11 ジャスミン
溢れ出す涙がようやく止まった頃、カーテンの外は明るく色づいていた。
鳥の鳴く声がベランダのすぐそこで聞こえてくる。
どんな夜の後も、必ずいつもと変わらない朝がやってくる。
せめてこれが3日前の日曜の朝であってくれたなら…戻るはずの無い時間は、確実に次の朝日を連れてくる。
まぶたが重い。視界の隅に映るコーヒーの空き缶。
足早にキッチンの脇を通り過ぎ、洗面台へ向う。
一晩泣きはらした顔はひどいものだった。
これじゃ会社に行けない…例え胸に閊えがあろうとも、生活の流れは止まらない。
氷で冷やそうとキッチンへ戻る。並んだコーヒーの缶が目に映る。
冷凍庫の扉を開き、氷に手を伸ばした腕を止め、美希は後ろを振り返った。
再び冷凍庫に視線を移し製氷機を取り出した後、美希は悠哉が残していったコーヒーの空き缶を静かにゴミ箱へ片付けた。
その缶を、目に映る場所に置いておくのが辛かった。
悲しげな瞳で自分を見つめ、トオルを殴り、去っていく悠哉の後ろ姿。
コーヒーの缶を片付けても尚甦ってくるその姿が、美希の瞳に再び涙を浮き上がらせた。
テーブルに戻り、熱いまぶたを氷で冷やす。
テーブルに置いたマグカップ。
悠哉と揃えたピンクとブルー。
それに紅茶を入れた自分。
ブルーのカップでそれを飲んだトオル。
一体自分は何をしているのだろう。
氷で冷やす目からは堪えられない涙が溢れ出した。
冷やしても冷やしても、熱く込み上げてくる痛みは冷めてくれなかった。
外からの雑音が大きくなりだした頃、ふと顔を上げ、着けたままの部屋の電気を消す。
白かった部屋は、カーテン越しの光に照らされて柔らかい色調に変わる。
マグカップを洗い、棚の奥へと片付ける。その前に背の高いグラスを並べる。
着替えを済ませ、ドレッサーの前に立ち、顔を確かめる。
さっきよりはだいぶマシになった。
目元だけはしっかりと、他は軽く化粧を済ませ、美希はいつもと変わらない朝の街に身体を投げ入れた。
遅れて会社に着くと、心配した顔の由美子が声をかけてきた。
「ちょっと美希、どうしたのその顔」
やっぱり化粧じゃごまかしきれなかった。
敏感な由美子は直ぐに気づいた。
「なんでもないわ」
それ以上会話を続ける気になれなかった。
いや、本当は由美子に全てを話し、楽になってしまいたかった。
しかし今口を開いたら、再び涙が零れ落ちてしまいそうで、それ以上の言葉を発するのが辛かった。
昼休み、由美子を避けるように外へ出て、一人で食事を取った。
隣りの席のOLが甘い声で携帯の向こうの声と話している。
ため息をつき、パスタへ視線を戻す。
「あ…」
携帯。昨日の出来事もあり、すっかり忘れていた。急いで食事を済ませて会社へ戻り、更衣室へと走った。
ロッカーの扉を開ける。
赤く光る携帯を開く。
『着信有り 12件』
一つはトオル、他は全て悠哉からのものだった。
留守電に声は残されていない。
履歴を確認する。
全て昨夜のものだった。
日が明けた今日、悠哉からの着信は入っていなかった。
入ってくるはずが無かった。
自分に背を向け立ち去った悠哉。
あたし達は終わったのだ。
携帯を閉じると、美希はチャイムの鳴るオフィスへと戻った。
1日、2日、3日…と普段と変わらない夏の朝は毎日訪れた。
いつものようにカーテンを明るく照らし、ベランダに鳥が鳴き、次第に街の生活音が高くなる。
そして、自分の一日も時計に合わせて動き出す。
なのに、涙は止まらなかった。
濡れた枕と腫れたまぶたで向かえる朝がやってきては、枕元の携帯を確認する。
その度に肩を落とし、携帯を閉じる。時には手にした携帯を床に投げ捨てたくなる事もあった。
惨めで切なくて苦しくて。
まだどこか期待して、連絡を待っている自分が情けなかった。
卑怯に思えた。
悠哉をあれほどまでに傷つけて、あたしはまだ追いかけてきてくれるのを待っているのか。
