第5話 絶対零度との再会
1.相談者No.004 AI産業の若きカリスマと、荊のCube
「神野、悪いが急ぎの案件だ。俺の面子を立てて、こいつの「よどみ」を抜いてやってくれ」
オフィスの重厚なドアを押し開けて入ってきたのは、前回、強力な協力者となった、火薬樽こと権藤武だった。その後ろには、顔色の悪い、だが眼光だけは異常に鋭い青年が立っている。
「……白石海斗だ。……僕の命を狙っている連中を、君のその「理論」で突き止められるのか?」
白石海斗、二十八歳。次世代のAIインフラを担う企業「NEO-GAEA」のCEO。若きカリスマとして時代の寵児となりながら、同時に強引な手法で数多くの敵を作ってきた男だ。現在、彼は正体不明の「見えないチカラ」によって精神を削り取られ、私邸から外出するのも、会話することすら難しい状態まで追い込まれていた。
「わかりました断る理由はありません。白石さん、まずはあなたの自我を可視化しましょう」
僕は机の中央にEgo Cubeを置いた。デバイスが起動し、ホログラムディスプレイに白石の精神構造が映し出される。
「……なんて複雑な。これはもう、単なる葛藤じゃないわ」
研究室から通信を繋いでいたアスミが、ホログラムディスプレイの波形を見て息を呑んだ。
白石のEgo Cubeは、鋭利な「黒い棘」のような無数のツタに絡みつかれていた。それは、彼が切り捨ててきた元社員、買収された企業の経営者、そして彼自身の成功の影に沈んだ無数の人々の「悪意」の集合体だった。
「太陽、これを見て。それぞれの棘が意志と繋がって「量子もつれ」を起こしているわ。白石さんがどこへ行こうと、この悪意は次元を超えて追尾してくる。……だから「見えないチカラ」として彼を攻撃できるのね」
「僕のキャリア理論に照らせば、この状態は「負の結び」の極致だ。これだけの数ともつれを起こしていれば、物理的な暗殺者がいなくとも、精神が重力崩壊を起こす」
白石は自嘲気味に笑った。
「……当然だ。僕は人の感情よりも資本効率を求めすぎた。だが、止まるわけにはいかなかった……」
対話を進めるにつれ、白石は今までの自分の行いを言葉にして話しはじめた。
その内容は、今まで1千人以上の相談者を受容してきたサンにとっても、受け入れるのに抵抗を感じるものであった。
その時、オフィスの照明が激しく点滅し、窓ガラスにヒビが入った。物理的な衝撃ではない。白石に恨みを持つ人間のEgo Cubeから発せられる負の感情が、白石のEgo Cubeに干渉を始めたのだ。
「来たぜ……! 太陽、こいつは俺じゃ抑えきれねぇ!」
権藤が白石を護るように、自身のCubeを展開して熱の防壁を張る。黒いノイズは多少弱まったものの一部はそれをすり抜けて白石の首筋に迫る。
「明日美さん、Spell Cardを!このもつれを解くための、新しい余白をつくる必要がある!」
「わかってる! でも太陽、このSpell Cardはフォーマットが違う「外部の記憶」は固定できない……、待って、逆に白石さんのこのもつれの周波数に合わせて、一部を新たなパーティションに分離して最適化すれば……!」
僕はジンから渡されたSpell CardをCubeにかざした。通常、このカードは僕の意志(救世主としてのデータ)に最適化されているため、他者の感情は保存形式が合わず拒絶される。だが、アスミのカオス理論による「もつれの逆利用」によって、一時的に、カードの記録領域が「感情の余白」を受け入れるための「空き容量」を作り出した。
「これだ……!この余白に僕のEgo Cubeに接続可能な記憶データとして固定し、現象として再現する!」
2.「ファントム(幻影)」の覚醒
僕はジンから渡されたSpell Cardの研究を進展させるデータ取集のため、色々な生物の生体情報をEgo Cubeでスキャンして保存いる。その中のひとつに「ハヤブサ」のデータがあった。高い警戒心と獲物を捕らえる鋭い視野を、僕のGaea理論と接続できる形式に変換し、Spell Cardの「余白の記憶領域」へと流し込んだ。
「Spellを綴ります。――「汝の視界を共有せよ。虚空を裂く翼となりて、悪意の根源を辿れ」」
