10 ジャックローズ
あの夜から4日が過ぎていた。
正幸はいつもと変わらない顔でPCに向う悠哉の背中を見つめていた。
「少し考えてみる」
そう言った悠哉の気持ちを尊重しようと思っていた。
その後の事は悠哉の気持ちに任せるしかないと分かっていた。
付き合っている二人の事は、当人達が一番よく知っているはずだ。
二人の間の微妙なニュアンスまでは、他の人間がいくら根掘り葉掘り聴きだしたとしても理解できるものではないし、簡単に修復できるものでもない。
支える事はできたとしても、悠哉と美希の今後を自分がどうにかできるはずなど無かった。
しかし4日が過ぎる今日も、悠哉は相変わらず会社に出てきては黙々と仕事をこなし、他愛も無い事を社内の人間と話しながら笑い、正幸とも普通に会話を交わし、残業を終えれば自宅へ帰っていった。
今も悠哉はPCを睨みながら、忙しくその右手を動かしている。
モニターの中のモデルの顔がにっこりと笑顔を投げかける。
モデルの営業用の笑顔と悠哉の後ろ姿を見ながら、正幸はため息をついた。
まったく俺は…自分の彼女もいないのに、何でこんなに他のヤツの事ばかり気にかけてしまうのか。
「アホなのかな、俺」
自分の口から出た言葉に正幸は少し笑った。
ま、アホでも何でもいい。自分はこの性格を今更変える事などできないだろう。
いつでも他人の心配ばかりだ。
そして自分の事になると諦めが早い。
あの時もそうだった。
悠哉と美希に誘われ、飲みにいった『M.B.』で、由美子を紹介された。
椅子に座り、細いタバコを持つ肘をテーブルにのせて「こんばんは」と言う由美子は、長い巻き髪を肩にかけ、グロスで光る唇を程よい高さに持ち上げて、正幸に微笑みかけてきた。
由美子は見惚れるほど美人だった。
こんな綺麗な女を自分に紹介しようとしている悠哉と美希の気持ちが分からなかった。
タイプ…というわけでは無かった。
ただ目の前で綺麗にグラスを持ち、グロスの唇に運ぶブロッコリーをこれまた美しく咀嚼する由美子を見ていると、ぽわんとした気分が胸に沸いていた。
ふと、自分の丸い顔を思い出して落ち込んだ。
こんな女性に自分がつり合うはずが無いじゃないか。
明るく笑う由美子に話しかける事も出来ず、ただその場の雰囲気に合わせて笑うしかなかった自分に、案の定由美子が惹かれるはずなど無かった。
「ごめんね」
そう言う美希と由美子を前に「いーの、いーの」何てセリフを笑いながら口に出すしか無かった。
しかし悠哉は違った。
翌日会社で顔を合わせた悠哉は正幸にこう言った。
「お前さ、もっと自信を持てよ」
「え?」
「そんなんじゃいつまでたっても彼女なんてできねーぞ」
「別に彼女なんていらねーよ」
脹れながら見る悠哉の顔には、まったく…という感じの苦笑が浮かんでいた。
「由美子の事、ちょっと気に入ったろ」
「そんな事ねーよ」
俯き書類を見る自分に悠哉が顔を寄せ覗き込む。
「顔が赤いぞ、正幸」
「え?」
「由美子はああいう性格だからな。はっきりしない男は嫌いなんだよ」
「…だろうな、美人だし。俺なんかとつり合うわけねーじゃん」
「でも騙されるんだよ」
「え?」
「はっきりと強引な男に騙される」
「騙される?」
「今度こそ幸せになれる。そう思って付き合ってフラれるんだ」
「由美子ちゃんが?」
あの美人がフラれる事なんてあるのだろうか。
「由美子は落ち着いた恋がしたいだけなんだよ」
「え?」
「それを求めると、由美子の顔だけで付き合った男は逃げて行くんだ」
「顔…」
正直自分も、由美子の顔に見惚れていた。
細い眉、くっきりとした二重の目。華奢な指先に挟まれるタバコに色気も感じた。
でも楽しそうに悠哉と美希を柔らかい瞳で見つめ、自分にも同じように微笑みかけてくれる由美子の、大っぴらには表に出さない優しさも感じていた。
「あんな感じだけどな、優しいヤツなんだよ」
「そう思うよ」
「お前にぴったりだと思ったんだけどな」
「俺じゃ…つり合わねーって。お前みたいにいい顔してねーし」
「そういう問題じゃないんだけどな」
苦笑しながら正幸の頭を叩く悠哉は言った。
「お前のいいところは俺が一番よく知ってるさ」
「なんだそれ」
「気持ち悪りーな」
笑いながら悠哉はデスクに戻っていった。
恋に臆病な自分を悠哉はいつでも気にかけてくれていた。
押し付ける事は無かったが、いつでも自信を持てと正幸に言っていた。
俺のどこに…自信を持てと言うんだ?
