星咲きぬ空遠く(1)
「ダチェット伯爵家シリーズ」のおまけ話です。
『星咲きぬ……』の後、リルとテディがダチェットに遊びに行ったとき(『熊と妖精の里帰り(☆R18です。ごめんなさい)』)に、あったかもしれないお話。
とはいえ、「シスター・オルランド」読了でしたら、意味は分るようになっているはず……と思います。
(1)
そろそろ、軽くセイラムの脚を動かしておかないと。
ダチェット伯オーガスト・ユースタス・スタンレー卿は、晩夏の陽差しに目を細めながら、厩舎へと歩いていた。
このところ、オーガストの毎日は、ひどく慌ただしかった。
リルが、ひさしぶりにダチェットへ戻ってくるのに合わせて、自分も館に居られるようにと、様々な予定を調整していたからだ。
馬丁たちが、主の姿を認め、次々に帽子に手をやった。
軽い頷きで、オーガストはそれらに応じる。
厩舎に近づいたオーガストは、ふと、見慣れぬものを目に止めた。
淡い水色のドレス。
厩舎では、まず目にすることのないようなものだ。
肩口で揺れるまばゆいばかりの金の巻毛は、妹ユージニア・リリアンのものに違いない。
それにしても……。
リルが、厩舎に?
オーガストは、驚きのあまり、黒曜石の目を数回、瞬かせた。
(2)
「オーガストにいさま!」
リルが、オーガストを振り返る。
帽子を手に、リルの傍に佇むのは、厩舎長だった。
「めずらしいな、リル。お前がこんなところに?」
オーガストの発した、この言葉には理由があった。
リルはもともと動物が好きな子供だったが、幼い頃、声を失ってしまうほどのおそろしい馬車の事故に遭って以降、馬に怯えるようになってしまっていたからだ。
「にいさま、わたしは、セイラムごうのおはなをなでにきました」
ちいさく膝を曲げて、リルは、丁寧に兄にお辞儀をした。
そうか、と。
低く抑えた声でオーガストは言う。
そして、「どうだった、セイラムは悦んでいたか?」と問いかける。
リルは、しばしの間、真剣な面持ちで考え込んでから、髪と同じ色の長い睫毛をひとつ震わせて、こう言った。
「……よくわかりませんでした、にいさま。セイラムごうは、ただ、ぶるぶるといいました」
まるで幼い子供に戻ってしまったかのようなリルの無邪気な答えに、オーガストは、額に掌をあて、前髪をかき上げながら破顔する。
『気難し屋』。
そんな二つ名で呼ばれるようになって、もうずいぶんになるオーガストの、こんなにも晴れやかな笑顔など、めったに見られるものではない。
そうだわ。オーガスト兄さまは、馬のそばにいると、よく笑うんだわ。とても明るい顔をして。
楽しそうに……。
兄のどこか少年めいた笑顔に、リルはうっとりと見とれる。
(3)
「そういえば、テディはどうした? なぜお前は、ひとりでいるのだ? リル」
オーガストは、微笑んだまま、眼前の妹を見下ろす。
「テディは、いま、おしごとのでんわです」
リルのこの言葉に、オーガストの眉間にふたたびいつもの皺が戻った。
「まったく、しょうがないヤツだ。あいつは」
ほんのつかの間で消えてしまった兄の笑顔。
リルの胸がせつなさにちいさく疼いた。
と、はみを噛ませられ、鞍を載せられて、すっかり準備の整ったセイラム号が、厩舎長に手綱を引かれて、オーガストの前に現われる。
額に白斑流星を持つ青毛のセイラム号は、名馬揃いのダチェットの厩舎でも、別格だった。
ひとたびオーガストが跨れば、セイラムは流れるように駆け、優雅に止まり、しずくが輝くように跳ねた。
セイラムは、当代随一のドレッサージュ騎手と称されるオーガストの、一番の愛馬だった。
「リル、馬の傍にいて、怖くはないのか?」
オーガストがセイラムの首を叩きながら、問いかける。
「このあいだ、にいさまといっしょに、ハルのまちからかけてきて、まえよりもこわくなくなりました」
「……そうか」
オーガストはセイラムの肘に肩を押し当てて蹄を上げさせ、蹄鉄の具合を確認しながら、低い声で応じた。
それは良かった……という言葉は、奥歯で噛み締める。
