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おとうと  作者: 深月咲楽
3/9

第2章

(1)


 事件から4日が経った。樹からの連絡によると、あれからすぐ、高梨は息を引き取ったそうだ。彼が飲んでいた缶ビールからは、青酸カリが検出されたらしい。

「あれ、お客さんかな?」

 大学から帰宅すると、自宅兼店舗の前には見慣れない黒い車が停まっていた。勝手口から家に入る。すると、涼太が青い顔をして駆け寄ってきた。

「未玖、えらいことになったで」

「どないしたん?」

 バッグをキッチンの椅子に置くと、私は涼太の方を見た。

「父ちゃんと母ちゃんが捕まるかもしれへん」

「はあ?」

 ワケがわからず聞き返す。

「せやかて、今、警察のおっちゃんが来て、父ちゃんと母ちゃんに話聞かせてくれって。なんや、この間死んだキャプテンのビールから、毒が出たって」

 たしかに、あの缶ビールはうちが差し入れたものだ。しかし、それだけの理由で両親が疑われるとは思えない。

「で、なんで2人が疑われてるってわかったん?」

 私が尋ねると、涼太は肩で大きく息をして答えた。

「父ちゃんと母ちゃん、指紋採られとったんや。で、ごっつい体した刑事が、『一度ゆっくり話せなアカン』とか『墓に手を合わせてナントカ』とか言うてたし」

 店舗と住居との境は丈の長い暖簾で区切られている。大方、その影に隠れてのぞき見でもしていたのだろう。

「墓に手を合わせて? それってどういうこと?」

「お前が殺した相手の墓に手を合わせて反省せえとか、そんな意味なんちゃうの? な、疑われてるやろ?」

「せやけど、お父さんもお母さんも会場にはいてへんかったわけやし。毒を入れられるわけがないやんか」

「わからんけど、缶ビールになんか細工したとか思われてるんちゃうん?」

「そんなことしたら、誰が毒入りビールに当たるかわかれへんやん。無差別殺人するつもりやったとでも言うのん?」

 私の言葉を聞き、涼太の目には涙がみるみる溜まってきた。

「無差別殺人? それやったら、父ちゃんも母ちゃんも、死刑になってまうやん。そんなんイヤや」

「落ち着きいや。ほんまに、あんた、男の子やろ?」

 何でも思い込んでしまうところが涼太の悪いところだ。まったく、誰に似たんだか。

「あら、未玖、帰ってきてたの?」

 その時、母親が台所に入ってきた。涼太が母親に抱きついて泣きじゃくる。

「何やのん、涼太。どないしたん?」

 驚く母親の後ろから、父親がひょっこり顔を出した。

「おう、未玖、おかえり」

 そうして、涼太の様子に気付いた。

「涼太、どないしたんや。姉ちゃんにいじめられたんか?」

 涼太は返事をせず、なおも泣き続けている。

「おい、未玖。涼太はまだ小学生やねんから、もっと優しく接したれや」

 父親が怒った顔で私の方を見た。どうやら、涼太の思い込み癖は父親からの遺伝らしい。私は呆れ気味に答えた。

「私のせいちゃうって。今、刑事さんが来てはってんろ? それで、お父さんとお母さんが捕まるんちゃうかって、涼太、心配しとったんよ」

「何やて? 何で俺らが捕まらなアカンねん」

 父親は涼太の頭に手を載せた。

「せやかて、指紋も採られとったし、ゆっくり話聞くとか言われてたやんか。あと、お墓がどうとか」

 涼太が母親から体を離し、両親の顔を交互に見る。2人は顔を見合わせると、盛大に吹き出した。ひとしきり笑うと、父親が涼太の前にしゃがみこむ。

「あのなあ、さっき来てた刑事、野村って言うねんけど、俺の高校の同級生やねん。比叡署にいてるねんけどな。それで、今度またゆっくり飲みに行こうやって話になったんや。お墓って言うのんは、俺らが所属してたラグビー部の顧問の先生が、去年亡くなりはってな。めっちゃ世話になったし、一度は墓に手を合わせに行かなバチ当たるなって言うてたんや」

 そんなことだろうと思った。涼太はひっくひっくと肩をゆすりながら、目元を拭っている。その様子を見た父親が、涼太をぐっと抱き寄せた。

「そうか。お前はそんなに父ちゃんのこと心配してくれたんか。ええ子やのお」

 無精ヒゲだらけの顔で頬ずりされ、涼太が悲鳴を上げる。私もよく子供の頃やられたが、その度に「ヒゲの濃い男とは結婚しないぞ」と固く心に誓ったものだ。

「それにしても、何で刑事さんが?」

 涼太と父親の様子を見て微笑んでいる母親に、私は声をかけた。

「ほら、高梨君の缶ビールの件や。うちのもんやったし、どんな状態で渡したのかとか、誰に渡したのかとか」

「うん。で?」

 頷いて先を促す。

「うちはダンボールに入ったままの状態で、5箱渡したんやわ。えっと、1箱24本入りやから、120本かな。他にもジュースやら何やらいろいろ持って行ってんけどね。栄養士の小山さんに声かけてんけど、他のお店の方たちもお料理差し入れに来てはったし、忙しそうでね。仕方ないし、調理場の隅の方に積んで帰ったんやわ」

