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甕星の民  作者: 憂羽
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第十二話 絶対正義(3)

 《穢れなき熾天使》の結界を潜り鳥居の内部に足を踏み入れた亜衣たちは、公園の中枢へと続く参道の中程に差し掛かった辺りで軽い目眩に襲われた。

 理性の力によって排除されるべき利己的な感情が、目眩という生理現象を契機にして心の奥深い部分への侵入を試みようとしている。

 怒り、妬み、悲しみ、色情、傲り、独善、自己憐憫……欺瞞の温床となるあらゆる欲望が輪郭をあらわにし、自我を開放せよと囁いているかのようだ。


 歩みを止め突如訪れた心の変異を冷静に観察しながら、亜衣は周囲に充満する違和感の正体と敵に主導権を譲ってしまった自分たちの失態を確信する。

 屈辱的な脆弱性の露見。

 狂おしいまでの欲望の拡散。

 そして、終わりのない夢への誘い……。

 強制的に植えつけられていく観念の全てが、世界の守護者たる神威が最も恐れている大難の予兆だ。


 間違いない。

 煩悶の狭間に汚れた快楽を忍ばせて人の心を弄ぶこの感覚は――

 ――風だ。

 甕星の民が企てる霊的テロリズムの主軸。人を狂気に追いやり世の中に混乱を招く、悪意の風だ。


「……心がざわつく……。もう、始まってるのね」


 客観的な自己観察によって心を平静に保ちながら、亜衣は自分たちが置かれている状況を平易な言葉で表現した。わざわざ口にしなくとも風に免疫のある二人の同行者は当然把握しているのだろうが、受け入れ難い事実を無理にでも差し出して次の行動を促すのは、部隊長である亜衣の役目だ。


「……大気に含まれる障気の濃度からして、まだ始まったばかりのようですけど……。五行の運用をねじ曲げ、穢れの拡大を目論むこの共振は、間違いなく甕星の民が喚起する混沌の風です」


 亜衣の言葉を補足する一葉は、不愉快な風の愛撫に心を乱されることもなく、冷静に状況を分析するだけの余裕を持っていた。湧き上がる悪感情を意志の力で払拭しながら作為的に平静を装う亜衣に対し、ごく自然な振舞いで周辺の変化に気を巡らしている。


 まだあどけなさが残る横顔に浮かんでいるのは、尊い家柄に生まれ落ちた運命への使命感と、幾度となく同じような局面を切り抜けてきたという経験の重さだ。普段のマイペースな姿からは想像することのできない少女の強靱さが、逃れられない非日常を目前にした亜衣にはとても頼もしく感じられ、挫けそうな心を引き上げるべく有効に作用していた。


「……ったく、いつもいつもこんな気持ち悪い風で人の心をもてあそんでさ……アイツら、やっぱ頭おかしいんじゃない? サイッテーよね!」


 手槍の石突を地面に叩きつけ感情の露出を演出した亜衣は、人を傷つける単語を選んで悪態を吐いた。軽率とも思える敵対勢力への侮蔑は、素直なだけに鋭さを増し、有無を言わせぬ勢いを以て同志の結束を固める。共通の敵を作り上げることで意志の伝播を容易にする、という単純な集団心理の応用だが、必ずしも多くの情報を歓迎しない現在の状況に適した良い方便だ。


 そんな一連の方策の中には若い彼女たちが嫌悪する嘘の類が多分に含まれていたが、それは強さと同義の一途を貫くために心が用意する、苦渋に満ちた抜け道のようなものだ。

 戦いを前にして、士気を高めるためには手段を選んでいられない、ということなのだろう。人間という種にとっては克服すべき惰弱の発現に他ならないが、正義を標榜する神威の能力者としては及第の取捨選択だ。


「結局、自分勝手ってことなんだろうな。私腹を満たすことしか考えられないから、他人の気持ちなんてどうでも良くなってしまうんだ」


 言葉の端々に実直な怒りをちらつかせながら、良知は敵への評価を提示した。

 あまりにも飾らない言い草に亜衣は釈然としないものを感じたが、そのことについて議論している余裕は無いので、自分の意志と競合しないよう誇大解釈をして心を納得させる。彼がどのような思考を経て結論を出したのかは分からないし、自分勝手などという慣用句で理解できるほど簡単な問題ではないと思うが、妄想の果てに他人の尊厳を脅かすような連中が気に食わない、という点でとりあえず二人の考えは一致しているはずだ。


