第1話 二度目の人生
初めまして。
ここまで来てくださり、本当にありがとうございます。
今回から『終焉を継ぐ者』のが始まります。
以前よりもレインの心情や世界観を丁寧に描きながら、一つの物語として楽しめる作品を目指して書いていきます。
まだ始まったばかりの物語ですが、レインの二度目の人生をぜひ見届けていただけると嬉しいです。
それでは、第1話をお楽しみください。
最初に感じたのは風だった。
ひんやりとした空気が頬を撫でていく。その感触にゆっくりと意識が浮上し、レインは重たい瞼を開いた。
視界に飛び込んできたのは青空だった。
どこまでも高く澄んだ空。その下を白い雲がゆっくり流れている。木々の隙間から差し込む光が揺れ、葉の擦れる音が静かに耳へ届いた。
見たことのない景色だった。
しばらくの間ぼんやりと空を眺めていたが、やがて胸の奥に小さな違和感が芽生える。
ここはどこだ。
そんな当たり前の疑問だった。
身体を起こそうとした瞬間、その違和感はさらに大きくなる。
軽い。
あまりにも身体が軽かった。
反射的に目の前へ手を持ち上げる。
そこでレインは固まった。
小さい。
指も腕も、見慣れた自分のものではなかった。
子供の手だった。
「……は?」
口から漏れた声にも違和感を覚える。
高い。
若いというより幼い。
聞き慣れた自分の声ではなかった。
心臓が嫌な音を立て始める。
立ち上がる。
ふらつく。
視線の高さが違う。
周囲を見回したレインは、近くに雨水の溜まった窪みを見つけると吸い寄せられるように駆け寄った。
そして水面を覗き込み、その場で言葉を失う。
知らない顔だった。
黒い髪。
幼い顔立ち。
十歳か、それより少し上くらいだろうか。
少なくとも四十年間生きてきた自分の顔ではない。
何度瞬きを繰り返しても結果は変わらなかった。
水面の向こうにいる少年もまた、同じように困惑した顔でこちらを見返している。
「嘘だろ……」
夢かと思った。
だが頬をつねれば痛い。
吹き抜ける風も、土の匂いも、足元の草の感触も妙に鮮明だった。
夢とは思えない。
混乱する頭の中で、少しずつ記憶が浮かび上がる。
前世の記憶。
四十年間生きた人生。
決して誇れるようなものではなかった。
何かを始めようと思ったことは何度もある。資格を取ろうと思ったことも、新しい仕事へ挑戦しようと思ったこともあった。それでも結局は途中で投げ出した。
失敗するのが怖かったからだ。
努力して結果が出なかった時、自分が本当に何者でもない人間だと認めなければならない気がしていた。
だから逃げた。
面倒なことから。
苦しいことから。
傷付くかもしれない未来から。
そうしているうちに時間だけが過ぎていき、気付けば四十歳になっていた。
残ったのは後悔ばかりだった。
もっと頑張れば良かった。
もっと挑戦すれば良かった。
そんな思いを抱えたまま人生は終わった。
少なくとも、そのはずだった。
レインは空を見上げる。
枝葉の隙間から見える青空は相変わらず穏やかだった。
だが自分の人生は穏やかとは程遠い。
知らない森。
知らない身体。
そして覚えている前世の記憶。
考えれば考えるほど、一つの答えしか思い浮かばなかった。
「転生……なのか?」
呟いた声は風に流されて消えていく。
前世で読んだ小説や漫画では珍しくない話だった。
異世界転生。
二度目の人生。
もし本当にそうなのだとしたら、自分はもう一度生きる機会を与えられたことになる。
不安がないわけではない。
ここがどこなのかも分からない。
家族がいるのかも分からない。
この身体が何者なのかも知らない。
それでも胸の奥には小さな期待があった。
今度こそ変われるかもしれない。
今度こそ逃げない人生を送れるかもしれない。
そんな淡い希望だった。
もっとも、その希望はすぐに試されることになる。
まずは人を探そう。
そう考えたレインは森の奥へ向かって歩き始めた。
だが十分ほど進んでも景色はほとんど変わらない。
木。
草。
木。
ただそれだけだ。
人の気配はなく、道らしい道も見当たらない。
少しずつ不安が大きくなり始めた頃だった。
ガサッ。
どこかで葉の揺れる音がした。
レインは足を止める。
風かと思った。
だが違う。
再び音が鳴る。
今度はもっと近い。
胸の奥がざわついた。
気付けば鳥の鳴き声が消えている。
風も止まっていた。
森全体が不自然な静けさに包まれている。
何かいる。
そう思った瞬間、草むらが大きく揺れた。
次の瞬間、その奥から姿を現した存在を見て、レインは息を呑む。
狼だった。
