ある日の部室
「はあっ……はあっ……」
ある日の晩のこと、男子生徒が何者かに追いかけられていた。走っても走っても、その距離は広がることも縮まることもない。大きな体躯に見合わずとも懸命に走り続ける彼の姿を、そいつは嘲笑うかのように揶揄いながら追い続ける。
「人間のその怯えた顔……たまらねえなあ……」
そう言って彼との距離を少しずつ詰めていく。彼は振り向きざまに思わず泥濘にはまって転んでしまう。彼は立ち上がろうとするも目の前は行き止まりであることに気づき、膝から崩れ落ちた。
そいつは動けなくなった彼を認めると、怪しげな笑みを浮かべながら、一歩一歩ゆっくり近づいていく。ついに彼のもとに辿り着くと、彼の涙で崩れた表情を見ておもしろがっていた。
「運が悪かったな人間よ。貴様はもう生きて帰れない。俺様の血肉になるのだ……」
高笑いをした後、少年の顎をクイッと上げてまじまじと見つめる。落としたスマホのライトが辛うじてそいつの顔をぼんやりと照らす。
「ひっ、化け物……!」
その化け物は嘗め回すように少年を見る。少年は目を逸らしたかった。でも無理だった。顎を掴む手がまさに獣のそれで、下手に動けば殺されるかもしれない。恐怖に怯えながらもじっと目を見つめるしかなかった。
「あれ……、なんだろ……この気持ち……」
心の中を見透かされたような気がした少年だったが、次第に見つめれば見つめるほど心地よさを覚えていた。その様子を見て、かの化け物は急に笑い出す。
「貴様、俺様の力を求めているようだな」
「っ……! あっちに行け!」
彼はハッとすると、精いっぱいの声を振り絞って化け物を払いのけようとする。しかしそれより先にスマホを投げ飛ばされてしまい、視界を完全に奪われてしまった。化け物は彼が慌てふためくその隙をつき、彼に馬乗りになると、彼の首元にカプッと軽く噛みついた。
「気が変わった。貴様を眷属にしてやる」
「嫌だよ、放してよ!」
少年は必死に抵抗し痛みに襲われる中暴れまくる。しかし抵抗するも虚しい結果に終わり、身体に力を入れることができなくなった。途端に何かが少年の身体を貫いた。
「痛い……痛い……。助けて……」
少年は泣きながら叫ぶも、その声が誰かの耳に届くことはなかった。その化け物は手を緩めるどころか、何か得体の知れないものをより深く身体にねじ込んでいく。深くなればなるほど、その痛みは強くなる。
「大人しくしろ!」
それが完全に入りきると、溢れんばかりの妖力を彼の身体に注ぎこんでいく。彼は悲痛な叫びと喚き声をあげたものの、だんだんその感覚が気持ちよく感じる。そして完全に注入が完了すると、ついに彼は動かなくなってしまった。
「相応しい身体だ……。早く我が物にしなくては」
そして化け物は少年にダイブして、彼の身体に溶けていくように乗り移った。やがてゆっくり起き上がる。
「ここまで相性がいいとはな……、じつに愉快だ」
乗り移った彼の身体を隅々まで確認して、思わず悦びを噛み締めた。そして、痕跡を消した後、その少年としてその場から立ち去る。しかし数歩歩いたところで、声が聞こえてくる。
「このままじゃ嫌だ……」
言葉とともにその身体が二つに分裂し始める。そして本来の少年が、少年姿の化け物の目の前に現れた。
「おもしろい……。貴様、俺様の力が欲しいか?」
「もっと強くなりたい……。力が欲しい……です……」
少年は涙ながらにそう答えた。その言葉を待ってたかの如く、その化け物は不敵な笑みを浮かべた。
「なら良かろう。わが眷属としてわが身に仕えるがいい」
「……かしこまりました。ご主人様……」
その少年は化け物の前に跪き、そいつは優しく彼を抱き寄せた。
*
「と、僕が聞いた話はここまで……」
――ドカン!!