鏡に映る自分の丸い顔を見ながら、ため息をつくのが正幸の習慣だった。
その度に『M.B.』で会った由美子の顔も浮かんだ。
はっきり言ってその夜から正幸は、ずっと由美子の事が忘れられずにいた。
悠哉の言葉を聞いたからかもしれない。
余計に由美子の奥に隠れた優しさの滲む瞳が、ふとした瞬間に浮かぶようになっていた。
しかしそれだけで、正幸は鏡に映る自分から目をそらし、いつもの生活に戻っていた。
悠哉の「自信を持て」と言う言葉を頭の片隅に追いやりながら。
その悠哉が流す涙を見たのはあの晩が初めてだった。
自分に自信を持てと常に言っていた悠哉の顔には、悠哉自身がその自信を失ってしまったかのような表情が浮かんでいた。
変わらずにPCに向うも、今の悠哉の背中には、あの晩と同じ影がかかっているように見えた。
何かできる事は……正幸の心にもいつもの気持ちが沸いていた。
手にした携帯を見つめる。
表示させたまま1時間が過ぎる番号を見ながら、正幸はまたため息をついた。
*********
昨夜も泣いたのだろうか。
コーヒーカップを片手に由美子が見つめる先に、アイシャドーでごまかしてはいるが、目蓋の腫れた美希が課長と話している。
頷き、自分のデスクへ戻る美希の目の下には、今日で4日目の隈が浮かんでいる。
どうして連絡をしないのか。そして何故悠哉は連絡をしてこないのか。
時折携帯を開きながらため息をつく美希の姿を見ながら、由美子もまた一人ため息を漏らした。
「別れちゃえば?」
そう言ったのは自分だった。
詰まらなそうな美希の様子を見ていると、その言葉が自然と吐き出された。
悠哉と美希。
大学時代からずっと一緒の二人は、長続きしない自分の恋愛とは違い、4年も関係を保ってきた。
大学4年の間、お互いに惹かれあいながらもなかなか一歩が踏み出せない二人にやきもきし、卒業する最後の夏に二人の仲を取り持ってやったのも自分だった。
キャンプの罰ゲームで二人を買出しに行かせ、明け方まで戻らない二人を少し不安になりながら待っていたが、帰ってきた二人の手がしっかりとつながれていたのを見て、心底安心したものだった。
あれから4年、恋する女独特の表情が美希の顔から少しずつ薄れていくのを由美子は見てきた。
まあ、自分ほどではないが、童顔で可愛らしい顔つきの美希の表情は、悠哉と付き合い出した当時にはくりくりとした目にいつでも星が輝いていた。
今日悠哉と何をする予定だとか、昨日悠哉とこんな映画を見てね…なんていつも頬をピンクに染めながら恋人との甘いデートの報告を由美子にしてきた。
時には聞いているこっちが呆れるくらい、どうでもいい会話の一部を聞かされもした。
今の美希にはそれが無い。
今というよりも、卒業してからのここ数年で、悠哉の名前すら会話に出てこなくなっていた。
別れちゃえば……そう言ったのは決して本心では無い。
そんな美希の様子を見ているのが由美子には切なかった。
自分が取り持った二人だからこそ、薄れていく二人の関係をただ見ているのが辛かった。
そして、自分がなかなか掴めない幸せな関係を続けてきた二人に、あの頃のような笑顔を取り戻して欲しかった。
しかしその思いは空回りしていた。
自分の吐いた言葉通りに、今、悠哉と美希の4年が終わってしまう雰囲気が感じられるのを由美子はどうしてよいのか分からずにいた。
美希が男に会いに行った日の晩を思い出す。
悠哉からかかってきた電話。
美希は部屋に帰ったのか帰らなかったのか。
帰ったとしたら何時に?一人で?それとも二人で?
