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4 マッカラン

オフィスへ着いた悠哉が制作室のドアを開けると、Macの前で腕を組み「うーん」と唸る正幸が座っていた。


「よ。おつかれ」


「悠哉ー」


情けない声で悠哉のほうを振り向いた正幸が、ほっと安堵の顔を覗かせる。


「ほんっと悪りぃ!悠哉。助かったよ」


顔の前で手を合わせ、大げさに頭を下げる。


「仕方ないだろ、仕事だし。間に合わなかったら、これまでの苦労も水の泡になっちまう」


その姿に悠哉は苦笑しながら答えた。


「いやー参ったよ。俺じゃ全然直せないしさ、マジ、ごめん。邪魔しちゃったな。美希ちゃん、怒ってただろ?」


「いいんだって。どれ、どんな直しが入ったんだ?」


「ああ、えーと、モデルの顔とこの文字の間に…」



正幸の指示を受けながら直しをし、クライアントとの校正作業が終わった頃には、既に窓から細い月が覗いていた。


「よし!完了!」


サーバーへデータをアップし、トンッとエンターキーを弾きながら悠哉は椅子の背に寄りかかった。


「あーー間に合った!」


「良かったな」


「マジ、サンキューな」


人の良さそうな正幸の目に疲労と薄っすらと浮かぶ涙の色が見える。


「なんだ、お前、泣きそうな顔して」


「悠哉が来なかったら、マジ泣いてたと思う、俺」


あははと、薄暗くなったオフィスに二人の笑い声だけが響く。


「どれ、明日も早いし、帰るか」


「何だか安心したからさ、俺ちょっと飲んで帰ろうと思うんだけど、悠哉、どう?」


「ああー、俺はいいや。すっかり疲れちまった。帰って寝る」


Macを見つめながら、『M.B.』を飛び出していった美希の後ろ姿が浮かんだ。


頭と身体が疲労に包まれていた。


「そっか。んじゃ、本当にありがとな。また明日、おつかれ」


「おつかれ」


軽く右手を合わせた後、二人はオフィスを後にした。



翌朝、オフィスで顔を合わせた正幸は、浮かない顔をしていた。


時折何かを考えるようにじっと手にしたペンを見つめ、そうかと思えば、ブンブンと頭を振って気を取り直したように机に向って書類を作っていた。


しかし、夕方外回りから帰ってくると、更に落ち込んだ様子が窺えた。


終始、正幸の顔には似合わない眉間の皺を深く刻んだまま、黙々と仕事を続けていた。


直しも印刷も滞りなく進んだはずだ。


「どうした?」……その様子に心配をした悠哉が何度か声をかけたが、「ああ、大丈夫だ」とぼんやり答えるだけで、仕事が終わるまでずっとその様子は変わらなかった。



残業をひと通り片付け、夜8時を廻ったころ、紙コップのコーヒーを片手にMacをシャットダウンしていた時だった。


正幸が深刻な顔つきで、悠哉に声をかけてきた。


「悠哉、今晩空いてる?」


「ん?どした?」


「いや、ちょっとどっかで話していけないかなって」


「話?なんだ?」


「いや、ここだとちょっと…ゆっくりできないしさ」


まだ何人かPCに向う社員たちをチラリと見ながら、正幸は頭をポリポリとかいていた。


どこか落ち着かない…そんな様子に、悠哉も大事な話なのだろうと、頷いた。


「OK。どこに行く?」


「行きたいトコがあるんだけど、そこで」


「分かった」


いつもの正幸のにこやかな顔は、オフィスを後にしてからも、そのバーに着くまでずっと影を落としたままだった。



正幸に連れられてたどり着いたのは、ホテルの最上階のバーだった。


エレベーターが35階で止まると、正幸は真っ直ぐカウンター席へ向った。


その後に悠哉も続く。


マッカランをオーダーした後、その琥珀色の液体に目を落としながら、正幸がふう…とため息をついた。


「どうしたんだ?話ってなんだよ。深刻な顔して」


その横顔を見ながら、悠哉は正幸に問いかけた。


「ああ」


グラスを軽く揺すりながら、左手でカウンターの上のコースターを落ち着き無く裏返している。


言いたいのに言い出せない、そんな感じだった。


「何か悩みでもあるのか?」


「そんな感じかな…」


「どうしたんだよ」


「……あのさ」


「ん?」


「俺、昨日、ここに飲みに来たんだよ」


「うん」


昨日ここに飲みに来て、今日もまたここか…と悠哉は少々苦笑した。


「よく来るのか、ここ」


「ん、わりと」


「ふーん」


何が言いたいのだろう。なかなか本題を切り出さない正幸に、悠哉は戸惑っていた。


「で?どうした?」


「1階でエレベーターを待っていた時にさ、その…」


「うん?」


「エレベーターから出てくる、美希ちゃんを見たんだよ」


「美希?」


「うん」


美希が?悠哉は美希の尖った唇を思い出していた。


「それがさ、その」


「ん?」


「男と一緒だった」


「え?」


「なんだか随分酔った感じでさ、支えられながらエレベーターから降りてきたんだよ」


「なんだよ、それ」


「いや、俺もよく分からないけど」


「男…」


「美希ちゃんもそいつの腰に腕を回しててさ、その…二人でフロントへ向って行ったんだ」


「……」


美希が…男と?フロント?


