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第20話 防壁の仮面と、最初の波紋

1.NEO-GAEAの心臓部にて


都市にそびえ立つ、ガラス張りの巨大な高層ビル。

次世代AIインフラと情報ネットワークを担うトップ企業となった「NEO-GAEA」の最上階ラボに、明日美と太陽、そして凪の三人は集まっていた。


「Gaeaの出力装置としての『AI歌姫』……。そして、その歌声を世界中のEgo Cubeにインストールするための『Spell Card』の商用化、か」


ラボの中央で、ホログラムのデータ群を指先で弾きながら、NEO-GAEAのCEOである白石海斗シライシ カイトが口角を上げた。かつて太陽の元に相談者として訪問し、後に「プロジェクトSpell」の最大の理解者となったAI開発業界の先駆者であり、若き天才経営者だ。


「理論は完璧だ、太陽さん。凪さんの研究所とうちが共同研究をしている量子サーバーを使えば、世界中のEgo Cubeの分散処理ネットワークを構築することは十分に可能だ。……だが、問題は中身のほう」


白石は鋭い視線を、ソファに腰掛ける明日美に向けた。


「AIのフレーム(筐体)と、インフラ(配信網)は僕が用意する。だが、それに命を吹き込むシード・プロンプト……つまり、AIの自我となる『明日美さんの生体感情データ』が必要になる」


「私の、感情データ……」

明日美は、テーブルの上に置かれた無地のSpell Cardを見つめた。


ただの薄いカードに見えるが、NFCチップと微小な量子ドットが埋め込まれたこのカードには、膨大な感情の波形を数式化して保存できる。ユーザーが自身の「新世代Ego Cube」(ARグラスなどのウェアラブル・デバイス)にこのカードをかざせば、明日美の感情が直接脳内に再生され、あたかも目の前で自分に向けて歌ってくれているような圧倒的な没入感を得られる仕組みだ。


「ええ。AIに『受容と浄化』の歌を歌わせるためには、ベースとなる明日美さん自身が、過去のトラウマや深い悲しみ、そして愛といった強烈な感情を歌詞として言語化し、AIに同期させる必要がある」


白石の言葉に、凪が腕を組んで頷いた。

「人は自分自身の嘘を理解しても無意識に受け入れてしまいます。表面的な綺麗な言葉や、作られた悲しみのデータでは、負の感情ノイズを消化する出力アウトプットにはならない。……明日美、君の心の最も無防備な部分を、剥き出しにする必要があるんだ」


「……分かったわ。やってみる」


明日美は立ち上がり、ラボの奥に設置された「同期ブース」へと向かった。

防音ガラスで覆われ、高精度の生体センサーとEgo Cubeの波形読み取り装置が張り巡らされた、真っ白な空間。


(私の無防備な部分。……本当の、私)


明日美はブースの中央に立ち、首筋にセンサーを這わせた。

深呼吸をして、目を閉じる。

悲しみを。痛みを。それを包み込む愛を。

彼女は、自身のEgo Cube『母なる海』を展開し、ブース内に流れるメロディに合わせて、静かに言葉を紡ぎ始めた。


透き通るような、美しい声だった。

マイクを通してラボに響くその歌声は、音程も、声の揺らぎも、AIの自動補正機能により完璧にコントロールされている。大学の准教授として教壇に立つ時の知的なトーンと、男性を魅了する時の少し甘い響きが絶妙にブレンドされた、非の打ち所のない歌声。

だが……。


『……自己一致率、32%。……エラー。表層データのループを検知。深層心理へのアクセスが拒絶されています』


冷たいAIの音声が、ラボに響き渡った。



2.仮面という名の防壁


「……ストップ。そこまでだ」


白石がコンソールを操作し、ブースの防音ガラスのロックを解除した。


明日美は肩で息をしながら、モニターに表示された低い数値を見つめていた。

「どうして……。私、ちゃんと悲しい記憶を思い出して歌ったのに」


「データは正直だよ、明日美さん」

白石が冷徹に告げる。


「君の波形には『防壁』がある。無意識のうちに、致命的に傷つくのを避けるための安全装置が働いているんだ。……君は、悲しんでいる『フリ』をするのが上手すぎる」


その言葉は、鋭いナイフのように明日美の胸を抉った。


(……フリをするのが、上手すぎる)