ずっと待つと言っていた悠哉の言葉が頭にあり、朝まで由美子は眠れなかった。
次の日、美希は会社に遅刻してきた。
ゆっくりとデスクに座る美希に声をかけた時、由美子は一瞬息を呑んだ。
泣きはらしたかのような目に、黒い隈、口紅を付け忘れている唇は、美希の童顔を尚更幼く心細いものにしていた。
「ちょっと美希、どうしたのその顔」
「…なんでもないの」
「そんなわけないじゃない」
「なんでもないわ」
それ以上会話を続けようとしない美希の横顔に、由美子は言葉を失っていた。
次の日も、美希は同じ顔をして会社に来た。
3日目の朝も同じ顔で出社してきた美希を、どうしても放っておくことが出来なかった。
「美希」
声をかけると、ぼんやりとした表情の無い顔で美希が顔を上げた。
「美希…あの日、部屋に帰ったの?」
一瞬躊躇う表情を見せ、俯いた美希が口を開いた。
「…帰ったわ」
「悠哉…いたでしょ」
その言葉に顔を上げ、驚いた表情で美希は由美子を見つめた。
「どうして知ってるの」
「あの日、悠哉から電話がきたのよ」
「え?」
「美希、一緒じゃないかってね」
「……」
「美希の帰りを待つって言ってたわ。帰ってくるまでずっと」
「……」
「悠哉と会ったんでしょ?それからどうしたの?」
不安な顔で見つめる由美子の目に、美希の目から涙がこぼれるのが映った。
「美希…」
「彼と…トオルさんと一緒だったのよ」
「トオル…その彼ね」
コクリと頷く美希。嫌な予感がした。
「悠哉は…彼を殴ったわ」
「…え?」
「あたし…何も言えなかったの」
「美希…」
「そのまま悠哉は帰っていった」
どうなるか分からない…そう言っていた悠哉の電話の声を思い出していた。
やっぱり…と由美子は思った。
他の男と戻ってきた自分の女。
その男に腹を立てるのは当然だろう。
悠哉も我慢できなかったのか…ため息が漏れる。
「それで…悠哉とは?」
「会ってないわ。連絡も…無い」
「美希からは」
「してないわ」
そう言うと美希はハンカチを取り出し、廊下へと出ていった。
そして今日も、相変わらず同じ顔をしてデスクに座っている。
何度か声をかけようと思ったが、なかなか言葉が切り出せない。
正直、こうなるんじゃないかと思っていた。
だから早く話し合えと言ったのに。
こんな別れ方、自分は未だしも美希にはして欲しくない。
いや、別れる事などして欲しくない。
コーヒーカップを机に置き、由美子は足を組み直した。
悠哉か……それとも…
組みなおした足を戻し、カバンから携帯を取り出して、由美子は数年ぶりに見る番号へ電話をかけた。
*********
緊張しながら、正幸はカウンターに座っていた。
髪を後ろに丁寧に撫で付けたマスターがグラスを拭いている。
久しぶりだった。初めてここに来た日から2年以上が過ぎていた。
『M.B.』の店内は、その時と少しも変わっていなかった。
ゆったりとジャズが流れ、壁には古い写真が並んでいる。
そのなかの1枚は、マスターと…誰だろう。
そして由美子も、相変わらず綺麗なままだった。
どうしたものか…携帯を開いては閉じ、閉じては開きを繰り返しながら定時のチャイムが鳴った時、突然手の中の携帯が震え出した。
慌てて携帯を開き直し、表示された番号を見て、正幸の目はまさに絵に描いたように点になった。
「え?」
掛けようか掛けまいか、1時間ほど悩みながら見つめていた名前からの着信だった。
緊張した指でボタンを押し、電話に出る。
「もしもし?」
懐かしい声がした。
少し鼻にかかる、由美子の高い声だった。
「もしっもしもし」
自分の声は明らかに動揺していた。
由美子です、と電話の声が続ける。
「お、お久しぶりです、ね」
慌てる正幸の声に、電話の向こうで由美子がくすっと笑うのが分かった。
「いきなりごめんなさい。元気だった?」
「はい、元気…でもない、です」
由美子が笑う。
「あのね、今日会えないかしら?突然で悪いんだけど」
「え?」
「駄目かな」
「いや!全然。大丈夫」
「良かった」
ほっとした感じの由美子の声が話を続けた。
電話を切る前に、「じゃ後で『M.B.』で」と由美子が言った事は覚えているが、それまでの会話は舞い上がってしまっていて、覚えていない。
今、隣りに由美子が座っている。
あの時と同じ巻き髪で、グロスを光らせて。
指に挟むタバコの銘柄もあの時と同じメンソールだ。
そしてテーブルにのる赤いカクテルも。
しっかりと憶えていた自分の記憶に正幸は少し笑った。
