序章
カーテンを通してやわらかい光が差し込んでいる。気だるさの残る身体を包み込む薄いブルーのブランケット。そのまとわりつくような感触が心地よくて、足をゆっくりと動かしてみる。
歌うような鳥の鳴き声、はるか遠くからかすかに聞こえるリズミカルな電車の音。こんなにゆったりと時の流れる朝は何日ぶりだろう。
満ち足りた気持ちで寝返りを打つと、私は惰眠をむさぼるべく再び目を閉じた。
「おい、未玖、いつまで寝てるねん。もう9時やで」
平和で幸せな朝は、いつもボーイソプラノの耳ざわりな叫び声によってぶち壊される。私はブランケットをたぐって顔を出すと、声のした方に向かって答えた。
「ここ何日も徹夜してんから、今日くらいゆっくり寝かせてよ」
「そんなの、自業自得やろ。絵本の展示会があるのはずっと前からわかってるねんから、それに合わせて準備しておけば済む話やんけ」
小学4年生の弟・涼太は、最近目に見えて生意気な口をきくようになった。大体、姉の私を「ミク」と呼び捨てにするなど、百年早い。
「あんたが大学生になった時、絶対同じこと言うたるからね。よく覚えときや」
「俺は未玖みたいにいい加減な人間とちゃうからな。そんな心配ないわ」
スゴみを利かせた姉の声も、この弟にとっては何の恐怖の対象にもならないらしい。
涼太が生まれたのは私が小学5年生の時。家業の酒屋「やまはら酒店」を切り盛りする母親に代わり、私はせっせと彼のおしめを換え、哺乳瓶をくわえさせ、寝る間も惜しんで面倒を見たものだ。そうそう、つい半年前までは、お風呂にだって一緒に入ってやっていたというのに。いつからこんなに小憎たらしくて恩知らずな男になってしまったのだろう。この先、野太い声になって、あちこちから毛が生え出して……なんて、考えるだけでもぞっとする。
「おい、未玖、聞いてるんか? 10時には家を出なあかんねんで。樹兄ちゃんの試合に間に合わへんからな」
「樹の試合? 行かへんよ、そんなもん」
望月樹。うちの向かいにある電器屋「デンキの望月」の一人息子。幼稚園から中学校までずっと同じクラスだった上、父親同士、母親同士も大の仲良しという、まさに腐れ縁の見本のような男だ。
「でも、天皇杯でJ1のチームと対戦するねんで。こんなこと、一生に一度あるかないかのことやねんから、観に行ってやったらええやないか」
樹は三友工業サッカークラブ、略称「みつともSC」に所属している。このみつともSCは地域リーグのうちのひとつ、関西サッカーリーグの1部に属しており、いわゆる社会人サッカー部の中ではそこそこのチームだ。とはいえ、日本のサッカー組織は、この地域リーグの上にJFLがあり、その上にディビジョン1とディビジョン2から構成されるJリーグがある。
天皇杯は、各都道府県の代表とJFL・大学リーグのシードチーム、J1・J2の全チームが参加して行われるトーナメント形式のサッカー大会である。その天皇杯に、みつともSCは滋賀県代表として出場を果たした。
まあ、出場自体はこれまでにも何度かあったのだが、大抵は初戦で敗退していた。しかし、今年は奇跡的に3回戦を突破、4回戦から出場するJ1チームと対戦することになってしまったのだ。そして、その試合が今日、大阪にあるスタジアムで行われる。
「とにかく、早く起きてや」
涼太は甲高い声でそう言い捨てると、ドタドタと大きな音を立てながら階段を下りていった。
「んもう、しゃあないな」
ブランケットを勢いよくはがすことで、睡魔からの誘惑をはねのける。起き上がった途端、目に飛び込んでくる現実。
薄暗い部屋の中には画用紙や色鉛筆が散乱しており、ここのところの絵本作成地獄を否が応でも思い出させた。
私は大学で絵本愛好会に所属している。昨日から、その年に一度の大イベントである展示会が始まっていた。
涼太の言うとおり、そんなことはずっと前からわかっていたことではある。しかし、先週は「日本近代史演習」という授業で発表の順番が回ってきてしまい、そちらの準備にかかりきりだったのだ。
結局、絵本作りを始められたのは展示会開催の3日前。昨日の朝まで連日徹夜で取り掛かり、どうにかこうにか描きあげることに成功。それを展示会の担当スペースに配置し、諸々の雑用を済ませて家に帰れたのは、昨日の午後11時を過ぎた頃だった。
展示会の開催期間は今週一杯なのだが、私が案内係を担当するのは明後日と展示会の最終日だけ。今日は一日ゆっくり休めるはずだったのに。
私は床に放り投げてあったカーディガンを手に取ると、パジャマの上に羽織って部屋を出た。