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3 セックス・オン・ザ・ビーチ

35階にたどり着いたエレベーターが音も無くゆっくりと開く。


カウンターから漏れる灯りだけがぼんやりと揺れる薄暗い空間が美希の前に広がる。


いつもなら会社帰りの由美子と一緒に来るバーだが、思いつきで足を運んだ今夜は一人だ。


テーブル席ではなく、カウンターの隅に腰を降ろす。


まだ6時前の店内は人影もまばらで、美希を入れて5、6人程度の客が静かに酒を啜っている。


テーブル席に男女のペアが二組、カウンターから死角になっている奥のテーブル席にも誰かいるような気配がする。


カウンターには、美希、そして反対側の隅に黒いシャツを着た男が座っていた。



「いらっしゃいませ」


グラスを拭くバーテンが低く鼻に掛かる声で美希を見る。


「こんばんは」


「今日はお一人ですか?」


「ええ」


「珍しいですね」


「今日は休みだし。たまたま寄っただけだから」


軽く微笑んで答える。


「いつもので宜しいでしょうか?」


「ええ。ストロベリー・ブロンドお願い」


「かしこまりました」



苦い酒は好きではない。


もともと酒はそんなに好きなほうではないのだが、酒好きの由美子に付き合ううちに、好きだと思えるカクテルの味は覚えた。


少ない量で酔えるのがいい。


口の中で甘く広がるカクテルは、その後ゆっくりと身体も溶かしてくれる。


フルーツベースなら尚のこと飲み口がいい。


シェイクされたピンク色の液体がカクテルグラスに注がれる。


その淵にストロベリーが射し込まれる瞬間をみるのが好きだ。


繊細なバーテンの指先が、女を優しく扱うようにそっとグラスに添えつける。


「おまたせしました」


差し出されたグラスを顔の前にかざし、しばらくそのピンク色を見つめた後、軽く口をつける。


じんわりと喉を通り過ぎるウォッカの温かさが身体の中に広がる。


ふう…と息を吐く。


ストロベリーの甘い息がグラスを持つ手をなぞる。



『M.B.』を飛び出した後、歩きながら何度か後ろを振り返ったりもしたが、結局、悠哉が追いかけてくることはなかった。


そんなことは分かっていた。追いかけてくるはずもない。


何度も同じシーンを繰り返している。


来週には何事もなかったかのようにまた二人で顔を合わせるだけだ。


今夜、悠哉からメールが来ることも無いだろう。


もちろん電話も。


付き合い始めた当初は、些細な喧嘩でも悠哉はひどく心配し、直ぐにメールで謝ってきた。


それどころか、メールのやり取りだけでは不安なのか、夜中だというのに美希の部屋までわざわざやってきたこともあった。


その度に美希は、怒ってもいないのに、ちょっと困らせてみたくて、渋ったような表情を見せながら「許さない」なんてからかったものだった。



いつでも自信たっぷりの、悠哉の困った顔が可愛かった。


顔の前で手を合わせ、何度も「ごめん」と言う悠哉に抱きつき、「許す」と言うその時間がとても好きだった。


安心して笑顔がこぼれる悠哉の下がる目じりが好きだった。


抱きつく相手の背の高さ、腕の太さ、胸の広さ、その全てが美希にしっくりと合っていた。


そんな時間も気持ちも、もうどこかへ置いてきてしまった。


最近ではお互いに謝ることも無い。


謝らなくても次がある。そんな空気になっていた。



「付き合ってる意味が無い…か…」


由美子の言葉がまた浮かんだ。


付き合っている意味ってなんだろう。


デートすること?自分の所有物にすること?