 食堂の小山というのは、社員食堂を仕切っているベテランの女性栄養士だ。来年には定年になると聞いている。

「それやったら、お父さんにもお母さんにも、毒を入れることなんてできへんかったはずよね?」

「当たり前やないの」

 母親はそう言うと、続けた。

「それがね、高梨君、缶ビールのタブを開けてから、ずっと手に持っていたみたいなんよ。周りの人達の証言らしいねんけどね」

「ってことは、会場で入れられたわけじゃないってこと? だったら、缶の裏から穴でも開けて入れたとか?」

 私の言葉に、母親が首を横に振った。

「ううん、缶には何の細工もなかったらしいねん。それに、もし穴が開いていたら缶がペコペコになるから、タブを開ける前に気付いたんとちがうかなあ」

「ほんなら、どうやって? 最初から缶の中に入ってたって言うのん? あ、それでお母さん達が疑われてるってわけか」

「アホなこと言わんといて。私らの指紋採ったんは、念のためってことらしいで」

 母親はそう言うと、声をひそめた。

「なんや、自殺の可能性もあるみたいやで。現に、高梨君の上着のポケットから、青酸カリが入った小さなケースが見つかったらしいし」

「それやったら、自殺で決まりやんか。自分で入れたんやったら、他の人が見てないうちにコッソリとかできそうやん」

 私は不思議に思って母親の顔を見た。

「私にもようわかれへんけど」

 母親は肩をそびやかして続けた。

「他殺の線も捨て切れへんってことやろね。まあ、うちらは缶ビールには触れてへんし。なんぼ調べられても、かめへんけどね」

「ふうん。結局、自殺か他殺かすらわかってへんってことか。不思議な事件やねえ」

 首を傾げながら、椅子の上に置いてあったバッグを手に取る。まだふざけ合っている父親と涼太の横をすり抜けようとした時、父親が手を止めて私の方を見た。

「そうそう、何や、今朝、比良山の山中から白骨死体が見つかったって話もしとったで。すぐそばから、三友工業の社章が見つかったって」

「え? 三友工業の社章?」

 軽い胸騒ぎを覚えて聞き返す。

「うん。今度の高梨君の事件といい、みつともSCに影響が無いといいねんけどな。――なんや、涼太、痛いがな」

 涼太がふざけて出したパンチが、父親のメタボ気味のお腹をとらえた。父親がやり返す。

「すぐにご飯にするし、バッグ置いたら早くおいでや」

 母親の声に押されるように、私は再び歩き始めた。階段を上がって部屋に入ると、バッグを床の上に放り投げる。ベッドに腰かけ、サイドテーブルの引き出しを開けた。日記帳の下に置いておいたミニアルバムを取り出して、ページをめくる。

 そこには、昨年失踪した大西正也の笑顔があった。

「三友の社章……」

 嫌な予感を、頭を振って打ち消す。

「正也君、あんたとちゃうよね。死んでなんて、いいひんよね」

 私は彼の写真をそっとなでた。


(2)


 事態が大きく動いたのは、翌日の金曜日のことだった。

 絵本の展示会が無事終わり、「打ち上げ」と称するドンちゃん騒ぎを終えて家に着いたのは午後11時過ぎ。そうっと勝手口に回り、ドアノブに手を置いた時、ドアが急に開いた。危うくひっくり返りそうになる。

「なんや、お前、びっくりするやんけ」

 中から出てきたのは、樹だった。びっくりしたのはこちらの方だ。

「あら、未玖、えらいお早いお帰りやねえ」

 その後ろには母親の姿もある。

「樹君、あんたの帰りを今まで待っててくれはったんやで。ほんまに、この不良娘が」

「私を待ってた?」

 驚いて樹を見上げると、彼は呆れたようにこちらを見た。

「何べん携帯にかけたと思ってんねん。全然出えへんかったやないか」

「ああ、ごめん。今日、家に忘れて行ってもうてん。充電してて、そのままやわ」

 顔の前に手をかざしてゴメンのポーズをとる。

「家に置いてあるんやったら、出えへんわな」

 樹は頭を掻きながら、溜息を吐いた。

「あれ、樹、もしかして私と連絡が取られへんかったし、わざわざ家まで来てくれたん? サッカーの練習は?」

 私が尋ねると、彼は小さく首を振った。

「練習は臨時で休みになったんや」

「臨時で休みって……。何かあったん? やっと練習再開されたところとちゃうの?」

 高梨の事件があって以降、中止されていた練習が、昨日からようやく始まったと聞いている。

「まあな。そのことで、ちょっとお前と話したいなあと思って」

「それやったら、もういっぺん中に入って話したらええんとちゃう?」

 母親が声をかけてくる。

「あ、いや、もうおじさんも涼太も寝てはるし。そこの公園に行きますわ。帰りは、ちゃんと送ってきますんで」

 樹は母親に向かってそう言うと、私の前を横切って歩き始めた。ワケがわからず母親の顔を見る。母親も怪訝そうに小さく首を傾げている。

「ほんなら、行って来るわ。これ、私の部屋に上げといて」

 私はテキストの入ったバッグを母親に手渡すと、樹の後を追った。

 児童公園は商店街を抜けたところにある。公園と言っても、遊具は滑り台とブランコと雲梯があるだけ。

 私達が子供の頃は、この商店街ももっと賑わっていた。店が忙しい親に追い出されるようにこの公園に来て、同じく居場所のない仲間たちと一緒に遊んでいたものだ。しかし、中学に入りクラブ活動などが忙しくなると、自然に足が向かなくなった。

