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おとうと  作者: 深月咲楽
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第4章

(1)


 家に戻り、勝手口を開けた途端、涼太の泣き声が聞こえてきた。

「ただいま」

 そっと居間を覗くと、涼太がカーペットに座り込んで泣きじゃくっていた。正面のソファには、怒り顔の両親が座っている。

「あら、未玖、おかえり」

 私に気付いた母親が、険しい表情のまま立ち上がる。涼太は一瞬泣き止んだが、私の姿を確認した後、更に大声で泣き始めた。

「どうしたん?」

 私のそばに寄ってきた母親に尋ねる。

「それがね。涼太、携帯電話が欲しいって駄々こねて、駄々こねて」

「携帯電話? 小学生が何に使うんよ」

「今時、携帯電話も持ってへん小学生なんて、俺くらいなもんや」

 私の言葉が聞こえたのか、涼太が大声を出す。

「そんなわけ無いやろ? 私かって、携帯電話を持ったんは、大学に入ってからやで。それも、自分でバイトして買うてんから」

 私が怖い声で言い返すと、涼太はわめき出した。

「もうすぐ誕生日やねんから、プレゼントにちょうだいって言うてるだけやんか。何で携帯電話って言うだけで、頭からアカンって決め付けるねん」

 涼太の誕生日は11月23日。あと1週間ちょっとだ。

「せやから、小学生にはまだ早いって言うてるんや。今はいろんな犯罪もあるし、危険な目に遭わされたらどないするねん。金かってかかるねんぞ」

 父親が諭すように言うが、涼太は引かない。

「プリペイドやったら、後で高い金を請求されるってことはないやろ? インターネットかってできへんわけやし、問題なんてないわ」

「あんた、細かいことをよう知ってるなあ」

 私が呆れ気味に言うと、涼太は手の甲で涙を拭いながら顔を上げた。

「去年の誕生日、正也兄ちゃんが携帯電話をプレゼントしてくれる約束になっててん。プリペイドで、ネットでけへんやつやったらええやろって」

「去年の誕生日?」

 父親が聞き返すと、涼太は鼻をすすり上げながら頷く。

「そうや。結局、買うてもらわれへんかったけど……。俺、1年間我慢してんから、そろそろええやろ?」

 よくわからない理屈だが、涼太の中では筋が通っているのだろう。

「正也君はまた、何でそんな約束を……」

 父親が困ったようにつぶやく。

「去年の秋の小学生サッカー大会の時、正也兄ちゃん、俺がシュート決めたら、誕生日に携帯をプレゼントしてくれるって言うててん」

「ああ、それでアンタ、居残りまでして、シュート練習しとったんかいな」

 母親が呆れ声で言う。

「そうやで。俺、頑張ってんから」

 涼太は昔から、物に釣られやすい傾向がある。

「そう言えば、お前、ええシュート決めとったなあ。結局は、逆転されて負けたけど」

 父親が顎に手を当てて溜息を吐いた。

「うん。せやけど、正也兄ちゃん、よう頑張ったなあってほめてくれて。誕生日に携帯くれるって約束したんや。それやのに、兄ちゃん死んでもうて……」

 涼太がまた、思い出したように泣き始める。居間には何ともいえない空気が漂った。

「プリペイドの携帯……」

 私は思いつくことがあり、母親に向かって尋ねた。

「ねえ、秋の小学生サッカー大会って、いつやったっけ?」

 私の言葉に、母親が答える。

「たしか、去年は10月26日やったんちゃうかな。商店街の婦人会と重なってしまって、困ったのん覚えてるし」

「10月26日……」

 正也が京都でプリペイド携帯を買った後、行方不明になったのは、翌27日だったはずだ。私はバッグを手に、2階へと駆け上がった。

 部屋に入ってドアを閉めると、急いで樹の携帯に電話をかける。

「もしもし」

 樹が出るや否や、私は話し始めた。

「正也君が、新しくプリペイド携帯を買うた理由がわかってん。あれ、涼太にプレゼントしてくれるためのものやったんやわ」

「は? どういうことや?」

 困惑したような樹の声が聞こえてくる。私は、今の涼太の話をして聞かせた。言いながら、気分が高揚してくるのがわかる。やっぱり、正也は悪いことができる人間ではなかった。そのことが、無性に嬉しかった。

「そういうことか」

 しかし、受話器の向こうから聞こえてくる樹の声は、意外にも沈んだものだった。

「どうしたん? 嬉しくないのん? 正也君は、警察が言うような悪い人ではなかったんやで。私達が信じてる通りの人やったんやで」

 私は訴えかけたが、樹は何も答えない。

「正也君は、涼太のために携帯電話を買いに行った。そこで、何らかの事件に巻き込まれたんや。詐欺に関わっていたからと違う。そのことが、はっきりしたんやで」

「たしかに、正也が詐欺のために携帯を買うたんちゃうのは、俺もよかったと思うで。せやけど、涼太の立場はどうなる? 自分の携帯を買いに行ったせいで、正也が殺されたなんてことになったら、涼太、傷つくと思うで」

 樹に静かに言われ、はっとする。

「そうか。涼太が……」

 盛り上がっていた気持ちが一気にしぼむ。すると、樹が慌てたように付け加えた。

「せやけど、携帯を買った後、正也がリオナの家に行ったのは、間違いないやろう。リオナの家から走り去る正也を、目撃した人もいてるわけやしな。もし携帯を買いに行ってなかったとしても、リオナの家を訪ねとったかもしらん。正也が事件に巻き込まれたのは、携帯電話を買いに行ったせいとは限らへんわな」

「たしかに、今回のことではっきりしたことは、正也君が新しい携帯電話を買った理由が、詐欺に利用するためではなかったってことだけやもんね。そのことがきっかけになって、殺されたのかどうかはわかれへんわけやし」

 私は自分に言い聞かせるように言った。すると、樹が答える。

「その通りや」

 そして、少し間を空けると続けた。

「お前、明日はヒマか? 一度、その携帯電話の店に行ってみたらどうかと思うねんけど」

「うん。特に用事は入ってへんで」

「そうか。それやったら、京都行きの電車に乗り合わせよか。10時にお前んとこの駅に着くやつでどうや?」

 京都に10時半頃到着する電車だ。

「わかった。一番後ろの車両に乗って来てくれる? 私もそこに乗り込むし」

「よっしゃ。ほんなら、また明日な」

 樹の携帯が切れる。私も携帯を切ると、ベッドに体を投げ出した。


(2)


