ノイヤ・トッティの賽
ノイヤ・トッティはこれといって秀でた容姿を持つわけでもなく背丈も人並み、まさしく普通を地で行く男だった。大勢の中に紛れてしまえばノイヤ・トッティがどんな顔だったのか思い出すこともできない、それほど凡庸な男だった。
それなりの一着を身にまとっているので決して貧相ではなかったが所詮は質流れ品、肩の辺りが少し窮屈だった。
ノイヤ・トッティは普段からゲンを担ぐほうではなかったが、今日もいつものパブでいつもの酒を飲んでいた。
店の客もいつもの顔ぶれだ。それぞれの指定席で飲んだくれている常連客が誰かを相手に世間話に興じ、ノイヤ・トッティは耳うるさい声を聞きながら、ひとりだけの酒を静かに飲んでいた。
大声の常連客の名前は知らないが、ゴシップ紙の一面をさも自分の話のように語ることから、ゴシップ紙の名前を取ってウィートンと呼ばれている。
彼が語るのは、ここ最近頻発している墓荒らしについてだった。しばらく耳を傾けてみたが、案の定、突飛な話に終始していた。
事実はどうあれ、若い女性の死体だけが掘り起こされ、秘密裏に行われている儀式に捧げられているという与太話ですら、ウィートンの軽妙な弁舌によって不思議と真実味を増していく。
「その儀式とやらはどこで行われてるんだ」
ウィートンの話を聞いていたひとりが質問した。
「人里離れた……そのぉ……廃屋で……」
「それってどこだい」
怪しげな儀式を行う場所までは書かれていなかったらしい。途端に歯切れの悪くなったウィートンは、最後には口を噤んで酒を流し込んだ。
できれば儀式が行われる詳しい場所を知りたかったが、ノイヤ・トッティは三杯目の酒を飲み終えたので料金を払い、席を立った。
酒場に置き忘れた新聞に目を向けるだけではなく、もう少し世の中の見識を深めるべきだ。そうすれば、不測の質問にも淀みなく答えられるだろう。
たとえば、フォックス・デルロイ邸とか。瀟洒な外観を持つ邸宅は町の歴史を語る上では欠かせない建造物のひとつだ。古くから存在するレンガと漆喰の塊は町の象徴として、そして毎夜行われている怪しげな会合を人々の目から阻んできた。
人の目から逃れるには人里離れた廃屋ではなく、人通りの絶えない市中にあって、さらには有名な邸宅などのほうが露呈しにくいものだ。
ノイヤ・トッティがこれから向かう先もフォックス・デルロイ邸で、夜な夜な行われる怪しげな会合を前に、儀式を行うのだった。
儀式とは大げさにすぎようか。胸の内ポケットから取り出した小さなサイコロを手の平で転がした。
振れば必ず三の目が出る。数字の三に特に思い入れはないが、絶対に三が出ることに意味がある。
町の片隅で占い師として生計を立てている老婆から譲り受けたサイコロで、なんのいわれもないただのいかさまサイコロだった。
サイコロを使用して占うのはいいとしても、ただの占いに細工が必要なのか、と老婆に問うと、別段隠す風でもなく語ってくれた。
「真実味を増すためには少しだけ嘘が必要なのですよ」
その時はよく分からなかったが、今なら老婆の言葉が身に染みて分かるのだった。
三の目が出るサイコロを振って老婆が指針を与えてくれたからこそ、今でも食うに困らない生活を送れているのは事実だ。
老婆からサイコロを譲り受けた当時、ノイヤ・トッティも少なからず悩みを抱えており、だからこそ占いの看板に目を止めたのだから。
歩き慣れた道を辿って邸宅の通用口のベルを鳴らす。待たされることなくドアは開かれ、慇懃を隠しもしない執事に簡単な挨拶を済ませた。執事からいつもの札入れを受け取る。
ノイヤ・トッティがフォックス・デルロイ邸に足を運ぶようになってからそろそろ一年は経つが、一度として正面から入ったことはない。裏の通用口からしか出入りさせてもらえないということは、ここの主人にとってノイヤ・トッティは客ではないのだ。