 薄暗い電灯が、狭い公園の四隅を照らしている。私達の足音を聞いて、ベンチの上にいた猫がガサガサと灌木の茂みの中に逃げ込んだ。

「こんなにチャチやったかなあ、この公園。小学校の帰りにそこのベンチにランドセル置いて、真っ暗になるまで遊んどったよなあ」

 樹は感慨深げにそう言うと、ブランコに腰掛ける。

「ほんまやね。お腹が空くと、角の駄菓子屋さんに行ってアメちゃんとか買うて」

 その駄菓子屋も、今では小さなコンビニになっている。

「で、何やのよ、話って」

 ブランコの前にある柵にお尻を乗せ、彼の方を見た。

「昨日の朝、比良山の山中から、白骨死体が見つかったってニュース、テレビでやってたやろ? 人が埋まってるって管理事務所に匿名で電話があって、言われた辺りを掘ってみたら、ほんまに人骨が出てきたって話」

「そんなに細かいところまでは知らんかったけど……。白骨が見つかって、三友工業の社章が出てきたって話は、父親から聞いたわ。それがどうかしたん?」

 鼓動が早くなるのを感じながら、私は無理に明るい声で尋ねた。

「その死体な、どうやら正也らしいねん」

 樹は少し間を空けて答えた。

「え? 正也? 正也って誰?」

 耳にした言葉を信じたくなくて、思わず聞き返す。

「せやから、正也や。大西正也。いつも一緒につるんどった、あの正也や」

 樹が吐き捨てるように言う。

 思考回路が停止した。薄々勘付いていたはずなのに、それが現実になった途端、素直に受け入れることができない。

「白骨になってるわけやし、死因ははっきりわからへんみたいやけど」

 樹は下を向いて続ける。

「そら、連絡も何も無いはずや。死んどったんやからな。――おい、未玖、聞いてるか?」

 私はかろうじて頷いた。でも、言葉が出ない。

 樹はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「何かの間違いちゃうかと思ってんけどな。歯型が一致してもうたらしいわ。今日の午後、警察から会社に連絡があって。これは大変やっちゅうことで、練習が休みになったってわけや」

「何で死んだん? 事故? 自殺?」

 ようやく発した私の言葉に、樹が首を振る。

「事故やら自殺やらで死んだ人間が、どうやって土の中に埋まるねん。誰かが正也を殺して、土の中に埋めたんや」

「殺して埋めた……」

 視界がぼやける。正也が犯人でもいい、どこかで生きていてほしい。私はずっとそう思っていた。そう願っていたのに。

「ああ、そうや。警察は、共犯者に殺されたんちゃうかって考えてるみたいやな」

 樹の声が震えている。私は驚いて顔を上げた。

「共犯者? 正也君の単独犯行ってことになってたんちゃうの?」

「それがなあ、高梨さんの部屋から、プリペイド式の携帯電話が十数個見つかったらしくてな」

「携帯が十数個? どういうこと?」

 目元を拭いながら尋ねる。

「ようわからへんけど……。他に、他人名義の銀行通帳も何冊か出てきたらしいわ。その中には、詐欺に遭った人が振り込んだっていう口座番号のものもあったって」

 樹がやり切れないといったふうに答える。

「詐欺に遭った人って……。ほんなら、高梨さん、何かの犯罪に関わってたってこと?」

 私の問いかけに、樹は力なく頷いた。

「せやけど、それと正也君の事件とどう結びつくのん?」

「それがようわからんねんけど、その中に正也名義のプリペイド携帯が入ってたらしいねん。リオナ名義のものもあったらしいわ」

「どういうこと?」

 意味がわからず、さらに聞き返す。

「つまり、正也もリオナも高梨さんも詐欺グループの一味で、今回の一連の事件はその内輪モメかなんかやろうと、そういうことや」

「え?」

 頭の中がグチャグチャで、言葉が見つからない。

「もちろん、俺はそんなこと信じてへんで。正也は正義感の強いやつや。関係しているわけがない」

 樹が厳しい声で続ける。

「たしかに、正也はプリペイド式の携帯電話を使ってた。せやけど、自分名義の携帯使って悪さするアホなんて、いてると思うか? すぐバレてまうっちゅうねん」

「その通りや。あの正也君が、殺人とか詐欺とかそんな悪いことするわけないやん。何で殺された上に、ここまでヒドイこと言われなアカンのよ」

 胸をえぐられるような想い。涙がホロホロと頬を伝った。


(3)


 昨夜は一晩中泣き明かした。もう陽は高くなっているが、何もする気が起こらない。私はベッドに寝転がって正也の写真を見つめていた。

 私生児でひとりっ子だった正也は、唯一の肉親である母親を高校時代に亡くしている。父親が誰かもわからず、他に引き取り手も見つからず、結局、無縁仏として葬られることになるそうだ。

