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「なかなか治らないね」

 俺の顔を見て額に手を当てるなり、そいつは嫌な顔をした。そして「ま、一応」と言いながら体温計を挟むように俺に指示して、灰皿に入ってるチョコレートを摘んだ。

 しばらくして電子音が鳴り、念のため自分でも数値を確認してからヤツにも渡した。そのあとの言葉が、冒頭の台詞である。ちなみに体温計を脇に挟んだ時点で俺はソファに寝そべった。さすがに一週間も39度だいの熱が続くとかなり消耗する。そして更に睡眠は、風邪と一緒にやってきた喘息の発作によってほぼ完全に奪われてるもんだから、消耗するだけして、回復の兆しは一向に見せない。

 咳は疲れるんだよな。マジで。

「ちなみにどうして今も熱があるの? ちゃんと解熱剤は渡してるよね?」

「あんまり効かないっぽい」

「ふぅむ。困ったね」

 腕を組んで、何かを考えるべく眉間に皺を寄せる。

「よし、ちょっと入院しよう」

「え、それはちょっと……」

「大丈夫だよ。何日かでいいから。その感じじゃ夜もあんまり寝られてないんでしょ。とりあえず、熱下げて夜はちゃんと眠れるようにしないと。栄養もしっかりとって。ほっといたら良くなるんならいいけど、明らかにどんどんひどくなってるから」

 ヤなこと言ってきやがる、と苦々しく思いつつも、実は自分でもそうじゃないかとは思っていたので口答えはしない。その代わり、わざとしかめ面して横を向いてやった。

 じゃあ決まり、とヤツ--神田川じんでんがわ太一郎はなぜかとてもホクホク顔で言い、病院に電話をかけ始めた。

 太一郎は俺が物心ついた時にはすでにいつも側にいた。俺の変な能力を知ってても彼は決して距離を置いたりはしなかった。太一郎いわく、自分もかなり小さかったのでそういう能力を持った俺を普通に受け入れてたんだと思う、とのことだ。鈍いんだか器がでかいんだかよくわからないヤツだ。まぁこの能力のせいで周りからは排除されていた俺にとってはありがたい存在であることは間違いなかったが。

 極端に身体が弱い俺は、幼い頃は太一郎の父親(割と大きな病院の院長)に診てもらっていたが、太一郎が周囲の期待通りに医者になってからは、太一郎が俺の主治医みたいになってる。

 本来なら太一郎は父親の病院に勤務してるはずだったんだけど、なんかヤバイことやらかしたので大手を振って医者としては働けないんだと自分で言っていた。何をやらかしたんだかは俺には分からない。

 んで、今はこの神田川心理調査事務所なんてものをほぼ道楽でやっている。

 ほとんど学校に通えず、それでもとりあえず中学までの卒業証書までもらったはいいが、高校なんて義務教育じゃない上に通える自信もなかったのでその後の身の振り方に悩んでいた俺に、ここで一緒にやろうと太一郎は声をかけてくれた。

「じゃ、明日から入院できるようにしといたから」

 電話を終えた太一郎がにっこり笑って言う。

 入院なんてほんとにしたくないがこの調子だとさすがにきついものがあったので、頷く代わりに灰皿のチョコレートを口に放り込み、即座に眉をひそめた。先週まではミントクリームの入ったチョコレートだったが、苦みが強いビターチョコレートに変わっていたのだ。というか、ビターにしてもこれは苦すぎだぞ。

 苦みを洗い流すために水を呷ってから、

「そういやさ、最近変な声が聞こえるんだよな」

「変? また例のヤツ?」

「そう。『助けて』?みたいな声が聞こえてうるさくて仕方がない。うるさいというか、なんか気になるっていうか」

 ふうん、と太一郎は少し首を傾けながら救急セットをソファの近くに持ってきて俺の腕に針を刺そうと試みる。

「ここのところ聞こえてなかったみたいだったのにね」

「いや、別に聞こえてなかった訳じゃない。一瞬だけ飛び込んできたりとかはしょっちゅうあったけ、」

 そこまで言って咳が台詞の邪魔をしたので太一郎は針を引っ込めてキッチンに行った。水を汲んでる音を遠くに聞きながら、ひたすら咳き込む。ああ、咳のしすぎで腹筋が痛ぇ。

 咳が鎮まって目尻に浮かんだ涙を拭き取ると、太一郎が持ってきてくれた水を飲んで呼吸を整える。

 落ち着いてきたところで太一郎が再び針を手にしたので、病院から持ってきたらしい台の上に腕を乗っける。俺としてはもう慣れたもんだ。ぺしぺしと腕を叩くのを尻目に、言葉を続けた。咳がほんとにおっかないので喉に負担をかけないようにしようとすると、なんだかささやき声みたいになる。

「んで、ここのところずっと聞こえてる声なんだけど、なんかほんとに……無視できない何かを感じるっつーか……、っておい、いつまで叩いてるんだ?」

「いやぁ、まったくもって血管が出ないんだよね。まぁ素直に出た試しはあんまりないんだけど、今日はほんとに駄目だなぁ。どこに刺していいのか検討がつかない」

 と、こちらを不安にさせる台詞を堂々と言う。

「たぶん間違いなく一発で入らないから……手の甲の方がまだいいかなぁ。でもこっちの方も自信ないなぁ」

「……痛くしちゃいやん」

 しばらくぺちぺちと叩いたりアルコールのついた脱脂綿で腕の色々な所をしごいたりしていたが諦めたらしく、検分先は手の甲へと移動した。アルコール綿でたっぷりと拭かれた腕は、きっと後になって痒くなるんだろうな。