「ま、ようするに、社会の害になる連中はさっさと叩き潰さなくちゃならないってコトよね。罪の無い大勢の人々を巻き込むテロ活動なんて、絶対に許しちゃいけないのよ」


 万人が頷くような模範解答で、亜衣は自分たちの立場を再確認する。

 それとなく思慮の放棄を促して多数の意見を束ねてしまうやり方は明らかに詭弁であり、神威の理念が疎み続ける狂信者の盲信と同質の根を張り巡らしていたが、意識の分岐を避ける今の彼女たちがその欺瞞に気づくことはない。

 細やかな理屈など必要ないのだ。

 正邪の哲学よりも大切なことは、国家の害となる異分子を倒し混沌の風を阻止するという、神威の能力者に課せられた揺るぎのない大義。

 自分たちこそが正義で討つべき敵が絶対悪であるという勧善懲悪の免罪を手に入れてしまえば、理念の毒に酔いしれた戦士たちは何の憂いもなく戦えるのだから。


「亜衣さん、急ぎましょう、今ならまだ間に合います。風の影響が広がる前に儀式を中断すれば、周辺地域への被害は最小限に食い止められるはずです!」


 亜衣の葛藤を遮るように一葉が言った。

 純粋な瞳に浮かぶ焦りの色は、自分の思い通りに事が運ばないという利己的な要素から発しているのではなく、本当に人々のことを心配して心を痛めている優しさが起因となっているように思える。ある意味で戦場に不釣り合いなその感情が、一筋の誇りを伴って疑念を吹き飛ばしてくれた。

 ホント、今どき珍しいくらいイイ子よね、と風になびく一葉の髪を見つめながら亜衣は思った。


「……そうね、こんな所でグズグズしてても仕方ないし……。今日こそは、むかつく甕星のバカ信者たちをぶっ飛ばしてやりましょ!」


 迷いを打ち捨てた者が持つ清らかな頑強にほんの少しの翳りを隠しながら、亜衣は正面を向き直して歩き始めた。そんな彼女の背中に信頼の裏づけを認めたのか、後に続く一葉と良知の顔からも戸惑いの色は消え去って、同じ目標を掲げる友人への期待感が理想的な形で一途の推進を果たそうとしている。

 空虚で退屈な日々から見つけ出す相互依存による能力の昇華は、若い彼女たちが行使し得る心的操法の中でも最上位の力だ。


 三人が見据える視界の先に広がるのは、弱き者を淘汰する深い闇。

 不安を煽る影の世界で人に安らぎを与えるのは、無秩序に点在する外灯などではなく、まるで月光のように真実を照らす心の煌めきだ。

 だからきっと、三人が力を合わせればどんな禍事(まがこと)でも乗り越えていける。あの赤く明滅する空の下で人々の苦悩を喜んでいる最低の人間なんかに負けはしない。


 ――負けてはいけない。


 様々な葛藤を乗り越えることで真正面から現実と対峙する勇気を手に入れた亜衣は、強さに至るあらゆる欠片を掻き集めながら、風の圧力に屈することのない心の障壁を築き上げたのだ。


「でもさぁ、敵さんも今日は大人しいわよね。いつもなら、ここは通さぬよ、とか何とか言ってとっくに邪魔が入ってるはずなのに。……あ、そっか、もしかして、あたしたちにビビってるとか? なんか、少しもの足りないってカンジよねぇ」


 お気楽で思慮が浅いという普段の自分をイメージしながら重い雰囲気をやわらげようとする亜衣だったが、その気づかいに返答する者はいない。

 少しわざとらし過ぎたかな、と後方を振り返ると、数メートル先で立ち止まっていた良知が何やら真剣な表情を浮かべていた。いつもにも増して堅い面持ちからはピリピリと切迫した緊張が感じられ、まるで怒っているようにも思える。


「ちょ、ちょっと、そんな怖い顔して、怒っちゃった? あのね、別にあたしだって、本気でこんなこと考えてるわけじゃないんだって。ほら、こういうときはあんまり思い詰めても仕方ないでしょ。だから、そんなマトモに返されても困るっていうか……」