会社に着いても同じだった。
気づくと携帯を握り締め、その名前からの着信を確かめた。
3日目の朝、再び由美子が声をかけてきた。
あれから由美子と話をしていなかった。
「美希…あの日、部屋に帰ったの?」
「…帰ったわ」
「悠哉…いたでしょ」
どうして由美子が知っているのか。驚いて顔を上げた。
「あの日、悠哉から電話がきたのよ…美希、一緒じゃないかってね…美希の帰りを待つって言ってたわ。帰ってくるまでずっと」
悠哉…
空の缶コーヒーが浮かび、美希の胸を締め付けた。
「彼と…トオルさんと一緒だったのよ」
あの晩、悠哉がトオルを殴った事、自分は何も言えなかった事、そして悠哉はそのまま去っていった事、あの晩の出来事を由美子に話すと、その一つ一つが思い出され、涙がこぼれた。
「それで…悠哉とは?」
「会ってないわ。連絡も…無い」
「美希からは」
「してないわ」
崩れてしまいそうだった。
鳴らない携帯。
押せないボタン。
声を上げて泣きたかった。
由美子の傍を離れ、美希は一人になれる場所へ走った。
土曜もいつもと変わらず朝を迎え、仕事も普通に片付けた。
明日は日曜だ。
いつもなら悠哉と会う日だ。
鳴らない携帯を握り締め、一人で喋り続けるTVに視線を泳がせる。
悠哉に背を向け『M.B.』を飛び出し、トオルと出会い抱き合ったあの日から1週間が過ぎる。
もう1週間…と思って美希は首を振る。
1週間しか過ぎていない。
その1週間で、色んな事があり過ぎた。
たった1週間。その僅かな時間で、あたし達の4年は脆く崩れてしまった。
全ては自分のせいで。
悠哉を裏切った自分のせいで。
映画のようにはいかなかった。
あの夏が恋しい。
そして悠哉との日々が恋しい。
例え色褪せていく時間だとしても、悠哉と一緒にその時間を過ごせる。
どうしてその時間が大切なものだという事に気づけなかったのだろう。
何気なく過ぎていく時間も、何気なく交わす会話も、詰まらないものにしていたのは自分だった。
色褪せた時間にしてしまっていたのは、そこに新たな色を重ねようとしなかった自分のせいだった。
日曜に悠哉と会い、ゆっくりと過ぎる『M.B.』での時間も、もう二度と訪れる事は無いのかもしれない。
悠哉は…どんな気持ちでこの夜を過ごしているのだろう。
明日、二人で過ごすはずの時間が訪れないという事に、悠哉はどんな気持ちでいるのだろう。
最後でもいい。
『M.B.』へ行ってみよう。美希はそう思った。
そこに悠哉がいないとしても、そこで過ごすはずだった時間を、最後に一人過ごしてこよう…そう思った。
砂嵐が踊るTVを消し、夏の匂いのする毛布を鼻先まであげて、部屋の灯りを消した。
カラン…とドアのベルが鳴る。
ドアを開く時のこのベルの音も、美希はすっかり忘れていた。
昔と同じはずだった。少し錆びて、それでもずっと同じ音で、ドアを開く度に自分を迎え入れていたはずだ。
目を細めたマスターが美希を見ている。
懐かしそうな、確認するような目。マスターのこの表情もそうだ。変わっていない。
「一人か?」
「うん」
カウンターに腰を降ろし、テーブルの先を見つめる。
陶器の黒い猫。
赤いリボンとしっぽの先の白が可愛い。
そういえばこの猫もずっと見ていなかった。
ここ数年、自分は『M.B.』の店内をまるで見ていなかった。
ゆっくりと流れるジャズ。
歩くときしむ床。
チョコレート色のテーブル。
壁に掛かる古い写真。
そこに写るマスターと誰か。
そして、目の前の悠哉の事も。
ただそこにあるものとして、瞳に映してきただけだった。
テーブルに手をのせ、そこをなぞる。
古びた木の感触も、ちゃんと変わらずにここにあったのだ。
知らずにため息が漏れる。
それを見ていたマスターが口を開いた。
「まったく」
「え?」
「同じだな」