 一回だけ失敗してなんとか針は満足のいく場所に落ち着いたらしい。点滴のパックから伸びてる管とくっつけて速度を調節する。

「それで?」

「え?」

「それで、気になるってのは?」

「ああ。なんか知らんが何かが引っかかってどうしようもないから、できれば発信源を突き止めたいんだよな」

「突き止めるのは勝手だけど、とりあえず体調がもう少し整ってからにしようね。はい。点滴はじまり」

 点滴の液体が腕全体にゆっくりと浸透していって、腕がひんやりする。俺は結構この瞬間が好きだ。点滴すると身体が少しラクになるというのがきっと頭にすり込まれてるんだろうと思う。冷たい液体が腕から身体中に心地よく拡散していくのを感じるままに身を委ねる。

「今日は事務所閉めるから、休んでなさい」

 言って、タオルケットをかけてくれた。

 そんなに勝手に閉めちゃっていいのかよ、と心の中で思ったが、口にはできなかった。もうかなり喋ったので、もう何かを口にする気力はなかった。言われなくても、少なくとも点滴が終わるまではこのまま休んでいたい気分だ。タオルケットはうちの薄い布団とは大違いでとても暖かい。

 少し首を動かすと、大きめに採ってある窓でレースのカーテンが微かに揺れてるのが見える。その向こうには、少し薄めの青が広がっていた。このカーテンは事務所を開業した記念にととある女性が寄贈してくれたものだ。太陽の日差しが入りすぎないようになってるらしい。俺の緑の瞳は光に弱いので、それを気遣ってプレゼントしてくれたようだ。

 睡眠不足と風邪のダブルパンチで疲れ切っていた身体は指先一本までもが鉛のように動かなくなった。眠りに落ちる寸前の、意識がからっぽのままで無限大に拡大していくような感覚の中、一瞬だけ激しい不安感を覚えた。これは俺のじゃない。いったい誰なんだよ。


  ☆ ☆


 ふんわりと甘いいい香りがする花を持って、でもあたしは病室の前をうろちょろするだけで部屋の中には入れないでいた。

 入院患者さんらしき人があちらこちらで話したりしていて、なんだかあたしは身の置き所がない。あんまり行ったりきたりするのも変なので、仕方ないから食堂らしきところの椅子に腰をかける。そして、深い溜息。

 今、あたしは途方に暮れています。どうしたらいいのかさっぱり分かりません。誰か助けてぷりーずです。

 机に突っ伏していると、「おい」と声をかけられた。

 いや、まさかあたしがここで誰かに声をかけられるなんて思わなかったから、最初の「おい」では反応しなかった。

「おい、おいこら。お前。顔を上げろ」

 としつこく言われたあげくにあたしが突っ伏してる机を何かでカンカン叩いてくるに至って、あたしは飛び起きた。というか、机から耳に振動が直接響いてめっちゃうるさかったのです。

 顔を上げたあたしの目に飛び込んできたのは、不機嫌そうな表情でこちらを見る緑がかった目。緑の目? とあたしは思ったけど、まぁカラーコンタクトとかもあるからね。髪の毛は色素の薄い茶色。この取り合わせだと、あんまり日本人っぽくない。もしかしたら今の台詞は違う人が言っていて、この人の口からは外国語が飛び出すのかもしれない、と思わせるような容貌だった。ちょっと痩せすぎてるのがもったいなかったが、それさえなければかなりイケメンの部類に入るんじゃないかと思う。

 でも次に彼が口にした言葉は、思いっきりネイティブの日本語だった。

「助けて欲しいのはお前か?」

 彼が発した言葉を耳で受け止めて、脳が理解するまで若干のタイムラグがあった。

 たしかにさっき、お願い誰か助けて! と心の中で悲鳴をあげていたが、口にした記憶はなかった、と思うのに。

 まさか知らないうちに声に出してたの? ぶつぶつ独り言言ってたとか?

 あたしが面食らって何も言えないでいると、彼は落胆の色を隠そうともせずに続けた。

「なんかちょっと雰囲気が違うなぁ。こいつじゃないのか」

 意味の分からない事をぶつぶつと言ってから、あっさりと立ち去りそうになった彼の青いパジャマの裾をあたしはとっさに掴んだ。掴んでしまったあとに、なんでこういう行動にでたのか分からなくて焦ってしまった。「なに?」とめんどくさそうにこちらを見る目がなんか怖かったけど、あたしは必死に言葉を並べた。

「いや、あの、その……えっと、誰か助けてとかすごく思ってた最中だったからびっくりしたっていうか、だから……」

「いや、まぁ、そう思ったんだろうけど、俺が探してたのは残念ながらあんたじゃない。内容は分からないが、他のヤツに相談してくれ」

 摩訶不思議な事を言って、さっさと去っていった……と思ったらげほげほ咳き込んでから他の机の椅子に座った。座ったというか、姿勢も保てない感じっぽく身体を机に預けてる。痰の絡んだすごく苦しそうな咳をしてるのを見て、あたしはそっと近くによった。一応背中を撫でてみる。

