53話 天使のおじいちゃん
ヴィーナスが“じいちゃん”と呼んだ純白の天使は、彼を見るなり圧を収めた。
「ヴィーナス……どうして……」
「ごめん、じいちゃん。でも、ボクはこの人間……ミュウルたちのおかげで、帰れるようになったんだ」
膝をつきそうな重圧が消えて、やっと息が吸えるようになったけれど。
ふたりを囲む空気がズンと重い。
周りに集まった魔族たちも、彼らの動きをうかがっている。
「……とにかく、ゆっくりお茶でもしながら話しましょ」
「えっ、オレらもいいんっすか!?」
私の後ろから顔を出したギザールの問いかけに、ヴィーナスのおじいちゃんは手招きをした。
どうやら本当に誘ってくれるらしいが――あの笑顔には、何だか裏があるように見える。
「来れば分かるわ。さぁヴィーナス、行きましょ」
改めて彼を見ると、白い肌も翼も、滝の霧を吸ったみたいに淡く光っていた。
人間ならば、30歳くらいの青年といったところか。
「おじいちゃん……」
孫持ちには見えない彼に続き、泥と砂の道を進んでいくと。
「ほら、入れるものならどうぞ」
「なっ……!」
やっぱり。
天族の棲家だという、宙に浮いた家。
蔓に垂れ下がる巨大な実の中が、彼らの住居になっているという。
ヴィーナスが「ミュウルたちはボクの背中に」と言ってくれたが、それを案の定、おじいちゃんは遮った。
「自分の力でできないことは、無理にしないことね」
「……っ」
明らかに、翼のない私たちへの意地悪だ。
それでも――。
「ミュウルさん、このくらいの傾斜ならいけますよね?」
「修道院の屋根を飛び回れるお方ですから~」
私が「できる」と信じて疑わないギザールとジェニファの微笑みに、大きく頷いた。
「うん。飛ぶことはできないけど……」
「え……?」
翼を広げたおじいちゃんを横目に、ギザールとジェニファを抱えた。
「しっかり掴まってて」
そのまま、優雅に飛ぶ彼らを追い越す勢いで、岩壁を登っていくと。
「うっそ……!」
おじいちゃんは一瞬、飛ぶのを忘れたように翼を止めた。
「信じられない」と言って見開いた瞳に、口角が上がる。
「まぁ、ミュウルなら大丈夫だと思ったけど」
あとから飛んで来たヴィーナスの言葉に、「まぁね」と頷いた。
「それで、お茶……出してくれるんですか? おじいちゃん」
「……はぁ。いーわよ、自力でここまで来たんだし」
ついでのように、彼は「“おじいちゃん”じゃなくて、ヘリオスって呼びなさい」と、先に家の中へ入っていった。
扉がどこにも見当たらないと思えば、上の空洞が出入り口になっているらしい。
「ほら、どうぞ」
椅子も机もない室内で、ヘリオスが出してくれたのは、白い煙の昇る茶器だった。
「……これは?」
少なくとも、私の知っている茶ではない。
「ミュウル、見て。こうして吸うんだよ」
ヘリオスとヴィーナスは茶器に顔を近づけ、「ご馳走だ」と言いながら煙を吸っている。
「……」
どうやらこれは、飲むのではなく吸うらしい。
彼らの流儀に合わせるように、霧状の茶を吸ってみると。
「ん……?」
喉の奥を、爽やかな風が通り抜けた気がした。
無味無臭だけれど――これが天使たちのご馳走なのか。
「まさか気体の茶を嗜む魔族がいるなんて……興味深いっすね」
ギザールは、家の中から茶器まで観察しながら霧を吸っている。
一方ジェニファは、茶器ではなく、まだヘリオスの方を見つめていた。
「あら、お口に合わなかった?」
「……っ、いえそんな!」
たしかに、芸術品のように整った顔だが――。
「アンタ、そんなに面食いでしたっけ?」
「分かったような口を利かないでくださいませ! なぜか目が逸らせなくて……」
「ミュウル様の方がお美しいのに」と、ジェニファがこぼした瞬間。
ヘリオスの眉がピクリと動いた。
「その20も生きていないような小鳥が、アタシより美しいって?」
「はい、ミュウル様はたくましいのです!」
「ふぅん……たくましいって美しさに入るのね」
この魔族には、美に対する強い矜持があるのかもしれない。
そう思いつつも、茶器を置いてヘリオスに向かい直った。
いまは彼と話をしなければ。
「ヘリオス……さん。私たち、ヴィーナスと出会って初めて魔族を知ったんです」
「……そう」
魔族について、もっと知りたい。
もしかしたら、彼らは影と何か関係があるのではないか――前回ラヒムザードで感じた違和感までは、今は話さないにしても。
「あと、私たちは今、世界地図を作るための旅をしていて……」
この地にも拠点を置けないか。
そこまで話すと――。
「……たしかに。魔族を知るには、ここは最適ね」
