにゆっくりと傾ける。


湯気とともに深い飴色の液体が流れ込む。


マスカットのような爽やかな香りが、悠哉の背筋をシャンとさせた。


「ダージリンだ。すっきりしたい時にはこれが一番いい」


差し出されたダージリンのカップを持ち上げ、口をつける。


渋みと爽やかな香りが広がり、目に届く湯気の刺激が頭を軽くするような感じだった。


「…マスター」


「ん?」


「浮気されたこと、ある?」


「なんだ、急に」


深刻そうな悠哉の顔にマスターはその意味を理解した。


「美希か」


「…ああ」


「それで二日酔いか」


「情けないけどさ。マスターの言う通りになったよ」


ふ…と笑い、マスターを見る。マスターの顔にも苦笑が浮かんでいた。


「美希が…浮気なんてするとは思わなかったよ」


「……」


「そんなヤツだとはさ」


「……」


「でも…その原因はたぶん俺にあるんだよな」


「……」


「電話して確かめようと思ったんだけどさ、それもできねーの、俺」


「……」


「どうしたらいいのか分かんねーよ」


「悠哉」


さっきから無言だったマスターが口を開いた。


「女が浮気するのには訳がある」


「……」


「浮気が本気に変わる確率が高いのも、男より女のほうだ」


「…そうだな」


「美希の浮気の原因は自分にあるって思ったんだろ?」


「…ああ」


「それで十分じゃないか」


「…え?」


「それに気づかない男だって沢山いる」


「……」


「そうして終わるカップルなんて五万といる」


「……」


「女の浮気は、殆どが寂しさを紛らわすためのものだ。恋人といても充たされない何かを埋めるためにな。相手のふとした優しさに惹かれちまう」


「……」


「少しでも充たされれば、またその優しさを求めたくなる。そこに居心地の良さを感じてしまう」


「……」


「どうすればいいのかなんて、分かるだろ」


「…ああ」


「時間は、経ってないんだろ」


「一昨日のことだ」


「まだ美希のことが好きだと思うんなら…早いほうがいいんじゃないのか」


「…そうだよな」


頷きながら手にするダージリンが冷めかかっていた。


シャンとさせる、あの香りをもう一度吸い込みたかった。


「新しいの入れてやる。もう一杯飲んでいけ」


「…サンキュ、マスター」


悠哉は、タバコに伸ばしかけた手を下げ、茶葉を入れ替えるマスターの後ろ姿を見つめながら、椅子に寄りかかって心持ち背筋を伸ばした。


カウンターの隅の黒猫だけが、そんな悠哉を見つめていた。



夕方、一度部屋へ戻り、冷水のシャワーを浴びて頭を冷やした。


外の暑さに焼かれた身体に、水の感触が心地よかった。


正幸に電話を入れ、仕事が滞っていないか確かめる。「大丈夫だ、それよりゆっくり休め」と言う正幸の気遣いに癒された。


ソファに腰を降ろし、しばらく読みかけの本を読んで時間が過ぎるのを待った。


時計を見る。6時を少し廻っていた。


「そろそろ大丈夫かな…」


美希の仕事が終わるのは5時半だったはずだ。


携帯を手にし、美希の番号を出す。やや躊躇ったが、ボタンを押した。


受話器の向こうで呼び出し音が続く。


20回以上鳴らしたが、美希が電話に出ることは無かった。


3、4回繰り返したが、どれも虚しく同じ音が続くばかりだった。


「…なんだよ」


軽く舌打ちをして携帯を見つめる。


無視しているのか、それとも電話に出られないような状況にあるのか。


胸騒ぎがした。


ソファに腰かけたまま、悠哉はしばらく床を見つめていた。


やがて決心したように立ち上がり、美希のマンションへ向かった。



群青の空に月が出ている。


美希のマンションへ着いてからおよそ3時間、悠哉は美希の部屋のドアに寄りかかり、その帰りを待っていた。


着いて直ぐに呼び鈴を鳴らしたが、美希が出てくることは無かった。


そのうち帰ってくるだろうとそのままこうして待っていたのだが、10時になっても帰ってこない。


時計の針が動く度、悠哉の不安もまた膨れ上がっていた。


帰ってしまおうかと迷った。しかしそう出来ない自分がいた。