「大丈夫?」

「大丈夫だったら入院なんてしねぇよ」

「そりゃもっともです」

 荒っぽそうな台詞の割に彼の声はとても弱々しげだった。撫でた背中には必要な肉がまったく感じられず、モロに背骨と肩胛骨だったのにあたしは内心でかなりショックを受けた。なんだこりゃ。初めての感触。そこまで考えて、あたしはちょっと思う事があった。

「あなたまさか末期癌とか?」

「は? なにをいっ…」

 急に大きな声をあげたかと思ったら、また盛大に咳き込んだのでとりあえずあたしはまた背中を撫でた。うーん、シンプルに訊きすぎたかなとちょっと反省。

 しばらくしてから彼は呼吸を整えるように息を吸ったり吐いたりして、ちょっと何かを考えるように視線を彷徨わせてから、

「お前な、仮に俺が末期癌患者だったとしてもだ、そういうのってたぶんあんまりズケズケ言う事じゃないと思うぞ」

 まぁ俺が言うのもなんだが、とか最後の方にブツブツ言っていた。確かに出会い頭に言ってきた台詞を思えば、彼が言うのもほんとにナンだとあたしは思う。

「違うの?」

「違う。風邪」

「風邪? ただの風邪で入院?」

 風邪っていったら一般的には家でおとなしく寝てれば数日で治るものだし、なんか彼の雰囲気的にただの風邪には見えなかったので、あたしは目を丸くして言った。何よりあのスケルトンな感触はほんとに末期癌とかを思わせる感じだったし。

「風邪を馬鹿にすんなよな。こっちは色々大変なんだよ」

「そうなんだ。癌じゃないんだ」

「俺が癌だったら良かったのか?」

「そうじゃないけど……。癌ってどんななのかなって思って」

「うん?」

 話の先を促すように、彼は少し首を傾げた。さらりと茶色い髪の毛が揺れる。

 あたしはなんだか言葉を続けられずに手元の花に視線を落として、ピンクの花びらの輪郭を縁取るように指先でいじる。あたしはあんまり花には詳しくないから、お花屋さんで、お見舞いに持って行く花が欲しいんです、って言ったらこれを勧めてくれた。これが何で、あれが何で、と花の名前とか色々言ってくれたけど、申し訳ないけどあたしには全然意味不明だった。でもピンクの濃い色と薄い色と白い花がバランス良くあしらわれていて、花音痴のあたしにも可愛く見えたのでちょっと高かったけど奮発して買ったのだ。

「見舞い?」

「うん」

「じゃあこんなとこで油売ってていいのかよ?」

「……」

「……もしかして相手が癌とかだったりするのか?」

 緑の瞳を陰らせて、訊いてきた。

「まぁ、癌には癌なんだけど」

「癌には癌ってそういう言い方は……」

「お母さんなんだけどね。でもあたし、まだ一回もお見舞い行ってないの」

「行ってない?」

 あたしは顔を上げずにひたすら花だけを見つめていた。彼の話すトーンが静かで心地よかったってのもあるけど、相手の表情が見えない気安さで、話を続けた。彼が見知らぬ人であることも要因の一つだ。教会に行って懺悔する人の気持ちってこんな感じなのかな。

「一ヶ月前にお母さんが入院して、乳がんなんだけど、でもまだかなり初期だから手術して悪い所を取っちゃえばいいらしんだけど、でも一度もあたしは病室に行ってないの。お母さんが入院する何日か前にひどい喧嘩しちゃって、入院してもお見舞いなんか行かないからね! って言ったらお母さんも、来るんじゃないあんたの顔なんか見たくない! って。まぁ売り言葉に買い言葉みたいな感じでお互いヒートアップしちゃって。本心なんかじゃないって分かってるんだけど、あたしも頑固だからずっとほんとに来なかったの」

 次の言葉を言うのにちょっと躊躇う。誰にも言わなかった、言えなかった言葉だから、言ってしまったら何かが崩壊する気がして怖かったから。でもこれ以上抱えていられなかった。胸が飽和状態で苦しい。

「手術は簡単なものだって聞いてて、退院もわりとすぐだって聞いて、3週間もかからないはずだって言われてて、でもなぜか一ヶ月たった今でも入院してるの。メールで、「ちょっと延びたみたい」って一言だけ連絡があっただけだったから、お母さんどうなっちゃったんだろうってあたしすごく不安になって、だからほんとはずっとお母さんの所に行きたくて行きたくて。でも、日が経つにつれて、どんな顔して病室行ったらいいのか分からなくて……。たかがそんな理由で、癌になっちゃったお母さんの見舞いにも行けないあたしってほんとに親不孝者だ。お母さん、どうしちゃったんだろう」

  涙が目の中いっぱいに溜まって視界がぐにゃんて歪んだ。そして一粒零れたらもう止められなくなってあとからあとから流れた。

 ずっと誰にも言えなくて、一人で悶々と抱え込んでた想い。違う。崩壊するとかじゃない。言葉にしてしまったらあたしの不安が現実になっちゃう気がして言えなかったんだ。

 彼はずっと相槌だけを打っていて、あたしが泣き出しても態度を変えないでいて、それがなんだか、泣いてもいいんだよ、って言われてる気がしたのであたしは感情に流されるままに泣きながら話を進めた。