 それほど広くない携帯ショップの中は、多くの人でごった返していた。番号札を手に、所狭しと並べられている携帯電話を見ながら時間を潰す。電話とメールしか利用しない私は、新機種の説明に目を通してもさっぱり意味がわからない。

 ウンザリしながら樹の姿を探すと、彼は最新の機種を次々と手に取り、熱心に説明書きを読んでいた。そう言えば、樹は携帯電話をよく変えている。樹も「最近の子」なのかもしれない。

 私は、店の隅に置かれたソファに腰をかけた。2つの窓口にかけられた掲示板は「現在『27』・『28』のお客様とお話し中です」となっている。私のカードは『29』。あと1人のはずなのだが、『27』のお客様も、『28』のお客様も、なかなか席を立とうとしない。

 私は小さく溜息を吐きながら、視線を出入り口に向けた。自動ドアに施された派手なペインティングの隙間から、渡瀬リオナの殺害現場となったマンションが見える。彼女の部屋はたしか203号室。ちょうど廊下がこちら側を向いており、ドアが並んでいる様子が窺えた。203号室は、5枚並んだドアの真ん中になりそうだ。

 と、廊下の端にあるドアが開き、男性が出てきた。道の幅が狭いこともあり、顔までよく見える。

「正也も、こうやって時間をつぶしとったんかな」

 いつの間にか私の隣に来ていた樹が、ぼそっとつぶやいた。

「そうかもしらんね」

 1年前、この店の中で、たしかに正也は生きていたのだ。思わず胸が締め付けられる。

 その時、店内に『29』の持ち主を呼ぶアナウンスが響いた。急いで立ち上がり、窓口に向かう。

「あれ、未玖?」

 デスクの向こうには、見知った顔があった。

「いや、広美やんか。ここでバイトしてたん?」

 同じ学部の校倉あぜくら広美。学科が違うので、3回生になってからはあまり話すことは無くなったが、たまに食堂などで一緒になることがあった。

「うん。学生課のあっせんでね」

 広美が微笑む。

「お前の友達なん?」

 私の隣に腰を下ろした樹が、声をかけてきた。

「うん。大学で一緒の校倉広美さん」

「こんにちは」

 広美は営業スマイルで一礼した後、冷やかすように視線を私に移した。どうやら誤解されてしまったようだ。慌てて説明しようとしたところで、樹が口を開いた。

「あ、どうも。俺、望月樹っていいます。いつもうちの未玖がお世話になってます」

 空気の読めない挨拶をしながら、ペコッと頭を下げる。

「いや、『うちの未玖』やって」

 広美はニマッと微笑んだ。

 誤解の上に誤解を重ねてしまったようだ。これは、ちょっとやそっとじゃ解けそうにない。弁解したいのはヤマヤマだったが、この混雑の中、あまり時間をとってしまうのも迷惑だろう。後日、しっかり説明しよう。

 私は座り直して広美を見た。

「実はね、プリペイド携帯のことを聞きたいと思って」

「プリペイド携帯? 未玖、免許証か何か、身分を証明できるもの、持ってる?」

 広美が驚いたように尋ねてくる。

「身分を証明できるものって……。私、免許持ってへんし、学生証やったらあるけど」

 私が答えると、広美は困ったような表情を浮かべた。

「そう。学生証だけではちょっと……。保険証は持ってへん?」

「持ってへんなあ」

「あのお。免許証やったら大丈夫なんですよね? 俺、持ってますし、俺の名義で買うたらええわけですよね?」

 横から樹が口を挟む。

「ええ。それやったら、大丈夫ですけど……。未玖が使うんとちがうの?」

 広美が驚いたように私の方を見る。すると、樹が慌てて説明を加えた。

「実は、こいつの弟の誕生日に、買うてやろうと思ってて。まだ小学校4年生なんですけど、子供が持つには、どういうのがいいんですかね?」

 すると、広美はちらっと私の方に視線を送って微笑んだ。

「プレゼントですか。えっと、プリペイド携帯には2種類あって……。片方は通話の他に通常のメールができるタイプ。それから、片方は通話の他にはショートメッセージサービスだけができるタイプですね」

「ショートメッセージサービスって、電話番号でメールを送るやつですよね?」

 樹が確認する。

「そうです。まあ、どちらもインターネットはできませんから、お子さんに持たせるにはいいですよね。小学4年なら、特にメール機能は必要ないでしょうし、ショートメッセージサービスがあれば十分やと思いますよ」

「そうですね。ほんなら、そっちにしようかな」

 樹がジーンズの尻ポケットから財布を出す。

「ちょ、ちょっと待って」

 私は、慌てて2人の間に割り込んだ。

「今日、ここに来たんは、そういうことやなくて」

「何なん?」

 広美が困ったような顔で私の方を見る。私は周りに聞こえないよう、顔を近づけて声のボリュームを下げた。

「去年、この向かいのマンションで事件があったやろ? その直前に、犯人……って言われている男性が、ここでプリペイド携帯を買ったって聞いてんけど」

 私の言葉に、情報通の広美の目がキラリと光った。

「それが、どうかしたん?」

「実は、その人、私の友達やねん。それで、その時のことが聞きたいと思って」

「私、ここでバイトしてるのん半年前からやし、全くわからへんねんけど」

 広美はそう言って、少し間を空けると続けた。

「ちょっと時間もらえるんやったら、その頃からバイトしてる人に聞いてみよか?」

「うん。頼むわ」

 私が両手を合わせた時、広美の後ろから「いらっしゃいませ」という男性の声がした。驚いて顔を上げると、貼り付くような笑顔をたたえた男性が、こちらを見ている。名札は「店長」となっていた。どうやら、様子を伺いに来たらしい。

