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おとうと  作者: 深月咲楽
6/9

第5章

(1)


「ああ、なるほど。そういうわけやったんか」

 私達の話を聞いた森野が、大きく溜息を吐いた。

「それで色々と聞かれる羽目になったってことやな、俺らが」

「すんません」

 私の隣で、樹がペコペコと頭を下げる。

 ここは商店街のはずれにある居酒屋だ。

 栄養士の小山が亡くなって以来、食堂の方も機能しておらず、寮住まいの社員は外食を余儀なくされている。大抵は寮の近くのファミレスかコンビ二弁当で済ませているらしいのだが、それにもいい加減飽きているということもあり、森野が行きつけの居酒屋に寮住まいの面々――都竹、岡安、樹を連れてきたということらしい。

 それなら、別に私まで呼ばれる必要はないと思うのだが、「未玖探偵も」などという迷惑なリクエストがあったらしく、こうして参加させられる羽目になってしまった。

 昨夜の野村刑事達と私達との話し合いを受け、今日、みつともSC関係者に対して詳細な事情聴取が行われたそうだ。そこで、どうしてそんなことになったのか、今度は樹が昨夜の経緯について「事情聴取」されていたのだ。

「僕もたしかに気にはなってたんですよねえ。高梨さんのビールが噴き出さへんかったってこと」

 岡安がグラスを片手に、森野の方を見る。彼はお酒がまったくダメなので、もっぱらウーロン茶を傾けている。

「清人さんが蓋を開けた時、お前、思いっきりビールかぶっとったもんなあ」

 森野がからかうように返す。

「ほんまですよ。でも、高梨さんがビールを開けた時には、まったく噴き出さへんかったでしょ? 僕の心掛けが悪いとか何とか、みんなにからかわれて。せやけど、高梨さんが開けたビールは床に落ちたものではなくて、後で摩り替えられたもんやとしたら、僕の心掛けは関係なかったってことや」

 岡安が苦笑した。

「岩田さんがビールを落とした後、森野さんが一緒にビールを拾われたって聞いてるんですけど。その時、岩田さんに不審な動きとかってなかったんですか?」

 都竹が口を挟む。

「ああ。俺も思い出そうと思うねんけど、ビールを拾う方に気をとられとったし、清人さんの動きまで覚えてへんねんなあ」

 森野が困ったような表情を作る。

「清人さんが飲みはったビールは、俺が拾ったビールやってん。最後の1本をテーブルの上に置こうとしたら、すまんなあとか言うて、それを直接手に取りはったし」

「それが、噴き出したっていうビールですね? ということは、それには青酸カリは含まれていなかったってことになりますよね」

 私が確認すると、森野は頷いた。

「ああ。せやけど、それ以上のことは何とも言われへんわ。清人さんが摩り替えたかもしらんって言われても、俺自身は見てへんわけやし、いい加減なことを答えることはでけへんし」

「テーブルの上に置かれてから、摩り替えられたって可能性はありませんかねえ」

 私が尋ねると、森野と岡安は顔を見合わせた。

「いやあ、その隙はなかったように思うけど……。岡安はどう思う?」

「さあ。僕はトイレに行ってたんで何とも……。ただ、テーブルの上で摩り替えられたんやったら、誰か見てそうな気がするなあ」

「それに、清人さんがビールを手にしてから、高梨さんがビールを開けるまで、そんなに時間はありませんでしたしね。摩り替えるのは難しかったんちゃうかと、俺も思うんですけど」

 樹が口を挟んだ。

「となると、やっぱり、摩り替えるチャンスがあったのは、テーブルの下ってことになりそうですね」

 私が言うと、都竹がからかうように森野を見た。

「まさか、森野さんが摩り替えはったなんてことはありませんよねえ?」

「うん、実は……。って、おい!」

 森野は拳骨を作って都竹を殴るフリをした。低い笑いが起こる。

「それにしても、高梨さんの胸のポケットにあった入れ物も、不可解ですよねえ。無差別殺人に見せかける細工をしておきながら、自殺に見せかけようともしてるみたいで。

 あの時、僕は未玖さんと一緒に外に出てたんで、よくわからへんのですけど……」

 都竹が真面目な表情に戻って、他の3人を見回した。

「実は、俺もよくわかれへんねんな」

 森野はそう答えると、手羽先の照り煮と格闘している岡安に声をかけた。

「なあ、岡安。高梨さんが倒れはった後、一番近くにいてたんは誰やった? 俺はすぐに守衛室に向かったし、その場を見てへんねんや。一刻も早く救急車を呼ばなアカンと思ってな。その後は、守衛さんと一緒に表で救急車を待ってたもんやから」

 岡安は汚れた手をおしぼりで拭いながら、顔を上げた。

「たしか、岩田さんが高梨さんの頭を支えて『しっかりしろ』とか叫んではって。反応が無いみたいやったし、僕は急いで水を持ってきて、高梨さんに飲ませようとしたんですけどね」

 岡安がほっと息を吐く。

「倒れはったのを見て、てっきり急性アル中かと思ったんですよね。口から血が出てたんは、倒れた時にでもどこかで打ちはったんかなとか。まさか青酸カリを飲まされてるなんて、思いもせえへんかったし」