「………………」


 気恥ずかしさも手伝って必死に弁解する亜衣だったが、良知は相変わらず黙り込んだまま動かない。


「……な、何よ! 何か答えなさいよ! っていうか、何であたしがこんな言い訳しなくちゃならないのよ! もう! そんなトコで立ち止まってないで、さっさと……」


「……八岐、気づかないのか?」


 亜衣の饒舌を遮って、良知は帯刀の柄に右手を沿えた。軽く重心を落とし、周囲の変化に対応できるよう気を張り巡らすその所作を見て、亜衣は瞬時に事情を察知する。


「お前のご期待通り、もう囲まれてるみたいだぜ」


 良知が告げるよりも早く、亜衣は下腹部に蓄えられた灼熱の霊気を槍に送り込み戦闘態勢を整えていた。

 吹き抜ける風に混じり合う濃密な障気と、道端の樹木より発せられる不愉快な視線が、招かざる異形の到来を知らせている。


「……強い強制力に縛られた霊魂が、神籬の木気と融合して現世に干渉しようとしています。……これは……」


 撫物衣の袖口から咒符を取り出して敵に備える一葉の視線は、異変の大本である植込みの木々に注がれていた。

 どうやら気づいていなかったのは自分だけらしい、という実情を知った亜衣は、捏造した強さの弊害で注意力を散漫にしていた自己の不甲斐なさよりも、良知が見せた危機感知の熟達に対する驚きを隠せなかった。

 退魔のエキスパートである一葉ならともかく、能力者の認定を受けて日も浅い良知がこれほどまでに成長しているとは露にも思っていなかったからだ。


「……あたしよりも先に気づくなんてナマイキだけど……ちょっとは成長してんじゃないのよ……」


 ケンカ友達の良知に先を越されたことは、負けず嫌いの亜衣にとって屈辱的な出来事であったはずなのだが、何故か不思議と悪い気がしない。良知の実力が上がればそれだけ仕事がやり易くなるから、というもっともらしい理屈で気持ちの高まりを濁してはみたものの、本当の原因はもっと単純な感情に端を発している。

 つまりそれは、惚れた男は常に格好良くあって欲しい、という年頃の少女がごく当たり前に抱く感情の延長に過ぎなかったのだが、擦れていない自分を隠して遊び慣れている女を演じることが常となっている亜衣は、若さの特権とも言えるその機微を理解していなかったのだ。


「……亜衣さん、来ます! 《黒犬》の式神です!!」


「…………え!?」


 一葉の叫び声で我に返った亜衣は、視界の先に巨大な黒い影を見た。

 道脇の常緑樹から這い出る暗影はゆらゆらと立ち昇る黒い妖気を従えながら、その身に与えられた呪的な意志の介入によって、この現世で許された唯一の輪郭を顕し始める。

 物質と精神の融和が矛盾を超えるときの、ギィンッ! という音霊が異形の到来を確定し、そのすぐ後に地面に降り立ったのは、全長二メートルはあろうかという漆黒の狼。

 《黒犬》という通り名を持つ甕星の術者が精製した、禍々しい攻撃性を象徴する“戌”の式神だ。


「ちょ、ちょっとぉ! いきなり出てこないでよ! しかも今日は何かやたらと数が多いし!?」


 漂着の音霊(おとだま)を奏でながら顕現する下等な神は途切れることなく増え続け、ほんの数秒の後には、亜衣たちの前後左右を取り囲むような円陣を完成させていた。キリがないので五匹を超えた辺りで数えるのを止めてしまったが、軽く見積もっても十匹は下らないだろう。

 侵入者を拒むためにこのようなトラップを仕掛けるのは甕星の民がよく使う手口だが、これだけ念入りに歓迎されるのは初めてだ。


「しっかし、これだけの数が揃うとさすがに圧巻だな」


「ホント、どいつもこいつも憎ったらしい顔しちゃってまぁ……」


「良かったじゃないか。物足りなかったんだろ?」


「あはは、そうそう。何て言うかさぁ、あたしみたいな超美人を出迎えるんだから、最低でもこれくらいは集まってもらわないとねぇ~」


 普段のペースで軽口を叩きながらも、亜衣は敵の攻撃に対する備えを怠っていない。自分の周囲に意識を張り巡らせ、不可視の球型結界を展開している。

 一葉も同様、大気中に散りばめた自動追尾型の償物咒符(あがものじゅふ)で防御を固め、術の資質が無い良知に関しては、カウンターに特化された『無為月心流(むいげっしんりゅう)抜刀術・上弦之構かみつゆみはりのかまえ』で、結界の代替としていた。


 頭部に填め込まれた深紅の瞳で三人の侵入者を睨む戌の群れは最初のうちこそ沈黙を保っていたが、敵対する者同士が対峙している以上いつまでも均衡が続くはずもない。

 時間の隙間を縫うような間合い取りが幾度も繰り返され、互いの勢力圏が触れ合おうとしたその瞬間――

 襲撃の対象を定めた数匹の戌が音も無く疾駆した。

 駆けるというよりはむしろ滑走に近い動きで接近する戌たちは途中で三手に分散し、それぞれが狙った獲物を目指している。


「八岐! そっち行ったぜ!」


 その中で最も早く動き出した二匹の戌が、亜衣にあからさまな殺意をぶつけていた。

 獲物の喉元を喰い千切らんと欲する狼の瞳は付与された攻撃性を忠実に再現するだけの純色を宿しており、その起伏のない平坦さが逆に計り知れない恐怖を誘発する。


 自由な思考を珍重する俗人にとってはそれだけで致命傷となりかねない獣の視線を正面から受け止めながらも、心の制御に長けている亜衣は、神威の能力者たる誇りを以て恐怖に関する感情をレジストした。

