(1)
――…――
部屋の中はそこだけ切り離されてしまったかのように、静まり返っていた。
月と星の明かりしかない部屋の中は薄暗く、その淡い蒼が窓から差し込んでいる。柔らかい影が床の上で、長く長く伸びていた。
抱きかかえられたルゥシャはお望みのキングサイズのベッドに下ろされて、同時に口を塞いでいた手も離される。苦しがっていた肺をなだめるように、ルゥシャは思い切り息を吸い込んだ。
ギシッ、という音と共に少年がベッドの上に乗り上がり、寝ているルゥシャの足に跨る。ルゥシャはハッとして咄嗟に顔を上げると、すぐ近くに少年の顔があった。
卵のように白く小さな顔をしている。どこまでも澄んでいる碧色の瞳は切れ長で、すっととおった鼻梁も形のいい唇も文句の付け所がない。銀色の髪は肩より少し短いくらいで、月明かりを浴びて蒼く輝いている。
思わずその美しさにルゥシャがほうけていると、目の前の少年がクスリと笑った。
「どうしたの。怖かったかな?」
少年の手が、ルゥシャの頬をそっと撫でた。
何ともいえぬ安心感が、ルゥシャの心を埋め尽くした。ずっとこうしていたい……。
「怖がらなくてもいいんだよ。――ねえ、君の名前、何ていうの?」
「……ルゥシャ、ゲリエンス」
優しい囁きは、どんなものよりも甘くていとおしい。
疑うことを忘れたルゥシャは、少年に促されるがままに、己の名を告げていた。
「そう、ルゥシャか。……可愛い名前だね」
少年はそのまま、ルゥシャを両手で抱きしめた。ふわりと漂ってくるのは鼻を衝くような刺激臭で。しかしそれもすぐに甘いにおいへと変わってしまう。不思議な感じだった。
肌寒かったルゥシャの身体は、少年の体温が伝わってきて、温かい。肩に乗せられた少年の顎が動くと、心臓がドキッとした。
「僕の名前はね、ウェリウス・クォルダンっていうんだ」
「……ウェリ、ウス?」
「そう。僕の名前はウェリウスだよ」
復唱する虚ろなルゥシャの声。ウェリウスの腕に、微かな力がかかった。
どこかで聞いたことがある……。ウェリウスの優しさを受けて麻痺しかけている脳を、ルゥシャは必死に働かせた。
ウェリウス・クォルダン。どこかで聞いたことがあるのに、霞みがかった記憶でいまいちはっきりとしない。喉のそこの所まで出かかっているのに、それを言葉にはできやしない。
妙なじれったさがルゥシャの中に芽生える。だがそれさえもすぐに、与えられた安心と甘さでかき消された。
「ルゥシャ」
危ない甘さを含んだウェリウスの囁きが、直に耳に入ってくる。ルゥシャは頭の中が支配されそうになるのを何とか食い止めた。
頭の隅では、ウェリウスの名を何度も繰り返しては、引っかかる記憶のしっぽを掴もうと、ルゥシャはもがいた。
すると肩にあった重さが消え、代わりにルゥシャの目の前には、ウェリウスの整った顔が現れた。
「ルゥシャ。愛してるよ――」
両の頬をウェリウスの暖かな手で挟まれた。ウェリウスの顔が、近づいてくる――――。
確かウェリウス・クォルダンは――……
「…………ッ!!」
ルゥシャは一気に身を引くと、ウェリウスの身体を突き飛ばす。しかしその身体はまったくと言っていいほど微動だにせず、それどころか突き出したルゥシャの腕をウェリウスはやんわりと握った。
「いきなりどうしたんだい。ルゥシャらしくないよ」
「やめろ! 触るな、バカ!!」
掴まれた腕を振り解こうと、ルゥシャは懸命に腕を動かしてみる。ところがそれほど力も入れていないだろうに、ルゥシャを掴むウェリウスの手は、ちっとも離れる様子がない。
「ごめんね。いきなりキスはまずかったよね」
「五月蝿い、つべこべ言うな! 何でもいいからさっさと放せよ!」
「そんなに怖かった?」
ウェリウスは困ったように眉を寄せた。が、