「ああ、そう言えば、小山さんも、濡れたおしぼりを額に当てたりしてはりましたよねえ」

 樹も、パニックの中で見たことを、少しずつ思い出してきたようだ。岡安は黙って頷いた。そして、グラスを手にとり、残っていたウーロン茶を飲み干すと、ようやく口を開く。

「まあ、他のメンバーも、高梨さんのベルトを緩めたり、シャツのボタンをはずしたりしとったからなあ。一番近くにいたのが誰かって言われても、ちょっとなあ」

「その時、誰か不審な動きをしてたとか、気付かへんかったか?」

 森野に尋ねられ、樹は恥ずかしそうに頭をかいた。

「さっきも言いましたけど、俺、高梨さんの口の端から血が出てるのんみて、軽くパニクってたんですよ。せやから、細かいとこまではちょっと」

「そうやったな。岡安は?」

 話を振られた岡安も、小さく首を横に振る。

「手がかりなし、か」

 森野が少し残念そうな表情を作った。重苦しい空気が場を包む。

「ところで、その大西君を最後に見たっていう店員さんやけど」

 都竹が話題を変えた。わざと明るい声を出しているのは、雰囲気を変えるためだろう。

「ええ、何ですか?」

 私が尋ねると、都竹は首を傾げた。

「ほんまに顔は見てへんのかなあ。大西君が見つめていたっていう二人組の」

「ええ。もし見ていたとしても、覚えてへんのとちがいますかねえ。1年以上も経つわけですし」

「せやけど、大西君のことは覚えとったんやろ?」

 岡安が口を挟む。

「事件があった時にメモを取ってはったみたいやし、印象に残ってたんとちがいますかねえ。名前でも呼ばれたってこともあったでしょうし」

 そこでは、樹が答えた。

「なるほどな。せやけど、それが『キヨトさん』の間違いやったんちゃうかってことやな」

 森野が腕を組んだ。

「で、その二人組やけど」

 岡安が樹の顔を見る。

「片方は岩田さんとして、もう片方は誰やったんやろう」

「さあ。背が高い人とそうでもない人のコンビやったって話やったよな?」

 樹に確認され、頷く。

「背が高い人とそうでもない人、か」

 都竹が眉間に皺を寄せて、皆を見回した。

「高梨さんって、低かったですよね。170なかったような」

「いや、172、3はあったんと違いますかねえ。肩幅があまりなかったし、小さく見えましたけど」

 樹が答える。

「岩田さんって、かなり大きかったんとちがいましたっけ?」

 私が尋ねると、森野が頷いた。

「せやなあ。180はあったやろ」

「いや、180まではありませんよ。僕と同じくらいやったと思うし、178くらいちゃいますか」

 岡安が口を挟む。

「そうか。俺がちょうど高梨と同じくらいの身長やしな。下から見上げる形になるから、ちょっと大きめに見えとったんかもしらんな。あいつ、ガタイもよかったし」

「あれ、樹はどれくらい?」

 私が尋ねると、樹は微笑んだ。

「182や。モデルみたいやろ?」

「背が高いだけでモデルはでけへんねんで。都竹さんくらい、見た目もカッコよかったらええやろけど」

 私も微笑み返す。

「きついなあ、未玖ちゃんは」

 森野が笑う。

「せやから、付き合いたくないって言うてるんです」

 樹が顔をしかめて見せると、再び笑いが起こった。

「都竹さんは190くらいあるんでしょ?」

 私が彼の方を見ると、都竹は頷いた。

「自分でもちょっと、デカ過ぎてイヤやねんけど」

「ゼイタクな悩みやで。俺なんて、女の子にヒールはかれたら、簡単に抜かされてまうねんから」

 森野が溜息を吐いた。

「それはともかく」

 都竹が真面目な口調に戻る。

「背の高い人とそうでもない人の二人組は、岩田さんと高梨さんってことになりそうですかね」

「そうやなあ。どうかなあ」

 森野はそう言って立ち上がると、隣に座っていた岡安に声をかけた。

「岡安、お前も立ってみ」

 岡安がいぶかしげに腰を上げる。

「未玖ちゃん、樹。どうや? 背に差があるコンビに見えるか?」

 彼らの正面にいる私達に向かい、森野が尋ねてきた。そうか。岡安は岩田と同じくらい、森野は高梨と同じくらいの身長だ。比較するにはちょうどよいだろう。

 私は目線を合わせるべく、立ち上がった。

「そうですねえ。まあ、多少は大きさに差があるようには見えますけど……」

 すると、遅れて立ち上がっていた樹も首を傾げた。

「まあ、高い、低いの感覚って人それぞれですしねえ。それに、岡安さんは細身ですけど、岩田さんはガッチリしてはりましたし。身長以上に大きく見えたんかもしれませんよね」

