それは交換ノート三日目
姉さんはまた朝、昨日と同じ場所に立っていた。完璧な愛想笑いではなく、まるで苦笑するような笑顔で。
「おはよう、柚利。昨日ぶりね。
私の弁当を作るついでに、柚利の分まで作ったの。使い捨てのパックに入ってるから、容器は捨ててくれていいから良かったら食べて? 飲み物買いに行った時、購買に居たのを見かけたから……」
せっかく、作ってくれたものを無下にすることは出来ないから、僕は姉さんの手から弁当を受け取って、お礼を言って別々の道から同じ学校へと向かう。
その途中、ギターを背負いながら、学校指定のスクールバックを肩にかけた、ネクタイの色から見ると先輩だろう同じ高校の先輩を見かけた。その先輩は、見かけは平凡的で目立つような雰囲気をしてはいなくて、よく見たら容姿も整っているなあと言う感じだ。
でも、その先輩の友人が彼に話しかけた瞬間。その先輩の声は、先輩の雰囲気を一変させた。
先輩に合う曲に出会えば、あの先輩はたくさんの人をその声で魅了させてしまうんだろうなと思った。
この人なら姉さんを、姉さんの世界を変えられる。そう思ったのは勘だけど、絶対的な確信があった。
まあ、姉さんがこの人を見つけなければ意味がないから、先輩には話しかけないけれど。
その時、僕は知らなかった。
「あの人の指、綺麗な何かを生み出す指だわ。僕にはわかる」
「急に暑くなったからな、頭でも可笑しくなったか?」
「弟と似てるんだよね、彼の手」
「そうだったわ、お前もなかなかの鬼才だったね。俺お前のファン一号で、親友だから良く知ってる」
……なんて、会話をしているだなんて、またノートあるかな?と考えている僕には聞こえてはいなかった。
「柚ちゃん、おはよう」
他の生徒の前だと言うのに、柚ちゃんと呼ぶ悠飛先生。僕は基本、人見知りだからこのぐらいの期間では喋るくらいに仲良くはならない。なら、何故悠飛先生は平気かと言うと先生は父さんの幼馴染だからだ。
そして、父さんに僕を引き取るよう助言した張本人でもあり、父さんが離婚したきっかけでもある。
悠飛先生は父さんに依存されてる。
そして、悠飛先生も父さんに依存しているようだ。僕にはわかる、仲良くはしていても悠飛先生の中で存在している父さん以上の存在にはなれないし、父さんだって悠飛先生以上の友人には他の人にはなれないことは手に取るようにわかるんだ。
でも、母さんはそれを望んだ。
母さんは二人の関係を壊そうとしたんだ。一番にはなれない、二番目である自分が許せなかったんだろう。その原因である悠飛先生を憎み、母さんは狂ってしまった。壊そうと行動し始めてしまったのだ。
離婚の原因は、母さんが“母さん”になりきれなかったことかもしれない。目の前にある愛される記憶だけを見て、悪くなるかもしれないと冷静であれば思いつくことを考えなかったから、父さんから見放されてしまったのだと思う。
母さんは若かったのだ。
そして、今も変わらないまま。
「悠飛さん、ここは学校ですよ。周りの人に聞こえてたらどうするつもりなんですか」
「もう、何故か教員達には全員バレてるし、もう良いかなって。あ、そうそう。合唱祭のことなんだが、放課後に職員室に来てくれるか?」
問い詰めるように僕はああ言ったが、悠飛さんはもう隠すことを諦めたようだ。
せめて、クラスメイト達の前では先生振って欲しいなと思う。
まあ、そんなことよりも合唱祭か。どうせ、合唱祭を出ない代わりの課題とかペナルティーの話だろうから放課後音楽室に行く時間がずれてしまうのはしょうがないか。
そう思うしかなくて、僕は悠飛さんの問いにコクンと頷いて応じた。
昼休みのことだ。
なんとなく、教室に居づらくて。音楽室に行けば、先客が居て。今朝見かけた先輩が昼食を食べていた。
「やあ、君は今朝の子でしょ!
