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プロローグ:境界の呼吸

匿名流動型犯罪対策課——

通称「トクリュウ班」の執務室は、

常に

無機質な電子音と

紙の擦れる音に満ちている。


蛍光灯の青白い光の下、

紀藤(きとう)吾六(ごろく)は、

パイプ椅子に深く腰を掛け、

デスクの上に散らばった

相関図を凝視していた。


ホワイトボードに貼られた

写真の数々。


秘匿性の高い暗号化アプリ、

闇バイトで

使い捨てにされる若者たち、

末端の指示役、

そして資金洗浄のルート。


ツルを辿(たど)っていっても、

いつも

指先が届く手前で

ぷつりと切られる。


逮捕状を請求するための

証拠も、

検察を突っぱねるだけの

「決定的な一線」も、

すべて

影のように霧散していた。


末端が捕まっても、

指示役は

アカウントを消して消える。


トカゲの尻尾どころか、

爪の先すら残さない。


だが、その

「綺麗すぎる切れ目」こそが、

何よりの雄弁な証拠だった。


首都圏の闇を蠢(うごめ)く巨大組織、

麒麟会。


その幹部組員・藤原(ふじわら)龍治(りゅうじ)。


裏で糸を引いているのは、

間違いなく藤原だ。


紀藤の直感が、

あるいは

彼の中に深く

根を下ろしている

「何か」が、

そう断じていた。


先週、

闇バイトの

強盗に押し入られ、

無抵抗のまま

鈍器で頭を殴打された

老夫婦の顔が

脳裏をよぎる。


夫人は即死、

夫は未だ意識不明の重体。


現場に残されていたのは、

使い捨てにされた

少年たちの無知と

罪悪感の欠如だけだった。


「猶予はない」


紀藤は

掠(かす)れた声で呟き、

短く息を吐いた。


藤原を

社会から抹消したところで、

麒麟会はまた別の「頭」を

挿(さ)すだろう。


トクリュウという仕組み

そのものが

消えるわけではない。


だが、

野放しにすれば

明日にもまた、

別の日常が踏みにじられる。


次の犠牲者を出すわけには

いかなかった。


組織への牽制(けんせい)として、

そして何より、

過ちを犯した者への

「逃げ場のない清算」として。


紀藤の胸の奥で、

静かに、しかし

冷酷なまでの熱量を帯びて

「鬼」が目を覚ます。


法が裁けぬなら、理が裁く。


そこに

同情や猶予という甘さは

微塵(みじん)も存在しなかった。


*


雨の降る木曜の午後、

麒麟会の傘下事務所が入る

雑居ビルの前に、

一台の大型ダンプカーが

過積載の重音を響かせて

現れた。


信号が青に変わると同時、

ダンプカーは

アクセルを極限まで踏み込み、

ハンドルを左に切る。


10トンを超える鉄の塊が、

歩道を乗り上げて

ビルの1階事務所へと

激突した。


ガラスの砕(くだ)ける轟音、

鉄骨がひしゃげる悲鳴、

叩きつけられる衝撃波。


折悪しく——あるいは、

紀藤が手配した

「流れ」の通りに——

事務所の窓際に座り、

パイプ椅子で

煙草をふかしていた

藤原龍治は、

鉄塊とコンクリートの壁に

挟まれる格好となった。


通報を受けて

駆けつけた救急隊の隙を突き、

現場の混乱に紛れて

観察を続けていた紀藤は、

藤原が

極限の重体に陥(おち)ったことを

確認した。


胸部は陥没し、大量の吐血。


救急救命センターへの

搬送車に

運び込まれる間もなく、

命の灯火が消えかけている。


これでいい。


地獄への一本道だ。


人間としての決着はついた。


紀藤は

静かに病院のICU

(集中治療室)の廊下まで

追尾した。


重厚なガラス越しに見える

集中治療室の中。


人工呼吸器の警告音が

不規則に鳴り響き、

心電図の波形は

ほとんど平坦に近い

緩やかな山を描いている。


医師や看護師たちが

慌ただしく

立ち回っているが、

その誰もが

「もってあと数分」

であることを察していた。


紀藤は壁に背を預け、

腕を組んで

その死を

看取(みと)ろうとしていた。


厳格なる終焉(しゅうえん)。


それが、

藤原という男に科された

当然の報いだった。


だが、その時だった。


ICUの重い自動ドアが開き、

一人の男が

静歩で入ってきた。


白衣を無造作に羽織り、

首からステトスコープを

下げた男。


ネームプレートには

「村上」と刻まれている。


担当医たちの制止を

片手で軽やかに制すると、

村上は胸のポケットから、

一般的な医療用とは思えない

金属製の小瓶と

無標識のシリンジを

取り出した。


迷いのない手つき。


村上は薬液を吸い上げると、

藤原の首筋の静脈へ、

直接その針を刺し込んだ。


——ピィィィ、

と

途切れかけていた

心電図の音が、

一瞬の沈黙を迎える。


次の瞬間。


ガタリ、と

藤原の身体が

大きく跳ね上がった。


平坦だった緑の光線が、

あり得ないほどの振り幅で

鋭い波形を描き始める。


血圧計の数値が

一気に跳ね上がり、

死色に染まっていた

藤原の顔面に、

生々しい血色が

急速に戻っていく。


陥没していた肺が

荒々しく酸素を貪(むさぼ)り始め、

死に体だった男の眼球が、

カッと見開かれた。


「な……!」


ガラスの向こうの光景に、

周囲の救急医たちが

言葉を失って

呆然と立ち尽くしている。


蘇生。


いや、

そんな生ぬるい言葉では

説明がつかない。


死の淵を通り越し、

すでに

境界線を踏み越えていた魂が、

力ずくで

現世へと

引きずり戻されたのだ。


紀藤は目を細めた。


組んだ腕の指先が、

皮のジャケットの上から

硬く強張る。


「アイツ、余計なことを……」


舌打ちが、

無人の廊下に低く響いた。


ICUの中で、

村上は

ゆっくりと腰を折り、

正気を戻しつつも

茫然自失としている

藤原の耳元に顔を近づけた。


白衣の男の薄い唇が、

静かに、滑らかに動く。


『お ま え は

  ま だ

  や ら ね ば な ら ぬ

 事 が あ る だ ろ う』


アクリルガラス越し、

音の遮断された世界。


だが、

紀藤の目は

村上の唇の動きを

一文字も漏らさず

解読していた。


読唇(どくしん)術——

刑事としての技術が、

その狂気に満ちた言葉を

正確に脳内に再現する。


言葉を終えた村上は、

ふと

満足気な笑みを浮かべると、

視線を巡らせた。


そして、

ガラスを隔てた

廊下の闇に立つ紀藤と、

正面から視線を交錯させた。


村上の瞳には、

目の前の患者が

助かったことへの安堵も、

医者としての

使命感も存在しなかった。


あるのは、ただ……。



「あの医者……なんだ?」


紀藤の胸の奥で、

静かに眠っていた「鬼」が、

鋭く不快な唸り声を上げた。


地獄へ

落としたはずの罪人を、

拾い上げる存在。


静寂な病院の廊下で、

法の手の届かない領域に棲(す)む

二つの異物が、

初めてお互いの気配を

察知した。


厳格なる裁きを

執行する鬼と、

己の裁量で生死を決める死神。


言葉なき視線の交差が、

これから始まる

不条理な惨劇の開幕を

告げていた。

明日 18:40 に投稿します。

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