「いいから放せと言っているだろう、この吸血鬼め!!」
ルゥシャの声を聞いたウェリウスは、目を大きく見開いてぽかんとした、虚を衝かれたような表情を浮かべている。
しかしすぐに表情を取り戻すと、ウェリウスは更に強くルゥシャを引き寄せた。
掴まれている手首が、痛い。
「何だ。もうばれちゃったか」
クスリと笑う声。
宿っていた甘い色の瞳は、もうない。
変わって、どこまでも見透かされているような鋭く、何も宿っていない空虚な瞳が、ルゥシャを見据えていた。
言いようのない不快さが胸の奥で騒ぎだす。
それでも視線を逸らすことができずに、ルゥシャはウェリウスの前で、じっとしていた。
「さて。これからどうしようか」
意味深な笑みが、ウェリウスの口元に浮かんだ。
「実は俺さ、一回気の強そうな子の血も、味わってみたかったんだよね」
空いている方の手で、ウェリウスはルゥシャの頬を撫でた。背筋に悪寒が走る。握り込んだ掌に、うっすらと汗が浮き上がっていた。
「一体どんな味がするんだろう……」
さっきとはまるで別人だ。本当に危ない色を含んだ口調だ。
もしこのままでいたら、命の保証はない。
ウェリウスの細く白い指が、ルゥシャの首筋をなぞった。
恐怖で身体が震え上がる。
動けないのをいいことに、ウェリウスはルゥシャのうなじに、そっと顔をうずめた。
もう駄目だ!!
ルゥシャの首筋にウェリウスの唇が、そっと触れ、そして――ルゥシャはその意識を手放した。
感慨深げな微笑を浮かべながら、ウェリウスはその口元を拭った。
「なるほどね。確かにこれなら楽しめそうだ」
淡い蒼闇の中、ウェリウスの声だけがどこまでも響き続けていた。
「開けよ畜生が!」
ルゥシャの持っていたランタンを抱えて、シェナは涙声になりながら、まったくとして開く気配のない扉に喰いかかっていた。
どうしようどうしようと、頭の中は既に混乱している。何でこんな所に来てしまったのか。何でこんな所に行こうと言ってしまったのか……。
鷲掴みされてしまったかのように、胸が痛い。もしもルゥシャが吸血鬼に襲われてしまったとしたら……!
涙がじわりと浮かんでくる。
全然開かない扉がもどかしい。ムカつく。
「開けって言ってんだよッ!」
叩いても蹴っても開かない扉にシェナは痺れを切らし、思い切り体当たりをする。と、一向に開く気配のなかった扉は、いともあっさりと開き、勢いそのままに、シェナは絨毯の上に倒れ込んだ。
突然のことで驚きを隠せなかったが、シェナはすぐに状況を思い出し、起き上がる。巻き上がった埃が鼻に入って、何だかむず痒い。
「ルゥシャ! いるの!?」
ガバッと起き上がった視線の先には、キングサイズのベッドと、そこに横たわるルゥシャの姿があった。
足が埋もれそうなほどの絨毯に邪魔をされながら、シェナは必死に駆け寄る。
「ルゥシャ……ッ!」
やっとの思いでシェナはベッドの前まで走りきる。涙と抱えきれない不安とのせいで不規則になった呼吸をシェナは抑えようもなく、ただひたすらに横たわっているルゥシャを覗き込んだ。
と、そこには肢体を投げ出して、シェナとは間反対に、深い規則的な呼吸を繰り返すルゥシャの姿がある。長いまつげは瞼とともに固く閉じられており、目が覚める気配はまったくなかった。
何とも心配無用な友人の姿に、シェナは今までのあせりようがバカバカしく感じられた。
シェナは一つ深い息を吐き出すと、ルゥシャの寝ているキングサイズのふかふかしたベッドに腰掛けた。
「ルゥシャ。ルゥシャ起きなよ」
爆睡中のルゥシャの肩を掴むと、シェナは力の抜けた手で思いっ切り揺さぶる。
「……ん…………」
夢見心地といった風のルゥシャは、身じろぎをすると眉間に深い皺を寄せた。瞼がピクピクいっている。