 誰にだって感情はあり生きている限りそれを手放すことはできないが、恐れや哀しみという一時の迷いに囚われていたのでは戦いに勝利することはできない。敵に勝つためにはまず自己の弱さに勝たなくてはならない、という言い古された格言を亜衣は良く心得ているのだ。


「……はいはい、そんな急がなくてもちゃんと相手してあげるわよ」


 焦る様子もなく小さなため息を吐いた亜衣は、駆け寄る片方の戌に向けて視線を送った。瞳から意識の糸を放つことで、脳裏に描く心象を現実空間に固定する。

 戌を包み込む霊気の塊は、大気に含まれる陽の光を吸収しながら急激に熱度を高めていく火焔(ほむら)の渦。天津神の求心力に導かれて左旋回を繰り返すうち人為の火焔は神上がりを果たし、直径1ミリ以下に凝縮された極小の火種となる。今、闇で構成された戌の中心を掌握しているのは、あらゆる魔を焼き滅ぼす神の炎だ……。

 そのようなイメージをほんの数秒で完成させ、何の疑いもなしに力の発動を確信する。


 刹那――


 霊妙な精神の働きは現実に反映され、目の前の空間が爆ぜた。

 可燃物を介することなく発生した霊的な火焔が、猛り立つ灼熱の腕で戌の肢体を抱擁する。

 完全なる否定の性質を帯びた催魔(さいま)の白炎は目まぐるしい早さで戌の体を這いずりまわっていたが、やがて高まる情欲の捌け口を見いだしたかのように艶やかな狂華を咲かせて散開した。

 くぐもった爆発音が走り抜け、虚構の血肉で構成された戌の表皮が一瞬のうちに剥ぎ取られる。後に残されたのは、昇華の証である右旋の残り火と、燃え尽きて炭と化した依代の呪符。

 伊邪那美(いざなみ)女陰(ほと)を焼いた迦具土(かぐつち)の神火にも例えられる亜衣の発火能力は、敵対の因果を含む戌の存在理由を完全に消滅させた。


 風に吹かれて闇夜に還った戌の残骸を確認した亜衣は、しかし気を緩めることなくもう一匹の目標に意識を移す。

 すぐ目の前に、深紅の双眸が迫っていた。

 屠られた仲間に目を向けることもなく馬鹿正直に疾走する漆黒の獣を見て、亜衣は心に揮発的な感情が生まれるのを感じる。呪的な強制力に支配される式神という存在に感情などあるはずはないし、憐憫の情どころか仲間意識があったかさえ疑問だが、そんな理屈なんて若い彼女には関係なかった。

 とにかく気に入らない。

 仲間がやられたのに平気でいられるような無神経は、絶対に認めてはいけない。


「あんた……ウザいのよ!」


 跳躍した戌の動きに合わせ、亜衣は槍を突き出した。無造作な構えから繰り出された咄嗟の一撃だったが、螺旋を描いた紅蓮の穂先は戌の胸元から背中へと貫通している。

 空中で串刺しにされながら巨大な顎を開閉する戌の姿を生への執着と捉えた亜衣は、その身勝手な醜悪さに苛立ちを倍加させた。


「さっさと死ね!!」


 制御しきれなかった激情を灼熱の霊力に変換し、槍を通して敵の体に流し込んでやる。結縁者の意志を受けて刀身から噴出した冥い感情は、天を突く火柱となって戌の胴体に穴を穿った。


 舞い散った烈火の破片を全身に浴びながら、亜衣は追い打ちをかけるべく、爆発の反動で空中に放り出された戌の顔面に視線をつなぐ。先程と同じように瞳から意識の糸を放ち、神の火焔が敵の体躯を焼き尽くす様を思い浮かべながら下腹の一点に灼熱の霊気を収束させる。