「正也君……。可哀想過ぎるわ」

 また涙が頬を伝う。その時、ドタバタと遠慮ない足音が階段を上がってきた。慌てて写真を枕の下に隠し、パジャマの袖口で涙を拭う。

「おい、未玖、もう10時やで。飯食わな、体壊すで」

 例によって例のごとく、ノックもせずに涼太が入ってくる。

「なあ、元気出せや。一晩寝ても落ち込んだままなんて、未玖らしくないやん」

 弟なりに心配してくれているらしい。

「ありがとう。でも、ちょっと今日は1人にさせて」

 私の答えに、涼太は首を傾げた。

「未玖、もしかして正也兄ちゃんのこと、好きやったん?」

「え?」

 図星を指されてドッキリする。

 そうだ。私は正也が好きだった。でも、相手はモテモテのサッカー選手。どうせ無理だと、初めから諦めていた。

「ははあ、やっぱりそうやねんな。今、目が泳いだで」

 涼太がからかうように言う。私はカッとなって起き上がった。

「ガキのクセにませたこと言うてるんやないの。好きとか嫌いとかそんな軽いもんちゃうねん。私にとっては大切な友達やってん。それだけのことや」

「ふうん」

 涼太がベッドの縁に腰を下ろした。

「それやったら、何でこんなところでふて腐れてるねん。未玖が捕まえたったらええやん」

「捕まえるって何を?」

 涼太の背中に問いかける。

「せやから、犯人やん。正也兄ちゃんを殺した犯人」

「犯人? それは警察の仕事やろ?」

「正也兄ちゃんがいなくなった時、警察なんてアテにならへんって、未玖、散々言うてたやん。そんなところに任せてええのん?」

 涼太が振り返り、怒ったように言う。正也は涼太のことをとっても可愛がってくれていた。涼太には涼太なりに、煮えたぎるものがあるのかもしれない。

「そらそうやけど。捕まえるって言うたかて、どうやって捕まえるねん。何の手がかりもないのに」

 私が前髪をかきあげるのを見て、涼太が腕を組んだ。

「未玖、現場百回って言葉知らんのか? 名探偵がしょっちゅう言うてるやん」

 大人びたことを言っていても、所詮は子供だ。思わず体の力が抜ける。

「涼太、それはドラマか小説の世界や。現実はそんなに簡単には行かへんの」

「ほんまにもう」

 涼太は立ち上がって肩をそびやかした。

「大人ってやつは、すぐ諦めてまいよるねんな。まったく、正也兄ちゃんが浮かばれんわ」

 そして、ちらっと私の方を見ると、部屋を出て行く。

「そんなこと言われたかって……。私なんかに何ができるねん」

 閉められたドアに向かって、私はつぶやいた。


(4)


「なるほど。そういうわけか」

 独身寮のそばにあるファミレスで、私は樹と向かい合って座っていた。私達の間には、ドリンクバー専用のグラスが二つ置かれている。

「それにしても、涼太がそんなこと言うとはなあ」

 樹が腕を組む。

 涼太が今朝、私にした話――正也が好きだったという点は除いて――を樹に聞かせたところだった。

「涼太のやつ、正也になついとったからなあ。あいつがサッカー始めたのも、正也の影響やろ?」

 涼太は地元の少年サッカークラブに入っていた。ポジションは正也と同じフォワード。

「まあね」

 私は頷くと、グラスを手に取った。

「俺がサッカーやれ言うても、全然やらへんかったのにな。高校の時の試合かって、来てくれても客席でおもちゃで遊んだりしてたし。みつともの試合で正也がゴール決めるのん見て、急にサッカーやるなんて言い出して……」

 樹は寂しそうにグラスを見つめている。

「いや、樹が高校の時には涼太はまだ小さかったし、サッカー自体よく知らんかったんやって」

 私が言うと、樹は自嘲気味に微笑んだ。

「どうせ俺なんて端っこの方チョロチョロ走ってるだけやし、カッコいいなんて思ってもらわれへんわ」

 樹はサイドバック。正確なクロスに定評があり、サッカー経験者の間では評価が高いらしい。

「そんなことないって。この前アシストしたクロス、カッコよかったって言うてたで、涼太」

 グラスを置いて樹を見ると、彼の表情がぱっと輝いた。

「そうか。涼太もやっと、俺の良さがわかるようになってきたか」

 単純。子供の頃から変わらない樹の長所――ということにしておこう。

 そこで、頼んでいたエビピラフとビーフカレーが届いた。

 目の前に置かれたビーフカレーを突きながら、樹がつぶやくように言う。

「せやけど、人を殺して平然としてる人間がいてるっちゅうのが、ほんまに信じられへん。それが身近におるかもしらんと思ったら、ぞっとするわ」

 エビピラフのヤマを崩していた私は、顔を上げた。

「たしかにねえ。でも、高梨さんが何かの詐欺をやってはったんは、間違いないねんろ? 人には二面性があるってことなんちゃう?」

「まあ、高梨さんは、そういうことやってたって言われてもビックリはせえへんねんけどな」

 樹が手を止めて溜息を吐く。

「そうなん? そう言えば、この間も、高梨さんのことあんまり良く言うてなかったね」

 私が尋ねると、樹は困ったような顔をした。

「いや、あの人は女癖が悪いっちゅうんかな。ほら、人当たりがいいやろ? それで、コロッといってまう女の子が多いっちゅうか……。せやからって、殺されるほど恨まれてたとは思わへんけどな」

「そうかあ。まあ、サッカー選手なんて、ほっといてもモテるやろし、しゃあない部分もあるんとちがう?」

 私の言葉に、樹が首をひねる。

「俺はまったくモテへんねんけどな」

 私が思わず吹き出すと、樹は悲しそうにこちらを見た。

「まあ、樹がモテへん謎はこの際置いておくとして」

 私は座り直して咳払いをした。

「高梨さんのポケットから、青酸カリの入った入れ物が見つかったって聞いたで。樹はさっき『殺されるほど恨まれてたことはない』とか言うてたけど、自殺ってことはないのん?」