分からなくなっていた。


好きだから付き合う。好きだから一緒にいる。


自分と悠哉も、好きだから付き合ったはずだ。


今では好きなのかも分からない。


ただ流れで一緒にいる。


これでいいのだろうか。


身体から脳にまで染み込んできた酔いが、その思考も曖昧にさせ始めていた。


気持ちいい。このままもう少し酔っていたい。


二人のことを考えるのは後回しにして、今夜はとにかく酔っていたい。


そう思い始めていた時だった。



「あの、お一人ですか?」


男が声をかけてきた。


その声に振り向くと、美希と反対側の隅に座っていた黒いシャツの男が傍に立っていた。


「ええ」


少し重くなったまぶたを持ち上げ、相手を見る。


「ご一緒させてもらっても…ってなんだか言いにくいな。隣り座ってもいいかな?」


薄い唇の隙間から覗く白い歯をカウンターの灯りに光らせながら、相手が笑って尋ねる。


「どうぞ」


嫌味のないその笑顔につられ、美希は隣りの席に目配せた。


「サンキュ」


小さく礼を言い、すっと隣りに腰を降ろす男から微かに漂う香水の香りが、美希の肺に流れ込んだ。


向こうにいたバーテンも二人の前に移動し、目の前でシェイカーを振る。


ゆっくりと注がれた透明で綺麗な黄色の液体が、男の前に差し出された。


バーテンの手の動きに合わせて、ジンの香りが届く。


「女の子が一人っていうのも珍しいね」


「そう?珍しくないと思うけど」


「仕事帰りって感じでもなさそうだし」


軽く美希の格好を見つめた後、黄色の液体を啜る男の横顔を見つめ、改めて自分の格好を見下ろした。


ブルーのキャミソールにシフォンのスカート、足はバーゲンで買った安物のサンダルに収められている。


ふふふ…自分の格好にさすがに笑えた。


日中のデートの格好のまま立ち寄ってしまったわけだから仕方ない。


女がため息をつきながらカウンターに一人で座っているには、不釣合いな格好だった。



「そのお酒、なんて言うの?」


「ん、これ?アラスカ。飲んでみる?」


「うん」


差し出されたグラスに揺れる黄色の液体に口をつける。


ジンの香りが強い。


その綺麗な色からは想像できないくらい、喉の奥まで届く刺激に少し顔をしかめる。


「はは。綺麗だけど、アルコール度は高いから」


「ホント」


不思議だ。名前も知らない男とカウンターに座り酒を飲んでいるなんて。


相手の飲む酒を味見し、普通に喋っているなんて。


酔いのせいだろうか。知らない相手だからこそ気を使わなくてもいい。



「彼とね、喧嘩して」


「喧嘩?」


「うん」


「そう」


何も聞かない。そんな男の態度が心地よかった。


「何だか酔いたくなって、そのままここに来ちゃったの」


「だからその格好なわけね」


はははと笑い、タバコに火をつける男の指先を見つめる。


筋張っていて綺麗だ。


そんなことを思っていた。



「あなたは?日曜の夜に一人でバーにいる男っていうのも不思議じゃない?」


「そうかもな」


煙を吐き出しながらやんわりと微笑む顔が、美希よりも少し年上の感じを漂わせていた。


「ま、いいけど」


「彼女にフラれた帰り」


「え?」


「飲みたくてね」


「そう」


「参ったね」


「辛い?」


「少しね」


「少し?」


軽く首を縦に振り、男が続ける。


「まあ、前々からそろそろ危ないかなっては思ってたんだけど」


「……」


「来るべき時が来たって感じかな」


「…そう」


「仕方ないね。お互いどこか冷めてきてたし。苦痛はそれほどないよ。ただ」


「ただ?」


「5年付き合ったヤツだったから」


「5年…」


「何だか終わってみると、一気に軽くなった感じがするよ」


「軽く…?」


「うん。5年分の重みはちゃんとあったんだなって」


「……」


「穴があいたような?そんな感じかな」


「そう…」


「寂しくないって言えば嘘になるけど、これで良かったんだなってさ」


「ふーん…」


「ま、こんな話より、別のこと話そうぜ。せっかく忘れるのに飲みに来たんだから」


「そうね」



その後は、お互いに好きな映画の話、高校時代の思い出、会社の上司の悪口なんかを言い合いながら、口にグラスを運んだ。


