13 メモリー・ブレンド
手のかかる奴らだ。
苦笑を浮かべ、マスターは目の前に座る美希を見ていた。
あの時の悠哉も、同じ顔をして、同じようにため息をつきながら入ってきた。
そして今、ころころと表情を変えながらカップを揺すっている美希がいる。
そんな若いカップルを何組も見てきた。
時には悠哉と美希のように、二人の話を聞き頷いた。
その後の事は、目の前で悩む人間に任せるしかない。
いつだって恋愛は、人に相談する前から既に自分の中で答えが出ているものだ。
他人のアドバイスなど、本当は無用なのだ。
話を聞いてもらえれば、幾らか楽になる。
それでも若い二人には、自分の出した答えが正しいのか間違っているのか分からない。
話を聞いて、思った事を伝える。
アドバイスなんて偉そうな事は必要無い。
伝えた事で、何を思い、判断するか。
それは二人に任せている。
そのまま終わる二人もいた。
やり直し、笑顔で戻ってきた二人も。
何組ものカップルがドアのベルを鳴らし、入ってきた。
そして同じくらい消えていった。
美希が一人でドアを開け、そのベルを鳴らした時、夏の光を背中に受けてそこに立つシルエットをいつも以上に確かめた。
自分も、同じ事を何度も繰り返している。
既に遠い過去になっているはずだった。
なのに、ベルが鳴り、そのドアが開かれる度、こうしてその姿を確かめる。
その人とはもう十数年も前に終わっていた。
ベルを鳴らし、ドアをくぐるその人が、カウンターにつく度に自分の心は充たされた。
いつの間にか生まれた二人の間の歪みに去っていく人を、自分は追いかける事ができなかった。
いつか帰ってくるだろうと、待っているだけだった。
いつものように店を開き、二人で付けた店の名前も変えず、この場所でずっと待っていた。
戻って来ないと分かっているのに。
今でも探してしまう。
ドアの傍に立つ影にその人の姿を。
しかしこれが自分の出した答えだった。
いくつになっても恋愛は慣れるものじゃない。
忘れられない人が現れたとすれば尚のこと、あの日あの時の出来事の全てが記憶に残る。
そしてその周りにあったものも全て。
景色、香り、曲、味、感触…二人、あるいは一人、思い出にブレンドされたそのアイテムに触れる度、いつかの場所へ記憶は戻っていく。
あの時その場所にあったもの、それが切なく愛しい思い出を呼び覚ます。
時にはそれが経験となり、時には邪魔なものにもなる。
だが確かにそれは恋愛をしてきた事の証だ。
そんな切なく愛しい思い出と、そこに存在していた全てのものを大切にしたい。
そう思って二人でつけた店の名前だった。
自分にとってはそれがあのベルであり、そのドアだ。
そしてそこで流れていたこの曲だ。
目の前に座る美希。
携帯を握り締め、傍らにあるジャスミンの香りを啜っている。
きっと美希にとって、この香りも思い出の中の一部として残るだろう。
悠哉もまた、今この時もどこかで、思い出の何かに触れているはずだ。
そのうちきっとあのベルを鳴らし、そのドアを開けて入ってくるに違いない。
グラスを拭きながら美希を見る。
さて、悠哉が戻ってきたら何を入れようか…
小さく笑いながら後ろを振り向き、二人のメモリー・ブレンドとなる味を探し始めた。
*********
香りの強すぎるお茶は苦手だった。
でもマスターの入れてくれたこのジャスミンティーはすごく柔らかい。
そしてマスターの言うように飲む度に味が変わる。
今はとても優しい香りがする。
PM4:26
大体いつも、日曜に悠哉とここに立ち寄る時間だ。
カップを拭くマスターが、それをグラスに切り替える時間でもある。
今、悠哉は何をしているのだろう。
どこにいて誰と話をしているのだろう。
切なさが込み上げてくる。
自分はここにいて何をしているんだろう。
一人でもいい。
ここに来たかった。
いつもの時間にいつもの場所で過ごしたかった。
でもやっぱり、一人よりも二人でいるここの時間が好きだ。
ジャスミンティーを啜る。
少し渋い味がする。
美希は、ふ…と笑った。
本当にコロコロと味が変わる。
悠哉との4年間もまた同じだった。
甘い恋が続くと思っていた。
でも。
甘いだけじゃ無かった。
色んな場面を経験し、色んな想いを味わってきた。
嬉しくて楽しくて。
切なくて苦しくて。
そんな想いを何度もしてきた。
それの繰り返しでここまで二人でやってきた。
そしてこの1週間、甘いだけじゃ恋は終わらない、それが痛いほど分かった。
時には傷つけ合う事もある。
相手にばかり何かを求めてしまう事も。
付き合いが長くなるにつれ、充たされない思いの重さばかりが大きくなってしまう。
我がままばかりが増えていく。
二人でいれる事だけで幸せだと思っていた頃の気持ちをどこかに忘れて。
理想だけを求めてしまって。
こんな恋愛をするはずじゃ無かったのに…なんて思ったりして。
でも。
二人の間に起こる事、その全部がリアルな恋愛なんだ。
作られてなんかいない。
作っていかなきゃならない。
自分達で二人の恋物語を。
そう思う事が出来た。
あたしは少し大人になったのかもしれない。
あの朝日を見て、甘いだけの恋を信じていた頃の自分よりもずっと。
信じよう。
まだ終わっちゃいない。
マスターが後ろを向き、何かを探している。
揺らしていたジャスミンを口元に運んだ時、手の中の携帯が静かに揺れた。
*********
「やべ」
いつのまにか眠っていた。
フロントガラスにはすっかり真夏の景色が広がっていた。
深く、そしてすっきりとしたブルーに浮かぶ白い波と太陽。
PM3:21
飛ばせば間に合うか。
悠哉はギアをバックに入れ、慌てて元来た道を引き返した。
もう迷う事など無かった。
道も、美希との事も。
車を飛ばす。
あの日見た景色、そして今日見た同じ景色を思い出していた。
美希はどんな思いで見つめていたのだろうか。
あの景色を。そしてこの4年間を。
笑った顔、怒った顔、すねた顔、泣いた顔。
色んな美希を見てきた。
あの日からずっと。
いつも変わらず美希はそこにいた。
当然のように。
自分の彼女として。
傍にいる美希に安心して忘れてしまっていた。
美希が好きだって事を。
美希の出しているサインを見過ごしてきた。
いや、見えていたがそれに構うのが面倒だった。
離れてしまう美希を見て初めて気づいた。
長いから安心って事じゃない。
長いから色んな事がある。
時間と共に積み重なっていく二人の思い出。
同じように積み重なっていく不安や不満。
面倒だと思ってしまう我がまま。
付き合ったからそれで終わりでは無い事。
そこから始まるんだって事。
美希が好きだ。
それだけでいい。
その気持ちがあれば十分だ。
まだまだこの先、色んな事が起こるだろう。
二人でいるから起こる二人の大切な時間だ。
その時間と共に美希を大切にしていきたい。
車を降り、駆け足でそこに向かう。
PM4:31
石畳の坂を登れば直ぐ『M.B.』だ。
携帯を開く。
迷う事なくボタンを押す。
2回目の呼び出し音でつながった。
「美希…」
*********
「悠哉…」
カラン…とベルが鳴る。
その方向へ目を向ける。
確かめるように目を細めて。
夏の光が射し込む。
カウンターに並んだ二つのカップ。
マスターはいつもと変わらない穏やかな表情でグラスを拭いている。