<11>
光りも届かぬ深海、マイヨールはまどろみの中にいた。
遊弋する巨体を水流がやさしく撫でる。傍らを同族が歓喜の声を上げながら泳いでいる。見上げれば、揺らめく海面から光りが落ち、群遊する鯨の姿がきらめいている。色彩は溢れ、会話する音がひっきりなしに骨に届く。夢が醒めないように願った。
脳が覚醒した。
暗黒の海に一人漂っている己を自覚する。
能力を使わなくとも、自身から出ている色を知覚することが出来た。青く染まる自分の体を飽き飽きする思いで眺める。これで何度目だろうか。黄金時代の風景を夢に見るのは。
かつて彼の属する種族は繁栄し、その力は大洋を覆っていた。遠方から流れてくる色彩を楽しみにしていたものだ。しかし長命な種は力に溺れて衰退し、徐々に数を減らしていくと、代りに普通の鯨が多くなっていった。彼らは超音波によって意思の疎通を図る事は同じだったが、知能が低く、能力もなかった。
それでもマイヨールは呼びかけの探査音を常に発していた。まだ相見えていない固体が返答をするのを期待して。その間、応じたのは人間や亜人といった別種の者達だった。だから本当の孤独ではない。しかし真に理解し合えたのは、同族の者だけだった。
呼吸のため、海面に上昇する。
季節によって移動する長大な距離、今では徒然にほとんどの地形を覚えてしまった。見慣れた風景の中を泳いでいく。
骨に衝撃が伝わって来た。
始め、その感覚が何であるか思い出せなかった。音楽のように心休まる音の波。理解するにつれ、昂奮が陽炎のように心中から立ちのぼって来た。確かに同族の応答だった。
しかしひどく遠い。
しかも弱弱しく今にも消えてしまいそうだった。焦る気持ちを抑えて、力強く尾鰭を波打たせるが、到底間に合いそうに無い。仕方なく、’潜水’を開始する。
今まで一日に二度も能力を使ったことは無かった。遠い昔の忠告を思い出す。
――超常の力は影に通じている。
だからどうしたと言うのか。これ以上、孤独の中で絶望しているのは耐えがたかった。よしんば影に出会ったとしても、幾星霜を経たマイヨールの力は強大で、たとえ影と言えども易々と取り込まれたりしない自信があった。
(私はまだ夢を見ているのか……。)
潜水したにも関わらず、辺りは真っ暗で、眠る前に触れた光源も無い。闇は優しく彼を包み込み、何の害意も感じられなかった。ただ音だけがある。
それは渇望した同族の会話音だった。しかも一体ではなく、数限りない音が煩いほど辺りに響いている。
(これがあなたの望み。)
(能力なんていらない。)
(普通の鯨でいたい。)
(一人は寂しい。)
(ここには皆がいる。)
(生きているだけで幸せ。)
(だからほら、光りの無い世界に行こう。)
一つ、また一つ探査音が遠ざかってゆく。また彼を一人置いて。
(影よ。私の心をかき乱すのは止めろ!付いてなど行かないぞ。)
(ここでは貴方の望みは叶えられない。)
(’潜水’する種は滅んだ。)
(皆、暗黒に呑まれた。)
(それを望んだ。)
(そんなことを思っちゃいない!)
(認める事。)
(あなたはそれが出来ない。)
(孤独が怖い。)
(勇気が無い。)
(だから置いていかれた。)
(そんな……。)
(あなたも影。)
水の感触が消え、中空に浮いたような感覚を覚えた。仲間達も消失し、眼前に暗黒の巨人が聳えている。マイヨールを抱きしめる両腕には暖かみすらあった。はるか上方から労わりに満ちた高音が聞こえた。仲間達の探査音そのものだった。
(これ以上ここに居て何をするつもりだ?絶望から逃れることは出来ないぞ。休息の時だ。)
(休息?)
(そうだ。ほんの少しまどろむ。皇帝のもとにかえるのだ。)
(それは死だ!)
(何を躊躇している。お前の希望はそこにしか無い。)
怒声が肉体を打った。衣を剥ぎ取られたような心細さを覚え、裸になったわが身を省みると、曖昧さに埋もれた臆病者に他ならなかった。
マイヨールは子供のように泣いた。