「逆に、高梨さんは小さく見えましたしねえ」

 都竹が付け加える。

「そうやな。感覚的なもんは難しいわな。まあ、一人が清人さんなんは決定的やろし、もう一人は高梨さんと考えて間違いないか」

 森野と岡安が腰を下ろす。次いで、樹と私も座り込んだ。

「せやけど、別に、みつとものメンバーとは限りませんよね? 岩田さん、他に知り合いかっていてはったでしょうし」

 岡安の言葉に、皆押し黙った。

「でも、正也君とリオナさんの携帯は、高梨さんの部屋から見つかったわけですし。高梨さんが二人の殺害に関わっていたのは、間違いありませんよねえ」

 私が言うと、都竹が首を傾げた。

「まあ、そのことで、これらの事件の背景に詐欺事件があると考えられとったわけやしなあ」

 そこでまた、沈黙が辺りを包んだ。ついたての向こうから、他の客達の笑い声が聞こえてくる。

「飲み物かなんか、頼もうか」

 森野はテーブルの上に置かれていた呼び鈴を押した。程なくして店員が顔を出す。

「俺、ウーロン茶」

 森野が声をかける。僕も、と岡安が手を挙げた。

「じゃあ、僕はライムサワーを」

 都竹が言うと、樹が私の方を見た。

「俺、熱燗頼もうと思うねんけど、お前は?」

 私が日本酒好きなのを覚えてくれていたのだろう。

「私も」

 そう答えると、樹は店員に熱燗を頼み、お猪口をふたつ持ってきて、と付け加えた。

「お前ら、ほんまにお似合いやと思うねんけどなあ」

 店員が去った後、森野がそう言って樹と私の顔を交互に見る。私達は同時に首を横に振った。

「妙に気も合うてるしな」

「うん」

 岡安と都竹が顔を見合わせて笑った時、店員が飲み物を持って現れた。それぞれの目の前に注文したものが置かれる。樹がお銚子を傾け、私のお猪口に酒を満たした。

 各々が飲み物を口にしたところで、都竹が話し始めた。

「これまでにわかったことを、まとめてみませんか?」

「これまでにわかったことですか?」

 樹が聞き返す。

「ああ。何や、話がバラバラに動いていて、混乱してもうてんねん」

 都竹が答えた。

「たしかに、少し整理しておいた方がええかもしらんわな」

 森野は頷くと、私達を見回した。

「すべての事件の始まりは、1年前の正也の事件やったな」

「そうですね。渡瀬リオナさんが殺されて、正也が犯人にされて」

 樹が頷く。

「でも、実際にはリオナさんは他の誰かのカノジョやったんですよね。それも、真剣に結婚を考えるほどの関係やって……。

 正也君は、リオナさんのマンションの前にある携帯ショップから、カレシ以外の二人組――岩田さんと高梨さんが出てくるのを見て不審に思い、リオナさんのマンションに様子を見に行った。そこで、リオナさんが殺されているのを発見したってことでしょうね」

 私が答えると、森野が後を継ぐ。

「正也は正義感の強いところがあったしな。おそらく、清人さんと高梨さんに、自首でも迫ったんやろう。そして、殺されて山中に埋められた」

「あの」

 岡安が申し訳なさそうに口を挟む。

「僕が聞いた噂の中に、リオナさんは男からお金をむしり取られていた上に、暴力まで受けていたっていうものがあって……。せやけど、そのひどい男とカレシっていうのが、僕の中で結びつかへんのですよね。大西君が樹君に話した『先輩』っていうのが、リオナさんのカレシやったらって前提ですけど」

「たしかにそうですね。大西君の話から判断すると、その『先輩』っていう人は、リオナさんの過去をすべて知っていながら、それでも真剣に愛してたって印象を受けますよね」

 都竹が頷く。

「もしかして、お金をむしりとっていた男っていうのは、二人組のうちのどちらかなんとちがいますか? それやったら、カレシとは違う人間ってことになりますよね? それに、リオナさんの同僚の人が『滋賀でサッカーやってる人』にひどい目にあってるって、聞いてたみたいですし」

 私が思いついて言うと、樹が頷いた。

「ああ。清人さんも高梨さんも、みつともでサッカーしとったわけやし、『滋賀でサッカーやってる人』っていう条件にも合うわな」

「たしかに、あの二人は、女性を人間と思ってへんところがあったしな」

 森野はそうつぶやくと、ウーロン茶を煽るように飲んだ。複雑な空気が辺りを支配する。

「それはそれとして、リオナさんが殺された理由は何やったんやろう。警察が言うように、振り込め詐欺を巡るいざこざやろか」

 岡安が首を傾げる。私は口を挟んだ。

「もしかしたら、岩田さんか高梨さんから強いられて、加担していた可能性もありますよねえ。でも、結婚したい男性ができて、抜けたいと言ったのかも……。それで、殺害した後に、証拠を消すために携帯電話を持ち出した」

「たしかに、未玖ちゃんの言うことで説明がつくな」

 森野はそう言うと、ウーロン茶を一口飲んだ。すると、樹がお猪口をお酒で満たしながら、首を傾げる。

「高梨さんが殺された件ですけど、もしそのリオナさんが殺された事件と関わっているとしたら、どうして1年も経った後やったんですかねえ」

「犯人が誰なのかによっても、動機はかわってくるやろな」

 森野が腕を組んで答えた。

「今のところ、犯人は岩田さんで決まりなんとちがいますかねえ」

 都竹が続ける。

「犯人は、缶ビールを摩り替えることができて、その上、上着のポケットにケースをしのばせることができた人物ですよね。そうなると、岩田さんしかいてへんでしょう」

「いや、缶ビールを摩り替えた人と、ポケットにケースをしのばせた人は別人かもしらんで。共犯やったらな」

 森野は苦笑しながらそう言うと、ウーロン茶を一口飲み、再び口を開いた。

「まあ、俺としては、同一人物の方が都合がええねんけどな。うっかり缶ビールを拾ってもうたばっかりに、すり替えが可能な人物の一人にされとるわけやし。せやけど、ポケットにケースをしのばせることは無理やったわけや。同一人物やったとしたら、俺ははずしてもらえることになるしな」

「僕と未玖さんはどちらも無理やったし、とりあえず犯人からははずしてもらえるかな」

 都竹が私の方を見て微笑む。

「そうですね。都竹さんに誘っていただいて、助かりました」

 私が答えると、樹が意地悪そうな表情をして私を見た。

「そんなん、わからへんで。お前が高梨さんに何か恨みを持っていて、誰かに殺害を依頼したんかもしらんし」

「おいおい、それやったら、僕も容疑者になってまうやないか」

 都竹が樹に向かって苦笑いする。

「そうですね。すんません」

 樹は笑いながら小さく頭を下げた。すると、岡安が口を開く。

「それにしても、小山さんは何で殺されはったんやろなあ。警察では二人に関係があったかどうかはわかってないって言うてるんやろ?」

「これは俺の考えですけど」

 樹が岡安を見ながら続ける。

「小山さんは、清人さんがケースを胸のポケットに入れるところを見てしまったんとちがいますかねえ。それで、清人さんに自首するように勧めたら、逆に口封じをされてしまった、とか」