 だが亜衣の思惑に反し、蓄えられた神火の種が発動することはなかった。

 イメージの完成が敵の消滅を約束する前に、胴体を捻って地面に着地した手負いの戌は数メートル離れた円陣に逃げ戻ってしまったからだ。

 物質的な媒介を必要としない亜衣の発火能力も、射程範囲外の対象には効果が薄い。


「このっ……! 逃げてんじゃないわよ!!」


 トドメの一撃が不発に終わったことに苛立った亜衣は、衝動的な感情に急き立てられて戌の後を追いかけようとした。

 一刻も早くあの腹立たしい戌に引導を渡してやる。心の清らかさを保とうとするバランス感覚は、湧き上がる薄汚れた言葉に埋もれて機能を弱めている。

 どのような事態に遭遇しても感情の制御を怠らず清冽な中庸を規範に正義を断じなければならない、という神威の理念を絶対視するならば、亜衣を突き動かす心の働きは獣の性質を浮き彫りにさせる大罪だ。それどころか、すり替えられた目的は彼女の利己を際限なく拡充させ、甕星の民が仕掛けた風の罠に裁かれる危険性をも含んでいる。


 ――感情を第一義とする心の支配は狂気であり、人間を腐敗させる悪習である。


 水面下でせめぎ合う叡智と不浄が記憶の彼方に打ち捨てられていた師の格言に明かりを灯していたが、他人の教えに耳を傾けることに抵抗を持つ若さのせいか、亜衣は突如訪れた天啓の重要を掴めないでいる。

 そんな彼女に現実を認識させ、流される者の過ちを振り替える役割を担ったのは、やはり他ならぬ彼の存在だった。


「八岐、そう熱くなるな! 怒りっぽい女は嫌われるぜ!」


 後方からの声に振り返ると、抜打ちの残心を維持したままの体勢で良知が笑みを浮かべていた。


「……なによ……うっさいわね! あたしは別に怒ってなんかないわよ! それに、あんたにそんなこと言われる筋合ないし!」


「はは、そうかよ。悪かったな」


 飄々とした態度で受け答えする良知の顔には、自分が自分であることを証明する要素の全てが揃っているように思えた。それは亜衣にとって神の啓示よりも数倍効果的な、抗うことのできない反射を伴う心地良い強制力だ。

 生真面目な良知がユーモアを垣間見せるのは、大抵の場合このような状況打開の必要性に駆られたときだったが、それを自分への思いやりであると解釈することによって亜衣は心の安定を得ることができる。

 もちろん彼女がその喜びを表立って現すことは有り得ないし、生の根本に関わる想いの機微に気づいているかどうかも怪しかったが。

 ただ矛先を転じた激情が、質量はそのままに穏やかな感情へ変換されていることだけは分かっていた。


「……八岐、お前も気づいているだろうけど、どうやら連中の目的はオレたちの命じゃないらしい。陣形が崩れないよう、巧妙に間合いを調節しているのがバレバレだ」


 亜衣の瞳から狂気の色が消え去った頃合いを見計らって良知が言った。

 彼女たちを取り囲んでいる戌の群れは、攻撃を仕掛けてくる前とほとんど変化のない整った円陣を保っている。所々に体の一部分を失っている手負いの姿が見受けられるが、それは先程の交錯で仕留め損なった戌だろう。口惜しそうに陣を睨みつける良知の視線が如実に物語っている。


「良知さんの言われる通りです。あの式神には、侵入者への攻撃以外にも何か目的が与えられているようです。おそらく……」


「時間稼ぎ、ってコト?」


 少女的な幻想を糧に冷静な思考を取り戻しつつある亜衣は、仲間の真意を多角的に推察したうえで一番可能性の高い解答を瞬時に導き出した。

 侵入者の命を虎視眈々と狙う素振りを見せながらも実は闘殺そのものに重きを置いていない、という戌の特性は、攻撃を中断して陣へ逃げ帰るという先の行動パターンから判断しても明らかだ。そうでなければ、神威の正式な能力者たる亜衣たちが使い魔レベルの異形を仕損じるなど考えられない。胴の中心に穴を穿たれ、符咒の光線によって半身を吹き飛ばされ、居合の斬撃で前足を失った戌たちは、攻撃性に隠されたもう一つの目的に専念していたからこそ致命傷を免れたのだ。


「ま、そういうことだろうな。こいつらの飼い主はどうあってもオレたちを近づけたくはないらしい。少なくとも、この混沌の風が定着するまでは」


 亜衣と共に耳を傾けていた一葉が、良知を肯定するようにコクリと頷いた。


「……じゃあどうする? いつまでもこんなトコで遊んでる暇はないのよ」


 こうして立往生している間にも、人々を惑わす風は悠々と勢力を広げつつある。この調子で戦っていたら円陣を崩すのに時間が掛かり過ぎるし、強引に一点突破するにしても、生き残った戌に背を向けるという危惧を軽視することはできない。