男の名前は、フジサキトオルと言った。


黒いシャツに身を包む男には年上の穏やかな空気が漂っていて、どこか自分が子供になったような気持ちのよさに包まれた。


そして何より、悠哉との会話では長く味わえていなかった言葉のキャッチボールを楽しむことができた。


心地よかった。酔いも手伝って、身体がふわりと浮いた気分だった。



「そろそろ帰ろうか」


腕時計を見ながらトオルが呟いた。


美希も腕に巻かれたシルバーの時計を見た。


時間は既に10時を廻っていた。


気づけば4時間以上もこうしてトオルとお喋りしていたのだ。


あっという間に過ぎていた。



「まだ…飲みたい」


「大丈夫?だいぶ酔ってるみたいだけど」


「平気」


「何飲みたい?」


「なんでも」


「一番困る返事だな」


しばし考えた後、トオルがバーテンに声をかけた。


「セックス・オン・ザ・ビーチ」


「かしこまりました」


涼しい顔をしながら、トオルがあっさりと声に出すそのネーミングに美希はピクリと反応した。


「なんか…すごい名前ね」


「はは、気になる?美味い酒だよ、甘くてミキちゃんの好きそうな」


「ふーん」


セックス・オン・ザ・ビーチ……


なんて刺激的な名前だろう。


酔った身体が反応するのが分かった。



「おまたせしました」


ゆっくりと差し出されたコリンズ・グラスには、赤ともオレンジともつかない液体が注がれ、クラッシュアイスの中で揺れていた。


ネーミングのわりに可愛らしくストローが添えられている。


「飲んでごらん」


トオルに促され、ストローに口をつける。


ゆっくりと口の中に広がる液体は、パイナップルの甘酸っぱい香りと、美希の好きなピーチの甘い味がした。


「名前のわりに」


「可愛い感じの酒だろ?」


「うん。美味しい」


「それ飲んだら帰ろうか。送ってくよ」


「うん…」



ストローをくわえながらトオルの顔を見つめる。


ぼんやりとした視界に柔らかいトオルの表情が揺れる。


頬が、薄っすらと赤い。


トオルも酔っているはずだ。


美希よりも強めの酒を何杯か飲んでいた。


美希を見つめ返す瞳に、カクテルのような甘い色が浮かんでいる。


ストローをくわえたまま、トオルの目から視線がはずせなかった。


このまま見つめていたい…と思っていた。



「そんな顔して見るなよ」


少しふざけた態度で、美希の頭をコツンと叩く。


「可愛いんだな、ミキちゃん」


きゅん…と胸の奥が締め付けられた。


可愛い…悠哉にはいつから言われなくなっただろう。


付き合ったころは会うたびに言われていたのに。


「美希は可愛いなー」…と照れながらぎゅっと抱きしめてきた。


そのころの感覚を思い出す。


帰りたくない…そう思った。



トオルの顔を見つめながら啜っていたグラスは、数分で空になった。


「よし。じゃ、帰ろっか」


美希の頭を撫でながら、子供をあやすような柔らかい声でトオルが立ち上がった。


「……くない…」


「…ん?」


「帰りたく…ない」


トオルの黒いシャツの裾をつかみ、喉の奥から言葉が漏れる。


「…ミキちゃん?」


「帰りたくないの…」


「それって…」


「一緒にいて。駄目…?」


すがるようにトオルを見つめる。


一瞬、困ったような表情を見せたトオルだったが、やがてゆっくりと美希を椅子から立ち上がらせ、ふらつく美希の腰を支えた。


「ここに…泊まっていこうか」


「…うん」



足元がふらついて、自分では立っていられなかった。


腰を支える腕に身体を預け、美希はトオルの身体に腕を回した。


温かい肌のぬくもりが分かった。


黒いシャツから流れる香水の香りが、一層美希を酔わせた。


抱かれたい……


自分を支えるトオルの腕の中で、ただそう思った。



フロントへ降りるエレベーターの中で、美希とトオルは長いキスをした。


セックス・オン・ザ・ビーチ。


その甘い味が漏れる吐息の中で、何度も何度も口づけた。


降りた1階のフロントで、正幸とすれ違った事など、気づきもしなかった。






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