「ちょっと待ってくれ」

 都竹が片手を挙げて樹を止めた。

「小山さんが殺害された時、僕は岩田さんを裏の公園で見てるねんで。それについては、どう説明するんや?」

「せやけど、ずっと見とったわけちゃうやろ? ちらっと見かけたくらいなんとちがうんか?」

 森野に口を挟まれ、都竹は黙ってライムサワーを飲んだ。短い沈黙が流れる。その後、都竹はゆっくりと口を開いた。

「たしかに、そうですけど……。僕は、ほんまに岩田さんは、誰かに呼び出されてずっと公園にいてたんちゃうかなあと思うんですよ。もし、僕がジョギングしてなかったら、岩田さんの姿を見かけた人なんていてへんかったでしょう。そしたら、アリバイは成立しませんよねえ。そんな危ない橋を渡りますかねえ」

「たしかに、正也から呼び出されたとか言うてはったしな。嘘をつくとしたら、もっと上手い嘘をつきそうな気はするけどなあ」

 樹が腕を組む。

「なあ、都竹君」

 岡安が声をかけた。都竹が彼の方を見る。

「君は、毎晩ジョギングしてるそうやな」

「ええ。天気のいい日だけですけどね。それが、どうかしたんですか?」

 都竹が怪訝そうに尋ねる。

「時間は決めてへんのか?」

「まあ、大体は決まってますけど。9時頃寮を出て、くるっと周りを回って……」

 そこで、都竹はふと口をつぐんだ。

「な? 岩田さんがお前の日課を知っとったとしたら、その時間に合わせて、さも公園で待ちぼうけをくらっているような素振りはできたわけや」

 岡安に言われ、都竹は小さく溜息を吐いた。

「つまり……僕は利用されたってことですか?」

 岡安が神妙な顔で頷く。樹が、私の空になっていた私のお猪口にお酒を注いだ。

「となると、清人さんは自分で自分の部屋に凶器を隠して、いかにも誰かに騙されたように装ったってことになりますよねえ」

 首を傾げながら続ける。

「清人さんに、そんな器用なことができるとは、思われへんのですけどねえ」

「それに、もし一連の事件の犯人が岩田さんやったとしたら、岩田さん自身の死はやっぱり自殺やったってことになりますよねえ」

 私の言葉に、都竹が頷く。

「ああ。そういうことになってまうよな。もしかしたら、岩田さん、ああやって強がっては見せてたけど、実は罪悪感を持ってはったのかもしらんな」

「たしかにな」

 岡安が腕を組む。

「そう言えば、正也が埋められていることを報告したのは誰かって疑問は、解決してませんよね」

 樹が言うと、森野が口を開いた。

「たしかにな。それに、今回警察にふたつの疑問点を知らせたヤツもな」

 そして、都竹に向かって声をかける。

「なあ、都竹。お前、心当たりはないか?」

「はい?」

 ライムサワーを手にしていた都竹は、驚いたようにグラスをテーブルに置いた。

「僕ですか? 何でまた?」

「いや、お前は、正也と何か関係がある立場なんと違うかなと思ってな」

 森野がいきなり核心を突く。都竹は小さく溜息を吐いて、ちらっと樹の顔を見た。

「もしかして、僕が大西君の兄貴ちゃうかとか、そういう話ですか? それやったら、きっぱり否定したはずですけど」

「そんなら、何で正也の事件のことを調べ回ってたんや? 必要ないやろ?」

 森野が更に追求する。

「ちょっと待ってくださいよ。それは、僕の前にフォワードやってたヤツやし、気になっただけです」

 都竹はライムサワーで喉を潤すと、再び話し始めた。

「それに、それやったら岡安さんかって、何で事件について一緒に考えてるんかって話になるでしょう?」

「え? 僕?」

 いきなり話を振られ、岡安が困惑顔を見せる。

「いや、僕は別に興味があるわけやなくて……。高梨さんが殺されはった時に、たまたま同じテーブルにいてたし、なぜか巻き込まれてもうただけや」

 たしかに、岡安の方から積極的に質問を受けたことはない。とんだとばっちりだ。嫌な空気が流れる。

「都竹、お前、J1のクラブの入団発表、月末やったな」

 ウーロン茶を一口飲んだ後、森野が突然話を変えた。

「え?」

 思わず驚きの声を上げてしまったが、都竹がJ1に移ることを知らなかったのは私だけだったようだ。慌てて口をつぐむ。

 都竹は困惑したように答えた。

「ええ。そうですけど、それが何か?」

「いや、お前、J1に行くのん、あんなに嫌がってたのに、急にどうしたんかなと思ってな。他に、京都の方の企業からも誘いがあったんやろ? お前の性格やったら、そっちを選ぶんちゃうかと思ってたんやけどな」

 森野が腕を組んだ。都竹が微笑む。

「僕にも少し欲が出たってことかもしれませんね。それに、未玖さんからも勧められましたし」

「はあ?」

 予想通り、樹が目を剥いた。

「ああ、お疲れ会の日のことですよね。まあ、あれはねえ、話の流れと言うかなんと言うか、あはは」

 笑って誤魔化してはみたものの、相変わらず樹の視線が側頭部に突き刺さっている。私はお猪口を満たしていたお酒を、一気に喉に流し込んだ。

「せやけど、お疲れ会から、まだ1ヶ月も経ってへんで。よう心変わりしたもんやな」

 森野がなおも食い下がる。都竹の顔にさっと赤みが差した。

「一体何が言いたいんですか?」

「いや」

 森野はゆっくりウーロン茶を飲み干すと、都竹に厳しい視線を向けた。

「すべてが片付いたからとちがうんか? お前は、弟である正也の事件の真相を調べるために、このみつともSCに入った。そして、無事に仇を討った。せやから、みつともを去ることにしたんとちがうんか?」

「仇を討ったってどういうことですか?」

 都竹が気色ばむ。

「お前は、みつともSCに入って、あちこち調べて回った。そして、高梨さんと清人さんが正也の事件に関わっていることを知ったんや。二人の殺害が、正也の事件から1年以上かかってしまったんは、調べがなかなかつかへんかったからとちがうんか?」