 甕星の霊的テロリズムが成就へ向かおうとしているのに、鉄錆のような焦燥に侵された思考は精彩を欠いて、劣勢を覆すだけの妙案を授けてくれないのがもどかしかった。


 ならばいっそのこと刺し違える覚悟で暴れてみるのも良いかもしれない。あんな小物を相手に死ぬつもりは毛頭無いし、多少危険性が増したとしても敵の策略に陥って自ら動きを止めるよりはいくらかマシだ。

 追いつめられた亜衣の脳内回路が、投げやりとも思える乱暴な結論を弾き出そうとする。諦めと覚悟を混同しながらもあえてそれに気づこうとしない狡猾なやり口だと自分でも理解していたが、そうする以外に良い方法は見つからなかった。


「……八岐、そう難しく考えるなって」


 軽やかな口調で亜衣の躊躇を一蹴した良知が、迷いを知らない少年の笑みを浮かべていた。


「簡単なことだろ。つまりはこいつらが退屈しないように相手をしてやればいいんだ」


「はぁ? あんた寝ぼけてんの? だからその余裕が無いって……」


「オレが面倒見てやる、って言ってんだよ。一人くらい欠けたって、お前たち二人なら戦力としては充分だろうが」


 いつもにも増して勝ち気な、包容と剛勇が融合した高次元の瞳で亜衣を一瞥する。


「ここはオレが食い止めておくから、お前と方違は先に行ってろ」


 何喰わぬ顔で言ってのけた後、良知は防御的な上弦之構を解く代わりに手練の鞘滑りで抜刀した。

 月光を反照して銀白色の玲瓏を纏う刀身は、武人特有の物言わぬ清冽を現した美徳そのものだったが、亜衣はそれに含まれる稚気のような感情を受け入れることができずに目を背けてしまう。


 良知が言っていることの意味はよく分かっていた。甕星の霊的テロリズムによる被害者を最低限に食い止めなければならない、という神威の大義を思えば、彼の提案はごく標準的な戦略に違いなかったし、多少のリスクを背負ってでも当然選択すべき不可避の献身とも言える。

 けれどそれは、相対的な価値観で人命の軽視を正当化する嘘だらけの正義だ。

 世の中は欺瞞で塗り固められ、”必要な嘘”という陳腐な概念が公に認知されている。その是非について論じるほど潔癖ではないが、狂気と隣り合わせの戦場においてこの方便を認めてしまうと、一線を守る大切な防壁が崩れ去ってしまうかもしれないという恐怖はあった。


 とにかく、今は良知と離れて行動するべきではない。

 大体、神威の内部評価で最下層に位置している良知が、たった一人で囮になるなどと考えること自体が間違いなのだ。彼が必死の努力を積み重ねてきたことはよく知っているし、入隊時に比べれば格段に成長しているのも事実だが、それでも今の状況を一人で打破できるほど実力があるとは思えない。よって部隊長の立場としては、生還の望みが薄い無謀な作戦を許可するわけにはいかない。


 本音と立前をすり替えて個人的な感情を押し通すことに成功した亜衣は、一連の心の働きが自分の少女の部分によって引き起こされたということについては目を伏せている。

 おそらくそれに気づいていたのは、戦闘の昂揚によって精神活動の領域を広げていた良知の方だ。


「……大丈夫だよ、八岐。あれから随分と日が経ってるし、毎日の稽古だって欠かさず続けている。もう、一年前のオレとは違うんだから」


 少女の心の内を察した良知は、自分の能力を軽んじられたことに怒りもせず、駆け引きを排除した素直な言葉を紡いだ。

 亜衣は何も言い返すことができなかった。図星をつかれた悔しさよりも、無骨の裏に隠された優しさに胸が苦しくなった。


「何よそれ……そんな言い方、まるであたしがあんたの心配をしてるみたいじゃないのよ」


 本心を隠し通したいという想いと、自分を見透かして欲しいと願う気持ち。背中合わせの感情に揺れ動く少女の要素は若い彼女が制御するには少し困難な問題だが、それは決して罪ではなく、純真を裏づける清らかな萌芽だ。風に裁かれる鉄錆のような自我ではない。