ノイヤ・トッティの立場とはそれくらいでしかないのだ。高貴な出自でないことくらいは重々承知しているので、相応の扱いだと理解はしている。
狭い通路の突当たりの壁には薄っすらと切り込みが入り、押すと人ひとり分が通り抜けられる隠し扉になっている。小ざっぱりとした応接室を抜け、さらには回転式の本棚を越えて、地下へと下る階段に差しかかった。
地下の扉の向こうはだだっ広い空間となっており、窓の代わりに等間隔に並ぶランプとシャンデリアの明かりだけが、中央に据えられた一際大きなテーブルを照らし出していた。
特注品の円卓は紫檀の一枚板。過度な装飾もなかったが、その存在感だけで重厚の演出を買って出ている。
豪奢なテーブルの上には封を切っていないトランプの箱がぽつんと置かれている。
程なくしてノイヤ・トッティの雇い主であるデルロイ伯爵を筆頭に、にこやかな談笑と共に三人の男が続いた。
その内の二人はデルロイ伯爵と懇意にしているオーガスタスとファビアンで、景気よく金をドブに捨てる連中だ。最後のひとりは新顔だった。身形は清潔で品もいい。仕立てのいい背広を卒なくこなし、身につける小物も上質だが、どこかに田舎臭さが拭えない。
垢抜けない男だろうが、地下に招待されるくらいだから伯爵のお眼鏡に適った人間なのだろう。
ノイヤ・トッティはそれ以上の詮索を止めた。
ホスト役であるデルロイ伯爵はいつもの席に着き、オーガスタス、ファビアンが後に続く。田舎青年は空いた席に無頓着に座った。ノイヤ・トッティは残った椅子に腰を置いた。
「さぁ、今日は楽しみましょう」
ノイヤ・トッティは率先してカードの山を手に、程々の手さばきでもってして各自にカードを配る。
屋敷の地下で夜な夜な行われる遊興に参加しているノイヤ・トッティだが、その実、ただの進行役だ。執事から受け取った札入れはただ借り受けているだけであり、ゲームが終われば寸分たがわぬ金額を返さなければならない。
一局目で新顔の性格と名前が知れた。青年の名前はルター。
テーブルの中央には決して少なくない現金が積み置かれる賭け事の場において、人は容易に本性を晒すものだが、ルターは紙幣が飛び交う中でも冷静で、むしろ淡々とカードの行方を追っている。
そしてノイヤ・トッティは朴訥な青年の見方を改めた。ルターはこの手の雰囲気に馴れている。
対してオーガスタスはゲームが始まると同時に身を乗り出し、少しでもいい役が手元に来るとその表情は雄弁となった。
実に分かり易い。ゲームのルールも理解しており作法も熟知しているが、カモの典型だと言える。
最初の勝者はオーガスタス。ちなみにオーガスタスの手役よりルターの手役のほうが高かったが、ルターはなんの迷いもなく降りた。
様子見ならばパスすればいいだけだが、それが彼なりの定石なのだろう。
オーガスタスとルターには絵札の2ペアを与え、動向を見つめていると気の逸ったオーガスタスがいきなり高額を張った。オーガスタスは賭け事の機微を知らない。いや、知ろうとしない。
ファビアンは一見して慎重な態度なのだが、勝負勘は皆無だ。極めて小心者で手持ちの金を減らすことも少ないが、大きく増やすこともない。
最後に控える伯爵はいつもの葉巻を燻らせ、カード一枚で一喜一憂する輩を常に高みから睥睨している。
伯爵本人もテーブルゲームが好きだからこそ、こうして夜な夜な薄暗い一室で賭博に耽っているのだが、本来の目的は人間考察らしい。
明け透けな人の業とやらを垣間見ては肩をそびやかし、悦に浸るのを至上の喜びにしている。
もっとも、考察だなんだと御託をぬかしてはいてもゲームに参加しているのだから、勝ちが回ってこなければ機嫌が悪くなる。
卓上の小さな勝ち負けを支配しているノイヤ・トッティは、絶えず勝ちを意識させることで金を出し渋らないように気を配らなければならない。負けが込まないように采配し続けるのは、意外と神経がすり減る。