 私は尋ねた。

「警察でも聞かれてんけどな。俺が見ていた限りでは、缶に入れている様子はなかってんなあ」

 樹はそう言うと、ガバッとカレーをすくって口の中に放り込んだ。子供の頃から、この豪快な食べ方は変わらない。

「手に潜めておいて口に入れたとか……」

 私の言葉に、樹が首を横に振る。

「それやったら、缶ビールの中から毒は出えへんやろ」

「そっか。そやわなあ」

 私達は、しばし黙り込んだまま食事を続けた。

 2人とものお皿が空になると、樹が再び口を開いた。

「やっぱり、もともとビールに仕込まれとったとしか、考えられへんねんなあ。缶には穴とか何も開いてへんかったらしいけど」

「穴も開けんと、どうやって青酸カリを入れるんよ」

 私は氷が融けて薄くなったストレートティーを吸い込んだ。

「ほんまに、考えれば考えるほど不思議やねんなあ。どうやって青酸カリが仕込まれたかがわかれば、犯人にも行き当たりそうなもんやろ? せやけど、そこのところがさっぱりわかれへん。俺1人やったら、何か見逃してる可能性もあるやろけど……。あの時テーブルに居た人全員、何も見てへんって話やったし」

 樹はそう言って、ストローに口をつけた。グラスの底に残っていたコーラを一気に飲み干すと、グラスを持って立ち上がる。

「もう1杯、持ってくるわ。お前は?」

 私は、ストレートティーの入ったグラスに目をやった。

「まだ残ってるし、ええわ」

「わかった」

 樹がドリンクバーに向かって歩いていく。1人残された私は、何となく心細い気持ちになり、店内を見渡した。土曜日の昼間とあって、家族連れが多い。恋人同士と思しき高校生の姿も見られる。

 談笑する人々を見ているうちに、やり切れない気持ちになった。以前は私も、正也や樹と共に他愛もない話をして笑い合っていたものだ。

 私は溜息を吐いた。目の前に置かれているグラスをそっとなぞると、指先からしずくが伝う。

「お待たせ」

 樹がグラスをソーダ水で満たして戻ってきた。明るい緑色が毒々しい。樹は席に着くや否や、ストローを挿してソーダ水を吸い込んだ。体が資本のスポーツ選手が、こんなものを機嫌よく飲んでいて大丈夫なのだろうか。

 私の心配をよそに、樹は一気にグラスの半分ほどを空け、顔を上げた。そして、直後に豪快なゲップ。なるほど、サッカー選手のくせにもてないワケだ。百年の恋も一瞬にして醒める。

「あんたなあ、カノジョができたらやめた方がええと思うで、それ」

 私が呆れて言うと、

「せやけど、これが気持ちええんやなあ。あはは」

 と、樹は頭をかいて笑った。この男、一生独り身で過ごすことになりそうだ。

 私は話を戻した。

「で、その青酸カリ入りの缶ビールやけど」

 私の言葉に、樹の顔が引き締まる。

「何や?」

「初めからテーブルに置かれてたん? それとも、後から誰かが置いたものなん?」

「途中で、栄養士の小山さんが持って来はったんや。あのビールは、その中に入っとってん」

「どういうこと?」

 私が尋ねると、樹は小さく溜息を吐いた。

「ややこしい話やし、順を追って説明しよか」

 樹はソーダ水を一口飲んで続けた。

「俺は、お前と2人で別のテーブルにいてたから、最初のところは清人さんから聞いたんやけどな。

 お疲れ会が始まった時、あのテーブルには、高梨さんと清人さんの他に、トレーナーの森野さんと経理の岡安さんがいはったらしいねん」

「岡安さんって、事件のあった夜、ロビーで私に声をかけてくれはった方やね?」

 私が確認すると、樹は頷いた。

「ああ。で、そのテーブルの上に、缶ビールは6本置いてあった。それぞれ1本ずつ手にして乾杯してんけど、高梨さん以外はそんなに酒は飲まはらへんし。それで、残りの2本を高梨さんが飲みはった。つまり、高梨さんが6本のうち3本を飲んだってことやな」

「高梨さん、私達のところに来はった時には、たしか3本目やって言うてはったわよね。あの時は何ともなかったわけやし、青酸カリが入っていたのはそれ以降に飲んだものってこと?」

「うん。俺が清人さんに挨拶に行って、しばらく話を聞いとって……」

 しゃっちょこばって頷いていた樹の姿を思い出す。ちょうどその頃、私は都竹に声をかけられ外に出たのだ。樹の話は続く。

「そのうちに、高梨さんが3本目を飲み終えはってな。テーブルに置かれとった缶ビールを開けはったんや。それを飲んで倒れたわけやから、青酸カリが入っとったんは4本目やな」

「ちょっと待って」

 内容を整理するために、樹の話を止める。

「初めに6本置いてあって、森野さんと岡安さんと岩田さんが1本ずつ、高梨さんが3本飲みはった。ってことは、その時点で、テーブルにビールは残ってなかったはずやろ? 高梨さんが飲んだ4本目っていうのが、さっき言ってた、小山さんが持って来はったものってことやね?」

 私は樹の方を見た。

「ああ」

 樹が頷いて続ける。

「俺らが話をしとったら、小山さんがビールの入ったダンボールを抱えて、食堂に入って来はってな」

 母親の話では、うちはダンボールを5箱、差し入れたとのことだった。そのうちの1箱だろう。

「本数の少なくなってたテーブルに、何本かずつ置いて行きはったんや。それで、森野さんが小山さんに、『こっちにもビールちょうだい』って声かけはって。小山さん、『あらあら、高梨君が1人で飲んでるんとちがうの』って言うて楽しそうに笑いながら、こっちに来はってなあ。ダンボールの中に残ってた最後の4本を、テーブルの上に置いて行きはってん」