話がよく飲み込めなかった。


「俺もさ、美希ちゃんとは1回しか会ったことないだろ?だから他の人と見間違えたかなと思ったんだけど…」


「そうだろ。美希が日曜の夜に飲みに行ったりなんて、普通、無いからな」


「それがさ、その」


「なんだよ」


「今日の午後さ、外回りに出た時に街で偶然美希ちゃんと会ったんだよ」


「美希と?」


「ああ。営業部のお使いとか言ってたな。あんまり暑いんで、その辺で冷たいものでも飲んでいこうって話になってさ」


「そうか。で?」


「気になったんで聞いてみたんだよ、昨日の晩のこと」


「…で、美希は何て?」


「…男と一緒だったことは、認めたよ」


本当だったのか…。美希は昨日、ここで男と会って酒を飲んでいたのか…。


でも誰と?どうして?何のために?


嫌な考えが頭に浮かんだ。


「昨日、美希ちゃん、部屋に帰ったか?」


「いや…連絡してないから分からないけど…」


しばらく沈黙が続いた。


喉の渇きを潤そうと、二人同時にグラスを手にした。


「お前に言うか言わないか迷ってたんだけど、一応言っておかないと、その、どうも…モヤモヤしてさ」


「ああ…」


グラスに目を落とす。しっとりとした液体が悠哉の顔を映し出す。表情が無い。


「悪りぃな、こんな話」


「いや、そんなことねーよ」


「ちゃんと、確かめたほうがいいぞ、悠哉」


「…ああ」


「最近、お前らうまくいってるのか?」


「…そうでも、無い。かな」


「じゃあ、尚更、話し合ったほうがいい」


「ああ…そうするよ」


二人の前でグラスを拭いていたバーテンの手の動きが心なしかゆっくりとなる。


タバコに火をつける悠哉の前に、そっとシルバーの灰皿を差し出した。


「どうぞ」


「どうも」


目が合う。悠哉がゆっくりと煙を吹きながらバーテンに尋ねる。


「あのさ、昨日、ブルーのキャミソールの女の子、ここに来た?」


「ええ、いらっしゃいました」


「よく来るの?」


「いつもはお友達とご一緒のようですが」


「昨日も?」


「昨日は…お一人でした」


「一人?」


「ええ」


「誰かと一緒じゃなかった?」


自分でも情けないくらい、目の前のバーテン相手にイラついているのが分かった。


畳み掛けるように質問を繰り返す。


「いらっしゃったのは、お一人でした」


「ここで…男と飲んでたのか?」


「お話はされていたようですが…」


「どんな感じだった?」


「さあ…私は他のお客様のこともありますので、そこまでは」


「そう」


隣りでは正幸が空になったグラスを握り締め、不安気な顔で悠哉とバーテンの顔を交互に見ている。


「美希…その女の子、一人で帰ったのか?」


「ええ…たぶん」


「見てたんだろ?一人だったのか?」


マッカランを飲み干し、少し声を張り上げる。


そんな自分が情けなかった。喉元が熱い。


「……悪い。二人で、出てったんだな…」


「…そうだったかもしれません」


タバコを灰皿にもみ消す。既にいっぱいになった灰皿には、火をつけただけで消したものも何本か捨てられていた。


バーテンが新しい灰皿をその上に重ね、奥へ片付ける。


「同じのもう一つ」


「かしこまりました」


バックバーに振り返ったバーテンの後ろ姿を、重くなったまぶたを持ち上げて眺める。


「悠哉…」


「大丈夫だ」


さほど飲んではいないのに、何故か酔いが廻っていた。


頭の奥がズキリと痛んだ。その痛みに目を閉じる。


「おまたせしました」


マッカランを先に、新しい灰皿をその隣りにコトリと添えられたカウンターの上の琥珀色が、濁った目に反射する。


カウンターの灯りにキラキラと光るグラスがうっとうしい。


男と二人でここで酒を飲み、その男に支えられて出ていったであろう美希の姿が頭に浮かぶ。



確かめる必要などなかった。


男と酒を飲み、その身体に腕を回し、フロントへ向った女がその後のことを拒む可能性がどこにあるだろう。


どちらが誘ったにしろ、二人がそうなったのは、疑いようが無かった。


美希は寝た。他の男と。


あの美希が。


自分のものであったあの美希の身体は、他の男に抱かれた。


グラスを持つ手が微かに震えていた。


ここ数年、美希を怒ることも忘れていた自分が、今こうして怒りに身体を震わせている。


琥珀色のマッカランが揺れる。そこに映る自分の顔が歪んでいる。


一気に飲み干した。


熱く喉を過ぎる液体が、胸を激しく焼き付けていた。






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