「癌ってどんななのかな。痛いのかな。お母さんが大変な事になってたらどうしよう」

 ずっと花を撫でながらひたすら涙を流し続けた。黒い塊に、心が押しつぶされて死にそうになる。

 最初はお風呂から上がってきたときに「何かしらこれ」とか言いながら見せてくれた小さなシコリだった。でもすぐ治るだろう、たいしたことはないだろうって特に病院とかには行かなかった。でも気がついたら大きくなってて、明らかにおかしいってことで病院行って、検査して調べたら乳がんだって分かった。

 聞いた時はびっくりしたけど、でも初期だったから手術してとっちゃえば大丈夫って程度らしいし入院も二週間前後でいいっていう話だからそんなに騒がなくてもいいかな、って思った。

 でも都合の悪い事に、入院する日が部活の陸上の夏休みの合宿の数日後だった。でもあたしはどうしても合宿に行きたかった。福田司っていう学年一つ上のセンパイで好きな人がいて、この合宿の時に告ろうかと思ってたから。3年だからもう来年はいないし、最後の夏合宿。あたしと同じでハードルをやる人なんだけど、色々教えてもらって好きになっちゃったありがちのパターン。決してあたしは速くはないけど、でも今まで続けてこられたのは間違いなく司センパイがいたから。短距離やってる昌子センパイがその夏合宿で告るって噂があるからなおさら。

 だけど本当の事はお母さんには言わなかった。お母さんはあたしに好きな人ができると変な囃し立てをしたがって、それが本当に嫌だったから好きな人が高校でできた事も言わなかったし、夏合宿にどうしても行きたい理由もはっきりとは言わなかった。

 お母さんはどこかガキっぽいところがあって、囃したてるのもそうだけど、今回の入院にもぜひ付き添って欲しいと言ってきかなかった。出張で帰って来られないお父さんの代わりだろうとは思ったが、でも簡単な手術でまず間違いなく治るって言ってたお母さんの入院より、あたしは合宿の方が大事だった。

 たいしたことないくせに! とその場の雰囲気で言ってしまったその台詞もひどいと冷静な今なら思える。でもあとはエスカレートするに任せて言い合った。

 結局あたしはその日のうちにその言い合いを後悔して、でもそのことも決して口には出さなかった。合宿に行く日もあたしとお母さんは一言も口を利かなかった。

 家を出たはいいが、やっぱり合宿に行く気にはなれなかったあたしは友達の安西沙織の家に転がり込んだ。急な泊まり込み宣言に多少不審な顔をしつつも「ま、ヒマだったからいいや」と沙織は承諾してくれた。沙織と他愛もない数日を過ごし、入院当日はタクシーに乗るお母さんを遠くから見ていた。

 お母さんが入院しちゃったら、もう家を出てる意味がなくなったので沙織にお礼を言って家に帰った。沙織は最後まで何も訊かなかった。そういうタイプだったからあたしは泊まり込みの相手先を彼女にしたのだ。

 そしてずっと今まであたしは悶々と過ごしていた。病院に行って、それで結局お母さんの病室に行けずに帰るってのを何度も繰り返して、延びるってメールがあった日からはほんとに何があったんだろうどうしたんだろう、ってすごく心配になって、今日こそ病室行こう、今日こそ、って思ってたのに行けなくて、日を追うにつれて病室のドアを開けるのがどんどん怖くなった。もしかしてドアを開けたら前とは変わり果てたお母さんが寝てるかもしれない、とか想像しちゃって。若いと進行も速いっていうから、もしかしたらそれが原因で退院延びたんじゃないかって怖くてたまらなくなって。

 今日は勢いつけるために花まで買ってきたのに、結局いつものように病室に入れないままでいる。

「なぁ、ちょっと、そっち……。ええっと、こういう向きで座ってくんない?」

「え?……こう?」

 疑問符を瞳に浮かべつつ、彼が指し示す向きに座り直す。なんだか泣きすぎて変なしゃっくりがではじめた。

「うん。そんな感じ」

 と、彼がぽんぽんと背中を叩いてくれた。これをやるためだったんだろうか? 服を通してすごくあったい手の温度が伝わってきて、なんだかほっとした。心の中もほんわりしてきて、涙が自然に止まった。言葉と一緒に何か悪いものが出て行ったかのように頭がスッキリしていた。泣いた後特有の心地よい疲労感に身を任せて、机に両腕を乗せて軽くもたれかかる。

「あたし、別に座る向きとか関係なくない?」

「大あり。さっきの向きだと俺の手があんたの背中に届かない」

 すごくきっぱりと言い切ったが、彼は現在、左肘を机について自分の顔を手のひらに乗せ、右手であたしの背中を叩いてる。さっきの位置だとあたしと彼がそれぞれ椅子に横座りしていて、ちょうど向かい合ってる感じだったのでたしかにそのままではあたしの背中に手は届かないだろう。今は彼の命令により、あたしが机に普通に向かう位置で座っている。でも彼がちょっと移動すれば届かなくはないと思うんだけど。