黄金色の重力波がEgo Cubeから広がり、白石のCubeを覆っていた黒い蔦の一部を飲み込んで再構築する。 眩い光の中から、一羽の隼の姿をした幻影――ファントムが可視化された。
「……ハヤブサ……? ホログラムか?」白石が驚愕の声を上げる。
ハヤブサの姿をしたファントムは鋭い鳴き声を上げると、壁を透過して外の世界へと飛び出した。ホログラムディスプレイに、ファントムが見ている「4次元的な視界」がリアルタイムで転送されてくる。白石に向けられてEgo Cubeにまとわりついていた負の感情を再構築したファントムは、ビルの間を飛び回り、「感情の発信源」の場所を次々とマーキングしていく。
「見えた。……明日美さん、座標を送る。この恨みの発信源は一つじゃない、分散されたネットワークだ。……でも、このファントムがあれば、すべて特定できる!」
「凄い……太陽、これよ!Spell Card に自分以外の意志をその都度新しいフォーマットで固定して、他のEgo Cubeから干渉を受けている感情や意志を幻影として再構築する……。これが制御できれば、私たちの研究は一気に加速するわ!」
ファントムが捉えた映像により、白石を狙っていた「悪意のネットワーク」の全貌が解明された。それは、ある元幹部がSNSのアルゴリズムを利用して集団心理を操作し、人々の不満を白石へ集中させていた、デジタル呪術とも言える手口だった。
白石は、ホログラムディスプレイに映し出されたファントムの視界を見て、震える声で言った。
「……信じられない。僕がAIで成し遂げようとしていたことの、その先を君たちは実践している……。神野さん、この件が解決したら、君たちの研究をバックアップさせてくれませんか。このテクノロジーは、人類の「感情を補完」するインフラになり得る」
「白石さん、話はまだ終わっていません。このもつれを解くには、あなたが直接、その「発信源」と向き合う必要があります。……僕と明日美さん、そして権藤さんで、その場面に辿り着くまであなたに寄り添います」
権藤はマーキング先が表示されたホログラムディスプレイを見て、考えを巡らせているような表情を見せている。それが少し気になったが、カオス理論に組み込める新たな要素の発見に興奮気味のアスミがデータの同期を完了させた。
「よし、行くわよ。……私たちの「未来」を創るための、本当の戦いはここからね」
サンとアスミ、そして新たな協力者たち。 彼らの研究は未踏の領域へと突入する。
「太陽、聞こえる? ファントムとの同期率は九十八パーセント。完璧よ」
耳元で、大学の研究室にいるアスミの声が響く。
ハヤブサの姿をした幻影――ファントムが、夜のビル群を縫うように滑空する。 ホログラムディスプレイには、ハヤブサの鋭い視覚野が捉えた「座標」が、ビル群の立体空間に幾何学的なマーカーとしてリアルタイムで表示されていた。
彼女は、ファントムが送ってくる膨大な量子データを記憶可能なSpell Cardを解析して、僕のイヤホン型デバイスへ通信していた。
「マーキングされた場所は、かつて白石さんが買収した企業の旧本社ビルや、彼がリストラを断行した部署の元オフィス……。「負の記憶」が眠る場所ばかりを繋いでいるわ」
「ああ。白石さんを縛る「悪意」の量子もつれは、単なる感情の結びじゃない。誰かが意図的に、この場所にある残留思念を増幅させ、ネットワーク化しているんだ」
僕がそう答えると、隣でホログラムディスプレイを凝視していた権藤が、眉間に深いシワを寄せた。
「……神野。このマーキングの並び、ただの恨みつらみの配置じゃねぇな」
「権藤さん、何か気づいたんですか?」
権藤はホログラムディスプレイに映る地図上の点を、まるで戦場の配置図でも見るような鋭い目で見つめていた。
「……まるで包囲網だ。相手の「拠り所」を一つずつ潰して、絶望のどん底へ追い詰めるための……。俺が昔、裏の揉め事を納めるときに使われていたやり方に似てやがる。だが、こいつはもっと……冷徹で、論理的だ」
「火薬樽」と呼ばれた男の、長年の修羅場が培った直感。それが、今回の事件が単なる怨恨ではないことを告げていた。
3.対の存在、九条零
