第42話 「領域の礎」
森へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
外の空気とはまるで違う。
濃密な魔素が霧のように漂い、木々の幹や葉の隙間から青白い光が揺らめいている。
魔力を見ることのできない者でも、この場所が異質であることだけは肌で理解できるだろう。
普通の人間なら、数分もいれば魔瘴を起こす。
頭痛、吐き気、めまい。
やがて意識を失い、二度と目を覚まさないこともある。
だから、この森には誰も入らなかった。
いや、入れなかった。
しかしエマには、その苦しさがなかった。
魔素は彼女の身体を蝕むどころか、穏やかに寄り添うように流れていく。
母の手に触れられた時のような、不思議な安心感さえあった。
「……やっぱり」
小さく呟く。
予想はしていた。
それでも、実際に確かめられたことは大きかった。
エマはゆっくりと森の奥へ歩き始めた。
***
一時間。
二時間。
歩けば歩くほど魔素は濃くなっていく。
木々は高く伸び、陽の光はほとんど届かない。
代わりに森そのものが淡く発光していた。
草花にも微かな魔力が宿り、小さな光の粒が空中を漂っている。
魔物の姿もあった。
狼ほどの大きさをした魔獣。
木陰からこちらを窺う鳥型の魔物。
だが、不思議なことに襲ってこない。
一定の距離を保ち、ただ静かにエマを見つめている。
敵意というより、警戒だった。
エマも無理に刺激することはしなかった。
ただ歩く。
さらに奥へ。
さらに深く。
***
やがて森の景色が変わった。
大木が途切れ、ぽっかりと円形に開けた場所へ出る。
中央には巨大な岩。
その周囲から、青白い光が絶え間なく立ち上っていた。
まるで泉のように。
しかし湧き出ているのは水ではない。
魔素だった。
「……ここ。」
エマは息を吐いた。
この森すべての魔素は、この場所から溢れている。
数百年、あるいは千年近く。
誰にも触れられないまま積み重なった魔素。
世界でも指折りの魔素溜まりだった。
***
エマは荷物を下ろした。
最初に取り出したのは、小さな透明な結晶。
これまで浄化し続けてきた魔素結晶だった。
数は二十個ほど。
どれも親指ほどの大きさしかない。
「足りないですね。」
独り言だった。
この規模の魔素溜まりを抑えるには桁が違う。
少なくとも百個以上。
いや、それでも足りないかもしれない。
だから作るしかない。
今、この場で。
***
エマは静かに両手を重ねた。
目を閉じる。
意識を魔素へ向ける。
すると周囲の魔素がゆっくりと流れ始めた。
青白い霧が渦を描く。
それは次第に一つの流れとなり、エマの両手へ集まっていく。
膨大な魔素。
普通なら触れただけで命を落とすほどの濃度。
それをエマは受け止める。
混じった穢れを取り除き、
純粋な魔素だけを残し、
ゆっくりと圧縮していく。
光が強くなる。
やがて一つの透明な石が生まれた。
魔素結晶。
それはこの世界で最も純粋な魔力の塊だった。
***
一つ。
また一つ。
さらに一つ。
同じ作業を何度も繰り返す。
昼が過ぎ、
夕方になり、
夜になっても止まらない。
集中を切らせば結晶は砕ける。
だから休めない。
食事も最低限。
水だけ飲み、再び魔素を集める。
夜の森は幻想的だった。
星空よりも明るい青い光が森を満たしている。
その中心で、小さな少女だけが座り続けていた。
***
一方その頃。
森の外では仲間たちが待っていた。
「もう日が暮れますね。」
ハインが森を見た。
「今日は戻らないでしょう。」
ライリーが帳簿ではなく地図を広げている。
「明日には終わると思いますか?」
「終わるでしょう。」
ロンは迷いなく答えた。
「エマさんは、できると言ったことは必ずやります。」
ラドスティンも静かに頷いた。
「そういう人だ。」
リアは焚き火を見つめながら笑う。
「信頼されているのね。」
「「「当然です。」」」
三人がほぼ同時に答えた。
リアは思わず吹き出した。
「本当に息がぴったり。」
***
森の中心。
エマはようやく最後の結晶を作り終えた。
目の前には百を超える魔素結晶が並んでいる。
透明な結晶は月明かりを受け、湖のように輝いていた。
指先は震えている。
額には汗が滲んでいた。
さすがに疲労は隠せない。
それでも口元は少しだけ緩んでいた。
「……できた。」
これで終わりではない。
ここからが本番だ。
この結晶を森全体へ配置し、
一つひとつを礎として結界を繋ぎ、
誰も住めなかった土地を、
人が暮らせる領域へ変える。
エマは夜空を見上げた。
木々の隙間から、小さく星が見える。
「お母さん。」
自然とその名が零れた。
「もう少しです。」
誰にも聞こえない声は、静かな森へ溶けていった。