「自分は動かないんだ」

 自然に笑みがこぼれた。ここ一ヶ月の間で、一番普通に笑えた気がする。

「まぁ、ちょっと訳があって」

「どんな訳よ」

 すっかり泣き止んだあたしがいたずらっぽくじっと見つめると、彼は少し困ったように視線を宙に彷徨わせた。あたしの背中を叩いてた手も止まった。気のせいか、彼の緑の瞳が少しうるんでる。

 そして、ゆっくりと噛んで含めるように言ってきた。

「花、見たら喜ぶ」

「これ?」

 店員さんにすすめられるままに買っただけのものなのに、なんだかそう言われると大事なもののように思えてくる。きゅっと花束を両手でしっかりと抱え直した。

 と、彼はカサリと静かな音を立てて机に突っ伏した。

「……悪い、ちょっと限界っぽい」

「え?」

「一応俺病人なんです。入院患者なので」

 冗談ぽく言っていたが、息づかいはかなり苦しそうであたしはびっくりした。

「病人って風邪でしょ?」

 風邪を馬鹿にしちゃいけない、と一番初めに言った台詞をまた言って激しく咳き込んだ。その様子は、あきらかに一般的な風邪の様子から遠ざかっていた。スケルトンな背中の感触を思い出す。そっと額に手を当ててみたら汗ばんでいて、そして尋常じゃないくらい熱かった。

 ほんとにこの人風邪なの? なんか悪い病気なんじゃ? っていうか限界ってことはもっと前から具合悪かったの? 我慢してたの? え? いつから? あたしの背中叩いてくれたときも具合悪くて動けなかったから動かなかったの? あったかい手って熱があったからあったかかったの?

 色んな事が頭を駆け巡って思考回路が焦げ付いたみたいになってなんだか違う意味で泣きそうだった。まさにパニック状態。

 と、彼が身体を起こそうとして、失敗した。力が入らない感じ。

「いや、起きなくていいよ。っていうかさ、看護婦さん呼ぶ?」

 ごめん、とか小さな声で言うから、あたしは更に泣きそうになった。

 周りを見渡して、看護婦さんみたいな人がいたから慌てて呼んだ。

 ピンクのナース服を着た女性は彼を見るなり、ポニーテールを揺らして目を瞠った。

「あっちゃんじゃない。なんでこんな所に……! 歩ける? 無理か。うわぁ。絶対怒られるよ~! 動いたら駄目って言われてたじゃない! ていうかあたしが怒られるのかな~。もう、せっかく熱下がったのにまた上がっちゃったじゃない」

 すぐ戻ってくるからちょっと待っててね、と言って看護婦さんは去っていった。

 なんだかすごく素な反応をする看護婦さんであたしは面食らっていた。

「動いたら駄目って言われてたの? もしかして、あたしなんかに付き合ってたから具合悪くなっちゃったの?」

 どうしよう。あたしのせい? 引き留めたから?

 息も荒く、大きく肩を上下させてるその様は今にも死んじゃいそうな雰囲気だった。少年――あっちゃんはゆっくりとした動作で、花を掴むあたしの手に彼の手を乗せた。彼の指は熱く、それ以上に枝のように細くて、少しでも力を入れたら折れてしまいそうだった。その後で唇を軽く開けたので何か言うのかと待ってたら、何も言わずに軽くその手に力を込めて今度はそれを宙に浮かせた。今にも落ちそうなあぶなっかしい動き方に、あたしは瞬きもできずにじっと見つめた。そして彼は同じスピードでゆっくりと指を動かし……サムズアップ……?

「……何を…してんの」

 と言ってあたしは彼の右手を取って膝元に下ろした。笑って欲しかったのかと思ったから笑みの形に唇を動かそうとしたけど、ひきつるだけだった。ちょっとふざけたジェスチャーが、逆に痛々しくてたまらなかったから。

 すぐに数人の看護婦さんがストレッチャーを持ってやってきて、手際良く彼を乗せた。それを遠巻きに見ていたあたしに、看護婦さんの一人が近づいてきた。

「あなた、泉さんのお嬢さんでしょう?」

「え…? はい」

「お母さんに会うんでしょ? 一緒に行きましょう。花も綺麗で、お母さん喜ぶわよ」

「……はい」

 なんだかすごく自然な流れでお母さんに会う事になったようだったが、もう色々と泣いたりパニクったりした後だからあたしの心はとても平静だった。お母さんに会った時になんて言うのかなんて考えてなかったけど、それでも普通だった。一ヶ月間、あんなに心が乱れてたのが不思議なくらい。

