【File.02】人喰い宿の帳簿(1/5)
ザァァァァッ……!
バケツをひっくり返したような唐突な土砂降りが、街道の木々を激しく打ち据えていた。
隣町へと続く長い峠道の途中に、ポツンと建つ一軒の宿屋がある。
煙突から温かそうな煙を上げ、窓からは暖炉のオレンジ色の光が漏れる『木漏れ日亭』。人の良さそうな老夫婦が営む、旅人たちのオアシスだ。
「助かったぁ……! この雨じゃ、馬が風邪を引いちまうところだった!」
バンッ、と宿の扉を開け、ずぶ濡れの行商人の青年が転がり込んできた。その後ろから、同じく濡れた毛をブルブルと振るいながら、二足歩行の猫人が舌打ち気味に入ってくる。
「いらっしゃいませ。おやまあ、酷い雨でしたねぇ」
エプロン姿の人の良さそうな老婆が、小走りでタオルを持って現れた。奥の厨房からは、白髪の恰幅の良い老主人がニコニコと顔を出す。
「さあさあ、まずは冷えた体を温めてくだされ。ちょうど、うちの名物である『特製肉シチュー』が煮上がったところですじゃ」
「うわぁ、助かります! すんげえ腹減ってて……」
暖炉の火に当たりながら、行商人はホッと息を吐いた。
厨房から漂ってくるシチューの匂いは、スパイスが効いていてひどく食欲をそそる。鍋の中では、ゴロゴロとした大ぶりの肉が、トロトロになるまで煮込まれていた。
「さあ、お上がりなさいな。熱いうちに……」
老婆が湯気の立つシチュー皿をテーブルに置こうとした、その時だった。
「……おい」
それまで無言で暖炉の前に立っていた猫人が、低く、ドスの効いた声で呟いた。
金色に光る縦瞳孔の目が、老婆の手元を——いや、厨房の奥にある『地下室への扉』を、氷のように冷たく見据えている。
「えっ? お前、どうしたんだよ」
「……出るニャ」
「は? 出るって、外はまだ土砂降りだぞ!?」
「いいから、出るサ!! ここは宿屋じゃないニャ。ただの『墓場』だ」
ビクッ、と。
老夫婦の笑顔が、ほんの一瞬だけ、引き攣ったように硬直した。
猫人は全身の毛を逆立て、威嚇するように喉の奥でグルルと唸った。
「鼻が曲がりそうだニャ。どんなに強いスパイスを使おうと、床下に染み付いた『腐肉』と『泥棒』のドブ臭い匂いは誤魔化せないサ。……その鍋の肉を一口でも食えば、明日には俺たちも『具材』になるニャ」
「ぐ、具材!? ひぃぃっ!?」
行商人は悲鳴を上げ、差し出されたタオルも放り投げて、転がるように宿の外へと飛び出していった。猫人も老夫婦を強く睨みつけながら、その後に続いて雨の中へと消えていく。
バタンッ、と扉が閉まり、宿の中には再び静寂が戻った。
「…………」
「…………チッ」
人の良さそうな老主人が、舌打ちと共に笑顔を消した。
その手にはいつの間にか、肉を骨ごと叩き切る巨大な包丁が握られている。
「随分と鼻の利く獣人だったねぇ。あの荷馬車、高く売れそうな商品がいっぱい積んであったのに」
「まあいいさ。勘の良い獲物は処理に手間取る。それに……」
老夫婦が窓の外へ目をやると、嵐の峠道をこちらへ向かって歩いてくる、一つの『人影』が見えた。
「ほら、次のカモが来たようだからね」
カラン、コロン。
再び宿の扉が開く。
そこに立っていたのは、雨に濡れた漆黒の髪を束ねた、目を奪われるほど美しい『女旅人』だった。
護衛もおらず、たった一人。しかしその細い首には、目を疑うほど大粒のルビーのネックレスが輝いている。
老夫婦は顔を見合わせ、そのシワだらけの顔に、再び『人の良さそうな笑顔』をべったりと貼り付けた。
「いらっしゃいませ。おやまあ、酷い雨でしたねぇ。さあ、まずはうちの名物……『特製肉シチュー』で、体を温めてくだされ」
極上のカモが、自ら鍋の中に飛び込んできた。
そう確信した老夫婦は、女旅人の「美しすぎる顔」に一瞬だけ浮かんだ、奇妙なほど冷たい『嘲笑』に気づくことはなかった——。




