5 キャンディ
「美希、ちょっといい?」
オフィスのコピー室でプレゼン用の資料をコピーしていた美希に、ファイルの束を小脇に抱えた由美子が声をかけた。
「あ、コピー?」
「ううん、そうじゃなくて。ちょっと」
パタン…とドアを閉め、ツカツカと美希の傍まで歩いてきた由美子が、そっと美希に耳打ちをする。
ブルガリのオードトワレの香りがいつもより強い。
「美希、あんた今朝、朝帰り…っていうか、どこからかそのまま来たでしょ?」
「え?」
鋭い由美子の指摘にドキッとした。頬が赤くなるのが分かる。
「隠したって駄目よ。どう見たっていつもの美希の通勤スタイルじゃなかったわ」
「…分かる?」
「分かるわよ。顔もなんだかむくんでるし」
由美子は、こういうところはかなり敏感で鋭い。自称恋愛ジャンキーというだけあって、美希の朝帰りもお見通しだったわけだ。
「悠哉…じゃないわね。誰と一緒だったの?」
「え?」
「他の男の香りがするわ」
くんくんと美希の髪に顔を近づけ、匂いを嗅ぐ。綺麗にカールされた由美子の髪が美希の頬を撫でた。
「ちょっと由美子、止めてよ」
「で?誰と一緒だったの?」
「バーで…いつものホテルのバーで知り合った人と…」
「その日のうちに…ってこと?」
「…うん」
「へー…美希も意外とやるのね」
「そんなんじゃないわ」
「もちろん…悠哉は、知らないわよね、このこと」
「うん…」
「どうするの?」
「え?」
「浮気でしょ。それとも本気?その人と、また会うの?」
「それは…」
「良かった?」
「え?」
「その人とのエッチ」
「ちょっと由美子」
「久しぶりに女になれた気がしたんじゃない?」
確かに…そうだった。
部屋に入ってからもトオルは終始優しかった。
シャワーから上がってきた美希をそっと抱きしめ、ベッドへ運ぶ。
やや躊躇う美希の髪を撫で、「ホントにいいの?」と耳元でそっと囁いた。このまま眠ってもいいんだよ…とも。
美希はそのままトオルの首に両腕を廻した。
抑えきれない感情と、どこからかやってくる寂しさみたいなものを紛らわそうと、きつく抱きついた。
トオルはそんな美希を優しく受け容れた。
部屋に流れるシーツの擦れる音と二人の吐息だけが美希の寂しさを紛らわせていた。
終わってからもトオルは、美希を抱き寄せ、腕枕をし、美希が眠りにつくまで髪を撫でてくれていた。
久しぶりに味わう男の優しさだった。
「美希…とやかくは言わないわ。でもやっぱり…」
由美子が一瞬口をつぐむ。
「悠哉とは、ちゃんと決着をつけるべきね」
悠哉…のことは、正直、会社に着いても忘れていた。
朝から頭に浮かんだのは、ずっとトオルの顔だった。
そして昨夜の優しく力強い腕の感触だけだった。
「…そうね。そうするべきなのよね」
自分に言い聞かせるように、美希はポツリと呟いた。
沈黙が続く部屋には、コピー機が紙を吐き出す音だけが鳴り響いていた。
その日の午後、美希は営業部のお使いで、クライアント先へ資料を届けに外に出た。
真夏の陽光が直接頭に降り注ぎ、日傘を持たない美希はなるべく日陰を選んで歩いていた。
じんわりと額に汗が浮かぶのが分かる。
ハンカチを取り出そうと立ち止まり、バッグを開いて中を覗いている時だった。
「美希…ちゃん?」
後ろから呼ぶ男の声に振り向いた。
「はい…?」
上着を肩にかけ、ネクタイの結び目を緩めながら立つその男は、ニコニコと人の良さそうな顔で立っていた。
「やっぱり。俺、憶えてるかな、正幸。悠哉と同僚の」
「……ああ、正幸くん」
「憶えてた?」
「うん。直ぐには分からなかったけど」
正幸の笑顔につられて、美希も笑顔を返す。そのニコニコという表情はよく憶えていた。
だいぶ前のことになるが、一度悠哉と正幸、美希と由美子とで酒を飲んだことがあった。
正幸と由美子をくっつけようと悠哉と企てた飲み会だったが、結局由美子のタイプではないということで、その企みも無駄に終わってしまったのだが。
その時も正幸は、同じ笑顔で「いーの、いーの」なんて笑っていた。
「ものすごく久しぶりよね」
「そうだね。だいぶ前になるよな」
「元気?」
「うん。それなりにね。あ、そうだ、昨日はゴメン!」
「え?」
「昨日、悠哉のこと呼び出しちゃって」
「呼び出し?」