「なに?」
「同じ顔してるよ」
「同じ?」
「悠哉とな」
「…え?」
「いつだったかな、悠哉も一人でここにきたよ」
「…そう」
「落ち込んでたぞ」
「…そう」
「お前みたいな顔してな」
「……」
少し笑うと、マスターはカウンターの奥へ行き、透明なカップとシルバーの包みを持って戻ってきた。
「昨日、由美子が来たぞ」
包みを開けながらマスターが美希を見る。
「由美子が?」
「男と一緒だったな」
「男?」
「いつもの由美子のタイプでは無かったな」
微笑むマスターがティーポットにお湯を注ぎ、温めている。
「いい雰囲気だったな」
「そう」
男か。由美子のいつものデートだろう。
そしてまたいつものように騙されるのだろうか。
美希はそう思った。
「悠哉とお前の話をしてたな」
「え?」
「二人で切ない顔してな」
ティーポットのお湯を捨て、包みから茶葉をカサリと入れる。
「泣いてたぞ、由美子」
「泣いて…?」
「隣りの男があたふたしてな」
ソーサーの上の透明なカップにお湯を注ぎながらマスターが笑う。
「悠哉も泣いてたとか言ってたな、その男」
「悠哉が…」
悠哉が泣いた。
自分のせいで。
でもどうしてその男がそれを知っているのだろう。
カップのお湯を捨てたマスターが、茶葉を入れたティーポットにお湯を注ぎ始めた。
「悠哉もお前もきっと大丈夫だとかなんとかな」
「その人…」
「丸い顔だったな。由美子の好み変わったのか?」
再びマスターが笑い、開いた茶葉を確認してから、透明なカップに薄っすらと色づく液体を流し入れた。
「…もしかして」
いや、きっと正幸だ。
由美子は正幸と会っていたのだ。
でもどうして。
「お前の事が心配なんだろ」
「由美子…」
別れろと言っていた由美子が、ここで泣いた。
自分を心配し、正幸を前にして。
「ほら」
マスターがソーサーにのったカップを差し出す。
透明なカップの中で揺れる黄色の液体からは、ほのかに甘い、優しい香りがした。
さっきからその香りがしていたはずだ。
目の前に差し出され、やっとその香りに気づいた。
「紅茶?」
「いい香りだろ」
「うん。……ジャスミン?」
「ああ」
ゆったり立ち上る湯気にふんわりとした香りが揺れている。
「珍しい…マスターが紅茶を入れるなんて」
「同じ事言うなって」
「え?」
笑うマスターが再びカップを拭きだす。
その様子を不思議そうに眺めながら、ジャスミンティーを口に含む。
柔らかい花の香りがすっと鼻腔を通り抜ける。
「いい香り。ジャスミンってもっと強い香りがすると思ってたわ」
「飲む人間で違うんだよ」
「え?」
「香りなんてそんなに変わらないさ」
「そう?」
「入れ方でも違うけどな。一番は飲む人間の気持ちだ」
「気持ち?」
「ああ。辛い時は香りも強くて少し渋い。優しい気分の時は柔らかくて甘い香りになる」
カップを棚に戻し、次のカップを拭きながらマスターが続ける。
「もっとも、ジャスミンにはそんなつもりはないんだろうがな」
「え?」
「飲む人を癒したいだけなんだよ、その花は」
微笑むマスターを見る。
泣いた由美子の顔を思い浮かべる。
何度かその涙も見てきた。
時にはフラれたと言いながら大声を上げて、時にはテーブルにうつ伏せながら静かに。
でもその涙はいつでも由美子の恋愛が対象だった。
他の事で泣いた由美子など、一度も見た事が無かった。
美希の涙を見ても、キツイ言葉を吐き、時に優しく励まし、そして時には本気で叱咤した。
その由美子が自分の為に流した涙。
やっぱり…由美子は本気であたし達の事を考えてくれていたのだ。
恐らく、付き合った男達にも涙など見せた事はないだろう。勝気な由美子だ。
その涙を、正幸には見せたのだ。
正幸なら、きっと由美子を幸せに出来るだろう。
今度こそ由美子は本当の恋を見つけたのかもしれない。