「では、プリペイド携帯でよろしいですね?」

 広美がセールス口調に戻ってそう言いながら、すっと背筋を伸ばす。私は座り直すと、気持ちを落ち着けるべく、前髪をかきあげた。

「えっと。免許証をお見せしないといけないんですよね?」

 樹がわざとらしく言いながら、財布を開く。

「はい。お願いします」

 広美が営業用の笑顔を作って、樹の方を見た。

「今、商品をお持ちしますので。免許証の方、コピーをとらせていただいてもよろしいですか?」

「どうぞ」

 樹は、財布から取り出した免許証を広美に手渡した。取得した時の写真らしく、今より幼い雰囲気が漂っている。

「ご購入、ありがとうございます」

 状況を確認して安心したのか、店長は軽く会釈をして奥に引っ込んだ。

「それでは、少しお待ち下さいね」

 広美が席を立つのを待って、樹に声をかける。

「涼太に携帯買うなんて話、聞いてへんで」

「しゃあないやろ、こういう流れになってもうてんから」

 樹はそう言うと、小さく咳払いをして続けた。

「それに、涼太、シュート決めたんやろ? 正也との約束とはいえ、男が一度した約束は守らなアカンからな」

「約束、か」

 涼太の泣き顔を思い出しながら、つぶやく。

「なんてな。ほんまに俺、この間の合コンといい、代役ばっかやな」

 樹が照れたように頭をかいた。

「まあ、そこも樹のいいところなんちゃう?」

 フォローになっているかどうかわかならいが、涼太のことを思ってくれていることだけは間違いないだろう。

 すると、樹は黙ったまま財布の中を覗き、心配そうにこちらを見た。

「ところで、プリペイド携帯って、どれくらいするんかな。俺、今日、あんまり持ってへんねんけど」

 こういう詰めの甘さも、樹の持ち味のひとつだ。

「足らん分は、私が出すからええわ」

 笑いながら答えたところに、広美が戻ってきた。手には、携帯電話の写真が印刷された箱を持っている。

「免許証、ありがとうございました。先にお返ししますね」

 広美は腰を下ろすと、すぐに免許証を樹に手渡した。次に箱を開け、手馴れた様子で内容を説明していく。

 三千円のプリペイドカードを入れても、どうにか樹の所持金で足りた。すべての手続きを済ませて商品を受け取る。

「ほんなら、色々聞いて回っとくしね」

「ありがとう、頼むね」

 広美に頭を下げると、私は席を立った。


(3)


 広美から連絡があったのは、その週の水曜日のことだった。2人とも午後イチが空いていたため、大学前にあるカフェレストランでランチをとることになった。

「それにしても、未玖にカレシがいてたなんて、全然知らんかったわ」

 ランチセットを注文した後、水を飲みながら広美が口を開く。

「ちゃうちゃう。あれは、ただの幼なじみ。カレシなんかとちゃうわ」

 私はおしぼりで手を拭きながら答えた。

「ほんまに? 背が高くてシュッとしてて、スポーツ選手みたいな雰囲気やったやんか。それに、優しそうやし。なかなかおらへんで、あんなに感じのいい人なんて」

 仲人好きのオバサンか。私は苦笑しつつ、おしぼりをテーブルに戻した。

「まあ、ほんまにスポーツ選手やしなあ。三友工業のサッカー部に入ってるねん」

「え? 三友工業って……。今、話題の?」

 広美は一瞬驚いたような顔をしたが、やがて、合点がいったように何度も頷いた。

「なるほどね。あの大西正也って人とは、チームメイトになるんやね」

「え? 何で名前を知ってるの?」

 そこまで話はしていなかったはずだ。私は不思議に思って尋ねた。

「ネットのニュースで調べたんよ。バイトの子にも聞かなアカンのに、名前がわからんかったらどうしょうもないやろ?」

 広美が微笑んだ時、ランチが届いた。

 ほうれん草のキッシュにミートパイ、水菜たっぷりのグリーンサラダ。ドレッシングはレモンとペッパーがよく利いており、さっぱりといただける。スープはシンプルなコンソメ。浅めの白いカップが、綺麗な黄金色を引き立てていた。

「黄色に緑に赤。色も綺麗やし、美味しそうやね」

 広美はそう言いながら、ナイフとフォークを手に取った。しばし、料理に舌鼓を打つ。

 デザートを食べ終わり、テーブルの上にはティーカップとティーポットのみが残された。

「うーん、いい香りやね」

 広美がティーカップを持ち上げ、口に運ぶ。

「ダージリンかな。ストレートで飲んでもきつくなくてええわね」

 私はティーカップをソーサーの上に戻しながら微笑んだ。

「ほんまやわ」

 広美もカップを置くと、続けた。

「で、大西さんっていう人の話やねんけどね」

「うん」

 思わず背筋を正す。

「日曜日は忙しかったし、月曜日と火曜日にいた子からしか話を聞かれへんかってんけどね。ちょうどあの事件のあった日、店に出てたっていう子が1人だけいてたんよ」

「え? ほんまに?」

「うん。私らよりひとつ下で、牧田希世子ちゃんって言う子やねんけどね。当時はまだショップに入ったばっかりで、見習い期間中やったらしいねん」

 広美はそう言うと、紅茶を一口飲んで続けた。

「実は、大西さんに携帯を売ったの、彼女やってんて。で、接待した直後に、あんな事件があったやろ? 新聞やテレビのニュースを見て、ビックリしたみたいで。警察に何か聞かれるかもしらんと思って、大西さんが来はった時のこと、メモにとって残してはってんて。せやから、かなり細かいことまで覚えてるみたいやわ」

「そうなん。はっきり覚えてくれてはるんやったら、助かるわ」

 私が微笑むと、広美は内容を話し始めた。

「なんや、大西さんっていう人、開店と同時くらいにお店に入って来たそうでね。プリペイド携帯とカードを買って、プレゼント包装してくれって。希世子ちゃん、プレゼント包装をするのは初めてやったし、なかなか上手く包まれへんかってんて。それでも、彼は文句ひとつ言わずに待っててくれはったそうやねん。手渡した時には、かなり時間が経ってしまったらしいねんけど」

「そう。それで?」

 続きを促す。

「大西さん、一旦お店を出ようとしたんやけど、すぐに振り返りはってんて。自分の使うプリペイドカードも切れかけてるから買わなアカンかったって、照れ臭そうに笑いはったそうやねん。それがショップに来た一番の目的やったのに、ってね」

「そうなんや。正也君、プリペイドカードを買うのが一番の目的やって言うたんや」

 涼太が携帯をおねだりしていなくても、正也はショップを訪れるつもりだったのかもしれない。少し気持ちが軽くなる。広美は頷いて続けた。

「その時にはもう、お店には結構なお客さんが来てはったらしいねん。ほんまは、また番号札をとって順番を待ってもらうねんけど、希世子ちゃん、自分のせいで遅くなってしまって申し訳ない気持ちもあったみたいでね。お先にどうぞって声かけたそうなんやわ。そしたら、『待ってはる人に悪いし、別に急ぐ用事もないから』って言うて、番号札をとって順番待ち用のソファに座りはったって」