「そうなんか?」

 森野の話を受けて、岡安が都竹の腕をつかむ。

「そんなわけないでしょう」

 都竹はそう言うと、岡安の手を振りほどいた。

「高梨さんが殺された時、僕は会場にはいてへんかった。どうやって缶ビールを摩り替えたって言うんですか?」

「清人さんにやらせたんやろ?」

「はい?」

 都竹が大げさに聞き返す。

「さっき、岩田さんも僕にとっては仇やって言わはったところやないですか。それが、今度は共犯者ですか。いい加減にもほどがあるでしょう」

「お前は、共犯者として、清人さんに高梨さんを殺害させたんや。高梨さんが清人さんのことを裏切ろうとしてるとでも言うたんやろう。そして、一緒に高梨さんを殺害する計画を立てることで、清人さんを油断させる。最後に清人さんを自殺に見せかけて殺した。ちがうか?」

「それやったら、小山さんは誰が殺害したって言わはるんですか」

 都竹が挑むように言う。

「お前や。お前が小山さんを殺し、凶器を清人さんの部屋に隠したんや。正也の名前を使って呼び出しておいてな」

「ちょっと待ってくださいよ。僕は、わざわざ岩田さんのアリバイを主張して、彼を釈放させたんですよ。もし、岩田さんに罪をなすりつけたいのなら、そんな面倒なことせえへんでしょう?」

 都竹が呆れたように聞き返す。

「でも、岩田さんが警察に捕まったままやったら、彼を殺すことはできませんよねえ」

 思いついたことがふと口に出た。森野は、私の方を見て頷く。

「そうや。それに、絞り上げられて、高梨さんを殺害した時のことを話されてしまっては、元も子もない。それで、アリバイを主張してやったんや」

「たしかに、岩田さんのアリバイを主張するってことは、都竹君自身のアリバイも証明できるってことになるな」

 岡安がつぶやくように言う。

「ちょっと、みんなして一体何なんですか。何の証拠も無いのに、勝手に僕を犯人に仕立て上げて……。不愉快や。僕は帰ります」

 立ち上がった都竹に、森野が尋ねる。

「何で小山さんを殺した? 清人さんとつるんでることがバレたからか?」

 都竹は無言のまま、壁のハンガーに吊ってあった上着を手に取った。

「何の証拠も無いことや。お前が違うと言うんやったら、それでもええ。せやけど、正也の遺骨だけは何とかしてやってくれ。お前がほんまに兄貴なんやったらな」

 森野が訴えかけるように言う。都竹は上着の内ポケットから財布を取り出すと、中から5千円札を1枚取り出してテーブルの上に置いた。

「おい、都竹君」

 岡安が声をかけたが、都竹は最後まで何も言わず、その場を立ち去った。重苦しい雰囲気に、息が詰まりそうになる。

「たしかに、森野さんがおっしゃったことで、すべての謎が解けますね」

 しばらくして、樹がうめくように言った。すると、岡安が首を傾げる。

「3人の殺害については、これで解決したとして……。リオナさんのカレシって、一体、誰なんでしょうね。大西君の『信頼してる先輩』っていうのは」

「それやねんけど」

 森野が辛そうに前髪をかきあげた。

「もしかしたら、都竹やったんと違うやろか。正也も、事情が事情だけに『兄貴』とは言えずに、『先輩』ってことにしたんとちゃうかな」

「それやったら、都竹さんは正也だけやなくて、リオナさんの仇も討ったってことになりますね」

 樹が腕を組んで溜息を吐く。

「警察には……警察には、話した方がいいんでしょうか」

 あまりの出来事に、混乱が収まらない。私は森野の方を見た。彼は眉間に皺を寄せて首を横に振った。

「いや、都竹が言うとおり、何の証拠も無いし。言ってみれば、俺の勝手な推測や。都竹が否定している以上、俺達が何をすることもでけへんやろ。――あいつには、新しい旅立ちが待ってる。しばらく様子を見守ることにせえへんか」

 私達は、黙って頷いた。


(2)


 11月23日、祝日の夜。ささやかながら、我が家では涼太のお誕生日会が行われた。メンバーは家族プラス樹。ランチを食べ終わり、男性陣がリビングでくつろぐ中、私は母親と共に洗い物の片付けに勤しんでいる。

「それにしても、呆気無い幕切れやったねえ」

 母親がお皿を洗いながら、寂しそうに私の方を見た。

 昨日、比良山中に停められた都竹のスポーツワゴンの中から、彼の遺体が発見された。トランクルームには七輪と練炭の燃えカスが残っていた。死因は一酸化炭素中毒。今のところ、練炭自殺と考えられている。

「うん。ほんまやね」

 言いながら、胸が痛む。一昨日、去っていく都竹を止めなかったことが、果たして正しかったのかどうか、私はまだ結論が出せないままだ。

「それにしても、切ないなあ。都竹さん、正也君の遺体が見つかった場所のすぐそばで、亡くなってはったんやろ?」

 母親が、私の方を見る。

「らしいね」

 フキンでお皿を拭きながら、私はやりきれない思いでつぶやいた。

 都竹が正也の兄だったのかどうかは、彼の両親が亡くなっているため、確認ができないらしい。必要な場合は、DNA鑑定で判断することになるだろうという話を、昨夜聞き込みに来た野村刑事から聞かされていた。

「車のすべての窓が、内側からガムテープで目張りされてたらしいしねえ。ドアにもすべて鍵がかかってたって言うし、今回こそ自殺で間違いないやろうね。七輪も、都竹君がキャンプに行った時にいつも使ってたもんやったって話やし。釣った魚を、嬉しそうに七輪で炙って食べてたって」