「オレにはやり遂げなくちゃならない目的があるからな。あんな小物にやられはしないよ」


 亜衣が望んだ答えを遠回しに言い放った良知は、数メートル先に築かれた戌の円陣へと視線を移し、父親の形見である霊刀を肩口に担ぐ。

 固い決意に染まるその横顔は、いつもと違って少しだけ大人びて見えた。


「時間もないし、決まりってことにしようぜ。オレがあいつらを引きつけている間にさっさと行けよな!」


 屈託のない笑みで亜衣に微笑みかけた後、良知は、やや前のめりの前傾姿勢を維持したまま戌の眼前に躍り出る。


「ちょ、ちょっと! 何勝手なこと……!」


 亜衣が叫んだときには、すでに良知の背中は見えなくなっていた。

 戌たちは思っていた以上の素早さで反応し、創造主の命令を守り通すべく侵入者を取り囲んでいる。

 良知を包囲した影は全部で五匹。そのいずれもが、二メートルを超える巨体に殺意を漲らせて無謀な少年の生命を狙っている。

 例え敵の主目的が時間稼ぎにあったとしても……いやむしろ時間稼ぎにあるからこそ、戌たちは良知が見せるわずかな隙も見逃さないだろう。もしも敵に後れを取るようなことがあれば、間違いなく殺される。侵入者を足止めする一番の方法は、この場を離れることができないよう行動不能にしてしまうこと。即ち『死』なのだから。


 闇で構成された悪意の檻が、亜衣に非情な現実を突きつける。

 やっぱり良知一人に任せてはおけない、と亜衣は思った。

 部隊長としての責任感からか、それとも個人的な感情の発露だろうか。心の制御を放棄して衝動に染まった亜衣は、左手の槍を握りしめて良知を助けに向かおうとする。


「あ、亜衣さん! 待って下さい!」


 一葉の制止も聞かずに足を進める亜衣は、跳ね回る戌の隙間に、剣を振りかざして応戦している良知の姿を確認した。

 劣勢ではないが、優勢でもない。一度にあれだけ多くを相手にしていることを思えば上出来だが、このまま戦い続ければ、やがて疲労とプレッシャーに押し潰されて危局を迎えるのは目に見えている。


 亜衣は自分が戦闘に介入することで事態が好転することを確信していた。二人が力を合わせればこんな下級の異形なんかにやられるわけがないし、少なくとも良知が危険な目に合うことだけは避けられる。あたしは最良の選択をしているはずだ、と。


 そんな亜衣に曇りのない真実を知らしめたのは、懸命に歩み寄る彼女に向けて放たれた良知の視線だった。

 怒りと哀しみが入り交じった、拒絶の瞳。

 わざわざ言葉にするまでもない。


 ――絶対に来るな!


 今までに感じたことのない強烈な否定が、亜衣の歩みを拒んでいる。


 亜衣は最初、その視線に込められた憤怒を理解することができなかった。無意識のうちに、分からないでいようと努めていた。それなのに、逡巡の中に湧いて出た敏感すぎる少女の本能が、早々とある一つの結論を掴み取ってしまう。

 女性が差し出す真摯な愛情ですら退ける、粗野ゆえに気高い少年の意地。

 あたしはきっと彼を傷つけてしまったのだ、と思った。

 あらかじめ用意していた、「あんた一人だけが背負い込むことはないのよ」などという無神経なセリフを、言えるわけがなかった。

 そして亜衣はもうそれ以上近づくことはできない。


「…………!? 亜衣さん、危ない!!」


 後方からの声に顔を上げると、すぐ目の前に戌の双眸が浮かんでいた。いつの間に忍び寄っていたのか、跳躍した戌の爪が亜衣の胸元を狙っている。


「…………くっ!」


 反射的に槍を構えて致命傷を免れはしたものの、まともに体当たりを食らってバランスを崩した亜衣は、数歩後退して尻餅をついてしまう。


「……っ! いい加減にぃっ!!」


 すぐに起きあがり反撃体勢を整えようとした亜衣だったが、彼女が動き出すよりも早く、戌は四方より降り注いだ無数の可視光線に貫かれて吹き飛んでいた。

 一本、また一本と闇夜に映える白銀の針は、一葉の周囲を浮遊する贖物咒符が撃ち出した呪的なレーザー光線だ。陰陽五行の法則に基づいて金剋木(ごんこくもく)の属性を付与された咒符が、拡散して光の雨となり、地面に横たわる戌の巨躯を小刻みに震わせている。


「……亜衣さんの動きに反応した戌が、攻撃の機会をうかがっていたようです。お怪我はないですか?」


 一千年の昔より伝わる比類なき咒力で戌を祓った一葉は、亜衣に駆け寄って事態の経緯を報告した。

 慌てることなく、極めて冷静に、いつもと同じ優しさを湛えた瞳で――

 亜衣の心中を満たす不穏当な感情とは全く無関係に、それは理路整然と機能している。


「……ありがと……でも、自分一人で起きあがれるから」


 亜衣は差し出された手を払い除けてすぐさま立ち上がると、一葉と目を合わせないことを意識して周囲を見回した。

 敵の奇襲を警戒しながら次に取るべき行動を選択している、という部隊長にふさわしい自分を演じながら、溢れ出しそうになる激情を必死にやり過ごしている。

 一瞬、このままこの感情を解き放つことができればどれほど爽快だろう、という抗し難い誘惑に心を奪われそうになるが、混沌の風が吹きすさぶこの地でそれを実行するのは文字通り自殺行為だ。感情の虜になり風に呑み込まれた瞬間から、亜衣は亜衣でなくなる。それだけは絶対に避けなければならない。


