第1章
(1)
ひとりで3枚もの横断幕を張るのは、実に骨の折れる仕事だ。1枚の大きさは、縦90センチ、長さ3メートル。雨に濡れても大丈夫なターポリン製で重さは2キロ弱。所々空けられた穴にロープを通し、客席前の手すりに結び付けて吊るすのだ。
今、両親と涼太は選手達の控え室を訪れている。スポーツドリンクをはじめとした飲料類を差し入れるためだ。もちろん、無料奉仕。これだけの量のドリンクをすべてクラブの方で用意すると相当な出費になるらしく、スタッフや選手達からはかなり感謝されているようだ。
せめてものお礼のつもりなのだろう、選手達は何かあればうちの酒屋を利用してくれるし、地元ケーブルテレビの中でうちの話をするなど、事あるごとに宣伝してくれている。それで売上が上がるわけではないのだが、両親曰く「その気持ちが嬉しい」のだそうだ。
とまあ、こうした心の交流が、チームへの愛情を更に大きなものにし、やがてこんなに立派な横断幕を作るという形となって現れる。その結果、無理矢理休日を潰された気の毒な女子大生が、ひとりでふうふう言いながら何枚もの横断幕を吊るすという、悲劇的な結末を迎えることになるのだ。どうにも腑に落ちない。
最後のロープを結わえている時、後ろから話し声が聞こえてきた。ちらっと目をやると、40代半ばくらいの男性が2人、ビールのロゴが入った紙コップを片手にくつろいでいる。
ここはアウェー側の自由席。ホーム側はJ1チームのユニフォームを身に付けたサポーター達で半分近く埋まっているが、こちらはガラガラ。気持ちよい日曜日の午後、名もない社会人クラブの応援にわざわざ訪れるのは、会社命令に背けなかった一部の気の弱い社員と選手の家族くらいなものだろう。
「それにしても、よくこんなところまで勝ち残ったもんやな」
白髪混じりの小太りの男の方が、グラウンドを指差しながら言う。
「ほんまやな。今回は近いからよかったものの、万が一勝ち進んだら次は徳島の競技場やろ。遠征費も馬鹿にならんで」
そう言いながら紙コップを握りつぶしたのは、細身で薄毛の男。
「勝つわけないやんけ。相手はJ1やで」
小太りの男はそう言うと、残りのビールを一気に煽った。
「わからんで。ほら今年から入ったあの……都竹とかいう大卒のフォワード、アホみたいに点取りよるからな」
薄毛の男は紙コップを足元に置くと続けた。
「大西とか言うたかな、去年の秋に女殺して姿くらましたヤツ。あれも得点力はあったけど、都竹ほどではなかったしなあ」
「ああ、大西正也か。まあ、あいつは高卒ですぐに入ってるしな。もう少し磨けば、もしかしたらもっと伸びとったかもしらんけど。
何にしても、ソープ嬢殺して逃げるなんて、言語道断や。あいつ、庶務におったやろ。そのせいで庶務課の竹原課長、責任とらされて減俸になったって、ブツクサ言うてはったわ」
小太りの男が口元をゆがめて続ける。
「まだ見つかってへんらしいし、一体どこに潜んでるんやろな」
「せやけど、その殺されたソープ嬢、大西にかなり貢いどった上に、金を渡さんと殴る蹴るされたって噂やないか。俺に言わせれば、そんな男を選ぶ女も女やけどな」
薄毛の男が苦笑すると、小太りの男が頷いた。
「その通りやで。まあ、大西はそこそこええ顔しとったしな。その上、サッカーなんかやっとったら、それだけでチヤホヤされるんやろ。ほんまに、女っちゅうのはしょうもないで。男は顔だけやないっちゅうねん」
モテない男の常套句。
「よっこいしょ~っ! と」
わざと大きな声を出しながら立ち上がる。男達はちらっとこちらを見ると、ばつが悪そうに口をつぐんだ。
「未玖、終わったか?」