「で、高梨さんは、その中から1本を選んで飲みはったってことか」

 私が前髪をかき上げながら尋ねると、樹が答える。

「ああ。そこに青酸カリが入ってたってことやな」

「何かおかしなこととか、なかった?」

「おかしなこと、なあ」

 樹が首を傾げる。

「そう言えば、小山さんが去ってすぐ、清人さんが立ち上がろうとしてテーブルにぶつかりはってな。缶ビールがテーブルの下にバラバラ落ちたんや。中身が入ってるやつも空のやつもな。それを清人さんと森野さんが拾って、テーブルの上に並べ直しはったわ。岡安さんはトイレに行ってはったし、俺は高梨さんの話に付き合わされてて拾いに行くことがでけへんかったしな」

「そう。それで?」

 私は先を促した。

「清人さんが『高梨1人に飲ませるわけにもいかんわなあ』とか言いながら、1本手にして蓋を開けはってん。そしたら、泡が噴き出して、それがちょうどトイレから戻ってきた岡安さんの顔にかかってなあ。落とした時のショックやろな」

 樹がゆっくりと記憶を辿る。

「で、ひとしきりみんなで笑った後、3本目を飲み終わった高梨さんが、次にビールを選びはったんや。そんなに時間は経ってへんかってんけど、今度は泡は出えへんかってな。清人さんは日頃の行いが悪いからビールにも噴き出されるんちゃうかとか、いや、顔にかかった岡安さんの行いの方が悪いんちゃうか、なんて言うてまた笑って……」

 その時の楽しかった雰囲気を思い出したのだろう、樹は辛そうに目を閉じた。声をかけるのもはばかられ、私は静かにストレートティーを吸い上げた。

 少しすると、樹が目を開けた。わずかに残っているソーダ水を見つめ、つぶやくように言う。

「実はその後、俺も1本手にしてるんや。森野さんから、『樹も飲んだらどうや。俺らが飲まれへんからって、遠慮せんでもええねんで』って声かけてもらったし、残ってた2本のうちから1本選んで。あんまり飲む気がせえへんかって、開けんまま手に持ってたんやけど」

「そうやったん。それやったら、樹もヘタしたら青酸カリを……」

「ああ。もしかしたら、死んでたんは俺やったかもしらん」

 重苦しい沈黙が流れる。

「まったく、ひどい話やで。青酸カリが入ってたビールは、あの1本だけやったみたいやし、いわゆるロシアン・ルーレットみたいなもんやわな」

 樹が憂鬱そうに溜息を吐いた。

「無差別殺人……か」

 改めて口にすると、何とも言えない恐怖心が込み上げてくる。

「機嫌よく蓋を開けて、一口飲んだ途端に……。高梨さん本人も、ワケがわからんかったやろうね。ほんまにお気の毒やわ」

 私の言葉に、樹が首を横に振った。

「いや、一口飲んだ途端ってことではないで。結構飲んだところで、苦しみ始めはってん」

 意外な答えに驚く。

「え? 何で? 青酸カリって、即効性のものなんちゃうの?」

「さあ。俺にもようわからんけど。少なくとも、半分くらいは飲んではったんとちゃうかなあ」

「ちょっと待って。それやったら、ビールの中にあらかじめ仕込まれていたっていう前提自体が崩れるやんか」

 私は頭をかいた。

「みんなでおしゃべりに夢中になってる間に、誰かがそっと入れ込んだってことも考えられるやろ? 高梨さん自身が入れた可能性かって……」

「いや、それはないって」

 樹が顔の前で手を振る。

「さっきも話したやろ。俺だけやったら見逃してることもあるかもしらん。せやけど、同じテーブルにいてた3人も見てへんって言うてるねんから。大体、缶ビールのあの小さな口から粉末を入れようと思ったら、めっちゃ手間がかかると思うで。しかも、高梨さんは缶ビールをずっと手に持ってはったわけやし。絶対に後から入れられたなんてことはない。断言できる」

 2人の間にイヤな空気が流れる。

「実は俺、ビールに青酸カリが仕込まれたんは、調理場ちゃうかと思ってるねん」

 樹がその空気を振り払うかのように口を開いた。

「どういうこと?」

 私が先を促すと、樹はグラスの底に残っていた氷を、ストローで突きながら続けた。

「小山さんから聞いてんけどな。ビールを配るために食堂に持ってきはったダンボール、調理場に置かれていた最後の1箱やったらしいねん。それが、あらかじめ横の部分が開いてたそうでな」

「横の部分って? ダンボールが合わさってるとこ?」

 私はダンボールの構造を頭に浮かべながら尋ねた。

「ああ、そうや。その前に配った4箱のダンボールはちゃんと閉まってたし、おかしいなあとは思いはったらしいねんけど。箱の外見を確認しても、他のものと全く同じやったし、誰かが間違えて開けたんかなって考えて、そのまま配ってしまったって」

「なるほどね。あらかじめ開けられてたってことは、犯人は、ダンボールが調理場にある時に、青酸カリ入りの缶ビールを仕込んだってことになりそうやね。ただ、方法がなあ。穴も開けんと、どうやって仕込んだんか……」

