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第21話 共鳴する傷跡と、言葉の欠片

1.ノイズの海を泳ぐ


深海大学のキャンパスは、新緑の季節特有の活気に満ちていた。

講義を終えた明日美は、資料の束を胸に抱えながら、中庭のレンガ造りの小道を歩いていた。すれ違う男子学生たちが、思わず振り返って彼女を目で追う。

ふわりと風に揺れる艶やかな長い髪、知的なリムレスの眼鏡の奥で光る、少しアンニュイで悪戯っぽい瞳。准教授という肩書きと、どこか隙のある小悪魔的な魅力のギャップは、学内でも常に注目の的だった。


「深海先生、先ほどのガイア理論の講義、すごく面白かったです」


「ありがとう。レポート、期待しているわね」


気さくに微笑み返しながらも、明日美の視界、より正確には、彼女のEgo Cube『母なる海』の知覚領域には、現実の景色とは別のものが重なって見えていた。

すれ違う人々の周囲に漂う、微かな「色のついたもや」。


(……あの子は、就職活動への焦り。あの人は、人間関係の軋轢あつれき……)


無限の記憶の深淵で少女を救い出し、『母なる海』の特性が覚醒して以来、明日美は他者の無意識下に抑圧された「負の感情ノイズ」を、以前よりもはっきりと感じ取るようになっていた。

本来なら、これほど他者の感情に当てられれば、精神が摩耗して倒れてしまう。

しかし今の彼女には、そのノイズを「重力」で中和し、自身を安定させてくれる確かなアンカーがあった。


ポケットの中のスマートフォンが短く震える。

画面には『太陽さん』の文字。


『今夜、ラボに来れる?会って欲しい人がいるんだ』


その短いメッセージを見ただけで、明日美の胸の奥で温かいものが広がり、周囲のノイズがすっと凪いでいくのを感じた。


(……太陽さん。あなたが繋ぎ止めてくれるから、私はこの海を泳いでいける)


明日美は「ええ、行くわ」と短く返信し、足取りも軽く研究室へと急いだ。



2.見えない檻の中で


その夜、NEO-GAEAのサテライトラボ。

明日美と太陽を待っていたのは、太陽がかつてキャリア支援で関わったことのある、一人の女性だった。

名前を、結衣ユイという。年齢は明日美と同じくらいだが、その表情はひどく疲れ切り、目の下には濃いクマができている。


「お久しぶりです、神野さん。……今日はお話を聞いていただけるということで、無理を言ってしまってすみません」

結衣は、消え入りそうな声で頭を下げた。


「構いませんよ。こちらは深海明日美さん。深海大学の准教授として活躍してるガイア理論の研究者です」


太陽の紹介に、明日美は穏やかな笑みを浮かべて結衣の向かいに座った。

「結衣さん。太陽さんから少し伺っています。職場環境で、かなり無理をされているとか」


明日美の柔らかい声に、結衣は少しだけ肩の力を抜いたようだった。


「無理を、しているのかも分かりません。……ただ、毎日が息苦しくて。大きなプロジェクトを任されて、『期待に応えなきゃ』って必死に頑張っているんですけど……。誰かに評価されても、少しも嬉しくないんです。むしろ、『次はもっと完璧にやらなきゃ』って、見えない檻に閉じ込められているみたいで」


結衣は、震える手で温かいハーブティーの入ったカップを握りしめた。


「失敗したら、私の居場所はなくなる。誰かに必要とされ続けるためには、優秀な『部品』でいなきゃいけない。……そう思えば思うほど、自分が空っぽになっていく気がして……」


その言葉は、明日美の胸の奥にある、最も脆い部分を正確に射抜いた。

結衣の背後に漂う靄は、深い鉛色をしていた。それは、明日美自身がかつて、見捨てられる恐怖から「完璧で魅力的な女性」という仮面を被り続けていた時の感情の波形と、ひどく似ていた。


(……わかる。痛いほど)