そこに涼太が現れた。吊るし終わったところでタイミングよく声をかけてくるとは、どこかで様子をうかがっていたに違いない。
「今終わったところ。これ片付けるのん手伝って」
足元に置かれた収納袋を指差すと、涼太は「うん、わかった」と言ってしゃがみこんだ。
「なあ、樹兄ちゃん達、今夜、独身寮の食堂でお疲れ会やるらしいで。で、未玖にも来てほしいって」
その誘いは、私の携帯メールにも送られてきていた。まだ返事は出していないが。
「知ってる。メール来てたし。せやけど、独身寮って女性禁止やろ?」
「今日は特別らしいで。会社の同僚の女の人とかも来はるらしいし。なんや、選手のカノジョとかもいてるねんて」
涼太が声をひそめる。
「ふうん」
私はそういった方面の話は、まったくと言っていいほど興味がない。しかし、涼太はとにかく噂話が好きだ。芸能レポーターあたりが天職なんじゃなかろうか。
私は話題を変えることにした。
「それにしても、『お疲れ会』やなんて、初めから負けること前提みたいやと思わへん?」
すると、涼太は楽しそうに笑った。
「さすが親子やな。父ちゃんも同じようなこと言うとったで」
「まあ、たしかに、あんたよりは長い間、父親と子供やってるしな。言うことも似てくるわ」
右肩を左手で押さえて、首を回す。
「で、行くのん? 行かへんのん?」
袋のファスナーを閉めながら、涼太が意味ありげな視線を送る。
「ま、試合の結果次第やね」
「なんや、その気の無い返事。誘ってくれる男なんて、樹兄ちゃんくらいしかおらへんねんから、もう少し優しく……」
「ガキのくせにませたこと言うんやないの」
私が涼太の頭を平手ではたくと、彼は唇をぷっと尖らせた。
(2)
「まさかここまで善戦できるとは、思ってもみいひんかったわ」
樹が缶ビールを片手に頭をかく。三友工業社員寮の食堂には、サッカー部員全員とスタッフ、職員と思しき面々が集まっていた。OBの顔もチラホラ見える。
試合後、すぐに帰るつもりが帰り損ね、結局「お疲れ会」とやらに参加させられることになってしまったのだ。
「たしかにねえ。ほんまにええ試合やったわ」
私の言葉に、樹は複雑な表情を浮かべた。
「せやけど、これでますます都竹さんが注目されてもうたからなあ。Jから引き抜きなんてことになったら、来シーズンはガタガタや」
2点先制された後、フォワードの都竹が2得点し、延長まで持ち込んだ。しかし、そこで力尽き、得点されて順当負け。ただし、J1の強豪チームをあわやのところまで追い込んだということで、試合終了後は都竹の周りにマスコミが殺到していた。
「せやけど、都竹さんって、J1からの誘いを断ってここに入りはったんやろ? 誘われても留まりはるんとちがう?」
私はそう言うと、手にしていた缶ビールに口をつけた。
「ほんまに変わった人やで。高校、大学とずっと注目され続けてきてるねんからな。俺やったら、迷わずJ1に行くわ」
樹がそう言った時、突然、彼の頬に缶ビールが触れた。
「うわあ」
樹が驚いて振り返る。そこには、キャプテンを務めている高梨が、笑いながら立っていた。彼は現在35歳。クラブ内では最年長で、そろそろ引退ではないかという噂が流れている。
「よお、樹。楽しんでるか?」
既に出来上がっている様子だ。
「ええ、まあ。高梨さん、かなり飲んではるんとちがいますか?」
「いや、まだ3本目やし、これからが本番や」
高梨は手にしていた缶ビールを掲げて見せると、もう一方の手を樹の肩に載せた。
「なあ、樹。清人さんがお前のクロス良かったってほめてくれてはるし、挨拶だけでもしてきた方がええんちゃうかな」