ハヤブサが急降下し、一つの廃ビルと化したデータセンターの屋上に着地した。そこが、全ての「もつれ」の演算を司る中枢のようだ。
「白石さん、権藤さん。行きましょう。……そこに、この仕掛けの主がいるはずです」
廃ビルの奥、冷え切ったサーバーラックが立ち並ぶ空間に、一人の男が立っていた。白く清潔なコートを纏い、僕と同じようにEgo Cubeを手にしている青年。彼のCubeは僕の黄金色とは対極にある、鋭利で硬質な、月光のような銀色を放っていた。
「……久しぶりだな、太陽。いや、今は「救世主」を気取っているんだったか」
その声を聞いた瞬間、僕の背筋に冷たい電流が走った。
「……九条……九条零か」
九条零。かつて僕と共にキャリア理論を学び、そして「自我の育成」の手段を巡って決定的に袂を分かった男。僕の理論が「全てを受容し、均衡をもたらす」ことを是とする「調和」の理論なら、彼の理論は「互いの負荷を跳ね返す耐性を強化し、均衡を作る」という「選別」の理論だった。
「九条、なぜ君が白石さんを狙う? 君は悪意で動くような男じゃないはずだ」
九条は銀色のCubeを弄びながら、淡々と答えた。
「悪意? 心外だな。僕は白石という男に「試練」を与えているだけだ。彼のような強引な開拓者は、自らが踏みにじった者たちの重圧に耐えてこそ、真のリーダーとして昇華される。耐えられないのであれば、それは単なる「ノイズ」として消え去るのが、この世界のバランスだ」
「……まさか、デザイナーの佐藤さんやピアニストの葛城さんのCubeを覆っていた氷も君の仕業か?」
「佐藤……葛城……?、ああ、彼らは期待外れだっよ。あの程度で限界とは……クリエイターという職業に就いている奴は、感性は豊かだが繊細なものだな……」
彼にとって、白石を狙う「恨み」の量子もつれは、白石自身のCubeの強度を測るための「実験」に過ぎなかった。
「太陽、気をつけて! 彼のCubeから放たれているのは絶対零度の「不活性のチカラ」よ。周囲の人のEgo Cubeの絶対値を限りなくゼロに近い状態に収束させようとしている!」
アスミの警告と共に、九条のCubeから冷徹な銀の波動が放たれた。
白石が苦しげに膝をつく。彼のCubeに絡みついていた黒いツタが、九条の波動を受けてさらに鋭く、白石の意志を切り裂こうとする。
「九条、君のやり方は誰も幸せになれない。表面的な均衡を強引に作っているだけだ!」
「太陽、白石のような奴がこの悪意を自力で克服して、さらに大きな歪の負荷に耐え得る自我を持つことで、救われる人の数が多いのも事実だ」
僕は黄金色のEgo Cubeを掲げた。
「僕のキャリア理論は、歪みさえも進化の糧にすること。白石さん!あなたの過去は消せない。だが、それを「罪」として背負うのではなく、進化のための「責任」として受け入れるんだ!」
僕はSpell Cardの機能を拡張し、ファントムの視覚情報を白石のCubeへと流し込んだ。ハヤブサが見てきた「街の風景」。そこには、白石が買収したことで守られた雇用や、彼が生み出したインフラを享受する無数の人たちの「光」も確かに存在していた。
「Spellを綴ります。――「光と影を等しく受け入れて分断を「結び」に変え、新たな余白を生み出せ」」
黄金の受容波が、九条の銀色の波動と激突し、空間が激しく明滅する。白石のCubeを覆っていた「悪意」のツタが、サンの放った光に包まれ、徐々にそのトゲを失っていく。それは、恨みを消し去ったのではない。白石がその責任を一生かけて背負い、過去の避けれなかった出来事によって得た自分の役割を他者のためという意志に書き換わったことで、量子もつれが「納得」へと収束したのだ。
「……ふん。相変わらず、甘い「受容」だな。だが、今日のところは僕も目的を果たせたことになる。白石海斗は、僕の用意した負荷をきっかけにして、お前の重力に後押しされ、自分の役割を果たす覚悟を持つことができた。まだこの世界に存在する価値があると証明されたわけだ」
九条は銀色のCubeを納め、影の中に一歩退いた。
「だが太陽。世界は調和だけで回っているわけじゃない。お前のその「Gaea」が、いつか世界を淀ませる日が来る。その時、どちらの理論が正しいか、はっきりさせよう」