 先日、私が座ったソファだろう。律儀なところが、正也らしい。

「その後、希世子ちゃんは受付デスクの当番を終えて、店内の見回りの方に行ったらしいねんけどね。希世子ちゃんがパンフレットの整理を……ほら、入り口のところにパンフレットを立てた棚があったやろ? あれをきれいに並べ直してたら、大西って人に後ろから『希世子さん』って声かけられたらしいねん。驚いて振り返ったら、彼は立ち上がってはってね。目線を外に向けたまま『急用ができたし、ごめん』って言うて、ソファの上に番号札を置いたそうやねん。で、すぐに走ってお店を出て行きはってんて。希世子ちゃん、気になって……」

「それ、正也君に間違いないんかな?」

 広美の言葉を遮って、私は尋ねた。

「うん。新聞で名前を見て驚いて、載ってた写真を確認したけど間違いなかったって。人を殺すようには見えへんかったし、ほんまにビックリしはったらしいわ」

 広美はそう言って紅茶を飲み干し、カップをソーサーに戻した。ティーポットを手に取り、新しい紅茶をカップに注ぐ。湯気が立つとともに、いい香りが私の方まで漂ってくる。

 その中にミルクを少し垂らすと、広美は再び口を開いた。

「希世子ちゃんの言うてること、多分間違いないと思うわ。だって、お客さんから名前を呼ばれることなんて、まず無いしねえ。大抵は、お姉さんとか、店員さんとか……。よくても苗字やわ。それを、後ろを向いているのに、名前を呼んでくれはるなんて。多分、接客した時に名札を見てくれてはったんやと思うけど。私やったら、メモにとってなかったとしても、印象に残ってよう忘れへんわ」

「その希世子さんって、どういう感じの子なん?」

 私は胸の中に込み上げる何かを感じながら、尋ねた。

「そうやなあ。華奢で色白で……。男の人やったら、手助けせんとアカンような気にさせられる感じの子かな」

「そう」

 私は心を落ち着けるべく、カップを口に運んだ。

「未玖、どうかした?」

 広美から心配そうに声をかけられ、「何でもない」と微笑む。

「まだ続きがあるねんで」

「続き?」

 カップを置きながら尋ねる。

「うん。希世子ちゃん、気になって、大西さんが見ていた方向に目を遣ったらしいねん。そしたら、向こう側の歩道を走っていく2人の男の人がいてたそうでね。大西さん、その後を追いかけようとしたみたいやねんけど、すぐに立ち止まりはって。その後、道路を渡って、向かいのマンションに入って行ったそうやねん。

 希世子ちゃん、そこまで確認したところで、店長から呼ばれて店の奥に入ってしまったらしいねんけど」

「2人の男の人? 顔は?」

 思わず身を乗り出す。

「ちらっとしか見てへんみたいやし、よく覚えてないみたいやわ。せやけど、1人は背が高くて、もう1人はそうでもなかったって」

「背の高い人とそうでもない人、ね。で、そのこと、警察には?」

 私が尋ねると、広美は首を横に振った。

「警察なんて、店長に話を聞いて、店内のカメラの映像を確認して、終わりやったみたいやで。結局、希世子ちゃんは話も何も聞かれへんかってんて。いい加減なもんやわ」

「そう。ほんまにありがとう」

 私は広美にお礼を言うと、空になったカップに紅茶を注いだ。


(4)


 絵本愛好会のミーティングが終わり、最寄の地下鉄の駅に着くと、私は樹に電話をかけた。午後7時。そろそろ寮に戻っている頃だろう。

「おう、何や」

 樹の声が聞こえてきた。モニターに名前が出るから、私だということはわかっているだろうが、もう少し出方というものがあるんじゃなかろうか。

 私は、若干あきれながら答えた。

「今日、広美とお昼一緒に食べてんけどね」

 そして、彼女から聞いた話をする。

 話し終わった後、樹はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「正也は、涼太の件が無くてもショップに行っとったかもしらんな。プリペイドカードを買うのが一番の目的やったってことは」