 母親が鼻をすすり上げながら続ける。

「その上、運転席のカップホルダーにあった紙コップのコーヒーの中に、睡眠薬が入ってたって話やったし。寝てる間に死ねるように、煽ったんかしらねえ」

 その睡眠薬は、都竹自身が、病院で処方してもらったものと確認されていた。

「若いねんから、生きてたらやり直すことかって出来たやろうに」

「ほんまやね。事情が事情やったわけやし、情状酌量っていうのんも考えられたやろうに……。まあ、良心の呵責に耐えかねたってことなんかもしらんけどねえ。ただ、何となく不思議な感じもするねんなあ」

 私は小さく溜息を吐くと、再び手を動かし始めた。水の流れる音と、食器のこすれる音だけが響く。

「ああ、そうそう」

 しばらくして、母親がタオルで手を拭きながらこちらを見た。すべてのお皿を洗い終わったようだ。

「昨日、お父さんと一緒に満源寺に行ってきたんやわ。ほら、駅の裏にあるお寺やけど」

「ああ、お寺があるのは知ってるけど……。誰か知ってる人のお墓でもあるのん?」

 拭き終わったお皿をテーブルに重ねながら、私は尋ねた。

「なんかな、この辺の無縁仏さんは、全部あそこに祀られてるねんて」

「え、そうなん? 知らんかったわ。それで?」

 先を促す。

「実はね、正也君のお骨も、あそこに納められてるって話を聞いたんよ。それで、お線香の1本でもあげてあげようかなと思って、行ってみてん。そしたら、正也君、永代供養の依頼があって、無縁仏さんにはなってへんかったんよ」

 私の拭き終わったお皿を食器棚に片付けながら、母親が言った。

「え? どういうこと?」

 最後のお皿を拭いていた手が止まる。

「住職さんのお話では、正也君の遺骨がお寺に納められてすぐ、現金書留でお金が送られてきてんて。中にお手紙が入ってて、正也君を永代供養してやってくれって」

「差出人は?」

「電話番号もデタラメやったし、住所も嘘やったみたい。名前は『大西兄』ってなってて、誰かはわかれへんかったらしいわ」

「そう」

 お皿を母親に渡すと、私はフキンを洗い始めた。都竹だろうか。永代供養することで、自分の犯した罪を帳消しにできるとでも考えたのだろうか。

「色々事情があるんやろし、おおっぴらには供養してあげられへんかったんかなあと思うと、なんか切なくて」

 母親が溜息を吐いた時、父親がキッチンに顔を出した。手には、白い箱を持っている。

「バースデーケーキ、配り終わったし、空箱こっちにもってきとくで。ナイフが中に入ってるから、気をつけてな」

 母親に箱を手渡しながら、私の方を見る。

「涼太は紅茶がええらしいわ。俺と樹君はコーヒーな。たっぷり頼むわ」

「うん、わかった」

 私は頷いて、絞ったフキンをハンガーに吊るした。皺を伸ばした後、タオルで手を拭くと、食器棚の前に行く。

「ほんなら、頼むで」

 と一言残して、父親はリビングへと戻って行った。

「コーヒー、たっぷり、ね」

 食器棚の扉を開け、中から大きめのマグカップを5個取り出すと、テーブルの上に並べる。

「せやけど、あれやねえ。みつともSCは、この先どうなってしまうんやろうか」

 母親がコーヒーメーカーの前に立って、また溜息を吐いた。コポコポという音と共に、コーヒーのいい香りが漂ってくる。

 私は黙ったまま、カップのひとつにティーバッグをセットした。

「まあ、正也君の汚名が晴れただけでも、ヨシとせなアカンのかしらねえ」

 母親が、お盆の上にマグカップを並べながらつぶやく。

「そうかもしらんね」

 私は頷くと、ポットを押してカップにお湯を注いだ。ワインレッドに模様が広がると同時に、オレンジペコの芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。

「私もお紅茶にしようかな」

 ティーバッグを引き上げながら言うと、母親が困ったような顔をした。

「もうコーヒー入れてしまったで。2杯目にして」

「わかった」

 私がお盆にお紅茶入りのカップを載せると、母親がそのお盆を手にキッチンを出た。

 それぞれの前に配り終わってテレビに目を遣ると、ちょうどニュースで都竹の自殺について報道されているところだった。先日の天皇杯でのゴールシーンが流されている。

「ほんまに、これだけの技術があったわけやからな。残念やなあ」

 父親が悲しそうにつぶやく。ちらっと樹の方を見ると、彼は複雑そうな表情を浮かべて画面を見つめていた。やり切れないのは、私と同じなのだろう。

 都竹の話題が終わると同時に、父親がテレビを消して樹の方を見た。

「それで、樹君は、どうすることにしたんや?」

「一応、大阪のJFLのクラブから声をかけてもらってるんです。みつともSCがどうなるかわかりませんし、俺自身も悩んでいて」

 樹が答える。

「そうか。まあ、ゆっくり考えたらええわ。樹君自身の人生やねんからな」

 父親はそう言うと、目の前に置かれていたマグカップを手に取った。何となくしんみりとした空気が流れる。

 私は雰囲気を変えるべく、わざと明るい声を出した。

「ねえ、樹。あんた、涼太に何か持ってきてくれたんとちがうの?」

 食事前に渡すと大はしゃぎになってしまうやろからと、樹は紙袋を涼太の目につかない所に隠していた。

「ああ、そうやったな」

 樹は立ち上がると、隣の和室の襖を開けた。壁際に置かれていた紙袋を手にして、再び襖を閉める。

「さて、と」

 樹はソファーに腰を下ろした。紙袋の中から、きれいに包装された箱を取り出す。

「はい、涼太。お誕生日おめでとう」

 涼太は樹に駆け寄ると、嬉しそうにその箱を受け取った。バリバリと包装紙を破き、中身を確認して大きな声を上げる。

「うわあ、携帯電話や、携帯電話や! 樹兄ちゃん、ほんまにありがとう!」

 涼太は、文字通り、躍り上がって喜んでいる。

「樹君、悪いねえ」

 父親が頭を下げる。

「いえ。おじさん達、反対してはるって話やったし、出しゃばり過ぎたかなとは思ったんやけど。正也の代わりに僕がプレゼントさせてもらいました。この電話、インターネットはでけへんらしいんで」