しかし普通の狼ではない。
肩の高さだけでレインの胸元近くまであり、灰色の毛並みは荒々しく逆立っている。口元から覗く牙は鋭く、黄色い瞳は真っ直ぐこちらを見据えていた。
その視線が自分へ向けられた瞬間、背筋を冷たいものが駆け上がる。
勝てない。
頭の中へ浮かんだのはそれだけだった。
理屈ではない。
本能が理解してしまったのだ。
目の前にいるのは、自分が知る動物とは別物だと。
狼は低く唸りながら一歩前へ踏み出す。
その姿には余裕があった。
逃げる獲物を観察する狩人のような余裕が。
心臓が激しく脈打つ。
逃げろ。
頭の中で警鐘が鳴る。
そして狼がもう一歩近付いた瞬間、レインの身体は反射的に地面を蹴っていた。
枝をかき分けながら森の中を走る。
後ろから聞こえる唸り声が、狼が追ってきていることを教えていた。
振り返る余裕はない。
振り返った瞬間に追いつかれる気がした。
肺が熱い。
脚も重い。
だが止まれない。
止まれば終わる。
そんな確信だけがレインを前へ進ませていた。
木々の間を必死に駆け抜けながら、ふと前世の自分を思い出す。
何かを始めようとしても続かなかった。
失敗するのが怖かった。
傷付くのが怖かった。
だから逃げた。
いつも逃げた。
けれど今は違う。
今は逃げるために走っているんじゃない。
生きるために走っている。
せっかく手に入れた二度目の人生だ。
まだ何もしていない。
何も成し遂げていない。
こんな場所で終わりたくなかった。
だが現実は残酷だった。
足元に飛び出していた木の根へ気付くのが遅れた。
身体が大きく前へ傾く。
踏ん張ろうとしたが間に合わない。
次の瞬間には地面を転がっていた。
肩へ鈍い痛みが走る。
口の中に土の味が広がった。
慌てて起き上がろうとする。
だが、その時にはもう遅かった。
目の前へ巨大な影が落ちる。
顔を上げる。
狼だった。
数歩もない距離。
黄色い瞳が静かにこちらを見下ろしている。
今から逃げても間に合わない。
その事実だけは嫌というほど理解できた。
狼がゆっくりと口を開く。
鋭い牙が覗く。
終わった。
頭のどこかでそんな言葉が浮かぶ。
前世でも何もできなかった。
挑戦する前に諦めた。
逃げ続けた。
そして後悔だけを残した。
今度こそ変わりたいと思ったのに。
また同じなのか。
また何も残せないまま終わるのか。
そんなのは嫌だった。
「嫌だ……」
掠れた声が漏れる。
狼は止まらない。
死がゆっくりと近付いてくる。
怖い。
全身が震えるほど怖い。
それでも諦めたくなかった。
「嫌だ……!」
叫んだ瞬間だった。
胸の奥で何かが脈打つ。
ドクン、と。
それは心臓とは違う感覚だった。
身体の奥深くで眠っていた何かが目を覚ましたような感覚と共に、熱が全身へ広がっていく。
視界が変わる。
狼の毛並みが見える。
筋肉の動きが見える。
前足が地面を蹴る瞬間が見える。
牙がどこを通るのかも分かった。
全てが鮮明だった。
『適合者を確認』
不意に頭の中へ声が響く。
男でも女でもない。
感情を感じさせない不思議な声だった。
狼が飛び掛かる。
鋭い牙が一直線に迫る。
だが身体は自然と動いていた。
考えるよりも先に。
恐怖を乗り越えるよりも先に。
まるで最初からそうすることが決まっていたかのように。
レインは横へ飛び退く。
次の瞬間、狼の牙が空を切った。
風を裂く音が耳元を通り過ぎる。
本来なら避けられるはずのない一撃だった。
狼が着地し、ゆっくりと振り返る。
その黄色い瞳には明らかな困惑が浮かんでいた。
あり得ない。
そう言いたげな目だった。
だが驚いていたのはレインも同じだった。
何が起きたのか分からない。
それでも一つだけ確かなことがある。
先ほどまで感じていた絶望は、もうそこにはなかった。
胸の奥で脈打つ謎の力が、静かにその存在を示し始めていたからだ。
二度目の人生は、今この瞬間から本当に動き始めようとしていた。
第1話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回はレインが転生し、謎の森で目を覚ますところから、運命を大きく変える最初の出来事までを描きました。
これからレインは、この世界の真実や「終焉因子」の秘密に少しずつ触れていくことになります。
次回は、狼との戦いの続きと、レインが初めて自分の力と向き合うお話です。
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それでは、また次話でお会いしましょう。