『花、見たら喜ぶ』

 そう。この甘い香りの花を見せに行こう。

 色々なことを考えて、考えすぎていて硬く絡まってしまった何かの糸が、サラリと解けたようなすっきりとした開放感を抱いて、お母さんの病室のドアが開くの見つめていた。

「泉さん。お嬢さんがいらっしゃいましたよ」

 看護婦さんのあとについて病室に入ったら、読んでいたらしい文庫本を据え付けられた小さなテーブルに置いたところだった。

 お母さんは少しだけびっくりした顔をしていたがすぐに普段と変わらない表情に戻った。

 色々な想像をして身構えていたが、お母さんは全然変わってなかった。身体中の力が抜けて、座り込みそうになった。

「じゃあごゆっくり」

 と言って看護婦さんは部屋からでるとパタンとドアを閉じた。

 数秒、時間を切り取られたような変な間の後で、彼の台詞を思い出した。

「これ……」

 小さな花束を差し出して、お母さんのベッドの所にいった。

 きちんと洗濯してある清潔な病衣の匂いを花束の甘い匂いがふんわりと絡め取ってお母さんにうつった気がした。

「あら、ありがとう」

 花束を受け取ったお母さんは、目を閉じて花束の匂いを嗅ぐと嬉しそうに微笑んだ。

「花なんてよく選べたわね」

「お……お店の人に選んでもらったの」

 恥ずかしかったので、少し尻すぼみな言い方になる。

「ちょっとこっち来なさい」

 招かれるままに、お母さんのベッドに直接座った。お母さんにこんなに近づいたのは何年ぶりだろう。シミが何カ所もあって、目の所にはいくつか皺も刻まれていた。普段はまったく気づかなかった。きっとファンデーションなんかで隠していたんだろう。こんなに老けてた事に今になって気がついたあたしは、急にお母さんが遠くに行ってしまったような気がしてすごく不安になった。

「これはバラで、こっちはアルストロメリア。ここにあるのはレザーファン。あとこれはなんだと思う?」

 そう言って指さしたのは、全体を丸く縁取るように配置されてる白く小さな花。他の花に比べてとても細い枝なのにたくさんの花を咲かせている。

「……わかんない」

「あら。分からないの? あんた昔好きだって言ってたじゃない」

「え?」

「かすみ草よ」

 言われて、もう一度見る。細い枝に白く小さな花がぱらぱらっと咲いてるのはたしかにかすみ草の特徴だったような。

「あ、言われればそんな気もする」

「なによいい加減ね」

「あたし、好きだって言ったっけ?」

「言ったわよ。昔さんざん買わされたんだから」

 昔を懐かしむような遠い目をする。自分でも覚えてないほどの昔のあたしが、お母さんの目にはきっと見えてるのが不思議な気分だった。

「でもなんでそんなに花の名前知ってるの? お母さん花詳しかったっけ?」

「詳しいっていうか、好きだもの。植物」

「そうだっけ?」

「家にあるのは花をつけないいわゆる観葉植物だけだけどね。でも花もすごく好きよ」

「家にあったっけ?」

 家の中を思い浮かべるが、それらしいものは思いつかない。

「失礼ね。茶の間の所とか、ベランダにもあるわよ。あんたは帰ったらすぐに寝ちゃうから気づいてないのね。休みの日も家にはいないし」

 ま、高校生だし仕方ないんだけどね、と呟くように言う。

 退院が延びた事については、手術後ちょっと微熱が下がらなかったからだったようだ。でもあと一週間くらいで退院できるだろうと言われてるらしい。

「私も歳とったわ」

 と笑っていた。その笑顔は昔の記憶と寸分変わってなかった。

 1時間ほどで病室を出るとまた病院特有の消毒薬の匂いが鼻をつんと刺激したので思わず眉をひそめた。知らない間……ちょっとの間に、あの花の甘い匂いに鼻が慣れてしまっていたようだった。

 あたしは家の中の風景を思い出しながら家路についた。家に帰ったら、観葉植物とやらがどんな風に部屋を飾ってるのか見てみよう。


 ☆ ☆


 その後、お母さんの経過は良好で数日後に無事に退院することになった。退院する日、荷物を整理していたら看護婦さんに呼ばれた。

「もし良かったらでいいんだけど、あっちゃんが会いたいって言ってるから彼の病室まで行ってもらえないかな?」

 手術のあった日から毎日病院に来てはいたが、彼とはとうとうあれから一度も会わなかった。かなり気になってはいたけど、でも一回会っただけの人の事を看護婦さんに聞いてみたりする度胸はなかった。

 病室に入ると、彼はベッドから身体を起こそうとしてるところだった。ちょっと苦労してるのを見てあたしは焦ったが、大丈夫、と彼が言うのでそのまま見届けた。ほんとに風邪? という疑問はずっとあったが、今の彼の感じを見てもやっぱりそれは変わらない。

「ええっと、何か御用でしょうか?」

「御用ってほどのもんじゃないけどさ。悪いね。わざわざ来てもらっちゃって」

「それは全然いいんだけど」

 点滴中みたいだったが、なんとなく視線を腕まで移動させた瞬間、何気ない動作で彼は腕を布団の中に入れた。あたしの見間違いでなければ、点滴の針が刺さってる辺り一帯の皮膚が変な色になっててドキっとした。

 見ちゃいけないものを見てしまったかのような罪悪感があったが、それを彼に気づかせないように装って彼にゆっくりと近づいた。椅子があったのでそれに座った。

「……風邪、調子はどう?」

「まぁまぁかな」

 言った彼の顔色は決していいとは思えなかったが、でもこの間のような大変な感じでもない。

「退院とか、は?」

「明日とか明後日とかには出て行きたいと思ってるけどね」

「思ってる?」

「もともとさ、一日だけのつもりだったんだよね。入院期間。つーか、入院なんて絶対にしないぞ、と思ってたんだけど、風邪でずっと一週間くらい高熱がでてて、訳あって夜もあんまり眠れなくて、さすがにちょっとしんどくなってまずいかな、って思って。それで仕方ないから入院することにしたんだけど」