ジャックローズを運ぶ口元を見つめる。
グロスに赤い液体が光る。
やっぱり綺麗だ。
ウィスキーを持つ自分の手に視線を移し、正幸はほんの少し肩を落とした。
「正幸くん」
呼びかけられ、由美子を見る。
整った顔に、目だけが悲しげな色を帯びていた。
「悠哉、どうしてる?」
やっぱりその話だったか。
由美子からの電話で、『M.B.』までの道のり、浮き足だっていた正幸だったが、ビルの前を抜け石畳の坂を登り始めた頃、もしかしたら…と気づいた。
自分がこんなに気にかけているのだ。大学時代からの友人でもある由美子なら、尚更その胸は痛んでいるはずだ。
何から話し始めればいいのか迷っていると、由美子が先に話し始めた。
「殴ったんだってね」
「…うん」
「ま、それも当然よね」
ジャックローズを飲み干し、もう一つ、とマスターにグラスを返す。
「その日の事、悠哉から聞いてるわよね」
「うん。その日悠哉に会ったよ」
「そうなの」
「うん」
「あたしもね、その日悠哉から電話をもらったの。美希の事待ってるんだって」
「うん」
「で?」
「え?」
「悠哉。何て言ってた?」
「ああ。…終わった…って」
「……」
「部屋に戻ってきた時、泣いてたよ」
「……」
「初めて見たな、あんな悠哉」
空になったグラスを見、マスターに声をかけようとした。
「で?」
「え?」
「正幸くん、それを黙って聞いてたってわけ?」
「え?」
由美子の目に険しさが浮かんでいた。
長いまつげをピクリとも動かさず、じっと正幸を見ている。
酔っているのか。
「いや」
「何?」
「励ますっていうか」
「励ます?」
「そのなんだ」
「何?」
忘れていた。はっきりしない男は由美子は嫌いだったのだ。
イラつきながら次の言葉を待つ由美子の様子に悠哉の言葉を思い出した。
「そんなんで終わったって言うのかって」
「……」
「本気で追いかけてみろって」
「……」
「このままじゃ、お前の気持ちだって美希ちゃんにちゃんと伝わらないって」
「……」
「言った」
「……」
由美子がじっと正幸を見ている。
片手に赤いカクテルを持ち、テーブルの上の灰皿にタバコをのせたまま黙っていた。
「少し考えてみるって言ってたよ。それからどうなったのかはまだ聞けないでいるんだけどね。でも何だかいつもの悠哉って感じじゃないし、まだ迷ってるんじゃないかな」
そう言うと正幸は再びグラスに視線を落とした。
影のかかる悠哉の背中を思い出していた。
「美希もね…」
長く伸びた灰を見つめ、それを軽く振り落とした由美子が口を開いた。
「泣いてたわ」
「…うん」
「きっとね、毎晩泣いてるわ」
「…うん」
「あたしね、美希に別れちゃえばって言ったのよ」
「え?」
「最近美希、悠哉と会っても全然楽しそうじゃなかったし」
「……」
「潮時じゃないって」
「……」
「ホントはそんな事思ってなかったのよ」
「うん」
「ホントにこんな事になっちゃうなんてさ」
「うん」
「美希に何て言ったらいいのか分からないの」
「うん」
由美子を見つめ、正幸は頷きながら聞いた。
俯く綺麗な顔に、赤い色が反射して揺れている。
「二人に別れて欲しくなんてないのよ」
「うん」
「友達だもん」
「うん」
「でも…」
由美子の声が詰まる。
赤い光が反射した由美子の頬には、涙の筋が通っていた。
「…何もできないわ」
両手で顔を覆った由美子に、正幸は言葉をかけれずにいた。
巻き髪をテーブルにかけ、小さく震えている。
優しいヤツなんだよ……悠哉の言っていた通りだ。そして自分が感じていた通りだ。
タイプこそ違うが、由美子は自分と同じなのかもしれない。
二人の事を気にかけ、何とか二人の関係を修復できないものかと考えて。
随分と昔に会っただけの自分に電話をかけてまで。
その姿は、空回りしているだけなのかもしれない。
それでも、こうして友人のために泣いている由美子。
美しく、気の強そうな外見の由美子の中身は、本当は優しさで溢れているのだ。
正幸は知らずに由美子の肩を抱いていた。
由美子のその目は正幸を見つめていた。
目の前の綺麗な由美子の顔に、我に帰った正幸はハッとしてその手を外した。
「ごめん。つい」
涙を流したまま、由美子がじっと正幸を見つめている。
灰皿に置かれたままのタバコは、フィルターを少し焦がして消えていた。
正幸は決心した。
携帯を握り締めたまま1時間、どうしようかと迷っていたことを由美子に伝えるためだ。
そして悠哉に、自分の自信を伝えるために。