天・地・海族。その他さまざまな連中が棲んでいると、ヘリオスは茶器を置きながら言った。
「でもね、ここの長はアタシなの。底抜けの連中の身を案じるわけじゃないけれど、アンタたちを歓迎するかどうかは別の話」
彼ら含め、“底抜け”については、すべてヘリオスが権限を持っている――。
彼の言葉は誇張でも何でもないと、さっきの魔力の圧を見ればわかる。
また漏れはじめた威圧の気配に、自然と身体に力が入った。
「そういえばヴィーナスちゃんは、どうして出ていったの?」
「え……?」
出稼ぎに出ていたのではなかったのか。
思わず口を挟むと、ヴィーナスは顔を背けたまま「実は……」とこぼした。
「8年くらい前に……勝手にここを出たんだ」
「8年前……?」
ヘリオスもそうだが、人間と同じ尺度は、やっぱり魔族には通じないらしい。
10歳前後に見えていた彼も、実は私より年上なのだろうか。
問いかける間もなく、ヴィーナスは居心地が悪そうにため息を吐いた。
「みんなが陽の下で暮らせるように、どうにかするつもりだったんだ……」
「……ヴィーナス」
力の強くないもの、温厚な性格のものは、外の世界で生きるには危険。
人間の天下だから、そこに魔族の居場所を作りたかった――そう言って、ヴィーナスは私たちの方を向いた。
「ミュウルたちとはそこで出会ったんだけど……ボクを籠から出してくれた、特別な人たちなんだ」
「ふぅん……特別、ねぇ」
孫の言葉を聞いても、ヘリオスの放つ威圧は収まらなかった。
「そもそもよ。外の世界で魔族の居場所を奪ったのは、アンタたち人間でしょ?」
「それは……」
空気が凍りはじめた。
たとえではない。
籠の実が、ミシミシと軋む音が響いている。
このまま潰されるのでは――本格的に構えるべきかと、拳に力を入れたところで。
「ちょっと、じいちゃん! また家壊さないでよ」
強い声を上げたヴィーナスは、「そうだ見て!」と手を叩いた。
「ボク、変身できるようになったんだ」
ヴィーナスの身体に、黒い泡がボコボコと吹き出す。
顔のない天使に変化したヴィーナスを前に、ヘリオスの表情が解けていった。
私たちへの警戒を緩めて、本当に嬉しそうに。
「アンタ……おめでとう、成体になったのね」
「あ……」
ヘリオスは、静かに頬を濡らしていた。
黒いけれど――多分あれは、魔族の涙なのだろう。
「ヘリオス……」
この魔族、ものすごく怖いけれど――家族を大切にしているみたいだ。
さっき見た、毛玉の母親と同じように。
「濁りのない白翼……娘によく似ているわ」
「うん、これもミュウルのおかげなんだ」
私とぶつかり、傷つけ合った結果、この姿になれた。
そう言ってヴィーナスは笑っていた。
「ね、そうでしょ?」
「ぶつかったというか、一緒に落ちたというか……」
暴走したヴィーナスを相手にした時のことを思い出すと、よく生きていたなと思う。
言い淀む間に、ヘリオスがこちらへ近づいていた。
「……孫に免じて、ここを自己責任で見学するのは許してあげる。でもね」
私たちがここに長く滞在することは認めない。
特に、人間の拠点なんてもってのほか――ヘリオスは静かな口調で断言した。
「そんな……!」
「アタシの言葉を覆したいのなら、それなりのことを示しなさい」
それなりのこと。
まず先に拳を見下ろしたが、きっとヘリオスが言っているのはそういうことではない。
「それにね、今はアンタたちみたいな観光客に構ってる場合じゃないのよ」
ため息を吐くヘリオスに、首を傾げると。
「なんのことっすか?」
ずっと大人しくしていたギザールが、私の前に出てきた。
「アンタたちも来る時見たでしょ、地上の川。あれを人間がいじろうとしていて……そんな時に拠点契約なんて、笑えない冗談よ」
私たちが来る前に、すでに現地の人間と問題が起こっていた。
ヘリオスが威圧的なのは、そのせいでもあったのか。
「ミュウルさん、ちょっと」
私とジェニファを手招いたギザールは、「ここを出るべきだ」と囁いた。
「拒絶の気配が強すぎるっす。こーいう時は、一旦引きましょう」
「諦めるの?」
「まさか! これはチャンスっすよ」
まずは地上の人間にも話を聞いて、問題が何なのか探ってみよう――ギザールの提案に、今は頷くことしかできなかった。
たしかに、今の私が拳を握っても、ヘリオスの言葉は覆せない。
「……うん。じゃあ“底抜け”を出て、川沿いを歩いてみよう」
ここを詳しく調べるのは後でもいい。
地図作りのことを真面目に考えるギザールには言えなかったが――まず何より、未知の土地を自分の足で歩いてみたかった。