売れない奇術師であったノイヤ・トッティに新たな仕事を提供してくれたのはデルロイ伯爵だが、特異な才覚を見出されて引き抜かれたわけではない。カード捌きが人よりは上手だ、くらいにしか思われていないはずだ。
自分の手腕を誇示するつもりもない。退屈だが仕事と割り切っているからこなせるのであって、伯爵が地下室を支配していると勘違いしている間は、ノイヤ・トッティが職を失うこともないのだった。
それなりの成果を得て酒を飲み交わす四人の談笑を聞くでもなく、ノイヤ・トッティは邪魔にならない場所で静かに控えていた。
「巧みなカード捌きですね」
声のほうを見ると、ルターの柔和な笑みがあった。
「手先だけは器用なので」
ノイヤ・トッティは謙遜するでもなく、儀礼的に頭を下げた。
「何度かこの手の催しに参加したことはあるのですが、楽しいと思えるのは初めてです」
ルターは数回の勝ちを手にしていたが、周りが自滅したために得た、あってないような勝ちだけだった。ノイヤ・トッティが見る限りでは、ルターはそれほど楽しそうではなかった。
「これ以上懐が寂しくなるのは困りものですが、一夜にして大金をせしめるというのは、どういう気持ちなんでしょうね」
「さあ。わたしなどは財布の中身だけが気になって勝負を楽しむ余裕などありませんから」
大きな金額が動く賭けの場を間近にしているノイヤ・トッティだが、自身は勝敗を演出するだけでしかないのだから、答えようがない。
「お二方。そろそろ再開しましょう」
今のところの主役であるファビアンがこちらに手招きしていた。ファビアンは揚々と席に着き、神経質な口元が今日に限っては緩んでいた。渋い顔のオーガスタスが腰を下ろし、事の成り行きを窺う素振りの伯爵が後に続いた。
ファビアンが勝ちを増やしているのは、ノイヤ・トッティが意図する手役にいいように踊らされるオーガスタスが、後先もまく賭け金をばら撒くからだ。なくなった金を奪い返すことだけで思考は埋まり、すでに周りが見えなくなっている。
自滅する脇からファビアンが賭け金をごっそり掻っ攫うものだから、余計に頭に血が上り、無謀に突っ込む。
いっそ清々しいほどの悪循環を演出しては、デルロイ伯爵の愉悦を満たしてやった。
そろそろ頃合いだろう。次は赤から青へ。気を大きくしているファビアンの顔色を失わせるのも一興。伯爵はきっとご満悦だ。
再びの見せ場を作るために、ノイヤ・トッティはカードを慎重に配った。
オーガスタスは不機嫌に徹している。ファビアンは慣れない余裕に浮き足立ち、伯爵は相変わらず高みの見物に終始して――。
順当にカードを交換したところで、それぞれが賭け金を支払っていく。なけなしの金で細々と賭けるオーガスタスとは対照的に、手持ちの金が潤沢なファビアンはそれなりの手役でも大きく賭けてくる。
ルターが指先で紫檀の天面を弾いた。両隣のデルロイ伯爵とファビアンが何事かと思うほどの静かな所作で賭け金を上乗せした。
みなが揃って目を丸めたのは、ルターがまともに賭けに参加したこともさることながら、無造作に置かれた金額の大きさだった。
「ようやくやる気を起こしたようですな」
デルロイ伯爵がその場をとりなし、ルターと同額の金を懐から投げた。卓上に積まれた賭け金はファビアンが数時間で得た金を遥かに凌ぐ。
オーガスタスの視線は山積みの紙幣に釘づけになっているが、喉から手が出るほど欲しいのはノイヤ・トッティ以外の他の人間も同じだ。
「わたしにもツキが巡ってきたようです」
ルターは五枚のカードを伏せたまま、身を乗り出してテーブルの面々をゆっくりと見渡した。
そのツキですら自在に操っているノイヤ・トッティからすれば、ルターの言葉はただのはったりだ。ルターの手の内にあるカードは役のひとつもできていないことを知っている。