「九条、待て!」
僕の声が届く前に、九条零の姿は夜の闇へと溶けるように消え去った。
嵐が去った後のような廃ビル。白石は、震える手で自分の胸元を見つめていた。
「……助かった。……いや、それだけじゃない。僕は、自分が何を背負っていたのか、ようやく「理解」した。神野さん、ありがとう」
白石は、僕と、画面越しのアスミ、そして傍らに立つ権藤を交互に見つめた。
「約束だ。僕の企業が持つリソースと資金を、君たちの研究に提供する。……君たちの理論が、この歪だらけの世界を本当に救えるのか。僕も特等席で見せてもらうよ」
権藤は、九条が去った闇をじっと見つめたまま、低く呟いた。
「……神野。あの白づくめの若造、厄介な目をしていやがった。ありゃあ、今まで相手にしてきた「欲から生まれる悪意」より、ずっと始末が悪いぜ。……だが、面白い。原子力、火力、そしてあいつの……何だ、絶対零度の冷凍庫か? 賑やかになってきやがったな」
研究室のアスミも、深く息を吐いた。
「……九条零。太陽にとってカオス理論でいう反物質とも言える「対」の理論の持ち主。……私たちの研究が進むほど、彼との対立も避けられなくなるわね。でも、今は喜びましょう。白石さんというスポンサーを得た。これでSpell Cardの実用化へ、道が開けたわ」
僕は黄金色のEgo Cubeを握りしめた。 九条が残した言葉が、胸の奥で燻っている。だが、僕の隣にはアスミが、そして後ろには権藤がいる。
「ああ。ここからだ、明日美さん。僕たちの「理論」で、この世界の定義を書き換えるのは」
4.拡張される「幻影」
白石海斗率いる「NEO-GAEA」からの全面支援は、僕たちの研究環境を劇的に変えた。最新鋭のAIクラスターと、白石が厳選した優秀なエンジニアチーム。彼らは、Spell Cardの記録層に眠る「未知のアルゴリズム」の表層を次々と剥ぎ取っていった。
「太陽、見て。ファントムの同時生成プロトコルが完成したわ」
研究室のホログラムディスプレイの前で、アスミが誇らしげに指を振る。画面には、都市を多層的に観測する複数の光点が表示されていた。
ハヤブサが空を裂き、高所から悪意の「兆候」を俯瞰する。水路や配管には「魚型」のファントムが潜り込み、都市の深部を流れる情報の淀みを検知する。そして、街の至る所に放たれた無数の「昆虫型」の極小ファントムが、人々のささいな感情の揺らぎ(量子もつれ)をバタフライエフェクトとしてシミュレート可能にする。
「……素晴らしい。これなら、大きな感情の歪が顕在化する前に、その「源流」を特定できる」 僕はデバイス越しに、多重化された視界を共有する。僕のキャリア理論は、もはや一対一の対話を越え、一つの都市を巨大な生命体のように観測可能なステージへと進化していた。
しかし、光が強くなれば、当然ながら影もまた濃くなる。白石との提携と、Ego Cubeによる数々の問題解決がメディアで噂になり始めた頃、僕の周囲には不穏な空気が漂い始めた。
「……太陽、最近ネットの掲示板SNSで、えらく叩かれてるようだが知ってるか?」
相談業務の合間、権藤が深刻な顔でオフィスのタブレットを差し出してきた。
そこには、僕に対する謂れのない誹謗中傷や、アスミとの関係を揶揄する書き込みが溢れていた。
「大学の研究室を独占するペテン師キャリアコンサル」
「有能を気取って女性を利用しているだけ」
アスミは、元々良い家柄のせいもあるが、その美貌と相手の気を引くことに長けていることから、学会のみならず政財界にも支援者が多い。そんな彼女が、出所不明の若造である僕と常に共に行動して、あまつさえ彼女が僕を信頼しきっている様子は、彼らの独占欲と嫉妬心を刺激したようだ。
「……僕への批判は構いません。ですが、これが研究の邪魔になるのは避けたい」
「甘ぇな、神野。嫉妬ってのは、最も質の悪い「火薬」だ。そいつに誰かが意図的に火をつけて、あんたを爆破しようとしてる」
権藤の言葉に、僕は九条零の冷徹な笑みを思い出した。
その夜、研究室からの帰り道。昆虫型のファントムが、僕の周囲で異常な「量子もつれ」を検知し、アラートを鳴らした。