 樹が頭をかきながら答える。

「そうか。それやったら、まあ、連絡用ってことでOKやろ」

 父親の言葉に、涼太が満面の笑みを浮かべて樹の方を見た。手には早速、携帯電話を持っている。

 樹は涼太に話しかけた。

「正也の代役が俺では、ちょっと物足りひんかもしらんけどな」

 すると、涼太は不思議そうな表情を浮かべて、私の方を見た

「ダイヤクって何?」

「えっと、誰かの代わりってことやな」

「誰かの代わり?」

 涼太は驚いたように樹の方を見た。

「何で、樹兄ちゃんが正也兄ちゃんの代わりをせなアカンのん? 樹兄ちゃんは樹兄ちゃんやろ? 俺、物足りひんなんて、いっぺんも思ったことないで」

 私と樹は顔を見合わせた。

「ほんまや。涼太の言うとおりやで。誰かの代わりなんてすることないんや。自分は自分やもんな」

 父親が、目を細めて涼太の方を見る。涼太はそんな大人達の想いなど気付かない様子で、携帯電話を格闘していた。

「お、電話帳が出てきた。樹兄ちゃんの電話番号、教えてや。メモリに入れとくし」

「ああ、ええで」

 樹が嬉しそうに答える。

「ちょっと、涼太。私のは聞かへんのかいな」

 私が尋ねると、涼太は呆れたように言った。

「家に帰ったら毎日会えるやん。何で番号入れとく必要があるねん」

 もっともだ。もっともだが、どうにも可愛くない。私は思いっきりあかんべえをした。

「まったく、そんな顔してるからモテへんねんで。樹兄ちゃんにまで嫌われたら、どないするねん」

 涼太がませたことを言う。

「涼太、いい加減にしなさいよ」

 母親が横から、涼太の頭を小突いた。

「痛いなあ。せやけど、正也兄ちゃんが前に言うててんもん。樹兄ちゃんはほんまにええヤツやし、未玖ともお似合いやって」

 ああ、悲しき勘違い。涼太は、私の気持ちに気付くこともなく、続けた。

「なんか、正也兄ちゃんな、高校の時まで、信頼できる人には一人も会われへんかってんて。せやけど、みつともに入って、樹兄ちゃんに会って、初めて人を信じられることができるようになったって」

「そうか。正也のやつ、そんなふうに思っててくれたんか」

 正也のことを思い出したのだろう、樹が目をうるませて答える。

「うん。でも、ほんまに信じられる人は、樹兄ちゃん入れても二人しかいてへんとか言うてたわ。もう一人は職場で知り合った先輩やねんけど、そんなこと超えて信頼してるって。そういう人に出会えたんも、樹兄ちゃんに、人を信じることを教えてもらったからやし、涼太もそういういい友達を見つけんとアカンでって」

「俺入れても二人か。正也らしいわ」

 樹が小さく鼻をすすった。

「別に、親友なんて、数の問題ちゃうしねえ。一人にも出会えんと生きてる人かって、たくさんいてると思うで」

 母親の言葉に、父親が頷く。

「ほんまやで。正也君は、樹君に出会えてほんまによかったと思うで。やっぱり、心から信頼できる人がいるといないとでは、人生の楽しさが違うからなあ」

「そんなもんかなあ」

 樹が照れ臭そうに微笑んだ。

「信頼できる人……」

 私は思わず目を閉じた。何かが引っかかる。何かが……。

「未玖、どうかしたか?」

 樹が気遣うように私に声をかけてくる。

「あ、ううん。何でもない」

 私はそう答えた後、廊下の方を指差した。

「ちょっといい?」

「ああ」

 樹が頷くのを見て、廊下に向かう。樹が後を付いてきた。廊下に出ると、襖を閉める。

「どないしたんや?」

 樹が怪訝そうに尋ねてくる。

「うん、実は、正也君のお骨のことやねんけど」

「ああ。満源寺に納めてあるって上の人から聞いたし、事件が片付いたらお参りしようと思っとったんや」

「そう」

 私は頷いた。

「さっき、母親から聞いてんけど、『大西兄』を名乗る人から送金があって、永代供養してもらってるみたいやで」

「え? ほんまか?」

 樹が驚いたように目を大きくする。

「明日にでも、行ってみよか」

「ああ」

 私の提案に、樹が頷いた。


(3)


 満源寺は比叡山の麓には珍しい真言宗の寺院らしい。門を入ってすぐのところに本堂があり、奥に進むと供養塔を中心に配した墓地が広がっていた。

 午前8時。辺りを覆っていた朝もやも晴れ、頭上にはさわやかな青空が広がっている。

 私達は本堂に顔を出した。壁も天井も黒く煤けており、土間を上がったところには重厚なちゃぶ台がしつらえられていた。そこが応接間になっているようだ。その後ろにある襖から奥が、プライベートな空間になるのだろう。

