第7話 漆黒の観測者
1.空っぽのEgo Cube
MAG-GRAVカードの社会実装から半年。世界は劇的な変化を遂げつつあった。白石海斗率いる「NEO-GAEA」のインフラを通じて提供されたそのカードは、人々の深層心理にある「意志」をデータとして保存し、そのカードをスマホにかざすだけで「自分の自我の状態」であるEgo Cubeを画面に可視化できるサービスとして受け入れられていた。
簡単に表現すると、セルフでいつでもリアルタイムな「自己理解」ができる商品だ。
「太陽さん、見て。今日の幸福度指数、また過去最高を更新したわ」
大学の研究室で、アスミがタブレットを回して見せる。彼女の表情は以前の「小悪魔」の仮面ではなく、心からの安らぎに満ちていた。私たちの理論が、世界に「均衡」をもたらしている。そう意識し始めていた。
だが、その平穏は、一本の電話によって無残に引き裂かれた。
「神野!至急来てくれ。……普通じゃねぇ。こいつは病気でも事件でもねぇ、何かが「抜かれてやがる!」」
電話の主は権藤武。その声には、修羅場をくぐり抜けてきた「火薬樽」らしからぬ、底知れぬ恐怖が混じっていた 。
駆けつけた先は、都内の大手IT企業。オフィスでは、十数名の社員が椅子に座ったまま、虚空を見つめていた。呼吸はしている。心臓も動いている。だが、彼らの瞳には「意志」の光が欠片も残っていなかった。
「……まるで、魂を吸い出されたみたいだな」
九条零が、冷徹な銀色のEgo Cubeを掲げながら現れた。彼はアーク・システムズの電磁ネットワークを通じて、異変をいち早く察知していた 。
僕は震える手で自身の黄金色のEgo Cubeを起動し、被害者の一人をスキャンした。ホログラムディスプレイに映し出されたその光景に、研究室から同期していたアスミの悲鳴が重なった。
「太陽、変よ……?Cubeが……。形はあるのに、何の波動もない。中身が空っぽよ!」
社員のEgo Cubeからは、これまで積み重ねてきた記憶も、感情も、未来への絶対値も、全てが消失していた。そこにあるのは、中身を吸い出された後のような「漆黒の空洞」。
世界各地で同時多発的に発生しているこの怪現象は、ネット上で「エゴレス(自我消失)」と呼ばれ、パニックを引き起こし始めていた。
「……これだけの数の自我を瞬時に喰らうとは。重力でも磁力でもない、もっと「貪欲なチカラ」だ」
九条が銀色の波動を広げ、周囲を警戒する。その時、オフィスの空間が「ねっとりとした闇」に侵食され始めた。
一人の男がどこからともなく部屋に現れた。黒いコートを纏い、手元には見たこともない「漆黒のEgo Cube」が浮かんでいた 。
「素晴らしい。MAG-GRAVカードによって純化された「自我」。これこそが、我々が求めていたものだ」
男はそう言って、冷ややかに微笑んだ。その瞳は、鏡のように無機質で、何の色も持っていない。
「誰だ……! お前が彼らの自我を奪ったのか!」
僕の問いに、男は漆黒のEgo Cubeを弄びながら答えた。
「私は観測者。君たちが丹精込めて育て上げた「自我」が、正しく成熟したかを監査し、捕食するのが我々「オメガ」の役割だ」
「捕食だと……?自我は、その人だけの唯一無二の意志だ!勝手に奪っていいものではない!」
僕は自分のCubeを起動し、黄金色の重力波を男へと向けた 。
「神野太陽。君の「調和」は、あまりに甘い。人の本能はそんなに優しいものじゃない。世界中の自我を一つに束ね、唯一絶対の「神」を構築する。それこそが、我らオメガが目指す真のキャリア理論なのだ」
男が漆黒のCubeを突き出すと、黄金色の重力波が吸い込まれるように消えていった。
「……さあ、世界規模の「自我争奪戦」の始まりだ。ようやくEgo Cubeの構造を理解できたばかりの君たち程度が、我々に抵抗できるかな?」
男の姿が闇に溶けるように消えると同時に、その場にいた社員数人が同じような状態に陥った。
「エゴレス(自我消失)」の症状が世間を騒がせ、MAG-GRAVカードの信頼性が揺らぎ始めていたある夜のこと。僕と明日美、そして九条は白石が解放してくれたサーバールームでで、奪われた自我の「経路」を逆探知するため、NEO-GAEAへ侵入したプログラムの痕跡を探していた。
「……変だわ」
キーボードを叩く明日美の手が止まった。彼女の瞳が、ホログラムディスプレイに流れる暗号化されたパケットの羅列を凝視している。
「どうした、明日美さん。オメガの正体が掴めたのか?」