清人さんというのは、昨年までチームに所属していたOB・岩田清人のことだ。引退した今でも、時々練習に参加し、若手の選手達を鼓舞している。
「ほんまですか? わかりました。すぐ行きます」
樹の顔が引き締まる。彼は今日の試合で、1点目をアシストしたのだ。
「ほんなら、未玖ちゃん。悪いけど、ちょっと樹借りるで」
高梨は私に向かってそう言うと、樹を促すようにして岩田の方へと歩いていった。背筋を伸ばしたまま頭をペコペコ下げる樹の姿。ああいうのを見るにつけ、つくづく体育会系には入りたくないなと思ってしまう。
「さてと、今のうちに何か食べておきますか」
ひとり残される形となった私は、食堂の真ん中に並べられたテーブルへと目を向けた。そこには、大皿に載せられた料理や寿司が、所狭しと置かれている。そのほとんどが、商店街やOBからの差し入れだ。何を隠そう、私が手にしているこの缶ビールも、我が「やまはら酒店」からの差し入れだったりなんかする。もしうちが潰れたら、みつともSCに責任を取ってもらおう。
私は近くにあったテーブルの上に缶ビールを置くと、部屋の中央へと向かった。紙皿と割り箸を手に取り、料理を選びにかかる。散々迷った末、いなり寿司と鳥のから揚げ、ポテトサラダを載せ、缶ビールの元へと戻った。
「ねえ、キミ、山原未玖さん……やろ?」
テーブルの上に紙皿を置いた瞬間、背後から声をかけられた。驚いて振り返る。そこには話題のフォワード、都竹が私を見下ろすように立っていた。身長1メートル90センチ、ガッチリした体つき。これだけ間近に見ると、威圧感すら覚える。
「ええ、そうですけど」
なぜ私の名前を知っているのだろう。今シーズン、みつともSCの試合は一度も観に行っていないし、彼と顔を合わせるのは初めてのはずだ。誰かから聞いたのだろうか。不思議に思いつつも、私は微笑んだ。
「都竹さんですよね? 2得点、おめでとうございます」
「ああ、ありがとう。あれは、樹君のクロスがよかったからや」
都竹が照れ臭そうに前髪をかきあげた。生え際に結構大きなケロイドがある。ヘディングをした時に誰かとぶつかってパックリ……ってところだろうか。ほんと、サッカー選手になんてなるもんじゃない。
「あの、今日、これから予定ある?」
「え?」
我に返って聞き返す。
「いや、もし予定が無いんやったら、ちょっと抜けられへんかなと思って」
「あ、でも、都竹さん、今日の主役やし、いなくなったらマズいんとちがいます?」
戸惑う私に、彼はその大きな目をキョロッと動かして辺りを見回した。
「今なら大丈夫や。皆、それぞれに談笑してはるし。僕、先に出て玄関で待ってるから、適当に抜けて来てや」
「あの、せやけど……」
私の言葉を待たずに、彼はさっさと食堂を出て行った。樹の方を見ると、高梨達と直立不動で話をしている。
「ま、いっか」
私は小さめのから揚げをひとつ口に放り込み、そっと食堂を後にした。
(3)
「ちょっと歩かへんか? 少し酔いも醒ましたいし」
都竹に連れて行かれた先は、社員寮のそばにある小さな公園だった。ベンチに座った都竹に促され、隣に腰を下ろす。
「この場所、大好きなんや。琵琶湖の向こう岸に見える街の灯かりがキラキラしてるやろ。朝は朝で、もやがかかった湖面に朝日が差す様子が、ほんまに綺麗やし」
都竹が微笑む。
「この公園、高台になっていますし、たしかに眺めがいいですよね。私も何度か来たことがありますよ。今は暗くてわかりませんけど、明るい時には近江富士も見えますよね。
私、あの山が好きなんです。比叡の山並みも荘厳ですけど、ひとつだけぽつんと離れてそびえ立っている近江富士に、孤高のプライドを感じるっていうか。強いなあって思っちゃって」