待たなければいけない。そんな義務感にも似た感情があった。


絶え間なく襲ってくる不安に何度も首を振り、その考えを振り落とそうとした。


その間にも美希の携帯へ何度か電話をかけた。しかし美希は出なかった。


その度にため息をつき、沸いてくる怒りを静めるのに苦労した。



迷いながら由美子の番号を表示させる。


少しの期待をそこに込め、親指で静かにボタンを押した。


「もしもし?悠哉?」


由美子の高い声が聞こえた。掛かってきた相手に少し驚いているような声だった。


「おす」


「どうしたの?あたしに電話かけてくるなんて珍しいわね」


「あのさ」


「ん?何?」


「美希、今一緒か?」


「…え?」


由美子の声のトーンがやや下がるのが分かった。


「その様子だと、一緒じゃないみたいだな」


期待に裏切られた悠哉の声も下がる。胸の中でチクリとする痛みを感じながら、悠哉は続けた。


「電話に出ねーんだよ」


「…どうしたのかしらね」


「どこにいるか、お前知らねーか?」


「さあ…分からないわ」


「…本当は知ってるんだろ、由美子」


沸々と沸き起こる怒りを押し殺し、できるだけ感情を表さないように話したつもりではあったが、僅かに声が震えているのが自分でも分かった。


「…悠哉」


「なんだよ」


「あんただって、本当は分かってるんじゃないの?」


由美子の言葉に、一気に突き落とされるのを感じた。


「正幸くんに聞いたんでしょ」


「…ああ」


「どうしてその日に、美希に確かめなかったの」


「確かめられるか、そんな事」


「好きなら…美希の事が心配なら、普通そうするんじゃないの?」


「俺は浮気されたんだぞ、そんな情けない事出来るかよ」


「馬鹿ね」


「はあ?」


「悠哉、あんた馬鹿よ」


「何がだよ」


「正幸くんが、ホテルで美希を見て、それを美希に確かめて。それがどういう事だか分かってる?」


「……」


「美希だって、悠哉がホテルにいた自分の事を正幸くんから教えられてるって気づいてるわ」


「……」


「でも、悠哉からは何の連絡もなかったって」


「……」


「どうしたらいいのか分からない…って言ってたわ」


「……」


「悠哉、あんた今どこにいるの?」


「…美希の部屋の前だよ」


「……そう…なら、ちゃんと話し合おうと思ってそこに行ったってわけね」


「…ああ」


「美希が帰ってくるのを待ってるのね」


「ああ」


「いつまで待つつもり?」


「帰ってくるまで待つつもりだ」


「…そう」


しばらく沈黙が続いた。はあ…と言う由美子のため息が聞こえる。


「悠哉」


「ん?」


「馬鹿なんて言って悪かったわ」


「…別にいいよ。本当の事だ」


ふ…と笑った後、由美子が鼻を啜るのが分かった。


「悠哉、あたしね、あんたと美希には、ずっと上手くやっていって欲しいって思ってる。結婚して幸せになってもらいたいってね。でも最近の美希を見ていると、そんな事も言えなくなっていたわ。自分の気持ちもあんたの気持ちも見失ってるような美希の姿を見てるとね」


「ああ。分かってる」


「ちゃんと美希の事、見てあげて。昔のあんたみたいに」


「ああ」


「…今夜、帰らないかもしれないわよ」


「…そうだな」


「帰ってきたとしても…一人じゃないかもしれないわよ」


「…ああ」


「大丈夫なの?」


「…正直…分からない」


「……」


「でも待つしかねーんだよ」


「悠哉…」


「後は…その時次第だな。自分でもどうなるか分からない。でも」


「……」


「待つよ、美希の事」


「うん」


「美希が相手の事…本気だとしても」


「…うん」


「悪かったな、急に」


「ううん、悠哉…頑張りなさいよ」


鼻声のままの由美子が明るく声を上げる。


見えない相手に苦笑し、その言葉に頷いた。


時計は11時になろうとしていた。


足元のコンクリートから、冷まされた夏の空気がサンダルの素足に絡みついていた。






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