「うん。そうみたいやね。正直、ほっとしたわ」

 涼太の顔を思い浮かべながら答える。

「それで、正也が希世子さんっていう人に言うた『急用』ってやつやけど……。その2人の男に関することやったんかな?」

「それやねんけど……。この間、ソファに座った時、リオナさんのマンションがよく見えたやろ?」

「ああ。そうやったな」

 私の言葉に、樹が答える。

「あの時、リオナさんの部屋と同じ階のドアから、男の人が出て来はってんけど、顔までよくわかったんやわ」

「つまり、正也は、リオナさんの部屋から、誰かが出てくるのを見たってことか?」

「うん。それで、リオナさんの部屋に確認しに行ったんとちがうかな。そしたら、リオナさんが倒れていた」

「驚いて、部屋のあちこちを触ってしまった。そしたら、誰かが訪ねてきたんで、慌てて逃げ出した……ってとこか」

「うん。多分ね。ただ、誰かが普通に出てきただけでは、リオナさんの部屋にわざわざ行こうとは思わへんやろし。よっぽど何か、不思議に思うことがあったんとちがうかなあ」

 私は少し間を空けると、言うまいと思っていた仮説を口にした。

「やっぱり、正也君はリオナさんと付き合うてたんやろか。カノジョの部屋から男性が出てきたら、確認しに行くやろうからね、普通」

 すると、樹がすぐに言い返す。

「いや、それは無いやろ。少なくとも、俺は正也から聞いたことは無いし。それに……」

「それに、何?」

「いや、何でもない」

「何でもないって何よ? 気になるやんか」

 私が突っ込むと、樹は慌てたように答えた。

「えっと……度忘れしたわ」

 ほんとうに誤魔化すのがヘタクソな男だ。思わず苦笑したが、深く追求するのはやめることにした。話したくなったら、話してくれるだろう。

 私は壁に体をもたせかけた。前を通りかかった後輩達と、目で挨拶を交わす。

「せやけど、正也もなかなかやるなあ。初対面の店員さんに向かって、いきなり名前で呼ぶとはなあ」

 樹が、突然話を変えた。私もずっと引っかかっていたことだ。

「ほんまやねえ。私は正也君と2年も一緒にいたのに、ずっと『山原さん』やってんで。納得いかんわ」

 何となく腹が立つ。すると、樹の笑い声が聞こえてきた。

「あいつ、俺とお前が付き合うてるんちゃうかって勘繰っとったみたいやしな。俺の前でお前を名前で呼んだら、悪いとでも思うてたんちゃうか?」

 何という迷惑な誤解だ。知っていたら、全力で否定したものを。思わず溜息が出る。

「それにしたって、初対面の人を名前で呼ぶなんて……」

 どうしても納得できない。

「まあ、たしかに正也は軽い方ではなかったしなあ。いきなり女の子を名前で呼ぶとは考えにくいけど」

「せやろ? 正也君って、どっちかって言うと、人見知りしそうな雰囲気あったし」

「まあ、人見知りってことはないやろけど、たしかに、あまり社交的な方ではなかったわな」

 樹が答える。

「そう言えば正也君の口から、樹以外の人の名前って聞いたことないわ。友達いてたんやろか」

 私が言うと、樹は笑った。

「そら、おったで。森野さんとかとも仲良くしとったし、清人さんにも何やかやでつき合わされとったしな。――ん?」

 樹が急に黙り込んだ。

「どうしたん?」

 私が尋ねると、樹は何か言いかけたが、「いや、まさかな」とつぶやいて、また口をつぐむ。

「何やのよ、さっきから。気になるやんか。言うて」

 私が無理矢理促すと、樹は渋々答えた。

「いや、『キヨコさん』と『キヨトさん』って、発音が似てるなあと思ってな。まあ、ただの偶然やろうけど」

「『キヨトさん』って、岩田さんのこと? そう言えば、正也君も『キヨトさん』って呼んでたんとちがうかったっけ?」

「まあ、清人さんは正也の高校のOBやし。正也をみつともSCに引っ張ったのも、清人さんやしな」

 私の質問に、樹はためらいがちに答えた。

「ってことは、正也君、希世子さんの名前を呼んだんやなくて、岩田さんの姿を見て思わず名前を……」

 電車がホームに入るというアナウンスが聞こえた。もう少し話をしたいところだが、仕方がない。

「ほんなら、後でまた電話するし」

 小走りに階段を降りながら話しかける。

「俺、まだ晩飯食うてへんねんけど、一緒に食わへんか? 駅前の『小竜』で」

 「小竜」とは、商店街御用達の中華料理屋だ。

「わかった。ここからやったら1時間くらいかかるけど、大丈夫?」

 ホームに着き、電車へと急ぐ。

「ああ。時間見計らって行くわ」

「うん。ほんなら、後でね」

 滑り込んできた電車のドアが開く。私は電話を切って乗り込んだ。

 空いていた席に着くと、再び携帯に目を遣った。母親のアドレスを入れ、樹と夕食を済ませて帰ることを書きこんで送信する。

「これでよし、と」

 バッグに携帯を放り込み、目を閉じた。

 正也が見たであろう男は2人。1人は岩田で間違いないだろう。となると、もう1人はリオナの携帯を持っていた高梨である可能性が高い。

 正也は何らかの理由でリオナの部屋に行き、彼女が死んでいるのを発見した。正義感の強い正也のことだ、岩田と高梨に自首でも迫ったのかもしれない。そして、殺害された。正也の携帯電話と涼太に手渡される予定だった携帯電話は、その時に奪われたのだろう。

「ん?」

 バッグ越しに揺れを感じる。中から携帯電話を取り出すと、やはりメールが届いていた。差出人は母親だ。

『刑事さんが来てはるから帰ってきて。樹君も一緒に』

「はあ?」

 思わず声が出た。周りの視線を感じ、慌てて下を向く。とりあえず樹にうちに来てもらうようメールを送ると、再び携帯電話をバッグに放り込んだ。

「ところで、夕食はどうなるんやろう」

 小さな声でつぶやいた時、お腹がクウ~と音を立てた。


(5)


 家に帰ると、そこには2人の刑事と樹がいた。

「おかえり。お邪魔してるよ」

 野村刑事がにっこり微笑む隣で、諌山刑事が無表情に頭を下げる。

「こんばんは。いらっしゃいませ」

 その向かい側には、樹が所在無げに座っていた。飼い主を待っていた子犬のように、すがるような眼差しを私に向けてくる。

「すみません、ちょっとバッグを置いてきますので」

 私は刑事達に向かって微笑むと、キッチンに入った。母親が忙しそうに鍋をかきまぜている。

「あら、未玖、おかえり。ちょっと手伝ってくれる? カレー作ったから、食べながら話したらええかなと思って」

 母親が手を休めずに声をかけてきた。

「うん。わかった。急いでバッグ置いてくるし」

 私はそう言うと、階段を駆け上がった。いつもなら部屋のドアから顔を出すはずの涼太が、今日は全く姿を見せない。普段は鬱陶しいと思っているあの憎まれ口も、聞けないとなると何となく心配になる。私はそっと彼の部屋のドアを開けた。

 すると、ベッドの上で大口を開けて眠っている涼太の姿があった。そして、その下の床では、父親が同じようにパカッと口を開けて眠っている。大方、涼太を寝かしつけに来て、一緒に寝てしまったのだろう。

 私は自分の部屋に入ってバッグを置くと、ベッドの上からブランケットを抱きかかえ、涼太の部屋に向かった。そうっと中に入り、父親の体にそれをかける。そして、電気を消して部屋を出た。

 階段を降りてキッチンに行くと、テーブルの上には空のカレー皿が重ねられていた。

「お父さん、涼太の部屋にいた?」

 母親に聞かれ、頷く。

「うん。涼太とそっくりの顔して寝入ってたわ」

「まったく、しょうのない人やわ。今日は、夕方から涼太のサッカーの練習に付き合ってたし、疲れたんかもしらんけど……」

 母親が苦笑する。

「野村さん達とお話があるんやろ? 起こしてこようか?」

 私が尋ねると、母親は首を横に振った。

「まあ、野村さん達、今日はアンタに用事があって来てはるみたいやし、ええんとちがうかな。練習帰りに2人でハンバーガー食べて来たって言うてたし、お腹も空いてへんやろうしね」