「亜衣さん……良知さんならきっと大丈夫です。ですから……ここはお任せして、わたしたちは先に進みましょう」


 背中越しに聞こえる一葉の進言は、今の亜衣にとって、身勝手な感情を逆撫でするだけの不愉快な言い回しに過ぎなかった。その端々に浮かび上がる彼女の優しさを打ち消すために、あんたに言われなくても分かってるわよ、と八つ当りするように思った。

 もちろん一葉に非はない。悪いのは、良知に拒絶された苦しみを一葉への当てつけに振り替えてしまった亜衣の方だ。免疫としての自己観察が未熟な心を憔悴させた結果、度し難い少女的な一途の支配力が強まり、彼女は客観的な正義の規範を見失いそうになっている。


 亜衣に選択の余地は残されていなかった。

 歪んだ感情の環を正すためには、あらゆる葛藤を放棄して流れに身を任せる他にない。


「……そうね、あんたの言う通りにするわ……ここはあの強情バカにまかせて、あたしたちは先に行きましょ」


 不本意な成行きを受け入れるために、亜衣は槍の石突きを地面に叩きつけ妄念を打ち払った。

 数メートル先では、自ら囮になることを買って出た少年が奮戦している。

 劣勢ではないが、優勢でもない。一度にあれだけ多くを相手にしていることを思えば上出来だが、このまま戦い続ければ、やがて疲労とプレッシャーに押し潰されて危局を迎えるのは目に見えている――


「………………」


 ――でもそれは、あいつが自分自身で背負い込んだことだ。

 偽りのない正義を貫くために、彼は命を賭して戦おうとしているのだろう。

 能力者の鏡とも言うべきその高潔に報いる方法はただ一つ。彼が敵を引きつけている間にこの場を離脱して、霊的テロの阻止に全力を尽くすことだけ……。


「良知さんのおかげで円陣の一部が崩れています。あの隙間から脱出しましょう!」


 一葉が指差した方に目をやると、ちょうどその一角だけ戌の防備が手薄になっていた。

 今なら先に進むことができる。あの赤い月の下で悪事を働いている宿敵を、倒しに行くことができる。

 亜衣は一葉に促されるまま踵を返して……肩越しにもう一度だけ良知の姿を確認した。


 戦っている。

 彼は戦っている。

 自分の力量を顧みず、無理をして戦っている。


 …………何のために?


 思い人を見つめる少女の瞳は不自然に暗く、何の感慨も捉えていない。


「……行こう、一葉」


 亜衣は逃げ出すように駆け出した。

 極度の混乱が招いた防衛機能は、それがごく自然であるかのように亜衣を遠ざけようとしている。

 自分自身から。

 彼女が本当に伝えたかったはずの、祈りのような真実の言葉すら奪い去って。


 流転を繰り返す光と闇が、不完全な心を締めつけながらあらゆる嘘を暴いて行く。

 ――傷つきたくないし、傷つけたくない。

 ――信じられたいし、信じたい。

 ――愛したいし、愛されたい。

 諦めることに慣れていない、犯される前の清らかな少女の夢さえも……。


 優しい嘘で彩られた当たり前の暮らしを捨て、救いのない戦いに身を投じることを決意した瞬間から、彼女の心はすでに壊れていたのだろう。

 ゆるやかに吹く風は、自己防衛の嘘を許さない傲岸を従えて、的確にその弱さを狙っている。

地味に戦闘開始です。

今回はたくさんの術が出ています。


【武具】

・償物咒符

敵を自動追尾する符。術者の周囲にふわふわと浮かぶ。ファンネル・ビット。


【術】

・四肢ヲ千切リテ贄腑ヲ喰ラエ穢レシ戌

式に攻撃性を与える言霊。


・白き肌に爆ぜる狂華

瞳から意識の糸を放ち、つないだ場所に霊的な火焔を発生させる。


・禍式神咒・細雨

贖物咒符が撃ち出される呪的なレーザー光線。任意に五行の属性を付与できる。今回は金剋木。


【武技】

・無為月心流抜刀術/上弦之構

居合の構え。カウンターに特化。

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