「あれ?美希ちゃんと一緒じゃなかったの?悠哉」
「一緒だったけど…」
「急に制作物の直しが入っちゃってさ、悠哉じゃないと出来ない仕事で。メールで呼び出して会社に来てもらったんだよ。いやー、助かった。悠哉が来てくれなかったら、その仕事、パーになるとこだったから」
「…そうだったの」
だからあの時…悠哉は携帯を持ったまま、ぼうっとしてたわけだ。
会社に行ってもいいか、あたしに聞くことができず。
そうならそうと早く言えばいいのに。
「それにしても暑いな。美希ちゃん、時間ある?ちょっと何か飲んでいかない?」
「え?」
ちらっと腕時計に目をやる。4時までに戻ればいいから…あと1時間と少しある。
空を見上げ、太陽の光を目に入れると、そういえば喉が渇いたかも…と正幸の提案に頷いた。
近くにある美希のお気に入りの紅茶カフェに正幸を案内した。
店内はひんやりと冷房が効いていて、額に滲んだ汗を冷気がすっと乾かした。
「ふうー。毎日暑いね。嫌になっちゃうよ。この時期の外回りはしんどくて」
「ふふ。営業マンって大変よね。お疲れ様」
「ホントに」
グレーとブルーの縞模様のハンカチで額と首筋の汗を拭った正幸は、出された水を一気に飲み干した。
「美希ちゃん、よく外に出るの?」
「ううん、今日はたまたま営業のお使いで」
「そっか。それも大変だね、こんな暑い日に」
「普段ずっと中にいるから、たまには気晴らしになっていいわ」
美希が水に手を伸ばしかけた時、アイスティーが運ばれてきた。
『キャンディ』という可愛らしい名前の紅茶だ。
深く澄んだ透明で綺麗なオレンジ色のその紅茶は、ホットよりアイスで飲むのがいい。この時期にアイスで飲むこの店のキャンディは美希のお気に入りだ。
すっと喉を降りていく気持ちのよい冷たさに美希は小さく息を吐いた。
「直しって、昨日遅くまでかかったの?」
美希と同じ紅茶を試しに注文した正幸が、ストローを勢いよく吸っている。
ゴクン…と喉を鳴らし、一息ついた後、正幸は答えた。
「うん、9時過ぎまでかかったかな」
「へえ。日曜なのに大変ね。よくあるの?そういうこと」
「仕事が仕事だからね。納品に間に合わなきゃ意味ないし、直しがあれば直ぐにでも対応しないと」
「ふーん」
「この紅茶、美味いね」
「でしょ?」
お気に入りを褒められ、美希の顔に笑顔が浮かぶ。
その様子を少し見つめていた正幸が急に深刻そうな顔になり、ぼそっと話し始めた。
「あのさ、昨日の夜」
「え?」
「ああ、俺さ、悠哉と別れた後、ホテルのバーに飲みに行ったんだよね」
「え?」
ホテルのバー…その言葉に美希は正幸が何を言おうとしているのか、直ぐに理解した。
「ホテルのバーね…」
「うん、あの35階にある」
「…そう」
「美希ちゃんさ、昨日、そのホテルにいた?」
正幸が遠慮がちに美希を見つめ、その返事を待っている。
「…正幸くん、見たのね。あたしのこと、そこで」
「やっぱり美希ちゃんか…よく分からなかったんだけど、そうかなって思ってた」
「…いたわ」
「一人で?」
「見たんでしょ?一人じゃなかったわ」
沈黙が流れる。オレンジ色の紅茶を見つめていた正幸がゆっくりと口を開く。
「悠哉と、旨くいってないのかい?」
「分からない」
「俺さ、今の二人の関係がどうなのかなんて分からないけど」
「……」
「前に4人で会った時、あの時の悠哉と美希ちゃんの楽しそうな顔、憶えてるからさ」
「……」
「それからずっと続いている悠哉と美希ちゃんのこと、羨ましいと思ってる」
「……」
「ほら、俺なんか由美子ちゃんにその場であっさり切られてさ、あはは。あれからも、ずっと彼女無しで」
キャンディを一口啜り、正幸を見る。
わざとはしゃぐように、押し黙った美希を笑わそうと頑張っているのが分かる。
「正幸くん」
カランとグラスの氷が揺れる。しっとりと水滴のついたグラスから美希の手にその振動が伝わる。
「ん?」
「あたしたち…もう駄目かもしれないわ」
「……」
「何となく、そう思うの」
「……そっか」
腕時計を見る。もうすぐ4時だ。
シロップを入れずに飲むキャンディは、名前にようには甘くない。
むしろいつもよりも苦味を感じたそのオレンジ色の紅茶は、美希の心に今朝トオルとホテルの窓から見た朝日を思わせていた。