初めまして。僕は二年の土岐牧都って言うの。君の名前は?」
まるで嵐のような人だ。
……圧倒されるがまま、僕は、
「……白塚柚利」
自分の名前を答えてしまった。
それに気がついた時には遅かった。
にっこりと笑う、土岐先輩を見て僕は何故かとても後悔した。何故だろうか、知りたくて知りたくなかった何かを知ってしまうような気がしてならなかったから。
「僕ねー、双子の弟がいるんだ。もう、天才的でねー。色使いの使い方がもう凡人には理解出来ないレベルまで上手いんだよ。いつも、ここの上の美術室にいるんだよー」
知りたくて知りたくなかった何かを、知ってしまいそうだと言う予想が当たってしまった。
人見知りな僕は、彼に会いたくても会いに行けないから。
でも、どんな人かは気になって、それでも、例えノートのあの先輩だったとしても僕はどうしても、新しく人に会うのは怖いんだ。……それがピアノと向き合うことに対して、僕の背中を押してくれた人でも。
「見た目はね、愛想がなくて不機嫌そうだけど根は優しい子なの。人とは違う感覚を持っているから良く妬まれてね、殴られたりもしていたよ。あの子はそれを全て耐えてたけど、この高校に来てから妬む人も暴力を振るう人もいなくなってね、気が緩んだのか今までの反動が後々から来ちゃって美術室に引きこもりをしているんだよ。
あの子の才能はね、けして良いものなんかじゃないよ。昔から感受性が豊かでね、人の憎悪や期待、妬みとかが雰囲気でわかってしまうんだ。それを代償に、あの子は的確に人を魅了する色使いを手に入れた。
才能はね、人を殺すことだってある。人はさ、才能を見つけると直ぐに期待をするんだ。
凄いよね、◯◯くんは。きっと次も◯◯くんが一番だよーとかさ、何気ない期待がさ、妬みを生んで、その◯◯くんを追い込んでるだなんて知らないんだから。
でさ、いざスランプに陥ったら、過去の栄光にされちゃうんだもん参っちゃうよね。中にはさ、才能がある人で精神的に強い人はいるよ? でもさ、才能のある人もさ、人だから期待に押しつぶされることだってあるよね。才能のある人ほど、好きなことに対して、それに通じるものに対して努力している人の方が多いのにさ、人はそれを見ないで天才とか神童の単語で済ませちゃうんだもん。僕は天才と言う言葉が嫌いだよ。
まあ、でも幼馴染に言われるのは別に良いんだ。でも、彼は鬼才だって言ってくれるんだ。そう言う奴だから僕はあいつが好き。勿論、like的な意味合いだよ? 僕がもし、来世で女の子だったら結婚しようって約束させるくらいにはあいつには依存している。
才能は時に人の人生を狂わせるんだ。天才は、天災にもなれる。まあ、正しくは人災って言った方が正しんだろうけど……」
何故か説得力があって、何故か切ない気分になる話だった。
嫉妬ほど、怖いものはない。僕は何とか耐えられたけど、その代わり心が歪みすぎてしまった。
……なんて僕は考えていると、土岐先輩は続けて、
「そうならないためにはさ、休憩するのも大切なんだよ。人間は疲れるだろう? だから、こん詰めてやってもね、良いことなんてない。才能に期待されることに疲れたなら、才能才能のせいで妬まれることに疲れたなら、そのせいで辛いと感じて自分を追い込んでしまうくらいなら休憩したって良いんだ。休憩ことで失うことも多いけど、得るものもある。
弟はね、今休憩時間中なんだ。今まで頑張りすぎちゃったから。だから、僕はどんなに弟を両親が責めても味方でいると決めた。弟が自分らしさをまた見つけられるまで。
だから、柚利くんも疲れたら休憩すること! 心は人一倍癒えるのが遅いから出遅れる前に休憩しておくんだよ。君はね、弟に何か似た部分があるからさ、心が壊れてしまって欲しくないんだよ」
とても穏やかな表情で笑うから、僕は操られたかのようにコクンと思わず頷いてしまった。
そんな僕に満足したのか、ギターを持って立ち上がり、土岐先輩は音楽室から去って行ってしまったのだった。
そして放課後。職員室に行き、課題を音楽の担当にもらった後、すぐに音楽室へと向かった。
相変わらずグラウンドピアノの上に置かれた一冊のノート。
僕は躊躇うことなくノートを開く。
ーー変なところで察しが良いお前ならわかっただろうから、慣れない敬語で文章を書くのはやめる。
ーー兄に話を聞いたみたいだな。
ーー俺は土岐織都、あの牧都の双子の弟だ。
ーーたまたま、美術室から出たら珍しく牧都が語っていたから物珍しいさに話を聞いていてしまった。
ーーすまなかった。その後、牧都に見つかってからかわれた後に謝っておけと言われたんだよ。本当にすまなかった……。
ーー俺は話すのはあまり得意じゃない、口下手だからな。
ーー時にはお前を傷つけてしまうことを無自覚に言ってしまうかもしれない。
ーーまだ怖いなら俺と会わなくて良い。せめて、交換ノートだけは続けてはくれないか?
ーー良い返事を待っている。
ーー土岐織都より。
その交換ノートの内容を読んで、嫌だなんて言えるだろうか?
答えは否、言えるはずもない。
ーー改めて、僕は白塚柚利と言います。高一です。
ーー土岐先輩との話を、織都先輩に聞かれていたことについてですけど、別に僕はあまり話していないので、気にしていません。あまり気にしすぎないでくださいね、織都先輩。
ーー交換ノートを続けるかは、続けたいです。よろしくお願いしますね、織都先輩。
ーー白塚柚利より。
交換ノートにそう書いて、練習曲を一曲だけ弾いてその日は帰ったのだった。