負けが続いているオーガスタスは泣く泣く降り、ファビアンはしばらく粘ったが、生来の小心に一歩が踏み出せず途中で折れた。
デルロイ伯爵の強気はKの3カードがあるからで、最後まで降りないのは当然としても、ルターの余裕はというか、突然の変貌ぶりはどうだろうか。
デルロイ伯爵が先にカードを開示し、三枚のKを目にしたルターは小さく肩を竦めて天井を仰いだ。ルターは自身の手役を誰の目に触れることなくカードの山に返した。
勝負の席に残っている二人の静かな戦いの行く末は、実に呆気ないものだった。
「まだまだ伯爵の足元にも及びませんね」
悄然としてみせるルターを額面通りに受け取る面々は、デルロイ伯爵も含めて良くも悪くも金持ちの能天気さゆえだ。
時間をかけて気のいい若輩者であることを演じ、刷り込むことで誰からも不審の目で見られることはなく、むしろその立場を堅固なものにしてしまったようだ。
ルターが沈黙を破ったのはそれがための地均しが完了したということで、誰かの懐に行きつ戻りつしていた金が、明らかにルターの元に集まり始めていた。
疑惑は確信に変わり、そしてノイヤ・トッティの懸念は当たった。
伯爵の遊びに乗じたノイヤ・トッティの密やかな、しかし絶対的すらあった支配が及ばなくなり、それはこの場がルターの独壇場であることを意味した。
ルターは常に誰よりも高い手役で上がり、あっという間に三人から金を巻き上げてしまった。
ポケットの裏地をひっくり返しても、埃くらいしか出てこない三人は腑に落ちないながらも詰まらなそうに目を伏せている。
ルターは地下に流れる不穏な沈黙をものともせず、厚顔に笑みを貼りつけたまま上着のポケットに手を突っ込んだ。ルターは、握り締めた拳をみなに見せつけた。
「今日の幸運にあやかったのはわたし、と言いたいところですが、実は特別なお守りのお陰なのですよ」
先ほどまでの重苦しい空気をいともあっさりと洗い流す、ルターの口の上手さと、裏表のない笑顔だった。
「高名な占い師から無理を言って譲り受けたものなのですが、神秘の力を宿した、と呼ぶに相応しい逸品でしょうね」
デルロイ伯爵はむしろ興味を引かれたようにルターの手元を覗き込んだ。
金を失った三人にしてみても、ルターの言葉に魅力を覚えたようだ。
ルターは得たりとばかりに、サイコロのいわれを滔々と語っている。
ノイヤ・トッティはその立場上、カードをすり替えや、程度の低いいかさまを行う輩を何度となく看破してきたが、ルターの手腕を白昼の元に晒すことができなかったのだから、見事という言葉以外になかった。
ノイヤ・トッティの目をもってしても見破れなかった妙技はほんの余興、ルターの本当の顔は詐和師に違いなかった。世間知らずを相手では本領を発揮するまでもないだろうが。
同時にノイヤ・トッティの本日の仕事は終わりを告げ、散らばったカードを回収し、箱に収めてから静かに退出した。
ルターは確かにカードをすり替えていたのだろうが、さすがとしか言いようがない、回収したカードの枚数は揃っていた。
ルターがノイヤ・トッティの同業者であったならば、少なからずの嫉妬に苛まれるところだが、さて、ルターはその口で一体いくらをせしめるのだろうか。
厳格だけが取り柄の執事から本日の給金を受け取ったノイヤ・トッティは屋敷を後に、屋敷から随分と離れた薄暗い路地裏で足を止めた。
ノイヤ・トッティのサイコロと、ルターの手の平で転がっていたサイコロはとても似ていた。むしろ同じものといっても差し支えない。
「まさか同じ占い師から貰ったんじゃないだろうな」
楽しい想像ついでに、これから詐欺を行おうとしている者が馬鹿正直に本名を名乗るはずもないから、青年の名前がなんであるかも多いに興味が沸いた。
ノイヤ・トッティは不意に笑った。
果してルター何某が持参したサイコロの目はなにが出るのだろうか。




