5
人々が目を覚ます前に流れる朝特有の静寂を、鈍い爆発音が打ち破る。
衝撃音から少し遅れる形で、イオタは眠い目を細めながらも、すぐに上半身を床から起こす。古いコンクリートでできた隠れ家が、かすかに地響きを立てるのを聞きながら、少年はすぐにきょろきょろと辺りを見回した。
ミューは。ミューは、どこに行った。
外では、少しずつ喧騒と野次が増えていき、不安と罵倒の声が複雑に入り混じる。一つ、また一つ新しい声が耳に入る度に、イオタは自分の心臓がどんどん速く波打っていくのを感じた。このまま口から心臓が出てきて、死んでしまいそうな錯覚を覚えるほどだ。
イオタの脳裏を、いやな悪寒が過ぎる。それは、たちまち彼の全身にまで広がっていき、身体を小刻みに震わせた。
少年は、襲い来る言いようのない不安に、思わず自分の両腕を抱きしめる。すぐにでも立ち上がりたいのに、足が思うように動かない。まるで、すぐそばの現実から逃げ出したいかのようだ。
やめろ。
イオタは、歯をカチカチと鳴らしながらも、自身の心に強く言い聞かせる。怯えてる場合かよ。何かが爆発した音が聞こえた、つまりテロかもしれないんだぞ。この後、何が起こるかわからない。テロに巻き込まれて死にたいのか、イオタ。さっさと逃げろ。真人の女なんか見捨てて。
イオタは、強く奥歯を噛み締める。やがて、己の心の声に従うかのように、彼はゆっくりと立ち上がり、鉄製の扉へと歩を進めた。
とにかく、自分が生き残るのが最優先だ。
他のやつらなんて、どうなろうが関係ない。関係ないんだ。
ぶつぶつと呟きながら、イオタはドアを開き、左右を見渡す。すぐに、眼前のコンクリートの建物越しに、黒い煙が一筋の尾を引いているのが見て取れた。高く上る赤い火の粉も、ちらほらと浮かんでは消えていく。ちらと煙が見えた大通りに目を向けると、そこは人の波が顕著であり、煙から逃げる者もあれば、好奇心から煙のほうへと顔を向ける者もいた。
そのことを確認すると、イオタは煙とは正反対の方角へと走り出した。とにかく、ここから離れよう。このままでは自分が危ないのだ。一抹の不安を拭い去ることのできないまま、イオタが狭い路地を突き進んでいると、眼前に色黒の肌を持った三人ほどの青年たちが彼の前からやってきた。にやにやと口角を吊り上げた彼らの笑みを見れば、爆発に興味を持った野次馬であることは明らかだった。イオタは彼らを避けるかのように、路地の端へと足を向ける。すれ違いざまに、青年たちの話し声が耳に入ってきた。
すげー爆発だったな。何でも、レジスタンス組織の車が自爆したらしいぜ。
聞いた話だと、真人の女も巻き込まれたってよ。
その瞬間、幼い少年の瞳孔がかっと見開いた。
こいつら、今、何て言った? 真人の女。確かにそう言った。まさか、まさか。再び心臓の鼓動が高鳴るのを感じ取る。
おまえ、なのか?
気がつけば、イオタは煙が上がっている大通りの方角へと踵を返し、全力で走り出していた。
先ほどすれ違った青年たちと身体がぶつかる。足がふらつき、つまずきそうになりながらも、何とか体勢を整える。
それでも、少年は夢中で路地を駆けていた。心の中で、何度も少女の名前を呼ぶ。この二日間、生活を共にした彼女の名を。
あんなに、憎んでいたはずなのに。今では、そんな感覚はとうに頭の中から消え去っていた。あるのは、強い恋慕の念だけだ。
それに気づいたイオタは、からからに渇いた唇から、溢れ出る思いを叫ぶ。
「ミュー! おれはな、ほんとは、ミューのことが好きなんだ! 無事なら、出てきてくれ!」
叫び終わると同時に、少年の足が、大通りへと入る。そのまま、大量の黒煙を吐きながら燃え盛る車へと走り出す。その周りでは、大勢の野次馬に、深緑色の軍服を着た警察が押すな、どけの押し問答を行っていた。イオタの小さな身体は、体格のいい大人ばかりの中では特に動きづらい。外に押し出されたり、足を踏み潰されたりするのをどうにか避けながら、人だかりの先に出た。
少年の視界に、見覚えのある藍色のローブが目に入る。それを纏っている少女は、赤い血と黒い煤と、火傷の痕で全身を染め上げながら、仰向けに倒れていた。どうにか外傷の少ない顔へと目を向けて、イオタは彼女の名を呼んだ。
「ミュー、しっかりしろ! ミュー!」