「おーい、ルゥシャー。起き――」
「だばらっしゃい!! だぁーれがお前なんかと付き合うかああああああ!!」
「ぅおい!?」
見事に腹筋を使うと、ルゥシャはガバッとシェナの手を跳ね除けて文字通り飛び起きた。
消えて寝ていたと思ったら、今度はいきなりわけの解らないことを叫んで飛び起きる友人を前に、シェナは嫌でも動揺を隠せない。ゼエゼエと今度は荒い息を吐き出しているルゥシャの姿を、シェナはまさに唖然と見ていた。
「………………って、いねえし!」
「何がだよ」
「あれ? 何故にシェナがここにいるんだよ」
とことん眼中になかったのか、険悪なオーラを全身のいたるところから放出していたルゥシャは、声をかけられてやっとシェナがいたことを理解する。それと共に、
「っていうかあのエロ王子はどこへ?」
そういえばウェリウスの姿がどこにも見当たらない。確かにさっきまでここにいたはずなのだ。
きょろきょろと忙しなく視線を巡らせる。しかし見えるのは大きな月明かりの差し込む窓と理解しがたい模様の描いてある絨毯と小テーブルと、そしてシェナの姿だけだった。もう一人誰かがいるような気配など、微塵も感じられない。
「なあ、シェナ。ここに入ってくる時、誰かいなかったか?」
「その誰かっていうのは、ルゥシャの言うエロ王子でしょうか?」
「ああ。同い年くらいの野郎だ」
「残念だけど、私はだーれも見てないよ。それどころか、さっきまでこの部屋に全然入れなくて、ちょっと躍起になっていたんだから」
ほんとに何があったのかは知らないけど。とシェナが呟いているが、そんな声などまったく耳に入ってこなかった。
何が起こっていたんだ? 一体あたしは何に巻き込まれて――。
「夢じゃないの?」
「違う! あれは……あれは夢なんかじゃない! 確かにあいつはあたしを……」
あたしを……どうしようとした?
ウェリウスはルゥシャを連れてくる際、『じゃあ、今夜はお前と一緒に寝るかな』と確かに言ったのだ。それは何を意味している?
何かが這っているかのように、背中がゾクゾクする。
――あたしは、狙われていた?
「ルゥシャ? どうしたの?」
確かにウェリウスの口ぶりからすれば、狙われていたと考えるのが妥当であろう。それに、ウェリウスの食料源は異性の血液だ。彼が誰を襲おうが襲うまいが、そんなの知る由もない。
ただ今の状況下では、どこの誰がウェリウスに血を抜かれてもおかしくないということだ。おそらく昨晩ウェリウスに襲われたという女性も、ついさっきのルゥシャのように、またはもっと別の手段で襲われたに違いない。
彼は、ウェリウスは誰とも知らぬ女性の首筋にその吸血歯を衝き立てるのであろう。
異性の血液を啜り、彼が生きるべく、もしくは種族を繁栄させるために……。
「――――ッ!!」
バッとルゥシャは自分の首筋を、ウェリウスに口付けられた首筋を手で押さえつけた。
もしかしたら――……
脳裏によぎるのは、最悪の結末だけだった。
さーっと血の気が引いていくのが、嫌でも感じられる。それでも、ウェリウスに口付けられた首筋だけは、脈打つように熱い。
どうしよう。ここにはシェナがいるのだ。それこそ見られでもしたら、あたしも自警団に狩られて……。
「大丈夫、ルゥシャ? 顔色が危ういよ」
シェナが、ルゥシャをじっと見つめている。
「それにどうしたの? 首、怪我でもした?」
その瞳は心配さを含む、相手の心理を探るためのものだった。
ルゥシャの気持ちは心臓の拍動に合わせて、更にあせりを増す。どうかバレないで……。
「もしかして、そのエロ王子って吸血鬼なんじゃ――」
「しぇ、シェナ。そんな質の悪い冗談はやめろよ。本当に出てきたらどうするんだ」