「そうか。ハンバーガーか。私が子供の頃は、身体に悪いとか言うて、全然食べされてくれへんかったのにねえ」

 私はそう言いながら、カレー皿の1枚を手に取った。炊飯ジャーを開け、隣に置いてあったしゃもじでご飯を入れる。

「涼太には甘いんよ。まったく、あの子もどんどんワガママになってしまって」

 母親が、私から渡されたカレー皿にカレーを注ぎながらつぶやく。

「ま、歳が行ってからの子は可愛いって言うし、しゃあないんとちがう?」

 私は2枚目のお皿にご飯を入れながら、微笑んだ。

「未玖、まだ時間かかるか?」

 その時、キッチンに樹が顔を出した。ついにしびれを切らしたらしい。

「カレー持っていくから。もうちょっと待ってて」

 私が3枚目のカレー皿を手に言うと、樹は「わかった」と小さい声で答え、居間へと戻った。

「ここはもうええから、行ってあげ。樹君、不安そうやし」

 母親が私からカレー皿を受け取りながら笑う。

「そう? ほんなら頼むね」

 私は答えると、居間に向かった。

「お待たせしました」

 刑事達に軽く頭を下げて、樹の隣に腰を下ろす。

「忙しそうやね」

 野村刑事が私に向かって微笑む。

「すみません。今日はクラブのミーティングがあったものですから」

 私が答えた時、母親がカレーを持って現れた。銘々の前に並べ、またキッチンへと戻っていく。

「じゃあ、食べながら話をしようか」

 野村刑事の言葉に、待ってましたとばかりに樹がスプーンを手に取る。

「おばさん、いただきます」

 樹はキッチンに向かって一声かけると、スプーンいっぱいに盛り上がったカレーを頬張った。

「美味いなあ、ほんまに」

 樹の嬉しそうな表情に、場が和む。

「じゃあ、我々も」

 野村刑事の言葉を合図に、私達はそれぞれスプーンを手に取った。

 いつもは涼太に合わせて甘口になっている我が家のカレーが、今日は辛口になっている。カレーはやっぱり辛い方が美味しい。そろそろ涼太にも、そのことを教えてやらなければいけないと思うのだが。

 ある程度食べ進んだところで、野村刑事が顔を上げた。

「未玖ちゃん達は、子供の頃から、こうやって一緒にご飯を食べたりしてたの?」

「ええ、まあ。ちょいちょいありましたね」

 私が答えると、樹も口を開いた。樹のカレー皿は既に空になっている。

「そうですね。うちが忙しい時は、未玖のおばちゃんにご飯食べさせてもうたりとか」

「うちも、涼太のお産の時には、しばらく樹のとこで食べさせてもらってて」

 話しているうちに、回顧モードに突入する。

「樹、ようピーマン残しておばちゃんに怒られとったやん。もう食べられるようになったん?」

「おう、余裕じゃ。未玖かって、ラッキョウが臭い臭い言うて、大騒ぎしとったやんけ。もう食えるんか?」

 樹が応酬してくる。

「あんな不味くて臭いもん、人間の食べるもんとちゃうわ。別に栄養かってあるわけやないやろし」

「お前は成長せえへんのお」

 樹の言葉に、皆、声を上げて笑った。私はわざと拗ねたような表情を作ると、最後の一口を口に放り込んだ。

「ところで、お2人さん、あちこち調べ回ってくれてるみたいやねえ」

 私がカレーを飲み込むのを待って、野村刑事が事件の話を切り出した。気持ちを引き締めるべく、お水を飲む。

「いえ。別に調べ回ってるってわけではありませんけど。事件の概要が『何らかの事情で』ばっかりやし、納得できへんこともたくさんあるので」

 少々嫌味も込めつつ答えると、樹が隣で何度も頷いた。

「それやったら、警察の方に相談してくれたらええやないか」

 諌山刑事が不快そうに言う。

「はじめから正也君を犯人と決め付けたような人達に、何を相談せえっておっしゃるんですか?」

 私は続けた。

「大体、警察が犯罪に使う予定やったって言うてる、正也君名義のプリペイド携帯ですけど。あれ、涼太へのプレゼントやったんですよ。ご存知でしたか?」

「涼太君へのプレゼント? たしかに、贈答用の包装をするように依頼していたところまでは、我々も掴んでいるけどね。カムフラージュの可能性もあるかと考えていたんだが」

 野村刑事が私の顔を見る。どうしてそう、悪い方へ悪い方へと物事を考えるのか。

「正也君がお店へ行く前日、涼太がサッカーの大会でゴールを決めたんです。そのごほうびに携帯電話を買ってくれる約束になっていたらしくて。それで、正也君はプリペイド携帯を買ったんです」

「そうか。せやけど、何であの店やったんや? 大津市内にも、携帯ショップはあるやろうに」

 野村刑事が腕を組む。

「やっぱり、大西はリオナと付き合うてたんかな。彼女の家に行くついでに、近くにあるショップで携帯を購入したとなれば、話は合うね」

「あの……そのことなんですけど」

 それまで黙っていた樹が口を挟んだ。

「俺、正也とは仲良くて、好きな女性の話とかよくしたんですけど。リオナの話は全く出たことがなかったんですよね。ただ……」

「ただ、何や?」

 野村刑事の目が光る。樹はためらうような視線を私に向けた後、意を決したように話し始めた。

「正也に、『OLやってると思ってたカノジョが、実はソープで働いてるってわかったら、お前どうする? しかも、その手のビデオにも出とったら』って聞かれたことがあったんです。正也自身の話かと思って聞き返したら、先輩の話やったらしくて」

 樹はお水を一口飲んで続けた。

「先輩からそのカノジョを紹介されて実際に会うてみたら、感じのええ女性やったらしいんですよ。ただ、付き合うだけやったらええかもしらんけど、結婚するとしたらどうなんかなって。正也は、過去が引っかかってくる場合もあるやろし、しんどいんちゃうかと心配しとったみたいなんです。でも、信頼してる先輩やから『やめろ』とは言いにくいって」

「それが、リオナさんのことやって言うのん?」

 電話で樹が言いよどんだのは、このことだったのかもしれない。私の質問に、樹は頷いた。

「今考えると、そうなんかなって気がするねん」

「で、その『信頼してる先輩』って言うのは、誰なんや?」

 諌山刑事に尋ねられ、樹は首を振った。

「それは教えてもらえませんでした。高校の時の先輩とか当たっていったら、誰か出てくるんとちがいますかねえ」

「ねえ、それって、もしかして、岩田さんのこととちがうの? 高校の先輩なんやろ? ほら、例の『キヨトさん』って」

 私が樹の腕をつかんで言うと、樹は首を傾げた。

「俺もはじめはそう思ってんけどな。清人さんのカノジョの部屋から清人さんが出てきたって、驚く必要はないやろ? 『ああ、カノジョのところに来てたんやな』で、しまいやん。せやけど、正也はわざわざ様子を見に行ってるわけや」

