109.格好悪い
……ん、うーん……。
気が付くと、オレは丸まって自分の身体に埋もれるようにしていた。
目を開けたこの場所は暗い空間だった。まだ前世のオレの夢の中をさ迷っているのかな……。そう思うと体がブルッと震えた。
もう悪夢は嫌だよ、コリゴリだ。夢なら早く醒めてほしい。
オレは耳を立てた。ぼんやりしたまま鼻を動かして辺りの気配を窺っていく。
オレは毛布の上で丸まりながら寝ていたようだ。自分の身体は学ランでも黒の私服でもなかった。黒毛のねこの姿をしていた。それに少し安心した。
すぐ隣には灰色と黒い縞模様のねこがオレの身体にぴったりとくっついて眠っている。ターニャだ。
なんでターニャがオレの傍にいるんだろう。夢かな?
それともここはやっぱりどこか違う場所かな、……天国とか?
オレの意識は混濁しているままだった。
オレは乾いた舌のまま時間をかけて自分の前足を舐めてみる。何度も舐めて濡らした前足で、何回も顔を拭いていく。
横で寝ているターニャを起こさないようにそっと体を起こして、腹や背中と股の辺りを舐めていくと身体が鈍く痛んだ。
どうやら、だいぶ長い間ずっと同じ姿勢で眠っていたみたい。……それとも、身体のこの軋みは一体?
鼻が利かないと思っていたのはどうも詰まっているらしい。
[ックシュン! ックシュン!]
[ん……。
ランドくん!? 起きた?]
[おはよう]
くしゃみをして鼻の通りを良くしていると、ターニャが目を覚ましてしまった。
立ち上がったターニャはオレの首元へ移動して、そのままオレの首の後ろを優しく舐め付けてくれている。
[大丈夫?? 何日も寝たままだったから心配したんだよ。私もみんなも]
[……そうなんだ。
ごめんなさい、心配掛けて]
オレは自分がとても素直になっていることに戸惑った。弱っているからかな。イケナイかな、と思ってみても無性に甘えたくなってしまう。そして少し照れてくる。
オレは背中の方まで懸命に舌を動かしているターニャへ首を回して、ターニャのことも舐めて上げようとした。その時も少し頭の後ろに針を刺されたような痛みが走った。
[?
大丈夫? 私のことはいいよ。無理しなくていいから。そのままにしていてよ]
[うん……]
オレは優しくていい匂いのするターニャに鼻をくっ付けた。そうすると自然と気持ちが安らいでいく。とても温かい。
オレは身体の異常があるみたいだ。
正直不安で心がざわめく。でもターニャに包まれながら優しく身体を舐められているとオレの心は落ち着いた。
オレは今いるこの場所を尋ねるとターニャは、[ここはテントハウスだよ]と答えた。
ターニャや獣人達の家か。
でもこの場所には他の獣人はいないみたいだった。気配を探るのも何だか憚られてよしておく。
ガンク達のことを尋ねると、オレの仲間達はクーレントさんの工房に宿泊しているという。ガンクもナノもイルマも、魚宿場町サーモアンからメールプマインに移動して同じ第二番街に滞在しているらしい。
とりあえずオレはそのことに安堵すると同時に、オレだけ別の場所にいたことに少し心が寂しさを感じてキュッと締め付けられた。
ターニャはオレの気持ちを慮った様子で、舌を止める。
[ごめん、ランドくんもガンクさん達と一緒が良かったよね。でも私が心配しちゃって。ランドくんの目が覚めるまで一緒に近くにいたかったんだ。
日中私が下でお仕事してる時には毎日ガンクさんやナノさんがランドくんのことを見に来てるんだよ]
オレはターニャに余計な気を遣わせちゃったことを申し訳なく感じる。
ターニャもガンク達も、オレがずっと同じ姿勢で寝続けて体を痛めないようにと何度もオレの身体を持ち上げてはずらしてくれていたようだった。
嬉しくなって、オレは照れながらも頑張ってターニャを見詰めようとした。でもハッと気付く。ねこの姿の今は彼女の目を直に見ることをやめて、オレは強く体を彼女へ押し付けてみる。目を合わせちゃ嫌だよね、と思ったのだ。
オレは今、今までよりもっと自分が動物としてか振る舞うべきか人間として振る舞うべきか、どうするべきか上手く判断出来ないみたいだ。
だから態度に加えて言葉も付け加える。恥ずかしくて照れ臭いけど、頑張ってターニャへ気持ちを伝えてみる。
[オレはターニャが傍にいてくれて嬉しいよ。一緒にこうしていてくれてすごく安心する。
それに、ガンク達も無事で本当に良かった]
[フフ。ありがとう。
今日は素直で甘えん坊だね。いっばい甘えていいからね]
オレの腹が鳴った。
[あっ、私ってば。
そうだよね、ずっと何も食べてないからお腹がペコペコだよね。ガンクさん達にランドくんのご飯を預かってあるの。すぐ持ってくるから待ってて]
水を飲んでご飯をいっぱい食べると随分と意識がハッキリしてきた。
もし何なら今からすぐにでもレームスさんの工房で寝泊まりさせてもらっているガンク達の元へ、オレが目覚めたことを報せに行くと言うターニャをオレは座らせた。
明け方に近い時刻だし、ガンク達に会うのは朝でも構わないしな。オレもまだ体が不調のようだし、もうしばらく休みたい。
それに、大好きなターニャとこのまま引っ付いていたかった。
[明日の朝、またガンクさん達が顔出してくれるから。だからランドくんはその時までゆっくり寝ていてね。まだ疲れているでしょ。
朝まで私が傍に付いていてあげるから。ね?]