幸せになってもらいたい。素直にそう思う。
そして…
悠哉の涙。
どうしてもその姿は想像できない。
あの悠哉が泣くなんて。
悲しい映画を見ていても、美希が由美子につられて泣いていても、悠哉の顔はいつでも冷静だった。
その悠哉が…
そういえばあの夜、トオルを殴る直前の悠哉の瞳、充血した目には哀しみの色が浮かんでいた。
やっぱり…駄目だ。
自分は本気で悠哉を傷つけた。
その自分のどこに悠哉からの連絡を待つ資格があるのか。
口に広がるジャスミンの残り香が、渋く舌に絡みつくようだった。
「マスター…」
「ん?」
「悠哉とあたしね」
「うん」
「ずっと甘いまま続くと思ってた」
「うん」
「付き合う時にね、一緒に朝日を見たの」
「うん」
「すごく綺麗だった」
「うん」
「二人の始まりだったの」
「うん」
「映画みたいに」
「うん」
悠哉は、憶えているだろうか、あの朝日を。
二人の想い出の夏の朝を。
「でも…終わったわ」
「……」
「あたしのせいで」
新しい布巾を手にしたマスターが美希を見ている。
「そこも同じだな」
「え?」
苦笑したマスターは布巾を置き、カウンターに両手を着いて泣き出しそうな美希の顔を眺めた。
「美希」
声にならない返事を喉で鳴らし、マスターを見上げる。
「自分のせいだと思うのか」
コクリと頷く。
「どうしてだ」
一瞬マスターを見つめ、俯いて言葉を続ける。
「…あたしが…浮気したの」
「その原因はどこにある」
「え?」
「どうして浮気した」
「…寂しかったの」
「どうして」
「どうして…」
「悠哉にかまってもらえないからだろ」
「…うん」
「あのな、美希。男は単純なんだよ」
「え?」
「傍に彼女がいるのは当たり前なんだ」
「……」
「構ってやるとかやらないとか、そういうの、ゆっくり考えたりできないんだよ」
「……」
「面倒なんだ、そういうの」
「そんな…」
「でもな、本当に面倒だったら会ったりもしないさ」
「……」
「悠哉は、美希を責めたか?」
「え?」
「どうして浮気したんだとか、どうして俺の気持ちが分からないんだとか、そういう事言ったか」
首を振る。でも…
「…連絡だって無いわ」
「できないのさ」
「…え?」
「自分のせいだと思ってるからな」
「……」
「どっちが悪いと思う?」
俯いてテーブルを見つめる。
ジャスミンが香りも無く揺れている。
「どっちが悪いなんて無いんだ。そしてどっちも悪い」
カップを手にし、両手で包む。まだほんのり温かい。
「大切なのは、そこからどうするかだ」
カップの温かみがゆっくりと美希の手のひらを同じ温度にしていく。
「4年だろ、悠哉と」
うん…と頷く。ジャスミンが揺れる。
「悠哉はどんな男だ」
悠哉…
いつでも自信たっぷりで、冷静だけど偶に強引で。そして…優しい。
自分よりもずっと高いところにある顔、すっと通った鼻筋、涼しい眼をしてるのに、笑うとおもいっきり下がる目じり。
何も考えず、そうしたいと思えば苦しいくらいに抱きしめる腕、食べるのが遅い美希を頬杖をついて待つ退屈そうな眉、
さりげなく車道側を歩く足、身体の隅々まで這う唇、寝込んだ美希を慌てて病院へ運ぶ広い背中、心音の早い胸。
そして無理だと思っても、何故か成し遂げてしまう。
絶対にあきらめない。
涙が落ちた。
ポツンと雫がジャスミンに溶ける。
美希の頭を撫で、マスターが微笑む。
「信じてみろ」
「…うん」
涙が入ったジャスミンが揺れている。
少し切ない香りがする。
薄っすらと黄色のジャスミンがゆっくりと喉を通り過ぎる。
きゅっと胸を締め付ける。でもちょっとだけ優しい。
あの日見た、朝日の色だ。
「マスター」
「ん?」
「ありがとう」
「何にもしてねーぞ、俺は」
ふふふ…と笑い、マスターを見る。
いつもの穏やかな顔でマスターが笑う。
ジャスミンの柔らかい香りが、カウンターに広がっていた。