 樹は腕を組んだ。

「俺は、正也の先輩って言うのは、他の人物やと思うねん。その人のカノジョの部屋から清人さんが出てきたし、正也は驚いたんとちがうやろか」

「なるほどね。その方が辻褄が合うか」

 私が納得したところで、野村刑事が困惑したように声をかけてくる。

「キヨトさんとかカノジョとか、何のことや?」

 そうだった。警察には話をしていないと言っていた。

 今日、広美から聞いた話を刑事達に聞かせる。話が終わった後、2人はしばらく黙っていたが、やがて野村刑事が口を開いた。

「なるほど。念のため、その目撃者に写真を見せて確認しよう」

 彼はそう言うと、樹の方に向き直った。

「それで、君は岩田君の自殺についてどう思う?」

「清人さんの自殺…ですか?」

 樹はちらっと私の方を見ると、答えた。

「俺はあり得へんと思います。あの人の性格から考えても」

「そうか」

 野村刑事が頷く。

「やっぱりね。誰に聞いてもそう言うのでね。ちょっと引っかかってしまって。今、事件の洗い直しをしているところなんや」

「それに、今朝、気になる手紙が届いたんや。匿名で差出人はわからへんし、ただのいたずらかもしらんけど、内容がやけに具体的でね。明日、みつともSCの関係者から、聞き取りを行おうと思ってたところやったんや」

 諌山刑事が、手帳を見ながら後を引き継ぐ。

「まずは、高梨が殺された時のことが書かれとってね」

「高梨さんが殺された時?」

 樹が聞き返す。

「ああ。高梨の飲んだ缶ビールが噴き出さなかったのはなぜか。という疑問が出されていたんやけどね。何のことやら、こちらではさっぱりわからへんし……。望月君は、その場にいてたんやったね。心当たりがあるやろか」

 野村刑事が樹の顔を見る。

「ええ。いましたけど……」

 樹が困惑顔で続ける。

「実は、あの時、清人さんが、テーブルの上にあったビールを全部、床に落としてもうたんです。それで、それを拾って元の位置に戻して……。その後、清人さんが開けはったビールは、噴き出して岡安さんの顔にかかったんですけど、高梨さんのビールは何ともなくて。心掛けの差ちゃうかって、みんなで盛り上がったんです」

「そうか。そういうことやったんか。――それで、高梨がビールの蓋を開けたのは、岩田さんのどれくらい後やった?」

 野村刑事が尋ねる。

「さあ、そんなに時間に差はなかったと思うんですけど……」

 樹が首を傾げた。

「それが何なんですか?」

 よくわからず、口を挟む。

「いや、同時に落としたはずの2本の缶ビールが、一方は噴き出して、一方は噴き出さなかったとなると、ちょっと不自然な気がするなあと思ってね。もしかしたら、高梨が開けた缶ビールは、床に落ちたものではないかもしらんなあ」

「どういうことですか?」

 樹が険しい顔で尋ねる。

「いや、岩田さんが缶ビールを落とした時から、高梨がビールを口にするまでの間に、誰かに摩り替えられた可能性も出てくるということや」

「摩り替えられた?」

 野村刑事の意外な言葉に、私と樹は声をそろえて聞き返した。

「誰にですか?」

「さあ、それはわからへんけど」

 野村刑事が苦笑する。

「せやけど、そんな隙はなかったはずですよ。俺、あの一部始終を見てましたけど、怪しい動きをする人には気付きませんでしたし」

 困惑する樹に、諌山刑事が尋ねた。

「床に落とした時に、ビールを拾ったのは?」

「清人さんと、森野さんです」

「そのうちのどちらかが、ビールを摩り替えたとは考えられへんかな。どちらかが不自然な荷物を持っていたとか」

 野村刑事が樹の方を見る。

「不自然な荷物なんて……」

 樹はそこで口をつぐんだ。

「心当たりがあるのん?」

 私が驚いて樹の袖を引っ張ると、樹は無言のまま首を横に振った。

「ほんまのことを言うてくれよ。別に不自然な荷物に限らんでもええねんで。服にビールを隠していたと思われる不自然なふくらみがあったとか、バッグか何かがふくらんでいたとか」

 諌山刑事が樹に詰め寄る。

「バッグなんて置いてはれへんやろ。食堂は寮の中にあるんやし、寮に住んではるんやったら、身ひとつで来はるやんな、普通」

 私が樹の方を見ると、彼は小さく溜息を吐いた。

「いや、清人さんも森野さんも、バッグをそれぞれの足元に置いてはってん。森野さんは、寮ではなくて近くのマンションに住んではるし、不思議はないわ。寮以外の人間は、みんな足元にバッグを置いてたし」

「ちょっと待って。それやったら、岩田さんは?」

 思わず話を止める。

「岩田さん、寮に部屋があるんとちがうかった? 奥さんと別居してるって話、してたやん」

「ああ、たしかにそうやねんけどな。何や、あの日は試合が始まる前に一旦自宅に戻って、着替えとかを持ってきたってことで。清人さんの部屋は3階やし、うちの寮はエレベーターが無いし……。荷物置くだけのために階段上るのんもダルいから、後で部屋に戻る時に持っていくって言うて、足元に置いてはってん」

「足元に置いておく方が、ジャマになるんとちがう?」

 私の言葉に、樹が苦笑する。

「階段上るんと、足元に荷物置くのと、どっちがダルいかっていうのは人それぞれやし。たしかに、おかしなこと言わはるなあとは思ったけど」

「あれ、ちょっと待って」

 諌山刑事が手帳をめくりながら、顔を上げた。

「一応、あの時、会場に残されていた手荷物は確認したみたいやけど。岩田さんのバッグは確認したリストの中に入ってへんね。森野さんのバッグは入っているけど、特に気になるものはなかったみたいや」

 すると、樹が首を傾げた。

「いや、足元に置いてはったのは間違いないんですけどねえ。警察が来る前に、部屋に持って上がりはったんかなあ」

「摩り替えたビールが中に入っていたとしたら、バッグを隠さなアカンかったかもしらんなあ」

 野村刑事がつぶやく。

「そう言えば、岩田さん、うちにビールを買いに来られた時、部員達はあの銘柄のビールが好きやって話をしたそうなんです。それで、うちはいつもあの銘柄を持って行ってるみたいなんですけど」