明日美は、結衣の手をそっと両手で包み込んだ。

「……深海さん?」


「結衣さん。あなたは、誰かの期待に応えられなくても、そこにいていいのよ。……欠けた部分があるからこそ、人は誰かと手を繋ぐことができるんだもの」


明日美のEgo Cube『母なる海』が、静かに青い波紋を広げた。

物理的な接触と、言葉という声を通じて、明日美の受容の波動が結衣の心へと流れ込んでいく。


「……っ」


結衣の瞳から、張り詰めていた糸が切れたように、大粒の涙が溢れ出した。

「私……本当は、ただ『頑張ってるね』って、誰かに抱きしめてほしかっただけなのに……」


明日美は、子供のように泣きじゃくる結衣の背中を、何度も何度も優しく撫でた。

太陽は少し離れた場所から、その光景を静かに、そして慈しむような目で見守っていた。



3.痛みを言葉に変換する


結衣が落ち着きを取り戻し、少しだけ晴れやかな顔でラボを後にした後。

明日美と太陽は、モニタールームで向き合っていた。

テーブルの上には、タブレットPCが置かれている。

そこには、結衣の波形データと、明日美の波形データを掛け合わせて抽出された、いくつかの「感情のキーワード」が並んでいた。


「……結衣さんの痛み、僕にも伝わってきたよ。明日美が彼女を『揺らぎ』で包み込んでくれたおかげで、波形データがすごくクリアに抽出できた」

太陽が、タブレットPCに表示されたキーワードを指差す。


『見えない檻』『期待という名の重圧』『空っぽの器』。


「彼女の痛みは、私の痛みでもあったから」

明日美は、少し自嘲気味に笑った。


「私もずっと、自分は空っぽの器だと思ってた。お兄様の代わりにもなれず、お母様にも選ばれなかった。だから、誰かに必要とされるための『仮面』を被り続けた。……結衣さんの涙を見ていたら、以前の自分を見ているみたいで、苦しかったわ」


「明日美……」


「でもね、不思議なの」

明日美は、窓ガラスに映る自分と太陽の姿を見つめた。


「以前なら、他人のあんな深い悲しみに共感していたら、自分まで引きずり込まれて壊れてしまっていたと思う。でも今は……痛いけれど、どこか温かいの。彼女の悲しみが、私の中で還っていく場所を見つけたような気がして」


「それが、君の母なる海『出力アウトプット』の力の本質かもしれないね」

太陽は明日美の隣に座り、彼女の肩を抱いた。


「君はもう、ただ悲しみを受容するだけの『海』じゃない。他者の痛みに共鳴し、それを理解し、負の感情ノイズを消化する言葉に変換して世界に返すことができる。……それが、AI歌姫ASUMIが歌うべき『歌詞(Spell)』の源泉になる」


太陽は手元にタブレットPCを引き寄せ、タッチペンを走らせた。


「結衣さんの感情と、明日美の共鳴。……これを、最初の歌詞の欠片にしよう」


太陽が書き付けた言葉を、明日美が隣で静かに読み上げる。


――見えない檻の中で、誰かの正解を探していた。

――空っぽの器を満たすのは、評価じゃなくて、ただ一つの温もり。

――完璧じゃなくていい。その傷跡ごと、私が抱きしめるから。


「……太陽さん」

明日美は、その言葉を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「これ……私から結衣さんへの言葉でもあるけれど、太陽さんが、私に言ってくれた言葉そのものね」


「そうかもしれない」

太陽は優しく微笑み、明日美の額に軽くキスを落とした。


「君が僕に教えてくれた愛を、今度は君が、世界中の孤独な魂に伝えていくんだ。……それが、分散型システム『新世代Ego Cube』が目指す、本当の救済の形だから」



4.夜の静寂と二人の熱量


ラボの照明を落とし、二人は静寂に包まれた空間で肩を寄せ合っていた。

窓の外には、眠らない都市の夜景が、まるで無数のEgo Cubeの瞬きのように広がっている。


「……少し疲れた?」

太陽が、明日美の長い髪を指先で梳くように触れながら尋ねる。


「ううん。……心地よい充実感よ。誰かと本当に心が通じ合った時の、満たされた感じ。少し興奮してるくらいかも」

明日美は、太陽の広い胸にすり寄り、その規則正しい心音に耳を澄ませた。


「ねえ、太陽さん」

明日美は、彼を見上げて、少しだけ悪戯っぽく、しかし甘い瞳で囁いた。


「私、少しずつだけど、自分の言葉で想いを綴れるようになってきた気がする。……でも、まだ足りないの。もっと深く、もっと強く……私の揺らぎを、あなたの重力でかき乱してほしい」


それは、かつての小悪魔的な駆け引きではない。一人の女性としての、真摯で切実な欲望の吐露だった。


太陽の瞳の奥で、静かな感情が燃え上がる。

「……明日美。君は本当に、ズルいね」


太陽の腕が明日美の腰を強く引き寄せ、彼女の言葉を塞ぐように深く口づけた。

「んっ……ぁ……」


絡み合う舌の熱。服越しにも伝わる、お互いの体温と鼓動。

太陽の手が明日美のブラウスの中に滑り込み、滑らかな背中の曲線をなぞる。その感触に、明日美の身体はビクンと震え、吐息がさらに甘く熱を帯びる。


「君が望むなら、何度でも一緒に底まで堕ちよう。……そして、何度でも僕が掬い上げる」


太陽の囁きに、明日美は目を閉じ、すべてを委ねた。

彼女のEgo Cubeが、官能的な青い光を明滅させる。

痛みも、悲しみも、孤独も。二人が肌を重ね、魂を擦り合わせるこの極限の熱量の中で、すべてが溶け合い、新たな言葉(Spell)の結晶へと昇華していく。


(……あぁ。ありのままの自分を受け入れて許してくれる相手に身を委ねることが、こんなにも満たされるなんて)


明日美は、快感の波に揺られながら、心の中で静かに言葉を紡ぎ続けた。

彼女が『慈愛を綴る歌姫』として、世界中の負の感情ノイズを消化する歌を完成させるまで、まだ集めるべき欠片はたくさんある。

しかし、この確かな熱と愛がある限り、彼女はもう、何も恐れることはなかった。

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