[うん。そうする。ありがとう]
[いいの。
私もランドくんが目を開けてくれて、またお話出来て本当に嬉しい。じゃあ、おやすみ]
オレは、[おやすみ、ターニャ]と呟く。
そして今世のオレのことを考えた。オレはなんて幸せんだろう、と。
前世のオレの辛い日々をオレは知ることが出来た。夢の中で知ったことだけどあれは多分事実に違いないと感じられるものだった。あまりにもリアルだった。
中学生のオレは鬱屈した毎日を過ごしていた。イジメに合っていて、そして車にはねられたことで事件に巻き込まれて死んだ。それがオレの前世。
考えれば考えるだけ悲しくなる。悔しくて、なんて酷い話だろうか。
そんなオレはこの世界へ何の為に生まれ変わったのだろう?
異世界に来て、人からねこの身へ転生して。変な話だよな。
一体オレは、何の為にこの魔物がいたり魔法が使えるようなファンタジーな世界で生きているんだろうか……。
オレはターニャの寝顔を眺めた。ターニャはとっても気持ち良さそうにすやすやと寝息をかいている。
可愛いな、と思う。
オレの心はとても落ち着いていた。
ターニャはとても素敵で可愛らしい猫の女の子だ。それは間違いない。
今この気持ちが人間として猫のターニャを見ているのか、同じ一匹のねことしてターニャを愛しく感じているのか。それはオレにとって難しい問題だけれど。
線の細いアッシュグレーの毛並みは口元と鼻筋に掛けてだけ新雪のように純白だ。オレはその部分にターニャの凛とした強さと穢れの無さを感じている。
その鼻筋から耳の後ろ側へ黒毛が混ざるようにして後方へ走っていき、それは波紋みたいに麗らかに伸びてターニャの肢体を柔らかく包んでいる。
本当に綺麗だ。こうしてずっと眺めていても一向に飽きないくらいに。
オレの脇で身体をくっ付けたまま眠るターニャを眺めながらオレは考えていく。
ターニャ、彼女も疲れている筈だ。
故郷を追われ、慣れない暮らしを余儀無くされて、帝国領からこのメールプマインまで追いやられてきたターニャ。同郷の猫人族は彼女を残して今は誰もいなくなっている。
きっとターニャはこれまで何度も悲しい思いをしてきたに違いない。
もしかすると、ターニャの本当の姿はもっと明るくて元気で活発な女の子だったのかもしれない。悲惨な出来事に遭遇してはその度にそれを潜り抜けて、ここまで生きてきたのだから。
そのことを想像したらオレは自分自身が恥ずかしくなった。まるでオレだけが悲しい目に合ったのだと。前世で酷くてツラい目に合って、逃げるようにしてこの世界へ生まれ変わってしまった、と嘆いていたから。
でも、悲惨な目に合ったのは決してオレだけじゃない。
どんなに無惨で非情な運命に巻き込まれたとしても強く健気に頑張っている人がいる。沢山いる。ターニャだって、他の獣人達だって。
だから、オレだけが悲しいとか悔しいだなんて考えていちゃダメだ。そんなのダメダメだ。格好悪いよ。
強い眠気に襲われたオレは、ターニャにおやすみのキスをするように彼女の白毛の口元を舐めてあげた。
ふわぁ……。
あくびが出ちゃった。ごめんターニャ、起きないで。
いっぱい寝ていた筈なのにもっと強烈な睡魔はオレを深い眠りの世界に引き下ろしていくみたいだ。
[ターニャ、おやすみ]
今度は悪夢なんかじゃなくて、柔らかくて穏やかな眠りの世界がオレを包み込んだ。