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真導士サキと二つ星  作者: 喜三山 木春
第八章 因果の獄
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届かない距離

 いつのことだったか。

 そう、確か彼女が熱を出した時だった。

 大粒の涙を流して。苦しそうに息をして。白い頬も目の縁も。耳すら真っ赤に染めて、寝床に沈んでいたあの日のことだ。

 辛いかと問うたら、首を振ってゆるく微笑む。

 何が欲しいと聞けば、微笑んだまま大丈夫とだけ答える。

 遠慮し過ぎな彼女に、やきもきしたものだ。出会った時から、ずっとそうで……。怯えているようにも見える彼女が、気になって仕方がなかった。


 どうして怯える。

 何を怖がっている。


 いつしか彼女の憂いを、我が事のように考えている自分がいた。

 理由はない。

 どうにかしたいと当然のように思っただけだ。

 熱に浮かされている彼女は、苦しげに息をし。身を丸めて眠っていた。辛いのではと思い、掛け布をずらしてみても。しばらくすると、布の下に顔を埋めてしまう。繰り返される仕草は、掛け布の中に潜ろうとしているようにも見えた。

 このままでは熱が上がってしまうと、少し強引に布をはごうとし。彼女の手が、必死にそれをつかんでいると気づく。

 強張る指先。血が止まるのではと案じられるほど力が入った指先に、そっと触れた。

 このままでは細い指が折れてしまう。

 深く考えた行動ではなかった。ただ可哀想だと思った。辛いだろうから何とかしようと思った。そうやって触れた指先。掛け布と固い指先の間に、指を差し入れた時。掛け布を握り締めていた手が、自分の手を掴んだのだ。

 強く。引き離されまいとするかのように、必死な様子で掴んできた。

 驚きはなかった。

 自分でも不思議なくらい、当たり前のこととして受け止め。白く細い手を握り返した。それだけで苦しそうな表情が、少しだけ緩んだように見えた。だから余っていた手も重ね、彼女の名を呼んだ。

 涙が一筋、落ちた。

 寄せられていた眉間が、なだらかさを取り戻す。

 もう一度、名前を呼ぶ。呼ぶたびに涙が落ちて、白い頬に道を作る。

 忙しなく呼気を吐き出していた唇が、小さく動いた。声にならないその声を聞きとろうとした。でも残念ながら、何を言っているのかまではわからなかった。

 何かを囁きながら、自分の手に寄り添ってきた彼女。手の甲に涙が触れて、また一つ道を作る。

 この時、すべてを飲み込んだ。

 曖昧にしていたものに自分でしっかりと線を引き、形にさせた。

 日々、身の内で大きくなっていた庇護欲。最初は男としてと思い。次に相棒としてと思っていたが。とうとうこの日、認めることにした。

 あの日は、忘れ去るほど遠くない。

 振り返ればそこにある。手を伸ばせば触れられる。それぐらいの距離。

 昨日までは、確かにそうであったのだ。







 雨が降る。

 昨夜から降り続いている雨は、道を溶かし。靴底に泥をべっとりと塗りたくる。

 擦り切れそうになっている革靴は、歩くたびに水と泥が絡まって、家に辿りつく頃には足枷のようになっていた。

 家の前で少し立ち止まり。近くに生えている一本の樹木に目をやってから、扉に手を掛けた。難なく開いた扉の先に、薄暗い居間が広がっている。

 家に入ってすぐ、雨を吸って重くなった革靴とローブを、荒々しく脱ぎ捨てた。ランプは点ける気にもならない。着替えをするのも面倒だった。動くことを放棄した身体を、長椅子に転がす。

 もうそれ以上は、何もしたいと思えなかった。身体は疲労していたけれど、眠る気すら起きない。

 額が鈍い痛みに襲われている。

 開き続けた真眼が、限界を訴えていた。額の痛みは、少し前から後頭部にまで伝染している。真力は枯渇しかけると頭痛が起きるようだ。一晩使い続けただけで枯渇するのが、史上最大の真力か。お粗末過ぎると、自嘲を浮かべた。