「にいさまは、これからセイラムごうにのるのですか?」
リルの問いに「ああ」とひとこと、オーガストは応じる。
馬丁が差し出した長鞭を一瞥すると、オーガストは首を横に振って、別のものと替えさせた。
「にいさまが、うまにのるのをみるのは、すきです。とてもすてき」
リルが、まるで蕾がこぼれ咲くように笑む。
それぞれに自分たちの作業に取り組んでいた、馬丁たちの仕事の手が、ぴたりと止まった。
呆けたように、口を半開きにして、リルを見つめる馬丁もいる。
オーガストすらも、自らに向けられたリルの笑顔に、一瞬、我を忘れて陶然としていたほどだった。
だがすぐに、ダチェット伯は、棘に満ちた咳払いを発し、妹に見とれる馬丁たちを威嚇した。
(4)
「ミーロード、今日は馬場乗りでは?」
セイラム付きの馬丁が、オーガストに静かに近づいた。
「いや」と、短くオーガストが返す。
「調教はしないつもりだ。かるく動かすだけにしようと思っている。少し、外を回してこよう」
オーガストの言葉に、馬丁は静かに頷いた。
「リル」
鐙の長さを調えながら、オーガストが、ふとリルに声を掛けた。
「お前も鞍の前に、一緒に乗るか?」
突然の誘いに、リルは驚いてサファイアの両目を丸くした。
だがすぐに、オーガストに向って、大きく頷いて見せる。
「では、帽子を取っておいで。そうしたら出かけよう」
オーガストの言葉を聞くやいなや、リルは踵を返して、母屋へと駆け戻っていった。
+++
風に踊るリルの金糸の髪が、オーガストの頬に顎にやわらかく触れる。
ときどき自分を見上げて、ちいさく微笑む腕の中の妹。
話すべき事がある……リルに。
そして、それをすべきは、きっと、今このとき。
リルを鞍の前に載せ、ダチェットの丘を速歩で進みながら、オーガストはそう思いを巡らせていた。
(5)
数日前の夜。
クラレットを飲りながら、オーガストはテディと話し込んでいた。
話題のほとんどが、益体もない思い出話か、世間話だった。
皮肉と冗談から成り立つ、友人同士のふざけた会話というものだ。
しかし、夜半も過ぎた頃。
旧友テディが、否、いまや義弟となったその男が、突然、神妙な顔をして見せたのだ。
……これは、お前とリルとの問題で、俺が口を挟むべきじゃない。これまでは、そう思ってきたのだが。
思い余ったように、そして、ごく思わせぶりな様子で口を開いたテディに、オーガストが怪訝な声で応じた。
「一体、何の話をしているんだ? 君は」
「やっぱり、このままでは良くないと思い直したんだ。オーガスト」
と応じ、しばらく口をつぐんでから、テディはふたたび続けた。
「リルは……お前に疎まれていると思い込んでいる」
ワイングラスを口に運ぶオーガストの手が止まった。
「……馬鹿な?」
半ば、せせら笑うようにして、オーガストが吐き捨てる。
「なぜ、そんな」
「『なぜ』って、オーガスト、お前」
テディが、深い溜息を吐きだす。
「まあ、理由はひとつじゃないんだろう。ちいさなことの積み重ねなのだと思うが」
「この僕が? リルを疎んじてるだなんて、どこからそんな話が出てくるんだ?!」
オーガストは両腕を開いて、声を荒らげた。
「もちろん、俺には解っているさ。お前がどれほど、リルを思っているかなんてことは。アンも、双子達だってそうだ。だが、オーガスト、リル本人が、それを解っていなければ、何の意味もないだろう?」
「御親切、いたみいるね。セオドア・バートラム?」
オーガストが、まさに『気難し屋』のふたつ名を体現するかのように、口の端を、皮肉気に引き上げた。
無論、その意味するところは、「余計なお世話」ということだ……。
オーガストの皮肉を十分に解した上で、さらになお、テディはこう続けた。
「……一度でも、たった一度でも。オーガスト、お前は自分の気持ちを、リルにきちんと伝えようとしたことがあるのか? 言葉にして、リルに」
(6)
にいさま、あっちのくもは、とてもはやくながれていきます。
あれは、にれのきですか?
