9 缶コーヒー#2
マンションへタクシーが着くと、時間は11時を廻っていた。
「じゃ…また今度」
美希の手を離れたトオルの手のひらが、ポンと美希の頭を撫でる。
トオルはたぶんそう言うだろうと思っていた言葉に、美希は少し肩を落とした。
駄目だと分かっていた。
しかし一人で部屋に戻る寂しさが込み上げ、どうしてもタクシーから降りる事ができない。
口ごもる美希に顔を寄せ、「ん?」と聞くトオルの目を見つめる。
奥二重の瞳に寂しげな自分の瞳が映っている。
駄目だった。
「寄っていかない?」
小さく呟く美希の言葉にほんの少しトオルの動きが止まる。
「お茶を入れるわ。少し休んでいって」
「…ああ、そうするよ」
そう呟いたトオルもタクシーを降り、二人でマンションのエレベーターへ向った。
一人で帰る寂しさから解放された美希は、トオルの手をそっと握った。
トオルと二人エレベーターを降り、コンクリートの廊下を少し歩くと、部屋のドアに寄りかかる人影が見えた。
見覚えのあるシルエットだった。
はっと息を呑む。
「…悠哉」
美希はうろたえた。
廊下を引き返そうと思った。
やや後ろに後ずさりをした時、そのシルエットがこちらを振り返るのが分かった。
瞬間的にトオルの後ろに隠れたが遅かった。
沸きあがる緊張に美希の身体は震えていた。
その影は、寄りかかったドアから身体を起こし、真っ直ぐにこちらを見ていた。
トオルが怪訝な顔をし、後ろに隠れた美希へ視線を送る。
震える美希の様子に、その影と美希の関係がどんなものなのかを理解した。
三人の動きが止まったまま、重い沈黙が流れた。
やがてトオルがその緊張を破った。
「こんばんは」
落ち着いた声で影に声をかけるが、返答は無かった。
「ミキちゃんの…彼氏かな」
「……」
「フジサキ、と言います。少しミキちゃんをお借りしてました」
ゆったりと静かに声をかけるトオルの背中の上着を、美希はぎゅっと握りしめた。
悠哉は…どんな顔をしているのだろう。
どうしてここにいるのだろう。
震えが止まらなかった。
「食事をしてたらすっかり遅くなってしまって。暗いし、調度送ってきたところです」
「……」
「誤解されたかな」
「…に…んだよ」
「え?」
「何言ってんだよ!!」
怒りを吐き出すような悠哉の声がマンションの廊下に響いた。
その声に美希は、強くトオルの背中に額を押しつけた。
「美希っ!」
一層大きくなった悠哉の怒声が美希を呼ぶ。
逃げ出したかった。しかし足が動かなかった。
バローロに包まれていた酔いは、すっかりとどこかへ消え、代わりに言いようの無い胸の苦しさが込み上げていた。
「美希っ!」
もう一度美希の名を叫ぶ。
ただ震えて立つ美希を振り返ったトオルが、美希の腰に手を廻し自分の脇に立たせた。
「そんなに怒るなよ。震えてるじゃないか」
その様子を見ていた悠哉もまた、激しい怒りに身体を震わせていた。
「何やってんだよ、何美希に触ってんだよ」
「君が怒ってるからさ」
「ふざけんな!」
「怒鳴るんじゃない。周りにも迷惑だろ」
「おい、美希っ!」
俯くだけの美希を悠哉は震えながら呼んだ。
その声に、美希は再びトオルの上着を掴んだ。
「美希…んで…だよ」
悠哉の声に先ほどとは違う種類の震えが混じっていた。
その声に美希もようやく顔を上げた。
薄暗い廊下の向こうで、ただ拳を握り締めたまま立ち尽くす悠哉の影が見えた。
「何でだよ美希」
「……」
「何でそいつと帰って来るんだよ」
「……」
「電話したんだぞ」
「……」
「そいつと・・・また寝るのか」
「……」
「美希っ…!」
答えられなかった。
頭が混乱し、言葉が見つからなかった。
張り裂けそうな鼓動が、吐き気までも誘っていた。
「もう…駄目なのか、俺たち」