「どうするもこうするも、私たちは吸血鬼探しに来たんだから、本望じゃん」
胸を反らしながら、シェナは得意顔で答えた。さすがにあのタイミングでは疑われざるをえないかと思ってひやひやしていたのだが、即答したことよりも、吸血鬼が出たという仮定の方に気が向いてくれたようだ。
「本望って、最悪死ぬからな。これ」
そうだ。もしかしたらルゥシャはあの時に死んでいたっておかしくはなかった。相手はあの吸血鬼で、こんなルゥシャでさえもいとも簡単に押さえつけてしまったんだから。
それだけの危険を伴っていたんだから……。
「昼間にも言ったとおり、私は好奇心には勝てないの。その後のことはその時が近づいたら考えるわ」
多分、肝が一番冷えたのは間違いなくルゥシャだろう。確かに突然ルゥシャが消えたことには驚きもあっただろうが、あの恐怖を目の当たりにしていないシェナには慎重さのカケラもなかった。
シェナは口が達者なのか、あまり昔のことは気にしないタイプなのかは知りやしない。でも、そこまで事もなげに言われると、あの恐怖が一体何であって何を意味していたのかということに、ルゥシャは複雑な心境に駆られた。
首筋に当てたままの手は、まだ熱い。
蒼い月明かりは、ウェリウスと会った時と変わらずに、二人を照らし続けていた。
――…――
さすがに昨日はぐっすりとは眠れなかった。
あの後ルゥシャはやっぱり首筋を隠すようにして家まで帰り、慌てていつもは見向きもしない鏡台へと一直線に向かっていったのだ。
幸いにも首筋に五芒星の痣は浮かんでおらずほっと一息つくものの、ベッドに入ってからはずっとウェリウスのことが頭の中でグルグルと回り続けて。寝付く頃には東の空が明るくなっていた。その後も習慣的にいつもと同じ時間に起きてしまい、気付けば目元に隈を浮かべながら着がえ終えてしまっている。
さて、どうしたものか……。
二階の自室にある出窓に肘をついて、ルゥシャはぼんやりと外を眺めた。やっぱり皆吸血鬼が怖いのか、中心街であってもあまり人はいない。いつもよりも疎らで、ちょっとばかり寂しい気もする。
ルゥシャは左腕に巻かれた包帯を見た。どうやらあの切り傷は相当深いものだったらしく、朝起きてから再度ぱっくりと傷口が開いてしまったのだ。
どうも疎いのか、ルゥシャは傷をそのままにキッチンへと向かったところ、そのあまりにもバイオレンスな娘の姿に度肝を抜かしたルゥシャの母親が、慌てて消毒をし、少しきつめに包帯を巻いたのだ。まあ、当たり前といえば当たり前のことである。
はぁとルゥシャは微かなため息をついた。
本当に、気付けば常にウェリウスのことを考えてしまっている。頭は芯からボーっとしたような、何とも不愉快であり、逆にそれが気持ちいい気分にさせているのだ。
やっぱりおかしいよ、自分――。
怯えながら歩いていく人が、また一人、窓の外に現れた。首から下がっている銀の十字架が、やっぱりこの事態を強調している。別にそれほどまで怯えなくてもいいだろうになどとも思うが、反面、やっぱり人の心理としては怯えずにはいられないのかな……。なんて、ルゥシャは悠長に考えてみていたりもするのだ。
他人が聞いたら憤り、呆れられるかもしれないけどね。
でもまあ、人間十人十色だし。考えが違ったってどうってことないだろう。自分がおかしいと思う人がいるように、自分にもおかしいと思う人がいる。ただそれだけのことだ。
冷たい秋風が、木枠の窓を揺らした。あの館で感じたような不気味さは、同じ音なのに微塵も感じられない。しかし、同じて言えることといえば、この寂しさに拍車をかけているということだろうか……。
「……あ」
微かな砂埃が舞い上がる通りに、新たにまた一人、現れた。――リリアだ。