「そこんところはようわからんな」

 樹は腕を組むと、私の方を見た。

「でな、酒屋の娘の未玖チャンに、ちょっと聞きたいことがあるねんけど」

「はい、何ですか、電器屋の息子の樹クン」

「24本入りのダンボールの場合、缶ビールってどうやって並んでたっけ?」

「どうやってって……。24本入りやったら、6缶パックが4つ入ってる場合もあるし、バラで4本ずつ6列入ってる場合もあるし」

 急に何を言い出すのかと思いつつ答える。

「となると、お前んとこは、バラの方を差し入れてくれはったんやろな。小山さん、そのまま配ったって言うてはったし」

「多分そうやと思うで。忙しい時に、缶をまとめてる厚紙を外して配って……なんてやってたら、大変やろ? それがどうかしたん?」

「うん」

 樹が前髪をかきあげながら続ける。

「小山さん、開いてたダンボールの箱の合わせ目から手を入れて、順番に配って行ったんやと思うねん」

「まあ、普通は開いてるところから配るやろねえ。で?」

 先を促す。

「となると、俺らのいてたテーブルに置かれたんは、一番奥の列に並んでた4本ってことになるやんなあ」

「まあ、そうなるやろねえ。せやけど、それがどうしたん?」

 樹が何にひっかかっているのかよくわからない。

「つまりな。その最後の列の中に青酸カリ入りのビールが入ってたってことは、犯人は、一旦ビールを全部取り出して青酸カリを入れ、わざわざ一番奥に戻したってことになるやんか」

「ああ、たしかにねえ」

 ようやく樹の言わんとしていることがわかり、私は彼の顔を見た。

「犯人は、何でわざわざそんな厄介なことをしたんか、気になってるんやね?」

「そうやねん」

 樹が大きく頷く。

「無差別に人を殺そうと思ったんやったら、手前の1本に青酸カリを入れておいたらええわけやろ。それを、何でわざわざ一番奥の列に入れたのか。手間もかかるし、不思議やなあと思って」