そこまで言って、都竹がこちらをじっと見ているのに気付く。
「あ、すみません。私ったら、何を熱く語ってるんやろ」
気恥ずかしくなり、ペロッと舌を出すと、都竹は楽しそうに微笑んだ。
「なるほどねえ。樹君が未玖さんに惚れるわけ、わかったような気がするわ」
「はあ? 何言うてはるんですか?」
私は目を見開いた。
「樹はただの幼なじみの腐れ縁ですよ。あんなんと何かあるなんて思われたら、えらい迷惑です」
「ああ、そう。いや、てっきりカノジョかなと……。何も、そんなに目エ丸くせんでも」
都竹が若干引くのを見て、はたと我に返る。
「すみません。思わず……」
私は慌てて笑顔を作った。ぎこちない表情になっているのが、自分でもわかる。
「いやいや、ははは」
都竹はまた楽しそうに笑うと、頭の後ろに腕を組み、ベンチの背にもたれかかった。
「ねえ、未玖さんは大西正也君と面識があった? 僕がここに入る前に、フォワードやってたっていうヤツやけど」
この都竹という男は、いきなり話の方向を変えるタイプらしい。私は少々とまどいつつ答えた。
「ええ。正也君は樹と同期で仲良しでしたし、よく3人で遊びに行きましたよ。学年も同じでしたしね」
「ふうん。そうなんや。なんか、女殺して逃げたっていうし、どんなヤツやったんかなって思って」
「そんなの、警察が勝手に言うてるだけです。正也君はそんなことするような人やありません」
私はそう言いながら立ち上がった。
去年の10月27日、京都市某所で渡瀬リオナという水商売をしていた女性の刺殺体が見つかった。
リオナの同僚が目撃したという、彼女の部屋から逃げ出した男が大西正也に似ていたこと、そしてリオナの部屋のあちこちから正也の指紋が検出されたことなどから、警察は正也を犯人と断定。しかし、その時点で、正也は既に姿を消していた。彼は指名手配の身となり、現在も発見されていない。
「せやけど、殺された女性、同僚に『滋賀でサッカーやってる人』から、ひどい目にあってるって言うてたんやろ?」
都竹が座ったまま、私の背中に話しかけてくる。
ワイドショーなどで散々流されていた情報だ。リオナの同僚によると、彼女はしょっちゅう身体にアザを作って職場に来ていたらしい。不審に思って尋ねたところ、初めは「転んだだけ」と答えていたそうだが、ついには「滋賀でサッカーやってる人」に大変な目に遭わされていると白状したということだ。
私は振り返って答えた。
「たしかに、ワイドショーなんかでは言うてましたけど……。滋賀には他にもサッカーチームがあるんですよ。みつともSCと限ったわけやないのに」
「せやけど、部屋中から大西君の指紋が見つかったんやろ?」
都竹はなおも質問を続ける。
「ええ。でも、肝心の凶器の指紋は拭き取られていて、付いてなかったみたいです。凶器の指紋だけ拭き取って、他の場所は拭き取ってないなんて、おかしいですよね」
「でも、目撃者もいてたって」
「たまたま訪ねてきた同僚の人がドアを開けたら、部屋の中から正也君が出てきたって……。でも、殺したところを見たわけやないし」
私が言うと、都竹は腕を組んだ。
「たしかにねえ。せやけど、それやったら、何で警察は大西君を指名手配したん?」
「さあ。早く犯人を挙げなアカンし、手近でたまたま当てはまった正也君を犯人に仕立て上げたんとちがいますか?」
口調が思わず厳しくなる。
「ほんなら、未玖さんは、大西君から何も聞いてないねんな。事件につながりそうなこととか」
都竹に言われ、私は溜息を吐いた。
「ええ。せやから、余計に彼が関わってるなんて信じられないんです。リオナさんのリの字も聞いたことがなかったし」
