【File.02】人喰い宿の帳簿(2/5)
「あら、本当に美味しいシチューね。体が……ポカポカして……」
女旅人の言葉が、ふつりと途切れる。
テーブルに突っ伏した彼女の手から、木製のスプーンがカランと床に転がり落ちた。
「……ふふっ。よく効く痺れ薬だろう? 痛みなんて感じる暇もないさ」
先ほどまでの人の良さそうな笑顔が、老夫婦の顔からスッと消え去る。
老婆は手際よく宿の入り口に鍵をかけ、「本日休業」の札を下ろした。老主人は女旅人の細い腕を無造作に掴み、ズルズルと厨房の奥へ引きずっていく。
向かった先は、厨房の床下にある隠し扉の奥――。
むせ返るような血の匂いと、酷い腐敗臭が立ち込める『地下解体室』だ。
石造りの冷たい部屋の中央には、赤黒い染みがこびりついた巨大な木製の解体台が置かれている。壁には様々なサイズのノコギリや肉切り包丁が並び、部屋の隅には処理しきれなかった「旅人だったもの」の骨が、乱雑に積み上げられていた。
「よっこいしょ、と」
老主人は解体台の上に、女旅人の体を乱暴に放り投げた。
「しかし、あの猫の獣人には焦ったねぇ。まさか匂いで地下室の存在に気づくとは」
「放っておきなさいな。あんな貧乏くさい行商人より、こっちの大物の方がずっといい稼ぎになるわ」
老婆が女旅人の荷物袋をひっくり返すと、中からジャラジャラと眩い光を放つ宝石や金貨がこぼれ落ちた。
「ひゃあ! こりゃあすごい! どこの貴族様だい!? 大当たりだねぇ!」
歓喜に沸く老婆を横目に、老主人は壁から一番大きな肉切り包丁を手にとった。
「まずは血抜きからだ。この上等な服が汚れたら、売値が下がっちまうからね」
鼻歌交じりに解体台へ近づく老主人。
だが、包丁を振り上げようとした彼の手が、ピタリと止まった。
「……おい、ばあさん」
「なんだい? 手を止めるんじゃないよ、早く新しい肉をシチューの鍋に入れないと……」
「違う、そうじゃない。こいつ……おかしいぞ」
老主人は、怪訝な顔で女旅人の首元を触った。
「薬を飲んで倒れたばかりなら、まだ温かいはずだ。だが……こいつの体、まるで氷みたいに冷てぇんだよ。それに……」
老主人はゴクリと息を飲んだ。
「息をしてないのは当然だが……心臓の音も、脈も、何一つねぇ。まるで、最初から『生きてすらいなかった』みたいに……」
「馬鹿お言い。さっきまで上でシチューを食ってたじゃないか」
老婆が呆れたように近づいてきた、その時だ。
――メキッ、ゴキッ、グチャッ……!!
解体台の上に仰向けに倒れていた女旅人の『首』が。
生物としてはあり得ない方向へ、180度、真後ろに向かって回転した。
「……なっ!?」
「ひっ……!?」
ボキボキと不気味な音を立ててねじ切れた首。
そのまま、女旅人の閉じていたまぶたが、パチリと開く。
現れたのは、白目すらない、底なしの漆黒に染まった『虚ろな瞳』。
そして、死んでいるはずの美しい女旅人の唇が、三日月のように、耳まで裂けるほど大きく吊り上がった。
「……あぁ、美味しいシチューだったわ」
血の気のない真っ白な顔で、女旅人の姿をした『それ』は、クスクスと、地下室に響き渡るような悍ましい笑い声を上げた――。