「たしかに、誰かに見られる可能性は高いやんなあ。何でわざわざそんなことしたんやろ」

 私達はしばし沈黙した。あれこれ思考をめぐらしてはみるが、人を殺すような人間の考えることなぞ、凡人の頭でわかるわけがない。すると、樹が吐き捨てるように言った。

「ま、殺人犯の考えることなんて、わかれへんわな」

 さすが幼なじみ。

「ほんまやで。考えたってわからへんもんはわからへんわ」

 涼太がいたら、「せやから大人ってヤツは……」とまた怒られてしまいそうだ。私は、ストレートティーを飲み干して立ち上がった。

「ジュース持って来るわ」

 私が立ち上がった途端、樹がグラスを差し出してくる。

「ついでに、レモンスカッシュ入れてきて」

「また炭酸飲料かいな」

 私が呆れ気味に言うと、樹は微笑んだ。

「普段はあんまり飲まれへんねんから、ええやんけ」

「まったく、しゃあないな」

 私は2つのグラスを手に、ドリンクバーに向かった。

「レモンスカッシュっと」

 樹のグラスに氷を足し、飲料ディスペンサーの下に置いた。レモンスカッシュを選んでボタンを押す。底に少し残っていた緑の液体が微妙に交じり合う。

 次は私のグラス。何にしようか迷った挙句、コーラを選んだ。食後にはちょっと甘いものを口にしたくなる。

「こんなもんでいいかな」

 両手にグラスを持ってテーブルに戻ると、樹の隣に都竹の姿があった。

「あ、こんにちは」

 とまどいつつも、グラスを樹の前に置く。

「こんにちは。昼飯食おうと思ってここに来たら、樹君の姿が見えたもんやから。お邪魔やったかな?」

 都竹が申し訳無さそうにこちらを見る。

「いえいえ、そんなことありませんよ。もう、何か頼みはったんですか?」

 私が座りながら尋ねると、都竹は頷いた。

「うん。ホットケーキをね」

 ホットケーキが昼食か。涼太並みだ。

「ドリンクバーは?」

 私が尋ねると、彼はニッコリ微笑んだ。

「いや、水で十分や。ジュースばっかり飲んどったら、身体に悪いからな」

 隣で、樹がバツが悪そうに舌を出す。

「ほんまに、その通りですよねえ。あれ、樹はそれで何杯目やったっけ?」

 私が嫌味っぽく言うと、樹は小さな声で

「まだ3杯目」

 と答えた。その様子を見た都竹が、声を上げて笑う。

「まあ、たまにはええんちゃうか? 寮に帰ったら、いつもより余分に体動かしときや」

「はい、わかりました」

 樹は頭を掻きながら頷くと、手にしていたストローをグラスに挿した。一気にレモンスカッシュを吸い込む姿を見て、都竹が苦笑する。

「ほんまにわかってんのかな?」

「さあ」

 私達は顔を見合わせて笑った。そこに、ホットケーキが到着する。

「お、美味そうやな」

 都竹がフォークを手に微笑んだ。

「日曜日の昼、サッカーの練習から帰ると、親がこれを作って待っててくれてな。それが楽しみで、練習頑張ってたって感じやってん」

「じゃあ、ある意味、『おふくろの味』なんですね」

 私が言うと、都竹が微笑んだ。

「いや、ホットケーキを焼くのは親父の担当やったからね。『おやじの味』かな。その親父も、もう亡くなってもうたけど」

 都竹が前髪をかきあげる。あの額のキズが、ちらっと見えた。

「都竹さん」

 その時、レモンスカッシュを飲み干した樹が、ためらいがちに口を挟んだ。

「ん?」

 都竹が樹の方を見る。

「急にすみません。その額のキズ、どうしはったんですか?」

「え? 額のキズ?」

 都竹が困惑した表情を浮かべる。

「何やのよ、突然」

 私も驚いて樹の顔を見た。

「いや、ちょっと気になってて。もしかして、エスカレーターから落ちたとか、そんなんとちがいますか?」

 樹が都竹の方を向いて尋ねる。都竹は何も答えず、ホットケーキを一切れ口に運んだ。

「そうなんですよね? 弟さんとふざけてて、エスカレーターから落ちてケガしはったんでしょ?」

「ちょっと、樹、さっきから何を言うてるのん?」

 私の言葉を遮るように、都竹がさっと片手を上げた。

「樹君、持って回った言い方をしないで、はっきり聞いてくれへんかな」

 その言葉に、樹が意を決したように口を開いた。

「都竹さんは、正也のお兄さんですよね? 異母兄っていうのかな」

「え? せやかて、正也君は私生児でひとりっ子なんじゃ……。あっ、もしかして、正体のわからないお父さんの方の?」

「ああ」

 樹は私の方を向いて、頷いた。

「前に、正也から聞いたことがあるんや。お父さんとは子供の頃に何度か会ったことがある。その時には、正妻さんの息子……正也にとっては異母兄にあたる人も連れてきてたって。とても可愛がってもらったらしいわ。サッカー始めたんも、そのお兄さんの影響やって」

 都竹は何も言わず、フォークを置いて目を閉じた。

 樹はあのパーティーの後にも、都竹のことを気にしている様子だった。彼の心にひっかかっていたのは、これなのか。

 私が勝手に納得していると、樹は都竹に話しかけた。

「昔、一緒にデパートに行った時、エスカレーターでふざけていて、お兄さんが転倒して……。頭に大怪我を負ってしまったことで、正也のことが正妻さんにばれてしまい、以来、会わせてもらえなくなったって」

 都竹は相変わらず黙り込んでいる。

「それでも、こっそり連絡は取り合っていたそうなんですよ。スカウトされたJ2のチームに行くか、三友工業に就職してサッカー部員としてサッカーを続けていくか悩んだ時、将来のことを考えて選べってアドバイスしてもらったって、正也、言うてましたし」

「そっか。都竹さんやったら、きっと三友に就職する道を勧めはりますよね? 都竹さんご自身が、そういう考えで三友に来はったんですから」

 私が都竹に話しかけると、彼はそっと目を開けた。

「何のことやら、わかれへんな」

 樹はその言葉を無視して続けた。

「たしか、歳はちょっと離れてるって話やったんです。都竹さんは大学時代に2年間、休学してブラジルに行ってはりますよね。今25歳やし、正也とは4つ違いや」

「4つくらいで、離れてるなんて言うか?」

 都竹が苦笑するのを見て、樹はホットケーキを指差す。

「せやけど、正也の親父さん、家に来るとよくホットケーキを焼いてくれたらしいんですよ。せやから、あいつもホットケーキが大好きで」

「そうか。そら、偶然やな」

 都竹の目の前には、彼の「おやじの味」であるホットケーキが、半分ほど残されている。

「もしかして、都竹さん、正也の事件の真相を探るために、三友に入りはったんとちがいますか? 他のチームからの誘いをすべて断って」

「そうか。それやったら、私達に正也君のことを色々聞いてきはった理由もわかるわね」

 すると、都竹は小さく首を横に振った。

「おいおい、勝手に話を進めんといてくれや。大西君とは何の関係もないって言うてるやろ」

「でも……」

 樹が食い下がると、都竹は困ったような表情を浮かべて立ち上がった。

「もういい加減にしてくれ。勝手に話を創り上げるのは、止めた方がええと思うで。ちょっと用事があるのん思い出したし、これで失礼するわ」

 そうして、ジーンズのポケットからサイフを取り出し、千円札を1枚、テーブルの上に置いた。

「ツリはいらんで」

 彼はそう言うと、出口に向かって歩き始めた。

「都竹さん」

 樹が立ち上がり、その背中に声をかける。しかし、都竹は振り返りもせず、店から出て行った。

「怒らせてもうたかな」

 樹は腰を下ろすと、眉間にシワを寄せて私の方を見た。

「みたいやね。せやけど、怒るってことは、逆に何かありそうな気いせえへん?」

 私の言葉に、樹が身を乗り出す。

「お前もそう思うか? もし、俺が考えた通り、都竹さんが正也の兄貴やったとしたら……。正也の事件に高梨さんが絡んでるってことに気付いて、高梨さんを殺したんかも」

「ちょっと待って」

 私は樹の言葉を遮った。

「さっき無差別殺人やって話をしたところやんか。矛盾してるで」

 すると、樹が頭を掻いた。

「そうやったな。なんやもう、わけがわからんわ。2つの事件は、一連のものなんか、別のものなんか」

「高梨さんが殺されはったことで、偶然詐欺の件が露見した。で、そこにたまたま正也君の携帯があって、関連してるんやないかと考えられるようになった……そういうことやんな?」

 私が樹の顔を見ると、彼は頷いた。

「ああ。今回の事件が無差別やとしたら、犯人はみつともSC全体を恨んでる可能性もあるわな。それが正也の事件に関係してるかどうかは別として」

「樹も気をつけや。何か食べる時には、ようニオイかいでからにせなアカンで」

「ほんまやな。毒見役でもつけたろか。お前、やってくれへん?」

 樹が私の方見る。

「やってあげたいのはヤマヤマやけど、女人禁制の寮には入られへんわ」

 私が答えると、樹が楽しそうに笑った。

「お前のことなんか、誰も女やなんて思ってへんから、平気やで」

「あんた、今度うちに遊びに来た時には、食べ物のニオイに気をつけや」

 私が口の片方の端を上げて微笑むと、樹は慌てたように口元を手でふさいだ。

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