はっきり言って自信など無い。
しかしそうする事が、悠哉の自信を取り戻す事にもなってくれればと、悠哉の背中を見つめながら思ったのだ。
空のグラスをマスターに戻し、「同じもの…」と言いかけてから、「やっぱりジャックローズ」と由美子と同じ酒を頼んだ。
「どうする事もできないんだよ、辛いけど」
「……」
「信じるしかないよ」
「……」
「まだ終わったわけじゃない」
「……」
「二人の4年間…それよりももっと前から由美子ちゃんは悠哉たちを見てきたんだろ?」
「…うん」
「由美子ちゃんよりは短いけどさ、俺も3年付き合ってきたから、悠哉と」
「うん」
「あいつの、変に自信のあるところも知ってるし」
「うん」
「何とかしてくれるんじゃないかって、信じてる」
「うん」
「今は考えてるみたいだけどね」
「うん」
「でも、答えは出てるんじゃないかな、もう」
「……」
「大丈夫だよ、悠哉はホントに美希ちゃんの事が好きだ」
「うん」
「もし駄目だったとしても…」
「……」
「俺が由美子ちゃんを元気にするよ」
「…え?」
「あ、あれ?」
俺は何を言ってるんだ。
正幸は真っ赤になって俯いた。ぼうっとした由美子が見ていた。
「あ、その、そうじゃなくて…美希ちゃんだってきっと自分のした事を気にしてて悠哉に連絡できないだけだろうし、悠哉だってその…まだそれが引っかかってて、美希ちゃんに連絡出来ないでいるだけだと思うし、二人とも意地になってるっていうか、意地…じゃないな、お互いにどうすればいいのか分からないだけで、でもお互いにまだ相手の事も好きなはずだよ。だから由美子ちゃんも美希ちゃんの事、見守っててやればきっと大丈夫だよ、その…」
「ちゃんと言えるじゃない」
「え?」
「そうね。あの二人を信じるしかないのよね」
「う、うん」
「で?」
「え?」
「こんなタイミングで告白?」
「あ」
「はっきり言ってよ」
「え?」
「はっきりしない人、あたし嫌いなの」
「あ」
ジャックローズを手にし、由美子が微笑んで正幸を見ていた。
*********
正幸に電話をかける事など、もう無いだろうと思っていた。
その名前すら忘れていたくらいだ。
美希が街で正幸に会ったと聞いて、そういえばそんな人もいたと思い出した。
その声も顔もはっきり言ってよく覚えていない。
しかし人のよさそうな笑顔だけは、遠い記憶の中で何となくぼんやりと思い出せた。
美希と悠哉に紹介された男だった。
印象は薄い。どうして付き合う事にならなかったのか、そもそもどうしてその男と会ってみたのか、あの時の『M.B.』での会話も、既に遠い過去になっていた。
悠哉の同僚という事は知っていた。
つい最近、美希にも会って話している。
確か番号も交換していたはずだ。
正幸ならば、悠哉の今の様子をよく知っているんじゃないか…そう思った由美子は直ぐに正幸に電話をかけていた。
その正幸が隣りに座っている。
人のよさそうな顔は、由美子の憶えている顔のままだった。
由美子はジャックローズをオーダーした。
赤い色が好きだ。
意志を持ったような赤い色は、いつだって凛としてそこに存在している。
バラ色に光るジャックローズを一口飲み、由美子は挨拶を交わしてから無言のままの正幸に話しかけた。
「悠哉、どうしてる?」
しかしなかなか返事が返ってこない。
「殴ったんだってね」
「…うん」
弱々しい返事が返ってきた。
そこから何か話してくれるかと思い、正幸の顔を見るも、話は続かなかった。
この手の男は苦手だ。
グラスを空にし、マスターにお代わりを頼んだ。
色んな場所でこのカクテルを頼むけれど、やっぱり『M.B.』のジャックローズが一番美味しいと思う。
何故だろう。
マスターの振るシェイカーの音も由美子の一番のお気に入りだった。
「その日の事、悠哉から聞いてるわよね」
「うん。その日悠哉に会ったよ」
あの晩、正幸は悠哉に会ったんだ…ならばその様子をよく知っているはずだ。
しかしやっぱり会話が旨く続かない。
「悠哉。何て言ってた?」
「ああ。…終わった…って」
終わった……悠哉も美希と同じセリフを口にしてたのか…
辛さが胸に込み上げてきた。
美希の腫れた目が由美子の頭に浮かんだ。
終わってなんか無いじゃない。
美希の様子を見れば分かる。
美希は待っている。携帯を開け閉めしながら、悠哉からの連絡を。
悠哉が一言、やり直そうと、美希へ電話をかければ済む事ではないか。
「部屋に戻ってきた時、泣いてたよ」
泣いてた?悠哉が?
