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1 カプチーノ

「ねぇ 悠哉、聞いてる?」


揺ら揺らと上るタバコの煙の向こう側で、頬杖をつきながら携帯をいじる悠哉。


さっきから話しかけているのに、転で上の空だ。


聞いているのか、いないのか。


美希もまた頬杖をつきながら仕事の愚痴をこぼしていた。


「ねえ」


イライラした美希がもう一度呼びかける。


反応が無い。


「ねぇっ!悠哉ってば!」


怒声が、静かに流れるジャズを引き裂いて薄暗い店内の壁に響く。


カウンターでグラスを拭くマスターがチラリと視線を投げかけこちらの様子を伺っている。


自家焙煎コーヒーが自慢のこの店は、日中は喫茶店、夜はバーとして営業するこじんまりとした空間だ。


大声を張り上げれば、たちまち店内の壁にその声が跳ね返り、そこかしこに響き渡る。



ガチャンッと置いたコーヒーカップの音にようやく反応した悠哉が、少し驚いた顔をして美希を見る。


経済誌をテーブルの上にアメリカンを啜る中年サラリーマンも、眼鏡越しにその目を見開いている。


「え?なに?」


美希の話などまるで聞いていなかったような口振りで、携帯を持ったままの悠哉が長いまつげをしばつかせている。


「聞いてなかったの?全然?」


「ん、ああ、ごめん。映画だっけ?」


「違うからっ。」


「え、ごめん。もう一回話してくれる?」


「もういいよ!」


冷めたカプチーノを一気に飲み干して、椅子をガタリと勢いよく後ろに跳ね飛ばし、ぼうっとする悠哉を残して美希は外へ飛び出した。


背中にマスターとサラリーマン、そして悠哉の視線を感じながら。



一気に飲み干したカプチーノの泡がまだ喉の奥にへばり着いている。


冷めたカプチーノほど、まずいものは無い…と美希は思っている。


例えば冷めて一つの塊になってしまったカルボナーラのように。


温かいままでコクリと飲み干すその瞬間の、唇に触れる泡の感触が好きなのだ。



飛び出した外は、太陽が放つ光で、もやっと生温い。


石畳に反射した熱がサンダルの足元を一気に温める。


店内の薄暗さに慣れた目に射し込む光が眩しすぎて、目がくらむ。


手をかざして見上げる空は、もう時期夕方の5時になるというのに、まだスカイブルーを保ったままだ。


傾きかけた太陽が、わずかだが西の空を薄っすらとすみれ色に染めている。



喫茶店の扉を振り返り、『M.B.』と書かれたプレートを見つめ、一つため息をつく。


追いかけてこない。


「どうしてこんな風になっちゃったんだろう…」


もう何回目だろう、こうして店を飛び出したのは。


そして追いかけてこない悠哉をここで少し待ってみるのは。


悠哉が追いかけてくる事は無くなっていた。


少し泣いたこともあった。


でもそんなこと、悠哉はきっと気づいてもいない。



外の眩しさに慣れた頃、焼けた石畳の上をゆっくりと歩き出す。


キャミソールから伸びる白い腕を振りながら、女の子の集団が甘い香りを漂わせ美希の傍を通り過ぎる。


オープンカフェで肩を寄せ、笑いながらアイスクリームを分け合うカップルの脇を足早に通り過ぎる。


カツカツと響く自分のサンダルのヒールの音が何故か耳障りだ。


夏なのに、ちっとも楽しくない。


夏なのに、まだ何もしていない。


夏なのに、また喧嘩だ。


大好きな夏なのにまたこうして普通に過ぎていってしまうんだろうか。


悠哉と出会ってから4回目の夏が。



去年も、そしてその前の夏も、いつのまにか楽しくなくなった。


悠哉と出会って最初の夏、そしてその次の夏、あの時の夏は過ぎ去ってもらいたくないほど名残り惜しかったのに。


太陽が輝く分だけ、同じように輝いていたのに。


悠哉の笑顔も、今とはまるで別人ように輝いてそこにあったのに。


自分の笑顔もきっと、長い時間のなかのどこかに置いてきてしまった。



付き合い始めはなんだって楽しい。


二人ですることの全てが、二人で共有できる最初の思い出として残っていく。


初めて入る店、初めて見る映画、初めてのドライブ、初めて見る水着姿、初めての旅行。


初めての喧嘩、初めて見せた涙、初めてのキス、初めての夜。


全ての出来事がくすぐったいほどに身体に絡み付いて、口の中にまとわりつくキャラメルのように甘くて。


相手の一つ一つの仕草のどれもが、自分の中にトロリと染み込んでくる。



だけど。


季節が一周するにつれ、どんどんその色彩が色あせていく。


手を繋ぐだけで、あんなにもはしゃいでいた自分が、隣りにいる相手の手をにぎることも忘れている。


腕を組まれると、ひまわりのような顔で微笑んでいた相手の視線が、自分を通り越しその先の空気中を漂っている。


二人でいる時間が長くなるにつれ、そして二人の間の初めての出来事が無くなっていくにつれ、二人の周りに漂う空気から、パステル調の色彩は削げ落ちていく。



「これから何しよう…」


飛び出してきたのはいいが、それからの当てが何もないことに美希は気づいた。


これもいつものパターンだ。


今に始まったことじゃない。


石畳の坂を下り大通りに出ると、高いビルに囲まれたその場所だけが日陰になる。


夏の光を背に受けて、影絵のようにそびえ立つホテルを見上げる。



メンソールの煙を細く吐き出しながら呟いた由美子の言葉が頭に浮かぶ。


「そろそろさ、潮時なんじゃない?」


会社帰りに飲みに行ったホテルのバーで、同僚でもあり、大学時代からの友人の由美子が頬杖をついて美希を見る。


