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2 エスプレッソ

夕べの残業が身体に堪えて頭が重い。


頭に加えて、まぶたまで重い。


眠気覚ましに注文したエスプレッソを一気に飲み干し、肩を回す。


店内に静かに響くジャズが、ますます眠気に拍車をかける。


悠哉は襲ってくる眠気と頭の奥に微かに感じる頭痛と戦っていた。



チョコレート色の古びたテーブルを挟み、目の前で話す美希を見る。


小さな顔に大きな目、こじんまりとした鼻に並びのいい歯。


ピンクの口紅を引いたちょっと厚めの唇を尖らせながら何かを話し、手元のカップを右手で撫でている。



ブーブーブーブー……


テーブルの上に置いた携帯が突然震えだした。


青く点滅する携帯をチャッと開き、目を落とす。


「正幸…からか」


嫌な予感がした。案の定、仕事のメールだった。



_________


悠哉、悪りぃ!


あのポスター急遽直しが入って、これから直ぐに直しに取り掛からないと納品日に間に合いそうにないんだ。


今会社でデータ見てたんだけど、俺じゃやっぱり上手くいかなくってさ。


今日、美希ちゃんとデートだったろ?っていうか今デート中か?


ホントにごめん!


悪いんだけど、何とか切り上げて会社に出てこれねーかな。


頼む!

_________




あのポスター……昨日夜中、データ入稿した化粧品会社の販促ポスターか。


悠哉は広告代理店で制作部のチーフとして働いていた。


営業の正幸とは、何かと仕事上コンビを組むことが多く、先月、正幸がやっとの思いで獲ってきた化粧品会社の仕事もペアを組み、昨夜の残業でやっとクライアントのGOサインが出たばかりだった。


データは印刷会社のサーバーへアップし終わっていた。


どうするんだ、一体。




_________


直しって、あれもうアップしたろ。


今日は日曜だし、明日は直ぐに製版に取り掛かる予定だぞ。


間に合うのか?

_________




そう返信すると、1分もたたないうちに返事が返ってきた。


よほどこちらからの返信を待ちわびているらしい。


なら電話をかけてくればいいのに。


しかし悠哉はそうできない正幸の性格をよく知っていた。


正幸は人一倍気をつかうタイプの男だった。


デート中に電話をかけることに躊躇ったのだろう。


そんな男のメールを無視するわけにもいかない。


震える携帯のボタンを押し、返事を開く。



_________


さっき印刷会社の営業の携帯に電話したんだよ。


明日朝イチで直したデータをアップするから、それまで止めておいてくれって。


機械の予定もあるから、朝イチでアップしてくれないと、印刷の予定が入らなくなるって言うんだよ。


頼む!


何とか会社に出てきて直してくれないか?

_________




なるほど…休みの日に営業に電話までかけて、了解をもらったのか…。


そしてわざわざ会社に行って、イジれもしないMacを立ち上げてデータを見てたってわけか…。


俺に遠慮して一人で。


なんとも…憎めないヤツだ。



しばしそのメール画面を見つめる。


返信に迷っていた。


いや、直ぐにでも会社に飛んで行きたかった。


正幸が困っているからというわけではない。


もちろん、人のいい正幸を助けてやりたいという気持ちからくるものではあったが、ペアを組んでいた自分の仕事でもあったし、その直しのニュアンスが分かるのも、実際手がけた自分しかいない。