あれだけ吸血鬼を怖がっていたのに、いつもより悠に人の少ない道を歩くのは、些か不安だろう。だが、そこをリリアはたった一人で歩いている。
ルゥシャは急いで立ち上がった。ちょうど暇を持て余していた。というのもあるが、それ以上にこのウェリウスに囚われたままの気持ちを紛らわせたかったし、何よりもリリアのことが心配だ。
古風で味の出ている木製階段を、ルゥシャは一段飛ばしで駆け下りた。
「ちょっと出かける」と玄関先にいた母親に言い残して、ルゥシャは家を飛び出していく。
そこには一風変わった、いつもとは別次元のような寂しい風景が広がっていた。
店娘の活気付いた明るい声も、出店に並ぶ香りの数々もない。しんとしていて、乾いていた。
一筋の冷たい風が、ルゥシャの頬に当たった。タイムロスのせいでリリアを見失い、ルゥシャはきょろきょろと辺りを見回す。と、中心地に向かって歩いているリリアの後ろ姿がその目に入った。
ルゥシャは走った。買い物籠を下げながら前を歩いていくリリアの姿が、徐々に徐々にと大きくなる。
「リリア!!」
一瞬びくっとその細い肩を震わせたが、恐る恐ると形容した方がいいだろう動作で、リリアは立ち止まり、振り返った。
「……ルゥシャ、なの?」
いい具合に身体が温まったルゥシャはリリアに向かって、満面の笑みを浮かべる。
「リリア、どうしたんだよ、こんな所で」
「ちょっと買い物に出ていたの。……でも駄目だわ。今日はどこの店も閉まっていて」
苦笑いを浮かべるリリアは、ちらりともと来た道を振り返った。そこはがらんとしていて、殺風景で。幼き頃より住んでいたとは到底思えない変わりようを見せている。
「確かに、こういう状況だもんな。無理もないよ」
ルゥシャもリリア同様に、苦笑した。それは、誰もが吸血鬼の脅威から背を向けているようで、とてもじゃないが見ていられない。
目の当たりにすればするほど、絞り上げられているみたいに、心が苦しくなる。
「そうよね。みんな怯えきってるもの……」
通り抜けた風が、二人の髪を靡かせた。
どこかの家からか、幼子の不満に満ちた声が聞こえてくる。やはり状況が掴めてない子供たちにとってこれは、理不尽な軟禁同様なんだろう。
怯えているのは、多分飲み込みの速い、固い頭を持った大人だけ。頑なに、むきになっているのがどことなく感じられた。
遠い視線の先には、無に帰したような街並みしか、広がってない。
「たった一人の吸血鬼の存在で、これほどまで変わってしまうんだわ」
「……だな」
そうだ。人の運命なんて容易く左右されてしまう。それがいかに大きなものでも小さなものでもだ。
きっかけなんてどこにでも転がっている。運命を決めるきっかけは、おそらくこの世界の何よりも溢れかえっているのだろう。数多のシナリオを構成するために。
ただ今回は、その数多の中の一つが偶然にして必然的に選ばれただけであり、それがたまたま凶として出ただけの話だ。それ以外の何ものでもない。これが今の運命。
彼らは彼らの気休めのために、この運命と向き合わないに過ぎないのだ。
「ねえルゥシャ。ところで、ルゥシャこそどうしたの? 買い物って感じじゃないみたいだけど……」
「ああ。たまたま外を眺めていたらリリアがいたからさ。どうしたのかなぁー、なんて思っただけ。これといって深い意味はないよ」
そうなのと、ルゥシャを見ているリリアの視線が、微かに柔らかくなった。どれほど心配をかけていたのかは解らないが、それが館に行くのではないかということなのだとしたら、それはもう後の祭り。
悪いとは思うものの、実行してしまった後ではもう遅いというものだ。
「っていうかリリア。買い物諦めているみたいだけど、まだどこかに行くのか? お前の家はとうに越しているけど」