 私が言うと、野村刑事は頷いた。

「なるほど。岩田さんやったら、あらかじめ銘柄がわかっていたということか」

「やっぱり清人さんが……」

 樹が頭を抱える。私は気付くことがあり、野村刑事に問いかけた。

「でも、もし岩田さんが犯人だとしたら、小山さんの疑いは晴れるわけですよね。となると、小山さんが詐欺グループの一員やったとか、そのいざこざで殺されたとかいう話は消えますね」

「そのとおりや。小山さんはほんまにええ人やったし、やっぱり、事件には関わってなかったんや」

 樹が顔を上げたが、すぐに首を傾げた。

「あれ? せやけど、それやったら小山さんが言うてはった、ダンボールの合わせ目が開いてたって話は、どうなるんやろ」

「犯人が調理場で摩り替えたように見せるために、わざと開けておいたんかもしらんわな」

 野村刑事はそう言うと、コップを手に取り水を一口飲んで続けた。

「実は、周辺を当たってみたが、小山さんが詐欺グループに加担していたという証拠はまったく出てけえへんかったんや。捜査本部の方でも、犯人を小山さんと断定するのは難しいのとちがうかという意見があってね。目下、高梨と小山さん、そして、小山さんを殺したと思われる岩田さんとの関係を洗い直しているところやったんや」

「正也君も関わってなかったことがはっきりしたわけですし、警察もちょっと早とちりが過ぎたんとちがいます?」

 ここぞとばかりに、これまでの鬱憤を晴らす。

「あのねえ、我々はまだ正式に事件の見解を発表したわけではないんやで。マスコミが勝手にあれやこれや推測しとるだけで……」

「まあ、まあ」

 額に血管を浮かせて反論する諌山刑事を、野村刑事が止める。

「たしかに先入観を持って事件を見てしまった点は、我々も反省すべきところや。ただ、こうして一生懸命捜査してるということだけは、わかっておいてほしい。真相を究明するためにも、知っている情報は警察に提供してほしいんや」

 野村刑事に言われ、私は何となく納得できないまま、頷いた。

「ほんまに、きちんと調べ直していただけるんですね?」

 すると、横から樹が口を挟んだ。いつになく厳しい顔をしている。

「正也は俺達にとって、ほんまに大切な友達やったんです。それが、この1年、あること無いこと言われ続けて……。もし、正也の事件があった時に、警察がもう少しきちんと捜査してくれとったらという気持ちは、どうやったって消えません。そのことだけは、覚えておいてください」

 おお、言う時は言えるんだ。驚きが先に来る。

「ほんまに申し訳なかった。きちんと調べ直させてもらうから」

 野村刑事が謝ると同時に、諌山刑事も頭を下げる。

「いえ、あの、わかってもらえたらええんです。生意気なことを言うてしまって、すみませんでした」

 樹が照れ臭そうに言った時、母親がキッチンからお盆を持って現れた。お盆の上には、柿とリンゴがふた切れずつ載せられたデザート皿が置かれていた。

「少し休憩しはったら?」

 母親が微笑みながら、テーブルの横にひざまずく。私は立ち上がって、テーブルの上の空いたカレー皿を重ねていった。出来たスペースに、母親がデザート皿を並べていく。

「おばさん、すんません」

 樹が軽く片手を挙げる。

「ええんよ。いただきものやから」

 母親は、私からカレー皿を受け取ると、それをお盆に載せてキッチンへと戻って行った。

 私達は何も話さず、黙々と果物を口にした。皆のお皿が空になったところで、野村刑事がようやく口を開いた。

「もう少し聞きたい話があるんやけど、ええかな」

「はい。何ですか?」

 樹が尋ねる。

「実はね、告発の手紙には、もうひとつ書かれていたことあるんや」

 諌山刑事が、樹に向かって話を始めた。

「高梨の上着の胸ポケットから出てきた青酸カリ入りのケースや。あれは一体、いつどこで、誰が入れたものなのか。という疑問が書かれていてね」

「高梨さんを殺した犯人が、自殺に見せかけようとして入れたんとちがうんですか?」

 私が尋ねると、諌山刑事は頷いた。

「ああ。多分そうなんやろうけどね。ただ、ビールのダンボールを開けて無差別殺人に見せかけようとしていたはずやのに、一方で自殺に見せかけようとするというところに、疑問を感じるねんなあ」

 たしかにそうだ。犯人の意図が理解できない。

 私は諌山刑事の方を見た。

「入れ物の出所は、わかったんですか?」

「いや、量産されているものやったしね。特定は難しいやろうね」

「指紋は?」

「なかった」

 諌山刑事は首を横に振って、続けた。

「高梨はお疲れ会の間中、ずっと上着を着てたらしいんや。せやから、いつ入れられたんかということが、ヒントになるんとちがうかと思うねんけど」

「実は、お疲れ会が始まる前、高梨は小山さんを手伝って料理を並べとったらしいんや。暑いから言うて、上着は調理場に置いとったらしい。せやから、小山さんが、その時に胸ポケットに入れたんやろうと考えとってんけどね」

「小山さんが青酸カリ入りのビールを用意したのではないとなると、そのところが崩れるってことですね」

 私が確認すると、野村刑事は頷いて続けた。

「着ている上着の胸ポケットに、何かを入れるっていうのは、まあ、できんことではないやろけどね。やっぱり難しいと思うんや。せやから、倒れた時のどさくさに紛れて入れられたと考える方が、考えやすいと思うんやけど」

「高梨さんが倒れた時、君はそばにいてたんやろ? 詳しく話を聞かせてもらわれへんやろか」

 諌山刑事に尋ねられ、樹は困った表情を浮かべた。

「すんません。俺、あの、かなりパニクってまして……。詳しいことはちょっと」

「パニクってたって……。そりゃあ、目の前で人が倒れたら驚くやろうけど、それでも、少しは覚えているやろう?」

「はあ、えっと……」

 2人の刑事に責め立てられ、樹は気まずそうな表情を作った。

「それが、あの、血イが……」

「え?」

 諌山刑事が聞き返す。

「高梨さん、口から血を出してはったし、余計にパニクったんやろ?」

 私が助け舟を出すと、樹は体を小さくして頷いた。

「サッカー選手やのに、血がダメなんか?」

 野村刑事が呆れた声を出す。

「いえ、あの、サッカーやってる時は大丈夫なんです。怪我なんて、しょっちゅうしてますし。ただ、予想外のところで血を見ると、気分が悪くなるというか何というか……」

 樹が頭をかくのを見て、野村刑事は苦笑した。

「誰か、他の人に聞いた方が良さそうやな」

「ええ。その方がいいと思います」

 私は自信を持って頷いた。

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