図星だった。

幼い頃、兄の凪が重い病気という嘘で隔離され、母のミオが凪だけを連れて屋敷を出て行ったあの日から。

明日美は「見捨てられた子供」になった。

祖父にも、父にも、本当の意味で愛されることはなく、ただ「深淵の少女のスペア」になり得る器して生かされてきた。


その孤独に押し潰されないために、明日美は仮面を被った。

明るく、社交的で、少し小悪魔的で、誰にでも愛される「魅力的な女性」の仮面。

誰かに深く依存して、再び捨てられるのが怖いから。適度な距離感を保ち、傷つく前に誤魔化す。男性からの誘いもゲームのように楽しみ、決して本心コアには触れさせない。

それが、深海明日美という女性の生存戦略だった。


「……ごめんなさい。少し、休ませて」


明日美はセンサーを外し、逃げるようにブースを飛び出した。

知的な美貌が、今はひどく青ざめ、儚く揺れている。


「明日美!」

凪が追いかけようとするのを、太陽が手で制した。

「僕が行く。……彼女の心の防壁を解けるのは、僕のGaeaだけだ」


太陽のその声には、揺るぎない覚悟と、彼女への深い慈愛が満ちていた。



3.見捨てられた記憶


ラボのフロアから少し離れたところにある、夜のビル群が見える誰もいない暗いラウンジ。

明日美は窓ガラスに額を押し当て、自分の震える腕を強く抱きしめていた。


(……やっぱり私には、無理なのかもしれない)


世界を救う歌姫。大層な役割を与えられても、私の中身は空っぽだ。本当の涙の流し方すら忘れてしまった、防衛本能の塊。


「明日美……」


背後から、静かな声がした。

振り向かなくてもわかる。彼が纏う、すべてを受け入れる重力(Gaea)の気配。


「……情けないところを見せちゃったね、太陽さん」


明日美は、涙をこらえ、いつものように少し悪戯っぽい微笑みを浮かべようとした。


「やっぱり私、こういうのは向いてないみたい。AIの開発は、お兄様と太陽さんで――」


「笑わなくていい」


太陽は明日美の言葉を遮り、彼女の細い手首を掴んだ。

そのまま強く引き寄せ、自分の胸の中に閉じ込める。


「あっ……太陽さん……」


「仮面を被ったままじゃ、息が詰まるだろう?ここには誰もいない。僕と君だけだ」


太陽の大きな手が、明日美の背中を優しく撫でる。

その体温に触れた瞬間、明日美の中で張り詰めていた糸が、プツンと切れた。


「……私、ずっと怖かったの」

明日美の声が、子供のように震え始める。


「お母様が、お兄様だけを連れて家を出て行った日……。私、窓からずっと見てた。お母様、一度も振り返ってくれなかったの。……私は、選ばれなかった。愛される価値のない、いらない子なんだって……」