リリアの家はルゥシャの家から見て、東に一軒隣だ。買い物が終わっている本来ならば、ゲリエンス家の前を通るはずはないのだが。
「一昨日から両親が家を留守にしていて……。まさか吸血鬼が出るなんて、思いもしないでしょ? それでさすがに女の子一人じゃ危ないからって電話があって。だから今日からスヴェラさんの所でお世話になるの」
言われてルゥシャは思い出した。何を隠そう、あのリリアとスヴェラは従兄妹同士だ。
あー。ヤツの家でねと、ルゥシャは引き攣る声をやっとの思いで繋ぎ合わせた。
確かに一人よりかはマシかもしれないが、あそこの一家は情報屋だ。今みたいな状況下では、それこそ大変だろうし落ち着く暇もないだろう。 だからこそハートン家が情報屋として成り立っているんだといえば、まあそれもそうなのだが。
きっと今だって、どこかで駆け回っているに違いない。吸血鬼のことを――ウェリウスのことを今も誰かに言っているんだろう。
「……なあ。あたしも一緒にスヴェラの所へ行ってもいいか?」
「ええ。そうしてくれると嬉しいわ。何でも国中の情報屋が絶え間なく押しかけてくるから、とても疲れているみたいなの。一般の人はその雰囲気に耐えられなくてあまり近寄っても来ないし。だから誰でもいいから話し相手をって」
「そっか。ちょうどよかったな」
国中の情報屋が来ているのならば、かなりの数の情報が流れてきているだろう。だったら吸血鬼のことも、ウェリウスのことだってあたしたちなんかよりも知っているはずだ。
ルゥシャは胸の高鳴りを押さえられない。
僅かに浮かぶ微笑に気付きもしないで、ルゥシャはリリアと共に歩いていった。
「よく来たねぇ! まあ、ルゥシャちゃんもいらっしゃい。さあさあ遠慮しないで中に入っておいで」
「おじゃまします」
ものすごい混みようだった。入り口には既に入りきれず、戸外で声を張り上げている情報屋が幾人もいる。
やはりそれだけ、事態は深刻なんだろう。ルゥシャとリリアは多くの人を見ながら軽く頭を下げ、ハートン家の奥さんの後についていくと、混み入っている玄関をくぐった。
「すごいですね。大変でしょう? 伯母さん」
「そうなのよ。もう昨日からずっと、こんな状態で。休む暇もないわ」
ふくよかな顔は、しかし疲れ知らずとでもいうように、にこにこしていた。ちょいとどいておくれと言いながら伯母さんは人ごみを掻き分け、二人は奥の部屋へと案内された。
そこは隣の部屋とは打って変わって、何とも静かな場所だった。奥にある暖炉の中で、薪がパチパチと音をたてながら燃えている。
中央にあるテーブルにはワスレモコウやオンシジウムといった花々が飾られていた。腰掛けて待っててちょうだいと伯母さんは言い残すと、二人を残して部屋から出ていく。
「まさに情報屋だな、あれは」
「本当ね。北部の服装をしている人もいたわ」
椅子を引くと、カタンと微かな音がした。空気が動いて花々の香りが漂ってくる。
扉の外は、やっぱり騒がしい。たった一枚の扉を隔てただけだから、大きな話し声は嫌でも聞き取れてしまう。
と、その話し声の中で、怒鳴り合うような――もしくは周りに同調して大きくなってしまった二つの声が聞こえた。片方は伯母さんの声で、もう一人を促しているように聞こえる。もう一人は男の人で、頷いてばっかりだ。
喧騒にかき消されるようにして話が中断されると、扉が大きく開いた。ざわめきが鮮明に聞こえてくる。
「やあ、おまたせ」
入ってきたのはスヴェラだ。元々防寒のために巻いてあったであろうオフホワイトのマフラーは、熱気を逃がすためによれよれになっていた。肩で息をしているの見ても、彼がまたどこかで走り回っていたと証言しているようなもんだ。