イオタは、制止する声を上げる警官たちを脇目にミューへと近づき、両目を閉じた彼女の身体を抱き上げた。少年の手に、大量の赤黒い血が付着する。思わず呆然とするほどの強い恐怖心を抑えつけながら、イオタはそれを無視するかのように、頭と口から血を流す少女の顔を見つめた。
なんで、どうして。
少年の脳内で、いくら考えても分からない問いかけが忙しく回る。すると、ミューがうっすらと目を開き、青い瞳を覗かせた。イオタは、先ほどまでの疑問を投げ捨て、眼前の少女の顔だけを注視する。
「イ、オタ」
乾いた唇から、しゃがれた声が洩れる。口から漂う鉄錆の臭いが、少女の身体の状況をイオタへと強く伝えてきた。思わずミューの顔から目を離したイオタは、まるで天使の羽のように白かった少女の右腕が見当たらないことに気付く。本来あるべきものがあったであろう箇所からは血の滴だけがしたたり落ち、アスファルトの地面に血溜まりを形成していた。
ぽかんと口を開いたまま、何も喋らない少年に、ミューは唇の端を少しだけ上に伸ばして、言葉を続ける。
「ぶじ、なのね。よかった」
ミューの発言を耳にしたイオタは、再び彼女の顔へと向き直った。
「ばか。ミューが無事じゃないと、意味がないだろ。おれは、おれは」
少年の目から、大粒の涙がこぼれ落ち、少女の顔を濡らす。
ミューを、助けたい。だけど、この怪我では、助からないかもしれない。
このおれに、何ができる? 何もできない。何もできないまま、おれは、目の前で苦しんでいる彼女が、死に近づいていくのを黙って見ていることしかできないのか。
同じじゃないか。
おれの両親を見殺しにした、あの王国軍の連中と。
何も変わらなかった。おれは、どうしようもないばかだ。
イオタは、どうしようもない自分の弱さに、奥歯を強く噛んだ。これほどに、自分の無力さを痛感したのは初めてだ。大切な人を救ってやれないことが、こんなにも悲しくて、悔しいだなんて、思わなかった。今までは信じてこなかったカミサマの存在が、もしも目の前に現れたなら。どんなことを代償にしてでも、願うことができただろう。
だけど、現実は残酷だ。
とめどなく流れ落ちる涙を止められないまま、イオタは涙声で口にする。
「おれは、ミューのことが。誰よりも、好きなのに。なのに、ごめんよ。何もできなくて。ごめん。ごめんな、さいっ」
言いたい言葉が、喉の奥で詰まる。徐々にかすれていき、言葉にならなくなる。
いやだ。ミューには、さんざん辛く当たってきた。謝りたいのに。そして、これからも一緒にいたい、そう言いたいのに。
目の前が涙で霞んでいく。それを防ぐために、イオタは必死で両目をごしごしとこする。少しだけはっきりとした少年の目に、少女の柔和な微笑が映った。透明な涙を頬から流しながら、ミューは弱々しく口にする。
「泣かないで、イオタ。わたしは、これからも、ずっと。イオタの、そばに、いるから」
「でも、ミューが死んじゃ、そんなの、意味がない」
イオタの言葉に、ミューはゆっくりとかぶりを振った。
「違うわ、イオタ。わたしはね、イオタの、心の中で、生きていくの。ずっと。だから、どうか、悲しまないで」
そう言って、ミューは自身の血で汚れた左手を、ゆっくりと、ダークブラウンの肌を持った少年の頬に当てた。彼の涙をその手で受け止めるのを見届けると、ミューはほんの一瞬だけ無邪気な笑顔を見せて、そのまま瞼を閉じた。彼女の左手が、力なく少年の足に落ちる。
イオタは、穏やかな笑顔を浮かべた少女の左手を両手で強く握る。その手は、未だ温かかった。まさか。こんなことって。半ば自覚しつつある目の前の状況を否定するかのように、イオタはミューの顔を見つめた。そして、ぴくりとも動かない彼女に向かって、何度も呼びかける。
「おい、ミュー。しっかりしろよ。目を、開けてくれよ」
少年は必死に、ミューの身体をぐらぐらと揺さぶる。だが、閉じられた瞼が二度と開かれることがないのは、彼自身も十分に分かっていた。
少しずつ、イオタの全身に現実の感覚が蘇っていく。今この瞬間まで気にもならなかった、周囲の騒ぎ声が鮮明に耳に響く。
自爆テロだ、逃げろ。ざまあみろ、真人め。おれたちをずっと差別してきた報いさ。聞いた話だと、あの女、王国軍の犬だとよ。いい気味だ。