「初めて見たな、あんな悠哉」
由美子だって、悠哉の泣いた顔など見た事は無かった。
いつだって自信たっぷりで、時には無理だと思う事さえやりのけてしまう男だ。
その悠哉が泣いていたなんて…悠哉だって相当辛いに違い無い。
なら尚のこと、早く美希に連絡をするべきではないのか。
なのに、その悠哉の姿を見て、正幸は何も言わなかったのだろうか。
次第に由美子は正幸にイラつきを覚えていた。
「正幸くん、それを黙って聞いてたってわけ?」
「え?」
正幸が驚いたような顔をしてこちらを見ている。
途切れ途切れに話す正幸の言葉がもどかしかった。
でもここで怒ってしまったら駄目だ。
相手の言葉を待たずに自分の言葉を返してしまう、自分にはそんなところがある。
少し落ち着いて、正幸の言葉を聞こうと試みた。
「そんなんで終わったって言うのかって…本気で追いかけてみろって…このままじゃ、お前の気持ちだって美希ちゃんにちゃんと伝わらないって」
驚いた。
この男がそんなセリフを言ったのかと。
どう見ても頼りなげなこの正幸が、あの悠哉に。
自分が情けなかった。
本心では無いにしろ、別れちゃえば…なんて言った自分に無性に腹が立った。
どうしてあんな事を言ってしまったのだろう。
美希を苦しめてしまったのは、もしかしたら自分なんじゃないか。
気づいたら泣いていた。
悔しくて哀しくて。
このまま二人は壊れてしまうんじゃないか。
そう思ったら余計に涙が溢れて止まらなかった。
気がつくと、肩にぬくもりが触れていた。
正幸が切なげな顔で自分の肩を抱いていた。
ぼんやりと正幸を眺めていると、我に返ったように正幸が慌ててその手を離した。
「ごめん。つい」
由美子と同じジャックローズをオーダーした正幸の顔が、ふいに凛々しく見えた。
「信じるしかないよ…まだ終わったわけじゃない」
正幸の言葉に、次第に気持ちが穏やかになっていくのを感じた。
「もし駄目だったとしても…俺が由美子ちゃんを元気にするよ」
「…え?」
「あ、あれ?」
話の流れのまま自然に発せられた正幸の言葉に、由美子は驚いた。
この人……あたしの事が好きなのか。
驚きながらもそれを理解した。
今までの男とは何かが違う。
はっきりしないところは気にくわないが、頬を赤らめながら懸命に話す正幸を由美子はじっと見つめた。
焦りながらも、自分なりの考えを一生懸命由美子に伝えようとしている。
元気付けようとしてくれている。
由美子は、温かい何かを感じていた。
そして少し、可笑しかった。
「ちゃんと言えるじゃない」
「え?」
美希と悠哉の4年間を信じよう。
そう思った。目の前の正幸にそう思わせてもらった。
「はっきり言ってよ」
「え?」
まだ顔の赤い正幸がジャックローズを手にしながらあたふたとしている。
赤い色が好きだ。
でもやっぱり。
「はっきりしない人、あたし嫌いなの」
ジャックローズを口に運んだ。
カルヴァドスの甘い香りがする。
ほんわりとレモンの酸味も丁度いい。
そうだ。
『M.B.』のジャックローズは初恋に似た味がする。
それが好きだったのだ。
「由美子ちゃんの事、ずっと好きだったんだ。つ、付き合ってください」
正幸の頬は、さっきよりもずっと赤く色づいている。
口に運ぶバラ色のジャックローズよりも。
「いいわよ」
林檎とレモンの香りが気持ちいい。
グラスを拭くマスターが手元を見つめたまま温かい表情で微笑んでいた。