俯いた悠哉の声がコンクリートの廊下に低く響く。
「……悠哉…」
やっと声が出たが、その声は悠哉まで届く大きさではなかった。
まだ震える腕でトオルの上着を掴んだまま、美希は再び俯いた。
トオルがゆっくりと口を開いた。
「ユウヤ…くんか、俺は帰るから、二人で話すといい」
美希を見る。「大丈夫だね?」と囁く。
不安な目を上げ、トオルを見つめる。
悠哉と二人になる自信など無かった。
首を左右に振る。上着を握り締める手を離せなかった。
トオルが苦笑を浮かべ、小さく頷きながら美希の頭を撫でる。
「三人で話そう。ここじゃ周りに迷惑だ。中に入って話そう」
「…いいよ」
「え?」
「もういい」
そう呟くと、悠哉はゆっくりとこちらへ向って歩いてきた。
次第にはっきりとする影が美希の瞳にも映る。
悠哉の目が充血しているのが分かった。
その目は、美希を見てはいなかった。
意識的に視線を合わせない様子が分かった。
「美希があんたを選んだんだったら、それでいい」
悠哉の握り締められた拳に静かな震えが混じっている。
怒りに身体を震わしている悠哉を見るのは初めてだった。
「…殴りたいなら、殴れ」
トオルが低く呟いた。
そこから逃げようとしないトオルの横顔を見ながら、美希は何か言おうと言葉を捜したが、乾いた喉からは何も出てこなかった。
一瞬、悠哉と視線が絡まった。
美希は反射的に後ずさった。
悠哉のその目には怒りと同時に深い悲しみに似た色が浮かんでいた。
直ぐに外された視線はトオルへ投げられ、次の瞬間には、悠哉の拳がトオルの頬を捉えていた。
殴られ、よろめいたトオルが美希へ寄りかかる。
その身体をとっさに支える。
唇の端を拭いながら、悠哉に向き直ったトオルは、いつものようにその背筋を伸ばし、そしてまたいつものように落ち着いた声で口を開いた。
「これで満足したか」
悠哉の返事は無かった。
振り返った悠哉は、そのまま美希の部屋の前を通り越し、非常階段へと消えていった。
「……って…」
さっきまで伸びていた背を丸め、左手で頬をさするトオルに、美希はやっと我に帰った。
「トオルさん…大丈夫?」
ハンカチを出し、その血を拭う。
「本気で殴るんだからな。驚いたよ」
痛みに顔を歪ませながら苦笑するトオルに、美希は何も返せなかった。
「ユウヤくん…だっけ?本気でミキちゃんに惚れてるんだな」
「…え?」
「目を見れば分かるさ。俺を殴っても君を罵る事はしなかった」
「……」
「それに」
顎で美希の部屋の廊下を指す。
「ずっと待ってたんだろ、君の帰りを」
部屋の前を見ると、空いた缶コーヒーが4本転がっていた。
そのうちの1本からは、タバコの吸殻が溢れていた。
「大した根性だよ。君が帰って来なかったら、どうしてたのかな」
ふっ…とトオルが笑う。その言葉には微かな優しさが込められていた。
「待ち合わせ場所でミキちゃんを待ってた時…」
転がる空き缶を見つめていた美希を見おろしトオルが続ける。
「俺も電話したんだよ。30分が過ぎるし、来ないのかなって」
「…ごめんなさい」
「いや、それはいいんだよ全然」
にっこりとトオルが微笑む。
「その時さ、2本目のコーヒーを空けたら帰ろうと思って待ってたんだ」
「…やっぱり待たせちゃったのね。ごめんなさい」
右手で美希の頭を撫で、ゆっくりとトオルが首を振る。
「俺は2本だったよ」
「え?」
「2本で帰ろうと思ってた」
「……」
「君の彼は…悠哉くんは4本空けても、まだ待つつもりだったんだな」
床に転がる同じ色をした青い缶に、玄関先の灯りが反射している。
缶から溢れる吸殻を見つめる美希の目に、ドアに寄りかかった先ほどの悠哉の姿が甦る。
「ここで戻らないと…ミキちゃんもきっと…俺みたいに後悔するようになるよ」
「…え?」
