9.
授業が終わり、いつも行く時間に遠山さんのマンションに着いた。
いつもだったら、彼がすぐに勢いよくドアを開けてくれる。けれど、今日は二、三度チャイムを押してみるも、何の反応もない。
珍しく留守にしているようだ。
私は、しばらく開かないドアを見つめていた。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
人参を無駄にしてしまうし、また明日来てみようと、その日は諦めて帰ることにした。
翌日、昨日と同じ時間帯、昨日と同じように玄関のチャイムを押す。
反応がない。
しばらくマンションの前で待ってみたが、やっぱり遠山さんが現れる気配はなかった。
二日も続けて、彼は一体どこへ行ってしまったのだろう?
それから人参を駄目にしないという理由の元、私は更に翌日、翌々日と続けてマンションに通った。もう、半分ヤケになっていたのかもしれない。
結局、月曜から四日間訪れたが、遠山さんがドアを開けてくれることは一度もなかった。
仕方がないので、人参は腐ってしまう前に母にあげた。
シエロやセージのことを知らない母は、当然、何で私が人参なんて買ってきたのか追及してきたけど、そこはβカロチンが不足している気がして……と強引に誤魔化す。
もうはっきり言って、人参なんてどうでもよかった。
彼は旅行に行ったのかもしれない。そう考えてみる。でも、シエロとセージが居るから余程のことでもない限り、そんなことをするとは思えず、自分を納得させることすらできない。
私が遠山さんのマンションに通うようになって、四カ月。今までこんなことは一度だってなかった。
例え留守でも次の日は必ず居たし、私がいつ来るか分からないから、極力来そうな時間帯はマンションに居てくれたように思う。
それとも、毎日夕方のこの時間帯に動かなければならない重要な仕事でも入ったのだろうか。
明後日は学校が休みだから、午前のうちに訪ねてみようと思った。
彼に何か大変なことが起こったのかもしれない。不安になる。
金曜、テンション低く廊下を歩いていると、背後から声を掛けられた。
振り向くと、隣のクラスの久野が、困ったような顔で私を見ていた。
「若宮、ちょっといい?」
久野とは中学の時、同じクラスになったことがある。ただ、高校に入ってからはクラスが違うこともあって、滅多に話をすることもなくなっていた。
「どうしたの? ……久しぶりだね」
「みさとと喧嘩してるんだって?」
私は彼が中学の頃、みさとちゃんと付き合っていたことを思い出した。
久野はお堅い黒縁の眼鏡を掛けているけど、つるりとした肌は透き通るように白く、男なのに可愛さと綺麗さを持ち合わせている。その中性的な雰囲気のせいか、女子生徒からの人気はかなり高い。みさとちゃんはつくづく面食いだなぁと思う。
「久野、もしかしてまだみさとちゃんと続いてるの?」
私が逆に質問すると、
「まさか!! とっくに終わってるよ。今はただの友達。いや、さ、正直最近は連絡も取ってなかったんだ。久しぶりに電話がきたと思ったら若宮がどうしてるか、だろ? なんか様子もおかしいし、ちょっと、まぁ……つまり、心配でさ」
と焦ったように返してきた。
「久野には関係ないじゃない。そんなに心配なら、久野がみさとちゃんの側に居てあげれば?」
私は攻撃的になって、そう言い放つと、彼から背を向けその場を去った。
昔の男にまで頼って、一体彼女はどうしたいというのだろう。あの様子では、久野だってみさとちゃんにまだ未練があるように思える。
このままでは、私はどこまでもみさとちゃんを嫌いになっていってしまう。どこまでも嫌な人間になってしまう。
嫌な人間……。
遠山さんも、私の嫌なところを見抜いて、それで私を避けているのかもしれない。居ないのではなくて、居留守を使って私を拒絶しているだけかもしれない。
一方で、あの優しい遠山さんが……いつ来ても構わないと、そう言ってくれた遠山さんがそんなことをするとは思えなかった。
思考が、マイナスになっている……。いくらなんでも悪い方に考えすぎた。
大きくため息をつく。
とにかく明日もう一度、人参を買って彼のマンションに行ってみようと思った。
土曜、午前十時すぎ。
あんまり早くて、起こしてしまっても申し訳ないので、妥当だと思われるこの時間に彼のマンションにやってきた。
ドアが開くまで、大分時間がかかった。いつもの十倍くらいは待ったと思う。
ゆっくりと開いたドアから見えた遠山さんは、心なしかやつれているように見えた。
それでも、ようやく彼の姿を確認することができて、私は安堵する。
「何度か来たんです」
開口一番に言った。
毎日来ていたなんて、ストーカーのようでとても言えなくて、控えめな言い方をしてしまった。
「ごめんね」
遠山さんは、小さく掠れた声で言った。
「あの、どこかに行っていたんですか?」
「……海に」
「海ですか。旅行ですか?」
遠山さんは頷くでも否定するでもなく、少しだけ笑った。
「これ、シエロとセージに」
私は買ったばかりの新鮮な人参が入っている白い袋を、遠山さんの前に差し出す。
瞬間、遠山さんは悲しい顔をした。
「上がって。お茶……淹れるよ」
そう言う彼の声は更に小さく、聞き取るのがやっとだった。