「え?」


「喧嘩ばっかりなんでしょ、会うと」


「ばっかり…ってわけじゃないけど…」


「美希さ……、悠哉と一緒にいて楽しいの?」


シルバーの灰皿に火種を押し付けながら聞く由美子の言葉に美希ははっとした。


「楽しいっていうか…」


「付き合ってるから一応デートして、付き合ってるから寝て、付き合ってるからまた会って…それの繰り返しなんじゃないの?」


「……」


「それってさ、時間の無駄よ」


「無駄…」


「ま、二人の間のことだからさ、あたしがとやかく言う問題じゃないんだけど…」


二本目に火をつけながら、美希の目を見て躊躇なく言い捨てる。


「別れちゃえば?」



別れる……そんな言葉、出会ったころの美希の頭のなかにはまるで存在していなかった。


付き合って4年、マンネリ状態が続いていても、別れが頭に浮かぶ事など一度も無かった。


「別れる…って…」


「美希と悠哉、長いもんね。4年ももてばいい方よ」


「だけど別れるって…」


「もう一回聞くけどさ、悠哉と一緒にいて楽しいの?」


「…楽しい…って気持ちはないかも」


「会えて嬉しいとか、抱かれて嬉しいとか、そういうの自然に思える?」


「普通に…会えばデートの流れでそうなるし…」


「流れでそうなったとしても、それがお互いにとって意味のある時間ならいいのよ、ただ…」


二本目のタバコを途中でもみ消した由美子が、赤いカクテルを見つめる。


「そこに“気持ち”が無くなったら終わりよ」


「気持ち…?」


「そう。愛なんてカッコイイ言葉じゃないけどさ、会っていても相手を想う気持ちがそこに無くなってしまっていたら、もう一緒にいる意味なんてないと思うの」


「あたし…」


「悠哉の事、まだ本気で好きだって言える?」


「好きなのは好きよ。でも…」


「本当に好きって気持ち?」


「え?」


「4年も付き合ってるから、別れるなんてもったいないとか、そういう気持ちに変わってない?」


「それは…」


「悠哉は?」


「え?」


「悠哉は美希と会ってるとき、楽しそうにしてる?」


「…昔みたいには……大学時代みたいには笑わなくなった気がするわ」


「ちゃんと美希のこと、気にしてくれてる?会わない時間、何をしていたとか、会社でどんなことがあったとか、そういうこと、ちゃんとお互いに話してる?」


「話すわよ、一応。でも…あたしだけが喋って、悠哉は上の空のことも多いわ」


「でしょ?女は話すのよ、基本おしゃべりだからね。そして彼氏だし、一応報告はしておかなきゃって。でもね、相手がそれにあまり興味を示さなくなったら…駄目だと思うわ」


「そうなのかな…」


浅めのグラスに入ったピンク色のカクテルに自分の顔が映る。


トロリと液体が揺れて、その表情までは分からないが、きっと迷っている顔だ。


「美希と悠哉とは大学時代からの友達だし、すごくラブラブだったのも知ってる。もちろんこのまま結婚して欲しいって思うけど、最近のあんたたちを見てると、お互いに空気みたいになってる気がして仕方ないのよ。二人の顔を見ていても全然楽しそうじゃないし」


「……」


「この前の飲み会もさ、ほら、あたしと前の彼氏と、美希と悠哉で行った『M.B.』。あの時もあんたたち、殆ど話しもしてなかったでしょ。悠哉はひたすら飲んで、美希はひたすら食べてて。帰りも手も繋がなければ、話もしてない。それじゃ…付き合ってる意味、やっぱり感じられないわ」


「…そうかもね」


「悪く思わないでね。でも…このままいけば、結婚とか言う前に、ひどい別れがあるように思うのよ。それこそ、4年の付き合いの意味も無くなってしまうような」


「…うん」


「そうなる前に…続けたいならちゃんと向き合って話して、お互いにもう…冷めてきてるようなら、ここで一区切りつけるのも、アリだと思うわ」


「うん…」


「友達にも戻れないような終わり方…したくないでしょ?あたしも、美希も悠哉も大事な友達だから、また三人で会えなくなるっていうのもイヤだし」


「別れて…友達になんて戻れるかな」


「うーん…正直それは分かんないけど…でも喧嘩別れするようなことになるより、やっぱりちゃんと話をするべきよ」


「…そうだね」


「うん」



きっと、由美子の言葉は合っている。


自分たちは長く居過ぎたのかもしれない。


それが当然だと。


一緒にいるのが当然で、付き合っているからデートをして、キスをして、セックスをして。


4年も付き合っているから、別れるなんて考えたくない。


お互いのことを十分に知り尽くしてしまったからこそ、別れたとして、また新しい恋を一から始めるなんて面倒で。


このまま付き合って結婚して、ゆっくりと時間が過ぎていけば、楽なのかもしれない。


確かに…どこかにそんな気持ちがあった。


あたしは…どうしたいのだろうか。


悠哉とこの先…どうしたいのだろうか。


本当にあたしは、悠哉のことを好きだと言えるのだろうか。


そして悠哉も…あたしのことがまだ好きだろうか。


答えは出ているような気がした。


それでも、なんとか修復できるものならば、そうしたいと思っている自分もいる。



空のすみれ色がやがてオレンジ色を帯び始め、美希は目の前に立つホテルに駆け込むように足を踏み入れた。


真っ直ぐエレベーターホールへ向い、35階の最上階へ上がった。


まだ喉の奥にまとわりつくカプチーノの泡が残っている。


すごく、飲みたい気分だった。






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