「……明日美さん、聞こえるか? 周囲の通行人の「悪意」の値が、不自然に上昇している」
「ええ、こっちでも解析中よ。太陽、誰かがSNSのボットを使って、あなたの現在地と「もっともらしい嘘」をリアルタイムで拡散してる。あなたの周囲にいる人たちの無意識を、攻撃的な方向へ誘導してるようね……」
アスミの声に焦りが混じる。これは物理的な襲撃ではない。匿名の人々の「ささいな嫉妬」をバタフライエフェクトの理論によって増幅し、僕を社会的に、そして精神的に追い込む、見えないチカラの高度な応用だった。
「……これが九条の言っていた「選別」か」
僕はEgo Cubeを起動し、無数の昆虫型ファントムを媒介にして、周囲の負の感情を分解して消化しようと試みた。だが、対象が「不特定多数」で、しかも直接「会話」ができない場合、受容の重力は分散され、効果は薄いようだ。
その時、闇の中から一通のメッセージが僕のデバイスに届いた。差出人は不明。だが、その文体には見覚えがあった。
「――太陽。調和を望む君が、大衆の「純粋な悪意」にどう対処するか見せてもらう。嫉妬とは、他者との比較において劣等感を抱く個体が生き抜くための生存本能だ。対象を排除しようとする、生物学的に正しい機能だ。君は、そのノイズさえも「受容」できるのか?」
九条零。彼は、僕が護ろうとしている「社会」そのものを実験の舞台にする行動を開始したようだ。
「明日美さん、僕のGaeaのチカラを解放すれば無理矢理状況を変えられるだろうが、大きな歪を生み出す。だからと言って元凶を叩こうとすれば防衛本能が働いてどこかにしわ寄せが行く……。」
「白石が僕に向けてきているのは「大衆心理から生まれる本能に近い感情」。これはダムから放出された水の流れと一緒だ。どこかで無理矢理せき止めてしまえば水が届かない人たちが新たな負の感情を生み出すことになるし、水の総量は変わらず別の方向に流れ出すか逆流するだけ……」
「……このまま海に辿り着いてGaeaの一部になるまで、僕自身が抱く負の感情を分解して消化しながらGaeaの自然循環のチカラに任せるしかない……。AIのリソースを、感情の分解と相殺に回してくれ」
「わかったわ!太陽、無茶はしないで。一人で背負わなくても私がいるから……あなたのCubeが壊れたら……私、本当にあんたを許さないから!」
僕は黄金のEgo Cubeを高く掲げ、都市の隙間に放ったファントムたちと意識を完全に同期させた。何千、何万という人々の意識の欠片が、僕のCubeに流れ込む。嫉妬、劣等感、優越感、焦燥。それらすべてを「自分の中にあるGaeaが生み出した感情の一部」として受け入れ、新たなSpellを綴る。
「Spellを綴ります。――集団心理の均衡を保つために必要なのは対になる集団心理。理想的なトライアングルに必要な「余白」を創るために必要な過程……」
数週間が過ぎるころ、集団心理の興味は別の対象に移り、表面的には「一時の騒ぎ」として収束した。だが、僕の心には重い楔が打ち込まれていた。九条零は、僕のキャリア理論でまだ確立できていない部分――「必ずしも全員が安息を求めているわけではない」という事実を突きつけてきたのだ。
翌朝。白石海斗から緊急の連絡が入った。
「神野さん、九条という男が、僕のライバル企業と接触した形跡がある。……彼は、あなたの持つSpell Cardを参考にして、複数のEgo Cubeを連結させるために「電磁気力」を応用して感情を強制的に結ぶためのカードの開発に取り掛かっているようだ」
僕は窓の外、ハヤブサが舞う青い空を見上げた。
「磁力……九条、君が辿り着いたのはそこか……いよいよ、現代のテクノロジーで実用化できるEgo Cubeの実証段階に入ることになりそうだ……」
「火薬樽」権藤は、ホログラムディスプレイに映る九条の情報を睨みつけ、低く唸った。
「神野、次は俺の出番だ。裏の連中が動き出してる。九条のバックにいるヤバい連中を、俺が燻り出してやるよ」
サンとアスミ、そして権藤と白石。ジンから預かった一枚のSpell Cardから始まった研究は、今や世界の「あるべき姿」を巡る、九条零の描く理論との最終局面へと向かって加速していく。