僕が問いかけると、彼女は震える指先で画面の一部を拡大した。そこには、オメガの攻撃プログラムの深層部において、データが吸い込まれる際に生じる独自の「渦」のアルゴリズムが記述されていた。
「これ……私が大学の地下書庫で見つけた、深海一族にしか伝わっていないはずの「非平衡カオス演算」の変形式よ。……しかも、このコーディングの癖。……お母様だわ」
明日美の声がかすれ、絶望が部屋に満ちる。彼女の母は、彼女が幼い頃、病気で亡くなった兄に付き添っていて、そのまま行方不明になったと聞いていた。その母が、あるいはその一族の意志が、人々の自我を喰らう「オメガ」に関わっている。その事実は、明日美を根底から揺さぶった。
4話明日美の葛藤と太陽の重力
「嘘よ……。私が研究してきたカオス理論が、誰かの未来を護るためのSpellが……誰かの「自我」を捕食するために使われていたなんて」
明日美は自身のEgo Cubeを抱きしめるようにして、その場に崩れ落ちた。彼女は「愛情に甘える」という経験を持たず、ただ「望まれる自分」を演じることで自我を保ってきた。その拠り所となっていた学問そのものが、「捕食」の歴史に根ざしていたという現実は、彼女のアイデンティティを粉々に砕こうとしていた。
「……太陽、彼女の自己一致率が危険域まで下がっている」
骨伝導イヤホン越しに、九条の警告が響く。明日美のEgo Cubeは透明度を失い、どろりとした漆黒に飲み込まれ始めていた。自責の念が、彼女を内側から食い破ろうとしている。
僕は黙って彼女の隣に座り、その震える肩を引き寄せた。
「明日美さん。君が演じてきた仮面も、君が積み上げてきた嘘も、僕にとってはすべて「本物」だ。君が今ここにいて、誰かのために涙を流している。その事実は、どんな血筋でもアルゴリズムでも書き換えることはできないんだ」
僕は黄金色のGaeaを微かに解放し、彼女の絶望を優しく包み込むように重力を展開した。
「一族が自我を奪う道を選んだのなら、僕たちはその「罪」さえも変数として受け入れ、新しい物語を綴ればいい」
彼女は僕のシャツを強く握りしめ、嗚咽を漏らした。
2.デジタル書庫への潜入
数時間後、葛藤を抱えながらも明日美の表情には、一族の呪縛を断ち切らんとする「覚悟」が宿っていた。
「……私の実家の旧邸に、外部のネットワークから遮断されたサーバー「零号書庫」があるわ。そこに、深海家が数世紀にわたって収集してきた、自我に関する禁忌の記録……「深海古文書」のデータが置かれているはずよ」
僕たちは、権藤さんが独自の情報網で探しだしてくれた監視システムに引っかからないルートから、山奥にひっそりと佇む深海家の旧邸へと向かった。そこは、情報の過負荷に耐えかねて狂気に陥った一族の先祖たちが、最期を過ごしていたとされる場所だった。
旧邸の地下深く、蜘蛛の巣の張った古いサーバーラックが立ち並ぶ部屋。そこは物理的な重力さえも狂い、情報の残滓が「見えないチカラ」となって肌を刺すような空間だった。
「九条、頼む」「フン、磁気シールドを張る。一分以内にデータを抜け」
九条が銀色のEgo Cubeを掲げ、周囲の電磁気的な干渉を遮断する。その隙に、明日美は自身の生体IDをコンソールに読み込ませた。
「アクセス。深海家・直系、アスミ・シンカイ」
冷徹な機械音声と共に、空中に巨大なホログラムが現れた。それが、一族がひた隠しにしてきた「深海古文書」のデジタルデータだった。
画面に映し出されたのは、あまりにも残酷な記録だった。
「……嘘よ。こんなのが、私が追い求めていた「カオス理論」の成れの果てだなんて」
「太陽、聞いて。私の一族……深海家は、代々「伝えし者」としての役割を受け継いできたの。自分の記憶に全時間軸での、この世界の真実の知識を受け入れなければならない。それは天啓であると同時に、自我を崩壊させる原因にもなっているの……」
「他者の自我を捕食していたのは、単なる優越感のためではない。ただ、自分たちという存在自体が「闇」になってしまうことを回避するため……役割を維持するためには他者を犠牲にして「均衡」を保つしかなかった。……オメガは、深海一族の闇の部分を背負っている禁忌の存在なのよ」
深海家の一族は、表に出すわけにいかない「記憶」を、未来に残す役割を担っていた。想像するに、綺麗なことばかりではないだろう。「知ること」により、その「重さ」に耐えきれず自我の境界線が常に崩壊の危機に晒されていたはずだ。