そして会社にとっても大きな問題だ。


ここで対応できなかったら、今後の取引にも大きく影響が出る。



迷っていたのは…美希のことだった。


最近、美希との関係が上手くいっているとは、言いにくい。


会えば必ずと言っていいほど、喧嘩になる。


自分が何かを仕掛けたつもりは無いのだが、美希のほうが常にイライラしていて一方的に喧嘩を吹っ掛けてくる感がある。


吹っ掛けるというのでもなかったが、気づけばいつも喧嘩をし、嫌なムードのまま別れることが多くなっていた。


4年も付き合っていれば、こういうこともたまにはあるだろう。


相手に腹を立て、文句を言いたくなることくらい。


しかし今の自分たちは、その“たまに”が“いつも”になっていることに悠哉は何となく気づき始めていた。


かと言って、美希に対して嫌な感情など持っていない。


喧嘩になるのは面白くなかったが、美希を嫌いになるようなものでもなかった。


ただ確かに、そうやって美希が怒るのを見ているのも、それをなだめるのも、面倒にはなっていた。


その日喧嘩をして別れても、また次の日曜になれば二人で会う。


映画を見、食事をし、買い物をして軽く酒を飲み、どちらかの部屋に行くかそれともホテルに行くかしてセックスをする。


それが当たり前だった。


前の週も、そのまた前の週も、こうして美希と会い、同じように時間を過ごしながら、喧嘩をしないで終わる日もあれば、そうならない日もあった。


特に何かをするわけではない。


そんな時間が当然のように続いてきた。


しかしその当たり前が美希を苛立たせていることには、気づいていなかった。



昔の美希は可愛かった…なんて思ってしまう。


手を繋ぐと、子供みたいにはしゃぐ。


キスをすると、真っ赤になってうつむく。


セックスをすると、終わった後は必ず腕に絡まってくる。


その童顔で背の低い愛らしい姿を、いつも自分は守ってやりたいと心から思っていた。


なのに、4年の間で、その様子も随分と変わってしまった。


食事をしていても映画を見ていても、どこかつまらなそうな横顔が見えた。


今こうして向かい合って座っていても、唇はさっきから尖ったままだ。


ここで会社に行く…なんて言ったら、また美希は怒るだろう。


それをなだめるも、はっきり言って面倒だった。



どうしたもんか……


しばし迷いながら、携帯を見つめていた時、突然、ガシャンッという音が耳に飛び込んできた。


「ねぇっ!悠哉ってば!」


テーブルを叩いた美希が、こちらを見ていた。


「え?なに?」


駄目だ。このパターンは。


メールを見ている間、美希が何かを話していたんだ。


携帯に気をとられて全く聞いていなかった。


とりあえず、当てずっぽうで返事をしてみる。


「ん、ああ、ごめん。映画だっけ?」


「違うからっ!」


違ったか……


「え、ごめん。もう一回話してくれる?」


「もういいっ!」


勢いよく立ち上がった美希がヒールを床に打ちつけ、店を出て行く。


「……またか…」


その後ろ姿を見て、ふう…とため息をつく。



カップに手を伸ばし、口元まで運んだそれは、空だった。


そういえば注文してすぐに飲み干してしまっていたんだっけ。


もう一度ため息をつき、マスターのほうへ振り返った。


グラスを一定のリズムで拭きながら、マスターがこちらを苦笑して見つめていた。


「マスター、エスプレッソ、もう一つ」


「はいよ」


「ごめんマスター。また変なとこ見せちゃって」


ペコリと頭を下げる。


その様子を、サラリーマンも自分のほうが申し訳なさそうに見つめていた。


「あの、騒いでしまってすみません」


「いいえ」


サラリーマンもまた苦笑を浮かべ、直ぐに経済誌へと視線を落とした。



「お前ら、最近ここにきても喧嘩ばっかりだな」


マスターが少し心配そうな顔をする。


大学時代から通っていたこの店のマスターは、悠哉と美希が付き合い始めたころからの顔見知りだ。


年齢は…はっきり言って悠哉にも分からない。


背は、悠哉よりも少し低いくらいで、低音で柔らかい声はじんわり耳に入ってくる。


二重だが大きいとは言えない目元に少し皺を刻み、後ろへ撫でられた髪はいつだってきちんとしている。


マスターは知り合った当時からずっと変わっていない気がする。



「そうかもしれないなぁ」


「もっと構ってやらないと駄目だぞ、女は」


「構って…るつもりなんだけどな、毎週会ってるし」


「そういうもんじゃないんだよ」


「よく分かんねーな」


「そのうち、分かるさ。ま、分かった時にはもう遅いかもしれないけどな」


「なんだよマスター、それ」


「とにかく、上手くいってない気がするんだったら、ちゃんと美希と話し合うことも必要だぞ。長いから安心ってわけじゃないんだ。長いから余計に間で修正を入れていかないと、気づいた時には後悔だけが残るようになる」


「修正か…。どうすればいいんだろうな」


「それは、自分で考えるんだな」


はははっと笑いながら差し出しされたエスプレッソの香りに少し目が覚める。


ここのコーヒーは最高だ。


昔も今も変わらない味がする。



「追いかけなくていいのか?」


「いいんだよ、いつものことだし。それにこれから会社に行かなきゃならないし」


「そうか」


そう言うとマスターは再びグラスを拭き始めた。



「修正か…。データみたいにね…」


エスプレッソを二口で飲み干すと、『これから直ぐ向う』とだけボタンを押し、悠哉は正幸の待つ会社へと向った。


開いた扉から射し込む陽射しが眩しかった。






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