 そこまで喋って、少し疲れたように息をついた。布団の中に入れてる腕をもぞもぞ動かして、それから更に続けた。

「入院したら一日で熱も下がってさ。まぁ絶対安静と言われて絶対に病室から出るなって言われてたんだけど、なんかここにいたくなくて出て行っちゃって、ふらふら歩いてて。それであんたを見つけたんだ」

 会って最初の一言をふと思い出す。

「『助けて欲しいのはお前か?』とか言ってたよね? あれってなんのことだったの?」

「実際探してた相手はあんたじゃなかったけど、間違ってもいなかったみたいだな」

「どういう意味?」

「花、喜ばれたでしょ? ……ちょっとごめん、やっぱ横になっていい?」

 言っている間にみるみる顔が青ざめていったので、あたしは慌てて立ち上がって彼の身体を慎重に横にした。やっぱりスケルトンな感触。腕も身体もものすごく細い。この入院でお母さんの身体に触れたとき、骨を感じないことにむしろびっくりしたくらいだった。でもその後で、これが普通なのだと考え直した。それくらい、彼の痩せかたはひどかった。

「こうやって横になって、点滴とか打ってて、薬も飲んでとかってやってると、すっごいラクになるんだよな。俺、しょっちゅう風邪ひいたりしてて……まぁ風邪というには……なんていうか、あんまりシャレにならない感じで。申し訳ないっつーか。びっくりしたろ? 悪かった。……いや、そんな事が言いたいんじゃなくて……。でも一言謝りたかったのもほんとなんだけど」

 なんか混乱してる言い方だった。

「別に謝らなくてもいいよ? 病人だから仕方ないじゃない」

「でも普通はこうはならないだろ。風邪では」

「まぁそうだけど」

 言って、彼は細い腕を布団から出して両手で顔全体を覆う。心臓が大きく鼓動するのを身体中で感じた。まさか泣いてたりしないよね?

「謝りたかったのもあるけど、あんたの気持ち聞いてて、羨ましいと思った自分がすごく嫌でたまらなかった」

「気持ち? 羨ましいって?」

「結構落ち込んでたっていうか凹んでたんだ。入院したくなくて、でもしなきゃヤバイって自分で分かっちゃって仕方なく入院して。そしたら身体がラクになったんだ」

「いいことじゃない。ラクになったのは」

「ラクになるのは怖いんだ。入院して、ラクになって、そしたら一生ここから出られなくなるんじゃないかって思ったらほんとに怖くて」

 彼の言葉の真意が読めない。顔を隠したままだから、どんな表情をしてるか分からないけど、泣いてる感じでもないので少しだけ安心した。

「良くなったら退院できるんでしょ?」

「退院して、また身体がきつくなったら入院して、ってなったら、もう退院するのが嫌になるんじゃないかって思うのが怖い。俺はちょっと普通じゃあり得ないくらい身体が弱いので。弱いっつーか、壊れてるっつーか。おかしいっつーか。ほぼ常に病人みたいな」

「そうなんだ……」

「学校もほとんど行けなくてさ。でもあんたの話聞いてたら、学校のイメージが飛び込んできて。ハードル? 楽しそうで。それを羨ましいって思う自分がどうしようもなく嫌だった。あんたは泣いてたのに、俺は羨ましいと思ったんだ」

 なんとなく話が見えてきた。あたしは泣いて話していたけどでも彼は羨ましく思っていて、それをずっと後悔してたんだ。そう分析しながら、あたしはちょっと別の事も考えていた。

「なんか変な話しちゃったな。悪い」

 彼は顔から手を離して、こっちを見て少し困ったように笑った。

「やっぱずっと横になってると、思考が弱気になるんだよな。だからこんなところにはいたくないんだ。……でもさ、無事に和解できたみたいでよかったじゃん」

「うん。きっと、あなたにあったおかげだよ。あたしの話をどう聞いてようが、あたしはスッキリしたもん。それに、あなたがあんなになっちゃったおかげで却ってそれが良かった的な感じでお母さんに会えたの。だから、ありがとう」

「……すごくフクザツなんだけどな。それって」

「それと、花も……」

 と、ドアをノックする音が聞こえた。

 後ろを振り返った時には、長身のお医者さんが入ってきていた。

「はい、話が無事に終わったようなので、これで終了してね」

「聞いてたのかよ。趣味悪いな」

「聞いてるしかないでしょ。話にわりいったら悪いし、かといって用があるから立ち去るわけにもいかないし。そもそも、2日とか3日で終わりのはずの入院がもう一週間も経っちゃってるじゃない。僕がね、どれほど院長に怒られたか知ってる? 今さっきも呼び出されて説教喰らって、どういうことだって。罰金代わりって来週から一週間外来担当だってさ。まったく冗談じゃないよ」

「まぁ頑張ってくださいな。ユウシュウな医者なんでしょ?」

「来週から一週間は絶対に体調崩さないでよ? じゃないと退院させられないから。ここの外来以外にあっちゃんの担当もやってたら、こっちの身が保たないよ」

「たいっちゃんはタフなだけがとりえなんだから頑張れ」

 なんだか二人で息のあったやり取りをしてるのを見て、あたしは呆然としてしまった。このお医者さんは誰だろう?