この役割を全うするためには、そうせざるを得なかったのだろう悲劇的な一族だ……。
「……彼らは、解放されたかっただけなのね。誰かに、自分たちの「役割の重圧」を認めて欲しかっただけなんだわ……」
古文書の最深部には、オメガの「エゴ・コア」を制御するための記憶の断片が記されていた。しかし、それは「母なる海」のごとき圧倒的な受容力を持つ者でなければ、扱った瞬間に自我が霧散する諸刃の剣だった。
「太陽さん。私……覚悟を決めた。この呪われた血脈を、世界を繋ぐ「結び」に変えてみせる」
明日美が古文書のデータを自身のEgo Cubeへと転送したその瞬間、旧邸が激しく揺れた。
「来たぜ……! 漆黒の観測者のお出ましだ!」
権藤が拳を鳴らし、入り口を睨む。
「ここは深海一族にとって重要な場所だ。君たちにも見せておきたいものがある。こちらへ来たまえ案内しよう」
観測者は、さらに地下へと繋がる階段を下りて行った」
「……ここが、奪われた自我の集積場所か」
僕たちは、――「エゴ・コア」のある場所へと案内された。そこは地下深く、重力も磁力もねじ曲げられた異空間。空間の至るところに、中身を吸い出され、黒く染まった数万もの「空っぽのEgo Cube」が、墓標のように漂っていた。
「なんてこと……。これだけの数の「自我」が、冷たく凍りついているなんて……」
アスミがその一つに触れようとすると、観測者の背後にある、巨大な「漆黒の球体」がうごめきだした。それは、奪い去った数万人の自我を漆黒の重力によって強引に留めていた。
「ようやく来たか……この「エゴ・コア」はいずれ次元を超えるだけの重力を持つことになる。そのときは全人類の思考領域を上書きするだろう。多様性という名のノイズは消え、世界は一つの意志の下、唯一絶対の「神」の存在を認識することになる」
「唯一絶対なんて、ただの思考停止だ!」
九条零が銀色のEgo Cubeを掲げ、磁気誘導によって「白き構造の防壁」を張り巡らせる。僕は黄金色のGaeaを解放し、九条の防壁に調和の重力を重ねた。
「漆黒の観測者」が放った黒い触手が、九条の防壁を砕き、僕の重力を飲み込んでいく。九条が膝をつき、僕のEgo Cubeも過負荷で限界が近いようだ。
「漆黒の球体」が放つ捕食の波動は、僕たちの意志をも容易く侵食していく。
「神野、あいつら「磁力」を逆用してやがる。俺のMAG-GRAVの波形を読み取って、人々の結びを強制的に解除しているんだ!」
九条零が銀色のEgo Cubeで防衛線を維持する。九条の「絶対零度」と僕の「重力」が拮抗し、かろうじて均衡を保っているが、相手は他者のエネルギーを喰らうごとにその質量を増していく 。
「九条、無理をするな! 抵抗すればするほど、彼らにエネルギーを奪われる」
その時、アスミが僕の前に一歩踏み出した。
それを待っていたかのように「漆黒の観測者」の背後に、「年老いた男性」が現れた。
「明日美、こちらに戻って来なさい。お前のその「揺らぎ」があれば、一族の役割を次の世代まで保てる。お前に外の世界で自由な生活を許していたのは、世の中に溢れている「欲望」を見せるためだ。「無限の記憶」への耐性を付けさせるために……。お前の兄は自ら先走ったせいで耐えきれなかった……。もう十分世の中の不条理を見てきただろう。お前が兄の代わりに正当な後継者となり、欠陥だらけの人間どもを導く「神」の礎となるのだ」
「漆黒の観測者」の放った黒い触手がアスミを縛り、彼女のEgo Cubeに干渉しようとしていた。
「あぁ……っ! 冷たい……記憶が、水のように流れ込んでくる……!」
アスミのEgo Cubeに黒い揺らぎが生まれていく。だが、彼女は真っ直ぐな瞳で僕を見ながら呟いた。
「……大丈夫。太陽……。あなたはいつだって、嘘で固めていた私を否定せずに受け入れてくれた……。私にどんな記憶が刻まれてもあなたなら受け止めてくれると信じてる……。」
彼女の瞳から涙が溢れ、それが地面に落ちた瞬間、まばゆい「深い青の光」がエゴ・コアに広がった。
「誰かを犠牲にしてバランスを保つなんて、ただの「自己満足」よ……。私が……あなたたちの漆黒さえも、私の深い海に飲み込んであげる!」
アスミのEgo Cubeが、深い青の光で激しく輝き始めた。その波動は何もかもを飲み込むように広がり、全てを受け入れGaeaへの循環を生み出す「母なる海」へと覚醒したのだ。
「無駄だ。「個」のチカラでは、この巨大な意志の記憶を受け止めることはできんよ」