「そうなんか。いや、ほんまにごめんな、変な話してもうて。ほら、僕の前にいてた人やし、色々な噂が耳に入ってきて、ずっと気になってたもんやから」
都竹が申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ、いいんです。そら、あれこれ聞かされたら、気にもなりますよね」
私はそう言って微笑むと、都竹の隣に再び腰を下ろした。何となく気まずい沈黙が流れる。
耐えられなくなり、今度は私が話題を変えることにした。
「ところで、都竹さんって、どうしてみつともSCに入られたんですか。J1のチームからも誘いがあったって聞いてますけど」
「ああ、そのことか。いろんな人から聞かれるねんけどね」
都竹は苦笑しながら座り直すと、私の方を見た。
「サッカー選手の寿命は短いし、三十過ぎたら第二の人生を考えなあかん。せやけど、ずっとサッカーしかやってきてへん人間が、他に仕事を探そうと思ったら大変やろ。クラブに残ってスタッフになったり解説者になったりできる人間なんて、ごく一握りなわけやし。
それ考えたら、こうやって企業に所属してそのサッカー部で活動していく方が、いろんな意味で安全なんちゃうかなって思ったんや。もし怪我してもうても、生活の保障はあるしね。――なんて、現実的過ぎてがっかりしたやろ?」
「いえ、もっともな考え方やと思いますよ」
私は微笑んだ。
「でも、企業のサッカー部を選ぶにしても、もっと強いクラブはいくらでもあるわけやないですか。なのに、どうして?」
「僕がずっと滋賀で生きてきたからかな。生まれてから大学まで、ずっと。時代遅れかもしらんけど、ここから出る気になられへんかってね。僕は滋賀が好きなんや。琵琶湖に比叡山、そして未玖さんも大好きな近江富士」
彼は私の方を見て少し微笑むと続けた。
「まあ、何やかや言うても、滋賀県の中ではみつともSCが一番強いしね。企業も大きいからクラブが潰れることもなさそうやし」
「どこまでも現実主義なんですね」
「悪く言えば、夢が無いとか、ヘタレとかね」
都竹の言葉に、私達は声をそろえて笑った。
「せやけど、都竹さんほどの人が地域リーグの一選手で終わっちゃうなんて、やっぱりもったいないなあ」
私がベンチの背に身体を預けた時、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。徐々に大きくなっているのは、ここの裏手にある救急病院に向かっているからだろう。
私は続けた。
「都竹さんやったら、J1でも十分活躍できるでしょうし。日本代表になれるかもしれませんよ。今から考えを変えて、J1のチームに移りはっても遅くないんとちがいますか。関西圏のチームやったら、いつでも滋賀に来られますし」
樹が聞いたら目をむいて怒りそうだ。
「あはは、まあ、そこまで言うてもらえるんやったら、考えてみるかな」
都竹が笑う。すると、すぐ近くで救急車のサイレンが止まった。立ち上がってそちらの方を見る。
「病院じゃないみたいですね」
「ほんまやな。あれ、寮の辺とちゃうか? 何かあったんかな?」
都竹も心配そうな表情で立ち上がる。
「行ってみましょうか」
私達は社員寮に向かって歩き出した。
(4)
寮の前には救急車とパトカーが止まっていた。壁に映る赤色灯の色が不安をあおる。その前には、既に野次馬の姿が見られた。
「すみません」
その野次馬達に声をかけながら、都竹が前に進む。彼の後に続き最前列へと出た時、建物の中から数人の救急隊員がストレッチャーを押して現れた。その後ろには樹の姿も見える。
「樹!」