「きゃああああ!」
雷鳴とともに叫び出す生徒たち。この日の科学部では、なんと怪談大会が行われていたのだった。
「りっ、里太郎。なんでそんな怪談話もってくんだよ!」
「ごめんごめん。カーテンで部屋を真っ暗にして、蝋燭一本でやるとか思わなかったから……。つい、ね」
直は少し涙目になって、里太郎に猛抗議をする。しかし彼は笑いながら、冗談だと言って軽く謝る。
この日の活動は、身の回りにある怪談話を科学的に考えようという名目で行っていた。しかし部員たちが持ってきた話は、聞いたことのあるものばかりでつまらなかったのだ。そこで生徒会長の里太郎を誘って、今に至るということだ。
「ゲストスピーカーが一番怖い話ってのも、なんか癪だよな。雷まで連れて来るし」
翔平は腕を組みながら悔しそうに座っている。 ふと部屋の隅を見ると、豪太が足を振るわせながら部屋の隅に身を寄せていた。
「ゆっ、幽霊なんていないよ……。そんな非科学的なものなんて、信じないから……。自分の目で見たものじゃない限り……」
「かっ、科学部部長が弱気になって、顔面蒼白になっちゃだめだよ」
健が豪太に茶々を入れる。豪太は声のする方を向くと、予想だにしない光景を見て思わずツッコんだ。
「って山井くん。そう言ってる割に生徒会長にべったりじゃないか! 人のこと言えないだろ! まさか……これが俗にいうBLだと」
豪太は、まるで衝撃の事実に触れてしまったと言わんばかりに、思わず口に手を触れる。しかし健はすぐさま言い返す。
「そんなことないよ! 里太郎くんのもふもふした身体は、恐怖を和らげて安心感を生む効果が――、痛てっ!」
「お前、セクハラで訴えられても知らないからな……」
熱弁する健の頭に、直は一発お見舞いした。そして里太郎は苦笑いする中、直はゆっくりと健を引き剥がそうとする。
――ドカン‼︎
「ひいいい!」
怪談からの落雷ダブルコンボを喰らった健は、思わず再び里太郎にしがみつく。里太郎は、苦笑いするも健の肩をよしよしと叩いてやる。
「だらしがありませんね。男性陣は」
そんな中、心寧は優雅に紅茶を飲み干していた。長い足を組んで紅茶を飲む、そのエレガントさに男性陣は思わず見惚れていた。そんなことも露知らず、心寧は話を続けた。
「結城くんも話がお上手ですけれど、もし本当の話なら今ごろ大騒ぎのはずですよ。フィクションです。フィクション」
心寧はそう言って気丈に振る舞いながらも、なぜかソーサーとカップを一緒に持ってしまっていた。体の微かな震えのためにカタカタと音を鳴らしてしまう。その横でなごみは、ポットの中身が明らかに減っていることに気づいた。
「心寧ちゃん、なんか今日紅茶を飲むペース早くない?」
「そっ、そんなことは……! ないですのよ」
心寧は動揺するあまりティーカップを落として割ってしまう。慌てふためく心寧を見て心配になったなごみは、彼女のもとへ駆け寄った。
「今、掃除用具持って来るから、そのままにしてて」
「すみません、なごみさん……」
そしてなごみは準備室へ駆けこんだ。その一方で、翔平は未だ隅にいる豪太にあることを耳打ちした。すると駒井は目に輝きを取り戻して、カーテンを思い切り開ける。「UFO?! 今日こそは捕まえなきゃ! その中に宇宙人とかUMAとか――!」
「翔平……」
直は、豪太の豹変ぶりに若干引きながらも、呆れた顔で翔平に話しかける。
「コマちゃんは、こうであってもらわないと困る」
混沌極まりない科学部の状況がおもしろかったのか、里太郎が笑いながら直に話しかけた。
「偶にはこういうのも良いね。科学部らしくない科学部ってのもおもしろいよ」
「カオスすぎて頭抱えるけどな……。でも、」
直は少し柔らかい笑顔で言った。
「里太郎の楽しそうな顔、久しぶりに見た気がする」
里太郎はその言葉に少しキョトンとしていた。
「そうかな? 自分はいつも通りだと思うけど」
「疲れてるっていうか、何かに追われてるっていうか……。なんか自分じゃないというか?」
里太郎は首を傾げながらも、直にこう返した。
「だとしたらみんなのお陰なのかな。科学部が廃部の危機から逃れたからね」
「科学部って廃部の危機だったの?」
直の問いに、里太郎はゆっくりと頷いた。
「僕も生徒会で辞めちゃったし。先輩たちも受験でいなくなったし。こないだまでは駒井ちゃんが一人で頑張ってたんだよね」
突如、里太郎のスマホが鳴った。彼は念のためタイマー設定をしており、時刻は生徒会室に戻らなければならない時間を示していた。
「そんじゃ、そろそろ戻るわ」
「じゃーねー」
こうして、里太郎は化学実験室から生徒会室へ帰っていくのであった。
*
「貴様、余所者と軽々しく喋るんじゃないぞ」
天井から何者かが里太郎に話しかける。そいつの姿をよく見ると、化け狸の亮や文とよく似た黒い狸だった。そしてそいつは里太郎の肩に降り立つ。
「俺様のことを人間風情に話すとは。しかも大げさに脚色しおって」
「まあまあ、お陰で気分転換にもなりましたし……。あなたの姿は普通の人間には見えませんし、実害はないでしょう」
「まあいい」
黒い狸はフンと鼻を鳴らしながら、そっぽを向く。里太郎はそいつを撫でながらこう語りかけた。
「あの人たちなら大丈夫ですよ。あの場で確信しましたから。僕らと同じだって」