にいさま? あれをみてください。
……にいさま。
オーガストにいさま……。
軽快にセイラムが足を進めていくにつれ、リルも心が浮き立つのか、ひっきりなしにオーガストへと囁きかけていた。
ついには、「ねえ、セイラム。おまえは、わたしをのせていて、おもたくないかしら?」と言って、リルは、返事を待つかのように、じっとセイラムの耳元を見つめるのだった。
あまりに神妙な面持ちで黙り込むから、オーガストはつい、「そう心配しなくても、大丈夫だろう」と、セイラムに代わって、リルに応じてしまったほどだ。
と、リルが振り返り、大きなサファイアの瞳を揺らして、オーガストを見上げる。
「にいさま……」
そう言ったきり、リルは口をつぐんだ。
「なんだ? どうした、リル」
オーガストの促しに応じて、リルがおずおず続ける。
「わたしは、いま、おしゃべりが、すぎますか?」
別に、構わないさ、と。
そう応じようとしたオーガストではあった。
なのに、どこか不安げに自分を見上げる妹の表情が、あまりにも愛らしくていじらしくて。
その言葉は喉元で詰まってしまい、オーガストのくちびるから発されることはなかった。
(7)
せせらぎのそばで、オーガストが馬を止める。
まず、オーガストが馬を降り、そして、リルを抱え下ろす。
「セイラムごうは、あせをいっぱいかいています」
水を飲むセイラムの首を、リルがそっと撫でた。
「リル、そんなにそっと撫でたのでは、馬はくすぐったがるだけだ……」
呟くようなオーガストの言葉に、リルは即座に反応して顔を上げる。
オーガストはセイラムに近づくと、軽くリズミカルにその首筋を叩いてみせる。
セイラムが、尾を振りたてて、鼻を鳴らした。
「ほら、こうやって、叩いてやると喜ぶ」
「セイラム、おまえは、ほんとうに、オーガストにいさまがだいすきなのね?」
こう語りかけながら、リルもオーガストの真似をして、セイラムの背中を叩く。
……いまなのだ。
オーガストの心に、天啓が降りる。
いまが、リルに告げるべきときなのだと。
お前をなにより大切に思っていると、愛していると。
そのことを、はっきりと口にして、告げるべきなのだと。
手袋をはずし、オーガストはきつく拳を握りしめる。
力が入り過ぎて、肩が、腕が、小刻みに震えた。
絞り出すようにして、オーガストは溜息をつく。
そしてついに、ゆっくりと口を開くと、こう言った。
「……そろそろ、館へ戻ろうか。リル」
(8)
行きとはうって変わって、リルはひどく無口になった。
長い睫毛を伏せたまま、黙って馬の背に揺られる妹に、迷った挙句、オーガストが声をかけた。
「疲れたのか、リル」
黙ったまま、リルはちいさく首を横に振ってみせた。
そして、オーガストを見上げる。
「にいさま、オーガストにいさま、ごめんなさい」
ひどくためらいがちに、リルの小さくちびるが、言葉を紡いだ。
「なぜ? どうして謝るのだ。リル」
「わたしは、にいさまに、きらわれるようなことはしたくないです。にいさまが、おおこりにならないようにしたいです。なのに……」
リルの声が震えて途切れた。
「嫌う? 僕が、お前を? リル」
「わたし、わたしのせいで……」
わたしのせいなのだ、お父さまとお母さまが。
ふたりが亡くなったのは、わたしのせい……。
その言葉を、リルは口にすることができずに、また黙り込んだ。
(9)
そして、リルはふたたび口を開くと、またしてもためらいがちに、こう告げた。
「にいさまは、わたしがテディとけっこんするのも、おいやだったのに……にいさまが、『だめ』ということをして、ごめんなさい。わたし、にいさまにきらわれたくないのに」
テディとの結婚に反対していたのは、確かに事実だった。
オーガストは、リルの言葉に、答えを返すことができずに黙り込む。
「テディは、にいさまのおともだちだったのに……にいさまといちばん、なかよしだったのに」
リルのこの言葉に、オーガストは思わず、片眉を引き上げた。
「リル? 友人を横取りされて、僕がお前に嫉妬しているなどと思っているとしたら。それは、とんでもない考え違いというものだ」
リルが、大きく瞬く。
心底、意外であったとでもいうように。
「そうなの? にいさま。では、おこっていらっしゃらないの? わたしが、テディのおくさんになったことを」
「別に……最初から、怒ってなどいない」
オーガストは、不機嫌そうに呟いた。
そうさ、ただ……。
あいつに、大切なお前を横取りされるようで、納得がいかなかっただけだ。
「おこっていらっしゃらないのに、さんせいしてくださらなかったの? どうして」
リルが首をかしげてみせる。
(10)
「別に、どうしてだって……いいではないか?!」
オーガストの声が、俄然、苛立ちの棘を帯び始めた。
瞬時に、リルの瞳が怯えて揺らめく。
妹を怖がらせてしまったことを、オーガストはすぐさま察し取った。
自らの癇癪が忌々しく、思わず、心の中で舌打ちをする。
と、震える声で、リルが呼びかけた。
「オーガストにいさま?」
「なんだ……リル」
そう応じたときには、オーガストは、自身の眉間に、『気難し屋』の証である深い皺が刻まれていることに気が付いていた。
ああ、もう……。
どうしてこうなってしまうんだ、僕は!
オーガストの心中の苛立ちが頂点に達した時、ふと、その頬にやわらかなものが触れた。
鞍上で小さく背伸びをして、リルがオーガストの頬にキスをしていた。
呆然と目を見開いたまま、オーガストは硬直する。
ゆっくりとくちびるを離し、オーガストの黒曜石の瞳を覗き込むと、リルが甘やかに囁いた。
「あのね……だいすきです。オーガストにいさま」
(おわり)