 土間から上がり框に手をかけて、中を覗く。右手が大きな板間になっており、中心に護摩壇と思しき囲みがあった。その奥には不動明王の仏画が掛けられている。

 本堂の中に、人がいる気配はなかった。

「やっぱり、早すぎたんと違う?」

 樹に言うと、彼は首を横に振った。

「お寺の朝は早いもんや。モタモタしてたら、坊さん、檀家まわりに行ってまうで」

 そして、正面の襖に向かって大きな声を上げる。

「すみません。どなたかおられませんか」

「はいはい」

 すると突然、背後から声をかけられた。驚いて振り返ると、作務衣を着た年配の男性が立っている。

「ご住職さまですか?」

 私が尋ねると、彼は微笑んで頷いた。

「朝早くから感心ですな。どうぞ、上がってください」

 そして、草履を脱ぐと、框を上がって行った。樹と顔を見合わせる。

「それじゃあ、失礼します」

 樹は頭を下げると、靴を脱いだ。私も後に付いて上がり、土間の方を振り返って二人分の靴をそろえる。

 立ち上がって応接間を見ると、樹は既に腰を下ろしていた。ちゃぶ台の向こう側には、住職が座っている。

「失礼します」

 私は、樹の隣に置かれていた座布団に腰を下ろした。

「今日はどういったご用件で?」

 住職が口火を切る。

「あの、実は、大西正也君のことで……」

 樹の言葉に、住職は微笑んだ。

「ああ、何かの事件に巻き込まれてしまわれた方ですね。こちらでご供養させていただいていますよ」

「どなたかから、永代供養のお申し出があったって、伺っているんですけど」

 私が口を挟むと、住職は頷いた。

「ええ。ただ、ご住所も電話番号もデタラメやったんで、どういった方かはちょっとわからへんのですよ。『大西兄』となっていたし、多分、お兄さんなのではないかと思うんですけどねえ」

 住職は、小さく咳払いをして続ける。

「迷ったんですが、せっかくのお申し出ですしね。永代供養塔の中にある、個別の納骨室にお骨を納めさせていただきました」

「個別の?」

 樹が尋ねる。

「ええ。後でお参りいただいたらと思いますけどね。無縁仏さんは、供養塔の地下にある合同の納骨堂の方にお骨を納めさせていただくんです。せやけど、永代供養のお申し出があった場合には、個別の納骨室に納めさせていただくことになっていましてね」

 以前、何かのニュースで、ロッカーのように仕切られた納骨堂の内部を見たことがある。おそらく、そういった形になっているのだろう。

「そうですか」

 頷く私の隣で、樹が意を決したように身を乗り出した。

「あの、ご住職。実は、お願いがあるんです」

「何でしょうか?」

 住職の顔が引き締まる。

「その……正也の…大西君のお兄さんからの手紙、僕に見せていただけませんでしょうか」

 樹は頭を下げた。

「いや、そないご丁寧にしてもらわんでも」

 住職が手を差し出して、樹の肩を掴む。

「今、持ってきますのでね」

 住職はそう言うと、背後の襖を開けて中に入って行った。

 無言のまま、待つこと3分。住職は便箋を持って現れた。

「ほんまは、現金書留に信書を入れてはダメらしいんですけどな。こうして、お手紙が入ってましたんや」

 手渡された便箋を広げる。しかし、その内容を見て、樹は落胆の表情を浮かべた。

「パソコンで作られてるわ。これでは、筆跡はわかれへんなあ。都竹さんやったら、同じ部署やし、文字を見たらはっきり確認できると思ってんけど」

「ほんまやね」

 隣から覗き込むと、思わず溜息が出た。すると、住職は無言のまま立ち上がり、襖の向こうに消えた。

「気い悪くさせてもうたかな」

 樹が不安そうな顔でこちらを見る。

「うん。どないしよ」

 急なことで、手土産ひとつ持ってきていない。お店のお酒でも1本、持ってくればよかった。いや、お寺だからアルコールはダメか。

 あれこれ考えているうちに、襖が開いて住職が顔を出した。手には茶色の封筒を持っている。

「よかった。現金書留の封筒も置いておいたんですわ。これやったら、筆跡も確認できますでしょう」

「ありがとうございます」

 樹がちゃぶ台に額をつけんばかりに頭を下げる。

「いやいや、そんなにせんでも」

 住職は笑いながら、封筒を差し出した。そこには、ボールペンで書かれた文字が並んでいる。

 樹はそれを両手で受け取ると、じっと字面を眺めた。そして、そのまま黙り込んだ。

「樹?」

 声をかけると、樹はそっと目を閉じた。手が小刻みに震えている。

「どないしたん? 都竹さんの字で間違いないのん?」

 確認するが、彼はウンともスンとも言わない。

「なあ、何か答えてや」

 樹の腕を引っ張ると、彼はようやく目を開けた。

「アカン。俺、とんでもない勘違いをしてもうた」

 そして、ゆっくりとこちらを向いた。心なしか顔色が悪い。

「この字、都竹さんの字と違う」

「え? それやったら、誰の?」

 私の言葉に、樹はゆっくり首を横に振った。

 その時、私のバッグから元気な音楽が流れ始めた。365歩のマーチ。携帯の着信音だ。

「お前、エライ曲を使ってるねんなあ」

 樹が呆れるように言う。仕方ない。「一日一歩、三日で三歩」が私の座右の銘なのだ。

「すみません。マナーモードにしとくの忘れてて」

 私は微笑む住職に頭を下げると、バッグから携帯電話を取り出した。モニターには広美の名前が映し出されている。

「失礼します」

 私は携帯を片手に立ち上がった。電話に応答しながら、土間に向かう。

「もしもし」

 私は框に腰掛けると、靴に足を入れた。かかとを踏んだまま立ち上がり、本堂の外へと出る。

「もしもし、朝早くにごめん。広美やけど」

 電話の向こうから、慌てたような声がする。

「どないしたん?」

 私が尋ねると、広美はすぐに本題に入った。思いがけない内容に、言葉を無くす。

「その話、警察には?」

「まだ話してへんねんて。確実なことではないし……。希世子ちゃんも迷ってるみたいで」

「そう。もし間違っててもかめへんし、一応話してもらった方がええかも。野村刑事って人、私の知り合いやし」

 私の言葉に、広美は「伝えておく」と言い、電話を切った。私も携帯電話を畳み、ゆっくり空を見上げる。

 涼太の話を聞いた時によぎった違和感、封筒の文字、そして広美からの電話。

 私の中で、はっきりと何かが形になるのを感じた。

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