ゆっくりと深く息を吸い込んでは、吐き出す。そんな少年の脳裏には、強い憎しみが湧き上がっていた。それは、今まで自分が行ってきた、肌の白い真人を毛嫌いするそれとは違う、何か大きな、目に見えないものに対してのものだった。
どうして、誰かが理不尽に死ななきゃいけないんだ。
どうして、差別なんてものがこの世の中にあるんだ。
どうして、人間は誰かを憎まずにはいられないんだ。
どうして、すぐ目の前の大切なものを愛せないんだ。
どうして、おれたちは、生命を大切にできないんだ。
イオタの中で、さまざまな疑問が、次々と浮かんでは渦を巻く。けれど、いくら考えても、答えは分からなかった。自分だけじゃない、多分ここにいる誰もが、はっきりとした答えを出してはくれないだろう。こんなわけの分からない不条理がまかり通っているのに、どうして誰も声を上げようとはしなかったんだ。
ただひとり、おれの腕の中にいる彼女は、声を上げて立ち向かおうとしていたのに。
考えても、考えても、出てくるのは虚無だけだ。何もできなかった周囲に、誰よりも愚かな自分に。イオタは、高く空を見上げて、せいいっぱい声を張り上げる。
「バカヤローッ!!」
その叫びは、高く上っていく黒煙とともに、虚空の彼方へと消えていった。
◇
青年は、狭い路地を早足で進んでいた。そこは、自分が小さかった頃と比べて外見こそ変わらないものの、かつて抱いていた印象とはまったく異なる、荒涼とした雰囲気があった。
秋の冷たい空気を吸い込む。何度も吸い込んできたスラム街の空気なのに、やはり今日はいつもと違うな。そう思いながら青年は、ある場所でぴたりと足を止めた。
かつて、大切な人との別離を経験した大通り。そこでは、老若男女を問わず、ありとあらゆる非人たちが自らの生活のために、茶色いシミの付いた野菜を売り回ったり、通りがかった真人に身体を売ろうとしたり、さまざまな顔を見せていた。彼らに共通しているのは、皆が皆、その表情の奥底に言い知れぬ陰を持っていることだ。
最近では、王国の真人至上主義は激化の一途をたどり、国を統べる王の暴政に、非人たちは苦しめられていた。
八年前から、ちっとも変わらない。いや、むしろ悪化したと言うべきか。青年は、心の中で毒づいた。
国も人も、ほんのちょっとのきっかけで、何かが大きく変わるわけではない。それは、青年自身も、十分に理解していたことではある。だが、あらためてその事実を突きつけられると、己のどうしようもない無力さを痛感せずにはいられなかった。
あの日から八年間、青年は相変わらず生きていくことに必死だった。だけど、少しだけ違ったのは、誰かを大切にしようという思いが芽生えたことだ。慣れない商売を始めて、お金を稼いだ。隠れ家にあった使わないものを売ったり、時には遠くまで商品を調達し、ぺこぺこと頭を下げたりしたこともある。何度か万引きにも遭ったけれど、誰かが喜ぶ表情を見られたときは、それだけで幸せな気持ちにもなれた。
遠い過去のことを追想しながら、青年は手に持った一輪のカーネーションをじっと見つめる。彼は、その場にゆっくりしゃがみこむと、手の中にある花を、灰色のコンクリートの上にそっと置いた。オレンジ色の花弁をつけたそれは、スラム街全体に漂う空気を振り払うかのように、みずみずしさを帯びながら満開に咲き誇っていた。
青年は、くすりと柔らかな笑みを見せる。その笑顔は、今ここにはいない少女へと向けたものだった。
ダークブラウンの肌を持った自分とともに、彼女も自分の中で生きている。ずいぶんと時間が経ってしまったが、これからは彼女が成し遂げられなかったことをやろう。まっすぐに前を見据えると、青年はゆっくりと呟く。
「『ともに抗おう、戦に巻き込まれて隣人が死んでいく時代から。ともに望もう、新しい命を育んでいくことのできる時代を』か」
かつて白い肌をした少女が読んだビラの内容を思い返しながら、青年は大通りの中を、再び歩き始める。これから、自分に何ができるだろう。はっきりとは分からない。あまりにも漠然としていて、目的を見失ってしまうこともあるかもしれない。
ただ、おれは一人ではない。
いつだって、彼女と、そしてこれから出会う誰かと、一緒なのだから。
二十二世紀まであと三年。それまでに、おれができる責務を、果たしてやろう。そう心で息巻く青年の瞳には、強い決意が灯っていた。
ファイ・リベリオン/Fin.