声をかけると、彼はこちらを見て驚いたような顔をした。視線をちらっと都竹の方にくれた後、小さくおいでおいでをする。私達は樹の方へと駆け寄った。
「もう帰ったんかと思ったわ。2人一緒やったんか」
樹が救急車の様子を覗いながら尋ねる。ちょうどストレッチャーが車内へと納められたところだった。その後ろから、チームトレーナーの森野が乗り込もうとしている。
「あ、うん。ちょっと酔い覚ましに、散歩に誘ったんや」
都竹が横から口を挟むと続けた。
「で、今運ばれたん、誰や?」
「高梨さんです」
樹がこちらを向いた。近くで見ると、かなり顔色が悪いのがわかる。
「みんなで話してたら、急に倒れこみはって……」
「急性アル中とか、そんなんやろか」
都竹が腕を組む。その時、救急車がサイレンを鳴らして走り出した。赤い光と音が徐々に遠くなる。
「いや、どうでしょうねえ。高梨さん、血い吐いてはったし……」
樹はそう答えて、身震いをした。
なるほど、樹の顔色が悪い理由のひとつがわかった。彼は小さい頃から血を見るのが苦手で、サッカーですりむいた時にも、「血が出た、死ぬ」などと大騒ぎしていた覚えがある。さすがに、最近ではそれはないだろうが。
「警察の方から、今日のお疲れ会に来てた人全員集めてくれって言われてるし、お前にも連絡せなあかんなあと思うとったんや。バッグやら持ち物やら調べるらしいねんけどな。ほんま、戻ってきてくれてよかったわ」
「そう。ほんなら中で待っとくわ」
私は頷いた。
(5)
警察の事情聴取から解放されたのは、既に日にちも変わろうかという時だった。電車はもう無い。両親も、晩酌を終えた後で運転できないという。仕方なくタクシーを呼んだものの、田舎のことだ。台数が少ない上に今日はあちこちで飲み会が開かれているらしく、1台来ても次の1台がなかなか来ない。
「どうぞ、どうぞ」と他の人に順番を譲っているうちに、残りは私ひとりになってしまった。どうせ明日は祝日だ。のんびり待つことにして、ロビーに置かれた古いソファに身を沈めた。硬過ぎず柔らか過ぎず、なかなか座り心地がいい。ふいに眠気に襲われ、私は思いっきりあくびをした。
「おつかれさま」
頭上から声がかかり、慌てて口元を押さえる。顔を上げると、背の高い男性がニコニコと微笑んでいた。歳は私とそう変わらない感じだ。
「タクシー待ってるの? この辺のタクシーは台数が少ないから、待つだけでも大変やね」
やけに慣れ慣れしいが、寮の中にいるということは三友工業の社員なのだろう。ヘタな応対をして樹に迷惑がかかったら悪い。
私は微笑みながら頷いた。
「ええ、そうですね。もうすぐ来るとは思うんですけど」
そこに、樹が現れた。
「あ、岡安さん、今日はおつかれさまでした」
樹は男性に向かって頭をペコリと下げた後、私の方を見る。
「未玖、お前もありがとうな」
「なんや、樹君のお知り合いなん?」
岡安と呼ばれた男性は、私に微笑みかけた。
「ええ。こいつ、山原未玖っていいます。俺の幼なじみなんですけど」
様子から見ると、樹より立場が上の人らしい。私は立ち上がって小さく頭を下げた。
「こちらは、岡安さん。寮では俺の隣の部屋なんや。経理にいてはって、サッカーの部費関係の方でもお世話になってるねん」
「ああ、そうなんですか」
そう言えば、さっきのお疲れ会で見かけたような気もする。
「いや、お世話になってるのはこちらの方や。今年三友に入ったばかりやし、わからないことはいつも樹君に教えてもらってるねんで」
岡安はそう言うと、腕時計をちらっと見た。
「こんな時間やし、樹君、一緒にタクシーに乗って彼女の家まで送ってあげた方がええんとちゃうか?」