 あたしの顔を見て、長身のお医者さんはにっこりと笑った。

「お母さんの退院おめでとうございます」

「あっ、いえいえ。お世話になりました」

「お世話になりましたのはこちらですよ。えっと、泉響子ちゃんだよね。呼び出してしまってすいませんでした。あっちゃんの話が終わったみたいだから申し訳ないけど速やかに退室してもらっていいかな?」

「そういう言い方だと彼女に対してほんとに申し訳なさすぎるだろうが。言葉を選べよ」

「すみませんねぇ。選んでる余裕がないんです、誰かさんのせいで。院長の説教がどんだけ怖かったか教えてあげられないのが実に残念だ。ほんとにちゃんと安静にして寝てれば絶対間違いなく良くなるはずなのに、何日たってもなぜか熱があがったり下がったりする恐怖を実地で味わっちゃったからね。絶対にまた出歩くに違いないとナースに見張りを厳重にお願いしたら、病室を出歩く気配どころかほんとにちゃんとベッドの住人になってて、それでも調子がよくならない。あげくの果てに、一昨日の血液検査とか数値がひどいことになっててほんとに僕はどれだけ怖い思いをしたか分かる? 僕はこう見えてもほんとにちゃんと優秀なドクターのはずなのに、これだけ医療設備も整ってて、絶対によくなっていくはずのものがまったくもってよくなる気配も感じられない。これは一種の怪談か、そうでなけりゃついにあっちゃんご臨終の瞬間かと本気で悩んだけどね。でもなんか違うなぁ、とずっと頭を抱えてたんだよ。こういうことならさっさと言って欲しかったんだけどね。僕としては。精神的なトラブルがすぐに身体にでるクセはほんとにやめて欲しい」

「悪い、今のって聞いてて欲しい内容だった? だるかったから聞き流したんだけど」

「……いいよ別に。ただの愚痴だから」

 にっこり爽やかに笑って言った……んだけど目が全然笑ってないので怖いです。

「響子ちゃん、帰るんでしょ? 今日は本当にありがとう。お母さんを随分待たせちゃってるよね。もう行った方がいいよ」

「あ、はい。じゃ、失礼します。えっと、お大事にね」

 最後の台詞をあっちゃんに向けて言うと、彼は緑色の瞳を細めて点滴してる方とは逆の腕をベッドから出した。サムズアップ。今度は前よりもしっかりと手が持ち上がってたのが嬉しくて、あたしも同じリアクションを返した。

 


 ☆ ☆


 後日談です。

 お母さんと車に乗る寸前に、「ちょっと待って!」という言葉を聞いたので振り向くと、何かを翻して歩く長身のシルエットが近づいてきた。あたしはちょっと近視入ってるので目をすがめて見てたら、あのお医者さんだった。翻してたのは白衣だったみたい。間に合って良かった、という言葉の次に続けてきたのは、またあたしを軽いパニックに陥らせる台詞だった。

「福田司って人と会ったらいいよ、ってあっちゃんが言ってたからそれを伝えたくて。告白しちゃいな、ってさ」

 司センパイ? 会うって? 告白? っていうかどうしてこの人たちがその名前を知ってるの? などなど色々な疑問が次から次へと襲ってきてあたしが口をぱくぱくさせてると、


「きっとうまくいくから、とも言ってたから」


 その瞬間、あたしの思考は停止した。すべての感覚が凍り付いた。何も見えなくなって聞こえなくなって、感じなくなって。感覚と一緒にあたしを取り巻く世界もきっと凍り付いた。

 やがて、ふんわりとした甘い香りが鼻孔をくすぐったのをきっかけに世界が動き始めた。どうしたの? と花を持ったお母さんが近づいてきたのが視界におさまる。ピンクと白の花。そして思い出す。あっちゃんが言った事。


『花、見たら喜ぶ』


 そのあとで甦ったのは、お母さんが花を語っている姿。その二つの出来事があたしの頭の中の何かにすっぽりはまった。そしてさっき感じた疑問。あたしはハードルの話なんて彼には言ってない(・・・・・・・・)。心の中で回想しただけ。そしてそもそも最初に会った時のあの台詞。

 ああ、そっか。

 きっと大丈夫。きっとうまくいく。

 そんな気がしてきた。

 花を見たら喜ぶのは、どこのお母さんでも同じなのかもしれない。ハードルの話もあたしの誤解かもしれない。あっちゃんのあの台詞は、そんな神がかり的なものじゃなくて、普通に考えても喜ぶだろうと思われるから言ったのかもしれない。……まぁそれにしてもセンパイの名前とかうまくいくとかってのに至っては偶然とか誤解とかそういう範疇じゃない気もするけど。

 でもそんな事はどうでもいい。いいことにする。

 事実として、その言葉に背中を押されてお母さんと仲直りできたんだ。

 だから今度はこの言葉があたしの背中を押すままに、あたしは一歩踏み出そう。

 長身のお医者さんがサムズアップをしてきたから、あたしは精一杯の笑顔で同じリアクションを返した。

 大丈夫。きっとうまくいく。

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