マフラーを取りながらスヴェラは歩み寄ってくる。いつもと口調が違うのは、もう慣れた。……とはいえ、まだ高等部生でも通るような顔をしてあの走り回っている時の口調には、ルゥシャもまだちょっとばかり驚くが。
スヴェラの本来の口調は今のもので、情報を振りまいてる時の口調は、職業柄だ。直せばいいのだろうが、もうすっかり馴染んでしまって、それも叶わないというやつだ。
のっそりとルゥシャの向かいの席に腰を下ろすと、スヴェラはテーブルに肘をつく。
「でー? 俺には何でルゥシャがここにいるのかが理解不能なんだがな。話ではリリアだけのはずだった気がするんだけど」
「悪かったね。邪魔者が入ってよ」
「んなこたぁー言ってねえって」
のほほんとした空気を振りまきながら、スヴェラは口を動かしていく。本当、この一家は笑顔とおしゃべりが絶えない。
「それで、ルゥシャはどうしたの?」
短い紅茶色の髪が、首を傾げるスヴェラの動きに合わせて揺れた。ガキ相手にするような口調と仕草はやめろとルゥシャは言うと、急に真剣な顔つきになる。
「吸血鬼――ウェリウスについて教えてもらいたい」
一瞬ほうけた顔をしたスヴェラは、しかしルゥシャの表情を見ると、からかいをなくした笑みを、口元だけに浮かべた。
「高くつくよ?」
「かまわねえ」
しんとした空気が、この場だけを包み込む。
隣でリリアが心配そうに二人を見ていた。
「……嘘だよ。んな真剣になるなって」
大体そんなに悪い奴じゃないし。と言いながら、スヴェラは眉を下げて笑った。
「で。確認を取るけど、ウェリウスのことで間違いないね?」
片眉をひくつかせていたルゥシャも、スヴェラの問いかけを聞くと、再び緊張を纏った。
ルゥシャは何も言わずに、スヴェラの目だけを見て頷く。
スヴェラはそれを確認すると、長く長く息を吐き出した。そして椅子の背もたれにぐっと身体を預けて。すると、それだけで緊張感が更に上塗りされたような気がする。ルゥシャは生唾を飲んだ。
「今回現れた吸血鬼の名は、ウェリウス・クォルダン。まだ実際にはっきりと見た者がいないから本当の所は解らないが、どうやら十代半ばくらいの外見をしているらしい。ちなみに文献や聖職者の話によると、封印はされているが前科はなく、まったくと言っていいほどその存在は謎に包まれている。また、今朝新たに出た被害者と昨日の被害者との被害状況を見てみても、普通は吸血歯によって血を抜かれた穴は二つできるのに、いくら目を凝らして見ても、その穴は一つしかない。……これはウェリウスにのみ見られる、特異体質が故のものなんだ」
スヴェラは淡々と話を進めていく。
「で、五芒星なんだが、お前たちも知ってるだろ? 吸血鬼にただ血を抜かれただけだと、その五芒星は紫色なんだ。だが死ぬか吸血鬼にされた場合には、その五芒星は褐色になるって。歴代の吸血鬼についての文献を読むと、大抵の奴が殺すか種族繁栄をしているにもかかわらず、今回のウェリウスの場合は、その傾向がない。まるで、ただ食事をしているだけのようにな」
「……つまり、致死量に満ちていないということは、今回に限っては安心できるのか?」
ルゥシャの疑問に、スヴェラは首を横に振った。その姿は飽く迄も冷静そのもので、不安を煽る形となっている。
「やっぱり吸血鬼が出たってことは、放ってはおけないだろう。万が一に死者や吸血鬼になった者が出たりでもしたら、それこそ今以上に誰もが塞ぎがちになってしまう」
「じゃあ、一体どうするんだよ」
空気が動きを止めたように、しんと静まり返った。
この場に不似合いな花の香りが鼻腔を掠める中、スヴェラは唇を噛み締め、視線をテーブルの上で泳がせている。
リリアが不安に怯え縮こまったその時、スヴェラは苦々しくその重たい口を開いた。
「…………吸血鬼狩りだよ」