「俺は君の彼氏みたいに、殴る事はできなかった」
「トオルさん…」
「待つ事もね」
「……」
「離れていく彼女をただ…見ている事しか出来なかった」
遠い目をして何かを思い返すようにトオルの表情が暗く濁った。
「俺も、駄目なヤツだな」
「トオルさん…」
「ミキちゃん、ごめんな。君と彼が別れてはいないって事、忘れてたよ」
トオルの目に優しさが戻っていた。
「ユウヤくんみたいに、俺も待ってみようかな」
ははっと笑って美希を見る。その顔に美希は切なさが込み上げた。
「…彼女の事…まだ忘れられないのね」
「ああ…そうかもしれない」
「トオルさん…ごめんなさい…」
「いや、誤るのは俺のほうだ。二人を傷つけてしまったんだからね」
「ううん、あたしなの。あたしが悪いの」
「…お互い様かな」
苦笑したトオルが美希の頭を撫で、そっと抱きしめた。
もしかしたら、あたし達は始まっていたのかもしれない。
互いに傷を追ったもの同士、ただそれを埋める為に…同じ匂いのする相手に居場所を求めて、始まっていたのかもしれない。
複雑な気持ちだった。
まだ悠哉が好きなのか、それとももうトオルの事が好きなのか、自分でも分からなくなっていた。
ただ今は、自分を抱きしめるトオルの腕の中で、その胸に顔をうずめ、やり切れない気持ちを紛らわす事で精一杯だった。
でもきっと今日限りトオルと会う事はないだろうと、その腕の中で感じていた。
そしてトオルもそう思っているに違いなかった。
腕の中の美希の背中を優しくさすっていた。
美希は部屋へトオルを入れた。
それから日付が変わるまで、二人は普通の友人のように話をした。
ただ時間を忘れ、時には笑い、時には静かに。
お互いに気持ちが晴れていくのを感じていた。
トオルはきっと、別れた恋人のもとへ帰る事ができる…話をしながら美希はそう思った。
この人が、彼女を幸せに出来ないはずが無い…と思った。
彼女もまた、自分と悠哉のように長い時間をトオルと過ごし、その思い出を簡単に消す事など出来てはいないはずだ。
追いかけてこない悠哉を待つあの時の自分のように、きっと彼女もトオルを待っているに違いなかった。
あたしたちはどうだろうか。
今夜悠哉は追いかけて来た。
それにきちんと答えられない自分が悠哉を帰らせてしまった。
強引に連れ去ってくれる事もなかった。
トオルの笑顔を見送った後、美希はテーブルに残るマグカップを見つめていた。
ピンクとブルーの同じ形をした二つのマグカップ。
大学時代に悠哉とお揃いで買ったものだ。
4年前の夏、お互いに意識しあい、それでもなかなか恋に発展しなかったあの夏。
恐らく由美子が仕込んだキャンプでの罰ゲームに当った悠哉と二人で買出しに行った帰り、道に迷った途中で偶然に出会ったあの海。
迷い込んだ道を抜けた時、目の前に広がった景色に二人で息を呑んだ。
調度登り始めた朝日が染める、空と海。
映画のタイトルのようにゆっくりと登る太陽を見つめながら、二人の恋もそこから始まったはずだった。
床に座り、カップを両手に持つ。
その重みが美希の腕に、そして心に重かった。
キッチンの方へ目をやる。
片付けた4本の青い缶が並んでいる。
悠哉はどんな思いで1本1本の缶を開けたのだろう。
電話に出ない自分を、どんな気持ちで待っていたのだろう。
二人で部屋に帰ってきた自分を、どんな……
逃げる場所も帰る場所も無くしてしまった寂しさがふいに込み上げてきた。
フロントガラスに広がったあの景色を見た夏とはまるで違う、ただ苦しいだけの4回目の夏が通り過ぎていってしまう。
戻れない。
あの夏始まった二人の恋物語は、今日ここで終わったのだ…そう美希は感じていた。
マグカップを手にしたまま、涙が頬を伝った。
ただとめどなく涙が溢れ、声を上げずに美希は泣いた。