「その方がええか?」
樹が私の方を見る。
「ううん、大丈夫。樹も今日は疲れてるやろし」
私の言葉に、岡安が微笑んだ。
「そうか。じゃあ、気をつけて帰ってね。僕はこれで」
「あ、おやすみなさい」
樹が小さく頭を下げる。
「お気遣いありがとうございます。おやすみなさい」
私も会釈すると、岡安は片手を軽く挙げて去って行った。その背中を見送って、ソファに腰を下ろす。
「お前、岡安さんに会うたん初めてやったか?」
樹はそう言いながら、私の隣に座り込んだ。
「うん。せやけど、今年入りはったんやったら、あんたより歳下なんちゃうの。見た目も若いし」
「お前もそう思うか?」
私の言葉に、樹が我が意を得たりとばかりにこちらを見る。
「あの人、やっぱり若く見えるやんなあ。俺もぱっと見い、絶対歳下やと思ってん。せやけど、実はちゃうねん。27歳やったかな」
「27? ほんなら、大学出てすぐってわけではないねんね」
私達より6つも上だ。私は驚いて樹の顔を見返した。
「うん。日本の大学出た後、アメリカに渡りはってな。ハーバード大学でエム…ナントカいうのん、とってはるねんて」
「MBA? 経営学修士ってやつ?」
「ああ、それそれ。三友工業始まって以来の秀才らしいで」
「ふうん」
私は腕を組んだ。
「サッカーの都竹さんといい、今年の春は何かと一流の人が集まりはったんやねえ」
「そうやねん。田舎の一企業から世界の三友になるかもしらんで」
樹は頭を掻きながら続ける。
「せやけど、そんなふうになったら、俺みたいに実務がでけへんやつは困るなあ。サッカー引退した途端にクビ、なんてことになってまうかもしらんわ」
「そしたら、電器屋さん継いだらええやんか」
私が笑いながら言うと、樹は真面目な顔で首を横に振った。
「俺が継ぐ頃には潰れてるやろ。今日び、電器店なんて大型のとこしか生き残られへん」
「それは酒屋も一緒やわ。うちかて、量販店に押されてアップアップやし」
話が途切れる。手持ち無沙汰になり、私はちらっと壁掛け時計に目をやった。
「悪かったな。俺が誘ってもうたばっかりに」
樹が申し訳無さそうにつぶやく。時計の針は既に12時半を回っていた。
「何やの。珍しく殊勝なこと言うて」
私がわざと驚いた顔を作ると、樹は照れ臭そうに微笑んだ。
「いや、お前が試合を観に来てくれたん、久し振りやったし。お礼のつもりやったのに、逆にこんなことになってもうて」
「ええって。あんたにそんな風に謝られたら、気持ち悪いわ」
明日あたり季節はずれのドカ雪でも降りそうだ。
「何や、人がせっかく素直な気持ちで頭下げたってるのに、その言い種は。そんな風やからモテへんねんで」
樹が憎まれ口を叩く。いつもの調子が戻ってきたようだ。
「あんた、知らんねんなあ。涼太の友達の間では、『綺麗なお姉さん』で通ってるねんで」
私の言葉に、樹が呆れたようにこちらを見た。
「涼太の友達やったら、まだ小学生やろが。お前、ついにそこまで守備範囲を広げたんか」
「まあ、最近は年下がブームやからね」
まともに相手をするのが面倒臭くなり、私はソファの背に体を預けた。樹も習って同じような体勢を取る。
「ああ、そうや。高梨さん、どうなったん?」
私は樹に尋ねた。
「危ないらしいわ。今夜がヤマちゃうかって。助かってくれたらええねんけどなあ」
樹が辛そうに目を閉じる。私はかけるべき言葉が見つからなかった。こんなことが、目の前で起こるなんて。
「ほんでなあ、さっき刑事から、高梨さんが倒れる前にどんなもん食うとったかとか、色々聞かれたわ」
樹はそう言うと、目を開けた。