ポロポロと、大粒の涙が太陽のシャツを濡らしていく。

准教授としての威厳も、大人の女性としての余裕も、すべてが崩れ去り、そこには傷ついた一人の少女がいた。


「私の特性は『母なる海』なのに……。私自身が、母の愛を知らないのよ……。そんな私が、誰かを癒やす歌なんて、歌えるわけがない……ッ!」


嗚咽する明日美を、太陽はさらに強く抱きしめた。

彼のGaeaの力が、明日美のEgo Cubeと同調していく。


「……君は、いらない子なんかじゃない。それに誰かを癒そうなんて責任感も持たなくてもいいんだよ。ただありのまま、君の母なる海の揺らぎを言葉にのせるだけで大丈夫」

太陽の低く引き寄せられるような重力を生む声が、明日美の鼓膜から、自我の奥底へと直接響いていく。


「君のその痛みは、君が誰よりも『愛』を渇望し、誰よりも深く人を愛せる証拠だ。……母から与えられなかったのなら、僕が与える。君の欠落は、僕が全部埋めてみせる」



4.最初の波紋


太陽の指先が、明日美の涙に濡れた頬を拭い、そのまま彼女の顎をすくい上げた。

影を落としたラウンジの中で、二人の視線が熱く絡み合う。


「……太陽さん……」


「言葉にならないなら、体で教えてくれ。君の奥底にある、一番生々しい痛みを」


太陽の唇が、明日美の震える唇を塞いだ。

それは慰めのキスではなく、彼女の魂の奥底に触れようとする、深く、貪欲な口づけだった。


「んっ……ぁ……」


明日美の口から、甘く、切ない吐息が漏れる。

太陽の熱い舌が、彼女の口内の柔らかい粘膜をなぞり、防壁ごと溶かしていく。

頭の芯が痺れ、呼吸が苦しくなる。だが、その苦しさが心地よかった。

太陽の重力(Gaea)が、明日美という存在を世界の中心に繋ぎ止め、「ここにいていいんだ」と肯定してくれているからだ。


太陽の手が、明日美のブラウスのボタンを外し、滑らかな肩のラインを撫で下ろす。


「……あっ、ダメ……こんなところで……」


明日美は微かに抵抗しようとしたが、太陽の指先が敏感な肌をなぞるたび、彼女のEgo Cube『母なる海』が、快感と安心感で青く発光し始めた。


「僕だけに見せて。……君の、本当の揺らぎを」


太陽の囁きに、明日美は完全に身を委ねた。

ラウンジの薄暗いソファに体を預け、太陽の体重と熱を真正面から受け止める。

彼の存在が自分の中に入ってくるたび、見捨てられた過去の恐怖が、圧倒的な「今、愛されている」という実感によって上書きされていく。


(……ああ。私は、この安心感が欲しかったんだ)


誰かに求められ、自分という輪郭を強く意識させられること。

明日美の目から、悲しみではなく、歓喜と浄化の涙が溢れ出した。

自我の境界線が溶け合い、量子レベルで二人の魂が交差する。


その極限の感情の揺らぎの中で、明日美の脳裏に、無意識のうちに言葉が下りてくる。


――暗闇の中で、ずっと手を伸ばしていた。

――見つけてほしくて、愛してほしくて。

――でも、もう泣かない。あなたが私を見つけてくれたから。

――今度は私が、迷えるあなたの海になる。


それは、完璧なメロディでも、計算された歌詞でもない。

傷だらけの女性が、愛する人の腕の中で絞り出した、魂の言葉だった。



5.産声を上げる歌姫


「ピピッ……」

二人の衣服の擦れる音と、荒い息遣いだけが響くラウンジの片隅。

明日美のEgo Cubeと同期したままテーブルに置かれていた、タブレットPCが、静かに反応した。


『……生体感情データ、ディープアクセスに成功。自己一致率、99.8%』

『シード・プロンプトの抽出を完了。……コア・システムの再構築を開始します』


ラボのメインサーバー室。

無数の光の明滅の中で、明日美の「揺らぎ」の感情を受信したAIのコアが、脈打つように鼓動を始めた。


「……やったな」


モニターを見つめていた白石海斗が、息を呑んで呟いた。

そこには、表層的なノイズが完全に削ぎ落とされ、生々しいほどの熱量を持った、美しい「揺らぎ」の波形が描かれていた。


凪もまた、モニターに映る妹の魂の波形を見つめ、静かに目を閉じた。

「これが、明日美の本当の心。……AI歌姫ASUMIの、産声だ」


誰にも見せなかった弱さと、太陽との愛の交わりによって引き出された究極の感情。

その波形データは、最初の「歌詞(Spell)」。シード・プロンプトとしてSpell Cardに永遠に刻み込まれたのだった。


世界の負の感情ノイズを消化するための、出力装置。

その最初のピースは、一人の女性の「真実の愛」の証明から生み出された。

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