 自分だけしかいない居間は、いつもと変わらぬ光景だというのに、廃屋のように侘しく見える。

 雨の音が強くなって、また一段と暗さが増した。


 ――夜が、近づいている。


 その事実が、焦燥の炎となり自分を焦がした。

 もう夜だ。

 夜が来てしまう。

 焦りは重ねる毎に色を変え。ついにどうしようもないほどの黒い衝動へと変わった。

 我慢ができず。転がしていた身体を起こし、立ち上がる。


 ――やはり、もう一度行こう。

 早く見つけてやらないと。

 きっと泣いている。空が暗いと。夜が怖いと泣いているから。


 濡れて重いローブを羽織りなおし。泥靴を掴んだところで、扉が音を発した。

 全身に緊張が走る。

 凶報がもたらされた昨夜を思い出した。頭痛が悪化し、吐き気までした。夜の訪問者を忌避する身体は、次の音が響くまで動こうとはしなかった。

 居間で固まっている自分の目の前で、扉が開いた。

 家の扉が開かれたことで歓喜しかけた自分は、入ってきた人影の正体を確かめ。現実はそこまで甘くないと思い知ることになる。


「ローグレストよ。何をしている」

「キクリ正師……」

 違う。

 彼女では……なかった。

 落胆したおかげで、重かった身体にいっそうの重みが加わった。

「今日はもう休むよう言ったはずだ。焦っても何にもならない。身体を休めて明日に備えなさい」

「しかし……」

「休むのだ。夜よりも、真力が濃い昼間に探した方が見つけやすい。お前も重々承知しているだろう」

「しかし!」

 身の内で衝動が、張り裂けんばかりに膨らんでいる。

 衝動と。どす黒い感情と。苦しみのすべてを否定したくて激しく首を振った。

「落ち着きなさい」

「落ち着いていられるわけないでしょう!」

「気持ちはわかる。だが、落ち着くのだ。いまのお前では許可を出せない。真力が枯渇している者を、里の外に……ましてや任務に出すわけにいかんのだ。今夜は身体を休ませて、真力を回復させなさい」

 任務という言葉に、激情が返ってきた。

「俺は任務だから動いているわけではない……。そんな下らないもののためでは断じてない!」

 正師がまた自分の名を呼んだ。けれども、一度流れ出した濁流は止まらない。

 箍はとっくに外れていた。

「俺は、彼女のために探している。彼女を見つけるために探している」

「ローグレスト……」

「何が任務だ。そもそも任務は番揃って就くものではなかったのですか! 何故……、何故、彼女だけを連れていった!!」

「お前の悔しさもわかる。怒りも否定しない。今回の一件についての調べははじまっている。規律に反した者には必ず厳罰を……」


 任務は、番で就くことを優先とされている。導士を任務に就かせるためには、必ず正師か慧師の許可がいる。

 真導士の里での常識。そして規律。

 それらすべては、いまの自分にとって心底どうでもいいことだ。

 違反者への罰則? 好きにすればいいだろう。


「そんなことは、あんた達の問題だろう! 権益争いも派閥争いも、勝手にやっていればいい」


 相対した紺碧の瞳。

 じっと見返してきている瞳に、激情をただただぶつける。


「何故、巻き込む。どうして俺達を放っておいてくれない!」


 それは運命を唾棄する言葉。


「彼女を返してくれ!」


 他に何もいらない。

 この腕に、彼女が戻れば他には何も。


「返せ」


 何もいらないから。

 だから、どうか――。


「返してくれよ……」




 暗雲が重く垂れこめる真導士の里に、苦しげに鳴く一羽の雛。

 夜は、どこまでもどこまでも暗くて……救いの光は、とても見出せなかった。

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