「血イも出とったしな。誰かが一服盛ったんかもしらん。警察は多分、そう考えてるんやろ」
「そんなアホなこと」
私は樹の方を見た。
「心当たりでもあるのん?」
「いや、ただ、高梨さんってちょっとクセのある人やったからな。誰かに恨まれとったとしても、不思議はない気がするな」
「ほんまに? そんなこと全然感じひんかったわ」
樹の言葉に驚く。高梨は人当たりがよく、女の子達からも人気があると聞いていた。
「まあ、いつも世話になってる人のこと悪く言うのはアレやし、この話はもうええやろ」
樹は無理やり話を終わらせると、ガバッと立ち上がった。こちらを振り返って意味ありげな表情を浮かべる。
「ところで、さっき都竹さんと何があったんや?」
「え?」
顔を樹の方に向けて聞き返す。
「ほら、さっき、2人でどっか行ってたやろ?」
「ああ、あれ。酔いを醒まそうって、そこの公園に行っただけやわ」
「ほんまにそれだけか?」
樹の質問に呆れつつ答える。
「ほんまにそれだけやって。ベンチに座って色々話しただけ」
「話って、どんな話したん? お前ら、初対面やったんやろ?」
まったくしつこいやつだ。少しからかってみるか。
「どんな話って……。ああ、そうや。都竹さんなあ、私にひと目惚れしはってんて。美人はつらいわあ」
「お前なあ」
樹は鼻をフンと鳴らしてこちらを見ると、腰に手をあてた。
「お前にひと目惚れするような物好きがおったら、スッポンポンで逆立ちして寮の周りを一周したるわ」
「スッポンポンで逆立ち……」
想像するのもおぞましい。樹は私の不快感など気にもせず、質問を重ねた。
「せやから、ほんまにどんな話をしたんかって聞いてるねん」
「どんな話って、何でそんなこと気にするんよ」
不思議に思って樹の顔を見上げる。いつになく真剣な表情。私は茶化すのをやめて、真面目に答えることにした。
「えっと、近江富士の話と、何でJ1を断ったんかって話と……。あ、そうや、正也君のことを聞いてきはったわ。色々噂されてるみたいやけど、ほんまはどんな人なんか知りたいとか」
「そうか」
樹は腕を組んで何やら考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「実は、都竹さん、俺にも正也のこと聞いてきはってな」
「そら、正也君は前に自分のポジションにいてた人やし、気になりはるんとちがう?」
私が答えると、樹は首を傾げた。
「それやったら、どんなヤツやったん、くらいで済む話やろ。どんな友達と遊んでたんかとか、事件に関係ありそうな話は聞いてなかったんかとか、そんなことまで尋ねてきはるねんで」
「ああ、そう言えば、私もいろいろ聞かれたなあ。好奇心が旺盛なんやろかねえ」
「好奇心、な」
樹は吐き出すように言うと、私の方を見た。
「ほんまにそれだけやと思うか?」
「どういうこと? 他に何か疑問に思うことでもあるのん?」
思わず声をひそめて尋ねる。すると、樹はじっと私の目を見て答えた。
「いや、別に。言うてみただけや」
体がガクッと傾く。真剣に話を聞いてやってソンした。小さく溜息を吐いた時、建物の前に車のライトが当たった。
「あ、タクシー来たみたいやわ」
私は立ち上がると、樹に視線をやった。
「気になってるんやったら、都竹さんに直接聞いてみたらええんとちゃう?」
「それはそうやけど、どう切り出すかがなあ」
樹がつぶやくように言う。と同時に、クラクションの音がした。
「ほんなら、行くし。まあ、ケガせんように頑張りや」
私は樹に微笑みかけた。
「おう、お前もまた観に来てくれや。おじさん達にもよろしくな」
樹が立ち上がる。私は軽く手を振ると、社員寮を後にした。




