星咲きぬ空遠く(2)
「ダチェット伯爵家シリーズ」のおまけ話No5です。
『星咲きぬ空遠く』の直後くらいのお話です。
(1)
「やあ? この置物には見覚えがないようだが」
久方ぶりにロンドンの自宅へと戻ったテディ・バートラムは、暖炉の上に置かれた唐三彩に目を向けて、首を捻った。
そこかしこに山と積まれた夫からのアメリカ土産の中に埋もれながら、リルが応じる。
「オーガストにいさまからいただきました。らくだです」
「確かに、駱駝のようだね、唐三彩かな。ところで、オーガストが来たのかい、リル。いつ?」
「にしゅうかんくらいまえです」
「おやおや。逢えなくて残念だった。オーガストはどうしていた」
リルは、桜貝のような繊細な爪のついた指先をくちもとに押し当て、しばし考え込む。
「……にいさまは、おこっていらっしゃいました、さいしょは。とてもこわかったです。でも、らくだをくださったあとは、やさしくなりました」
「怒ってた? いつもと同じで不機嫌だっただけじゃないかい?」
テディが、聴くも者の気持ちを、どこかしら浮き浮きとさせしまう、あの朗らかな調子で訊ねた。
リルは、大きくかぶりを振る。
「おこっていました。でも……」
わずかに言い淀んだ後、リルは続けた。
「テディが知りたがっていたおはなしをしてくださいました。アンねえさまとけっこんするときのはなしです」
テディは黒目がちの目を、いたずらっぽく輝かせる。
そして、可愛い妻を抱き上げ、贈物の山の中から救出すると、こう言った。
「そいつはいいね。その話は、後でゆっくり聞かせもらわなくては、小鳥さん」
(2)
テディはふたたび、駱駝の置物に目をやる。
「しかし、オーガストにしては、なかなか気の利いた物を持ってきたじゃないか?」
「わたしは、らくだになまえをつけました」
夫の腕に抱きかかえられたまま、リルはその髭だらけの頬に、自分の頬をすりつける。
「おや、名前? なんて付けたんだい」
興味津々と言った風に。
焦げ茶の瞳をくるくると動かしながら、テディは、腕の中の愛しい妻リルを見つめた。
「『キンドルさん』とつけました」
滅多にないことであったが、リルの答えは、テディの予想を遙かに凌駕していた。
テディは呆気にとられて、黙り込んだ。
(3)
やがて、大きな目を、ひとつ瞬かせて、テディは言った。
「ああ……それは、オーガストのところの新しい家令のことだね、リル?」
「はい、そうです。テディ」
リルは嬉しそうに頷く。
「言われてみれば、確かに……似ているかもしれないが」
テディは、結婚式で見かけたリック・キンドルの顔を思い浮かべた。
「……さようでございましょうか? 旦那様。わたくしには良く解りませんが」
ブランデーを手にした執事が、首を傾げながら、おずおずと口を挟む。
「で? ともかくは。うちの可愛い奥さんときたら、どうやら、この駱駝が気に入って大事にしているというわけだね」
テディの問いに、リルはこっくりと頷いた。
「とてもかわいいらくだです。まいあさエマに、ほこりをはらってもらいます」
(4)
「そんなわけで、私、奥様の大切な『駱駝のキンドルさん』に、はたきを掛ける役目をおおせつかっているの」
シャッセで軽く息を切らしながら、エマは、目の前にいるリック・キンドルを見上げた。
「なるほど、それで君は『大切にしてくれている』んだよね? 『キンドルさん』を」
リックは、いま一度、ホールドの右手の位置を直す。
「ええ、それはもう。そっとそっと、毎日、はたきで背中を撫でてさしあげてるわよ」
エマが空色の瞳を煌めかせた。
「それは良かった。ところで、いま一緒に踊っている『キンドルさん』についても、やさしく撫でたりはしてもらえないのだろうか」
リックは、エマの耳元にくちびるを寄せてささやく。
「あら、『はたき』で?」
しれっと応じるエマの言葉に、リックはただ、低く唸るだけだった。
と、エマがステップを止めた。
「あら、もうこんな時間。帰らなくっちゃ」
時計は、いままさに十二時を指すところだった。
リックは、忌々しげな溜息を洩らす。
「ねえ、エマ。また、一月後ぐらいに、旦那様の用向きでロンドンに来るんだけどね。その時は一晩中、踊ってくれると嬉しいのだけど。シンデレラは、もう良いだろう?」
(5)
そして、踵を返して、ホールを出ようとしたエマの手首をギュと握って、リックは引き留めた。
くるりとターンで振り返ったエマが、水色の瞳を輝かせて、笑う。
「だって、リック。あなたの予定はいつだって突然に決まるでしょう? あの家には、メイドはふたりきりしかいないのよ。前もって言っておかないと、休みはもらえないわ」
エマが、ゆっくりとリックから身体を離そうとする。
と、リックは、エマの手首を握った手を、さらに強く引いた。
ふたりの腰と腰がぶつかり合う。
リックの手が、エマの腰へと回った。
そのリックの手を、馬に尻鞭を入れるかのように素早く鋭く、エマの指が弾き飛ばす。
「それじゃ、キンドルさん。私、明日の朝、『キンドルさん』の埃をはらわなくっちゃいけないから。さよなら」
それ以上、しつこくする訳にもいかないと、リックも悟った。
渋々ながらも、ごく慇懃に胸に手をあてて、腰を屈める。
「さよなら、シンデレラ」
「またね、 王子様」
エマは囁くように応じると、リック・キンドルの頬へ、そよかぜのように、くちびるを付けた。
(おしまい)