「……おじい様、いえ、深海一族の亡霊たち。あなたたちが本当に欲しかったのは、他者の自我じゃない……自分たちの「空虚さ」を認めてくれる「誰か」の存在だったんじゃないの?」
アスミの言葉に、空間が激しく震えた。
「明日美、逃げろ!君の自我まで飲み込まれてしまう!」
「いいえ、太陽。私の海は、飲み込むためにあるの。すべてを受け入れて、あなたの持つGaeaに返してあげるために」
アスミが再び自身のEgo Cube――「母なる海」を全方位へと解き放った。それは攻撃ではない。漆黒の捕食も、白き構造も、透明な記憶も、そのすべてを「ありのまま」に受け入れる、圧倒的な受容の波動。
アスミの海が、巨大な「鏡」へと変質していく。漆黒に染まった数万の記憶が、彼女の海に触れた瞬間、本来の色を取り戻し、元の持ち主の座標へと反射され始めた。
「Spellを綴ります。――「深き淵より響く声よ、ありのまま、己が器へ還れ」」
アスミから放たれた青い波動は、漆黒の観測者が放っていた黒い蔦を弾き飛ばすだけでなく、エゴ・コアの「漆黒の球体」をも中和させていた 。
明日美の生み出した空間に、三つの円が浮かび上がった。
九条の放つ硬質な「白(生み出す意志)」。オメガが象徴する貪欲な「漆黒(捕食の意志)」。そして、その二つを結び、調和させる僕のGaea――無色透明な「無限の概念」。
この三つの概念が部分的に重なり合い、トライアングルを形成し始めた。
「……トライアングル。これが、太陽が辿り着こうとしている「キャリアの地図」の目的地なの……?」
アスミの問いに、僕は答えた。
「ああ。これが……トライアングル(三位一体)理論。白と黒を混ぜるのではなく、余白を重ね合わせてバランス保つことこそが、全体の循環を止めない方法なんだ……」
「どちらかが勝つ必要はない。この透明なGaeaが循環を媒介することで、僕たちは互いを喰らうことなく、一つの大きな存在として共存できる理論だったけど、それを安定させる役割が何なのか辿り着けていなかった。」
「どうやら、三位一体を型として保つためには、全てを受け入れてGaeaの一部に新たな生命として帰してくれる君の……「母なる深い海」の概念が必要だったようだ」
これらが部分的に重なり合い、崩れることのない巨大な「深い青のトライアングル」を形成している。
年老いた男性は、それを見て、懐かしそうに目を細めた。
「……やはりあやつから受け継いでいたか……だが、甘いな。捕食こそが進化の真理。我ら一族の背負っている重圧を、その透明で薄氷の上を歩くような理論で埋められると思うな」
奪われた自我がそれぞれの持ち主へと帰還していく中、黒い霧が散り、オメガは一時的に撤退した。しかし、アスミの「母なる海」が覚醒したことで、Ego Cubeの研究は新たな領域へと進むことができた。
僕は懐のSpell Cardに手を触れた。そこには僕と九条、そしてアスミの三人の意志が、かつてない密度で記憶されていた。
3.終わらない物語
皆に自我が戻り始めた頃、僕たちの前にジンらしき存在が現れた。
「……見事だ、太陽。明日美。お前たちは、私のいた時間軸では成し得なかった「三位一体」の可能性を示してくれた」
「ジン……あなたは、トライアングルが失敗した未来から来たのか?」
「ああ。私の世界では、白と黒が互いを捕食し合い混じりあって淀んでいくばかりで、負の連鎖を止めることはできていない。だが、この世界には……明日美という揺らぎを全て受容していたお前の選択が「母なる海」の概念を生んだ。お前たちの存在が因果の鎖を断ち切ったようだ」
ジンは満足げに微笑み、一匹の青い蝶となって消え去った。
数週間後。
街には再びMAG-GRAVカードが流通し、人々の日常が戻っていた。誰もが自分の中に小さな「黒」と「白」を抱え、それを「透明な意志」で調整しながら生きる、新しいキャリアの概念が少しずつ広がっていた。
「太陽さん」
アスミが僕の腕に絡みついてきて、耳元で話しかけてきた。
「オメガがまた動いているって噂よ。また歪が生まれたのかしら」
……どんなにバランスを取ろうとしても、現代のテクノロジーでは完全な球体を再現できない。新しい歪は常に生まれる。でも、今の僕たちなら、それさえも「無限の記憶に必要な物語」として綴っていけそうだ。
僕は懐のSpell Cardに触れた。そこには、僕たちの歩んできた「未来への記憶」が蓄積されていく。




